「恋次、霜が降りてるよ!」
 恋次が止める間もなく、ルキアは大喜びで庭に下りて走り出す。その足元で、ルキアの小さな足に踏まれて霜がさくさくと透明な音を立てた。
「こら、んな格好で外に出んな!風邪ひくだろーが!!」
「引かないよ!だって全然寒くないもーん」
「そんな薄着で外に居たら引くんだよ莫迦!いいからこっち来い、もう遊んでやんねーぞ!!」
 最後の一言が聞いたのか、「はあい」と声がしてルキアが駆け戻ってきた。広い朽木邸の庭の土が、ルキアが走った場所一直線に足跡が刻まれている。
「もうすぐ朝飯の時間だろ。ちゃんとしてねーと笑われるぞ」
 土塗れの草履を脱がしながら、恋次は縁側からルキアを抱き上げた。華奢なルキアの身体は驚くほど軽い。苦もなく暖かい部屋の中へと戻すと、ルキアの興味は朝食に向けられたのか、急いで部屋の中を片付け始めた。
「今日のご飯は何かな」
 嬉しそうに口にしたルキアの言葉に反応したように、襖の向こうから「おはようございます、お食事をお持ちいたしました」と藤井の声がする。
「本日は白哉さまもご一緒に、と」
 その言葉に一瞬戸惑ったような顔をルキアは恋次に向けたが、恋次が頷くとやや硬い表情でルキアは畳の上に正座する。
 すらりと開いた襖の奥に白哉が現れると、手を付いて「おはようございます、兄様」とぎこちなく頭を下げた。
「具合はどうか」
「はい、……元気、です」
 小さな声で返事をするルキアに頷いて、白哉は恋次に視線を移した。それへ向かい恋次も頭を下げる。
「お早うございます」
「ああ。……邪魔をする」
 その間に、藤井と、他に二名ほどの女性が机の上に朝食の準備を整えて、礼をして直ぐに部屋から出て行った。白哉の在席に緊張しつつも、ルキアは湯気の立つ朝食に気を取られている。
 ルキアが目覚めて、ルキアが問いかけた「ここはどこ」という問い、「なんでルキアはここに居るの」という問いに、恋次は慎重に言葉を選びながら、それらしい嘘をついた。
 ―――ルキアは「朽木白哉」に引き取られ、今は「朽木ルキア」としてこの屋敷に暮らしているということ。
 ―――他の仲間達は、同時期に別の家に引き取られたということ。
 ―――恋次は「朽木白哉」の下で働いているということ。
 そして―――木登りをしていた時に木から落ち、頭を打ってルキアの記憶の一部がなくなってしまったということ―――そんな、苦しまぎれの嘘も、幼い思考しか持たないルキアにはさしたる疑問もなく受け入れられたようだった。ただ、最初は恋次以外の誰を見ても怯えの表情を浮かべていたルキアだったが、恋次が必ず傍にいてその手を握り締めていた所為か、徐々に過剰な恐怖は薄れて行ったようだ。いまだ微かに緊張するようだったが、今では女性は勿論、男の姿にも悲鳴を上げずに対峙することができるようになった。
 あれから二週間―――ルキアが目覚めてから二週間。
 恋次は白哉直々の命令で現世へ出向中、そしてルキアは病気という理由で欠勤している。心配して見舞いに来た浮竹だけには、原因には触れず、ただ現在のルキアの状況だけを話し長期療養の許可は得ていた。
 しかし、恋次はまだしも、ルキアはこのままでは立ち行かなくなるのは目に見えていた……いつ記憶が戻るかもわからず、記憶が戻ったとしても職務に復帰することが出来るかどうかもわからない。
 先行きは不透明なまま、けれどルキアは少なくとも体調は完全に健康へと戻り、片時も恋次を離さず、この部屋でふたりきりで過ごす毎日に充分満足しているようだ。
