白く淡い光の差し込む窓の外は、静かに雪が降り積もっている。
 雪の反射はその冷たさとは裏腹に、やわらかく清浄な儚い光を部屋に満たしていた。
 二日ぶりの安らかな眠りに身を委ね、ルキアは小さな寝息を立て夢の世界を漂っている。
 その手はしっかりと恋次の手を繋いで離さない……恋次も、ルキアの眠りを妨げぬよう、僅かの身動きせずにただルキアの手を握り締めている。
 そのあどけない顔を眺め、次いで恋次は胸の痛みに思わず目を閉じる。
 ルキアは―――今、小さな子供に戻っている。
 その身に受けた現実に、絶望に恐怖に苦しみに哀しみに耐え切れず―――正気を、手放した。
 覚えているのは過去の記憶のみ。
 恋次は既に何度も繰り返し思い出した―――思い出したくない非情な現実、それでもルキアの為に無視をすることは出来ないその現実、それを伝えた白哉の話をまた思い出していた。
 




 ここはどこ、と縋りつくルキアに気は動転しながらも、恋次は優しく、もう大丈夫だ、とルキアに何度も告げた。
「俺がいるから。な?怖くねぇだろ?」
「うん。ずっと知らない人ばかりで怖かったの。目がさめたら知らないおうちにいるし」
「後で全部説明してやるから。今は眠れ。寝てないんだろ?」
 うん、と頷くルキアの無防備さ。
 何の身を護る術のない幼子そのままに、ルキアはか弱く小さく見えた。
「ここにいてくれる?恋次」
「ああ、寝るまで……起きるまで此処にいるから」
 ようやくその言葉に安心したのか、ぎゅっと恋次の手を握り締めたルキアが眠りに落ちるまで、ほんの僅かの短い間だった。坂道を転がるように眠りに堕ちていく。二日、寝ていないといっていたのが本当ならば、身体も精神ももう限界だったのだろう。白哉がとにかく眠らせてくれ、と言った理由もわかる。
 それでも暫く、恋次はルキアが目を覚まさないか、手を握り締めたままじっとルキアを見つめていた。
 闇夜になれた目に、三日前よりも明らかに痩せたルキアの顔が映る。
 何があったというのか。
 空いている手でルキアの頬を撫でる。
 深い眠りの中にいるルキアは起きる気配はない。
 それを確認して恋次はルキアの手をそっと外し、布団の中に収めると静かに立ち上がった。






 再び白哉の部屋に戻ると、白哉は先程と同じ、指を組みその上に額を乗せ、まるで何かに耐えているかのように見えた。
 恋次の気配に気付き顔を上げた瞬間の白哉の顔は、普段の白哉からは想像もつかない程、その表情は苦渋に満ちていた。
 だが一瞬で白哉の表情は普段の、何の感情も読み取れない無表情に変わる。
「眠りました」
「そうか……では、ルキアはお前を認識したのだな」
 淡々と白哉はそう言って、恋次に椅子に座るよう視線で促した。それへ目礼で返し、恋次は白哉の前に腰を下ろす。
「ルキアに何があったんですか。―――二日前から寝ていないということは、俺と隊長が現世に降りている間、ルキアに何が……あったんですか」
 その言葉の答えを、白哉はしなかった。
「ひとつ聞きたい……ルキアの子供の頃は、今のルキアと同じような?」
「いや……あんなじゃなかった。もっときつい感じでしたし……人に甘える、なんてことはなかった。言葉使いも違う」
 幼い頃、そのルキアと先程のルキアは全く違う。
 あんなに頼り無げな子供ではなかった。人一倍淋しがり屋だったことは確かだが、決してそれを周りに見せようとはしなかった。いつも気を張って、強くあろうとしていた節がある。きついことも容赦のないことも平気で口にしたし、恋次と本気で喧嘩をすることも頻繁にあった。
「では、あれも―――逃避行為か」
「逃避行為?」
「ルキアは現実を拒絶した。拒絶せざるを得なかったのだろう―――自分を護るために」
 呟くように白哉は言う。
「私が屋敷に戻ったのはお前と別れて直ぐだ。屋敷に入って直ぐ、萩原が私に―――ルキアの様子がおかしい、と」
 ルキア様のご様子が―――おかしいのです。
 そう、項垂れて告げた萩原―――幼いころからずっと白哉の世話をし続けてきた老齢の従者が、白哉の目を見ずにそう言った。
「ルキアが?」
 羽織を脱いでいた白哉は、微かに眉を顰めて萩原を振り返った。そんな曖昧な言葉では全く意味を成さない。
「どういうことか」
「子供に……還られたとしか思えませぬ。私共の顔も覚えておらず……話しかけても、怯えるばかりで」
「ルキアは」
「部屋に。……ですが」
「良い。会う」
 白哉は黒い死覇装のまま、ルキアの部屋へと向かった。それへ、「ルキアさまは北の離れの奥