 恋次はあの日からずっと、この部屋にルキアと共に過ごしている。朝起きてふたりで食事をし、昼はルキアの望むままに遊びの相手をし、夜は布団を並べ、窓の外の月を見ながら他愛無い話をし眠りにつく。
 戌吊に居た頃のように。
 医者の診断では、ルキアの記憶が戻るのはいつになるのか全くわからないということだった。
 何かの拍子に戻るかもしれないし、一生このままの可能性も―――ある、と。
 ただ―――記憶が戻れば、あの忌まわしい記憶も甦る。
 何がルキアにとって一番いいのか。
 何がルキアにとって一番幸せなのか。
 恋次はずっと考え続け―――そして、二週間経った今も結論は出ない。
 行儀良く箸を運ぶルキアを眺め、恋次は次に白哉へと視線を走らせた。
 恋次がルキアと共に過ごすこと、それを頼んだのは白哉の方だった。
 ただひとりルキアの世界に残っていた者である恋次との同じ部屋での生活、それがルキアの精神に一番いいだろうと言う医者の言葉に頷き、朽木家の一室をふたりのために用意した。
 日頃、決して感情を見せない白哉だったが、恋次には白哉がルキアを心配している様子が痛いほど伝わった―――緋真から託されたルキアの守護、それを違えてしまった責任と―――純粋に、ルキアへの愛情。
 本当の妹のように―――愛おしんでいるのだ。
「何か良いことがあったのか、ルキア」
「良いこと、ですか?」
「お前の笑い声が、廊下まで聞こえていた」
 小さく微笑む白哉に、ルキアは「あのね」と庭に下りた霜柱について、一生懸命話し始める。
 兄様、と呼ばれる度に、白哉の表情は微かに揺れる。
 ―――白哉も悩んでいるのだと―――このまま記憶が戻らぬ方がルキアにとって幸福なのではないかと、白哉も惑っているのだと、恋次は思う。
 願うのはルキアの幸せ。
 このままの状態が幸せなのか。
 それとも―――
「恋次」
 自分を呼ぶ声にはっと顔を上げると、白哉とルキアが揃って自分の顔を眺めている事に気付いて恋次は慌てた。「何か?」と問い返す恋次を見て、ルキアは「恋次、ぼーっとしてた!」と笑い出す。
「すまぬが、本日定例総会があるのだ……お前の出席も要請されている。出られるか?」
「は……」
「恋次、お出かけ?」
 心細気に恋次を見上げるルキアに、白哉は「すまぬが、午前中だけ恋次を借りても良いか」とルキアに向き直った。
「用事が終われば直ぐに返す。ひとりで待てるか?」
「帰りに土産買ってくるよ。お前の好きな白玉餡蜜」
「しらたまあんみつ?」
 戌吊の記憶しかないルキアにはその記憶がないのだろう。首を傾げるルキアに、恋次は「甘くてすっげえ美味いんだぞ」と言うと、ルキアはこくりと喉を鳴らした。
「うーん、じゃあ待ってる。あ、べつに、たべものに釣られたわけじゃないよ?」
「思いっきり釣られてんじゃねえか」
「違うってば!」
 膨れるルキアを笑いつつ、恋次は準備のために立ち上がった。

 








「―――すまぬな」
 隊舎に向かいながら、改めて白哉がそう口にすると、恋次は「最近謝りすぎですよ、隊長」と苦笑いした。
「隊長が謝る必要なんてないんですよ」
 むしろ、謝るべきは自分の方だと恋次は思う。
 白哉とてルキアの傍に居たいはずだ。仕事など投げ打って、ルキアの為に動きたいのだろう。けれど白哉は、ルキアには恋次を付かせ、恋次の居ない仕事の穴を自分で埋めている。
 それがルキアにとって一番いいと知っているから。
「―――ルキアの様子は如何だ?」
「相変わらずです―――何も思い出さない。その片鱗も何も。黒い服にはいまだに怯え―――外出もまだ無理のようです」
 それを聞いた白哉はしばらく無言で歩を進め―――堪えかねたように呟いた。
「今、この瞬間にも―――」
 そう言って口を閉じた白哉の先の言葉は、恋次の胸の中の想いと同じなのですぐに判る。
 今、この瞬間にも、ルキアを襲った男はどこかで平然と生活しているのだ。
 二週間経った今、何の咎めも来ないということは―――この件が公になることはないと思っていることだろう。ルキアが口を噤んでいるか、白哉がルキアの体面を気にして表沙汰にしないと思っているか―――元々、こういった事件が表に出ることは稀だ。
 皆の知るところになれば―――被害者は、二度陵辱されるようなものだ。
 一度目は、直接的に。
 二度目は、精神を。
 被害者なのに、周りからは好奇の目で見られ―――事情聴取では、自分が受けた全てを、思い出したくもないつらい出来事を、事細かに口にしなくてはならない。
 それに耐えることの出来る心の持ち主など、いない。
 故に、卑怯な、もっとも卑劣なこの犯罪は、その発生件数に比べ、発覚する件数はあまりにも少ない。
 もし、そいつが目の前にいたら―――と恋次は考える。
 間違いなく、自分はそいつを斬るだろう。
 それが罪になることはわかる。犯罪者といえども、突然斬りつけ殺害すれば、自分が犯罪者になることは間違いない。
 けれど、自分は斬るだろう。
 後先など考えずに―――殺す。殺す。殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺―――
「―――すまぬ」
 埒もないことを言った、と白哉が言い―――それは恋次の殺気を感じ取った故の、白哉の謝罪だと気付き―――恋次は静かに呼吸を整え、
「……隊長が謝る必要なんて、ないんですよ」
 もう一度繰り返した。
 必ず見つけ出し、殺す。
 それは白哉の所為ではなく、
 ルキアの為でもなく、
 ただ、
 ルキアを傷つけた相手を許すことの出来ない、利己的な自分の為なのだと、恋次は知っていた。








「うわあ……!」
 息を呑むルキアの手に、「ほら」とそれを渡すと、ルキアは再び「うわあ!」と歓喜の声を上げた。
「なになに、なにこれ?すごくかわいい!」
「流行ってんだとよ。好きだろ、そーいうの」
 定例総会を終え、約束通り白玉餡蜜を求めて、ルキアが一番好きだった「桔梗屋」に足を運んだ恋次は、その通りにある雑貨店でルキアが餡蜜と共に執心していたうさぎのチャッピーを見つけ、それも土産にと買い求めた。
 記憶の戻るきっかけになるかもしれない、と恐れつつ―――手渡したが、ルキアは変わりなく無邪気に喜んでいる。
「で、白玉餡蜜は食うのか?」
「食べる!」
 目を輝かせて、恋次の用意する「白玉餡蜜」を見つめていたルキアは、興味に耐え切れなくなったのか、さっと手を伸ばして器の中に指を入れ、それを口元に持っていく。
 ぺろりと赤い舌が指を舐める様子に、恋次は一瞬目を奪われ―――ふい、と視線を逸らせた。
「甘い―――!なにこれおいしいっ」
 再び指を伸ばすルキアの手を「こら」と叩くと、怒ったルキアは恋次を睨みつける。
「なに行儀悪いことしてんだてめーは」
「いつもしてるのに」
「ここは戌吊じゃねーんだよ。お前は朽木さんの家に引き取られてんの。行儀良くしねーと追い出されるぞ」
「いいよ、そしたら恋次だって追い出されるんでしょ?そしたらみんなでまた暮らせばいいよ」
 みんな元気かなあ、とルキアは呟く。
 そのルキアの様子に、今更ながら痛感する。
 本当に何も―――覚えていないのだ。
 机の前に座り、用意された餡蜜を、匙を使い口に運ぶ度にルキアは美味しいと歓声を上げる。
 そのルキアを眺めながら、恋次はぼんやりと考えていた。
 ルキアにとって、今の自分はただの幼馴染。
 共に闘った時間、共に過ごした時間、―――想いを告げたあの時のことも、初めての口付けも、初めて身体を重ねたあの夜のことも―――
 すべて、存在しない。
 ―――ルキアの所為ではない。それは間違いなく。
 けれど、このまま―――もし、記憶が戻らないままだったら。
 またルキアが恋次を愛するようになると、……誰が断言できるだろう。
 巻き戻され、もう一度繰り返す人生の中で―――ルキアが違う誰かを愛することになる可能性もあるのだ。
 自分勝手な―――不安感だ。
 自分のことしか考えていないのか。
 恋次は己の浅ましさに嫌気がさす。
 それを振り切るように「今日は何してたんだ?」と尋ね、ルキアと同じように口の中に餡蜜を乱暴に放り込む。
「ん、ご本読んでた。なんかね、おなかが変で」 
 さり気なく呟かれた言葉に、恋次の動きが止まる。
「……変?どんな風に?」
 瞬間―――頭をよぎる恐怖。
 これ以上―――ルキアが傷付いて欲しくはない。
「なんかね……おもたい感じ」
 眉を顰めてお腹を押さえたルキアは、次の瞬間、目を大きく見開いた。
 立ち上がるルキアに、視線を向ける。
「―――恋次!」
 切羽詰ったその声を耳に、恋次はその一点を凝視した。
「どうしよう―――血が」
 蒼ざめたルキアの足に伝わる一筋の―――。
「どうしよう―――……どうしよう、止まらない……」
 白い肌を伝う、赤い血。
 蛇が絡みつくように蛇行しながら、それはルキアの足を伝い這い降りてくる。
 混乱し泣きながら、ルキアは恋次に抱きついてどうしよう、と呟き続けた。
「ルキア……病気なの?ルキア、死んじゃう、の?」
「……大丈夫だ、病気じゃねえよ」
「でも」
「大丈夫だ、病気じゃない。じっとしてれば直ぐに治る」
「ホント?ホントに?」
「ああ、大丈夫だ。―――藤井さんを呼ぶからな。綺麗にしてもらって、布団敷いて貰おう。そしたら腹痛いのも治まるからな」
「うん。恋次も一緒に居る?」
「ああ、居るから。とにかく藤井さん呼んでくるからな。綺麗にしてもらってる間は、外で待ってるから」
「うん」
 こくりと頷くルキアの頭を撫で、ルキアが不安がらないように、その手にうさぎのぬいぐるみを持たせると、ルキアはぎゅっと抱きしめた。もう一度ルキアの頭を撫で、恋次は襖を開けて廊下に出―――耐え切れず、壁にもたれかかり天を仰いだ。
 最後の懸念が―――杞憂となった。
 ルキアが望まぬ子を宿す―――その最悪の事態を免れたことに、恋次は安堵の溜息をつく。
 そしてその一方で―――白い細い足に伝わる赤い色。
 初めて眼にした時と同じ―――その白い肌に伝わる赤い色。
 あの時、ルキアは自分の首に両腕を回し、痛みに涙を浮かべて―――それでも幸せそうに、嬉しい、と囁いた。

『痛みも愛しい―――お前を感じる。私は―――幸せだよ、恋次』
『―――愛してる。この世界の何よりも。ただ―――お前、ただひとりを』

 甘く切なく囁かれたあの声は、あの夜は―――遠く。
 その同じ赤い色を眼にした瞬間―――湧き上がった衝動。
 その衝動は今も尚身体の奥に燻っている―――熱く、熱く、熱く。
 抑えきれぬ本能―――それを無理矢理押さえつけ、恋次は藤井を呼ぶために歩き出した。






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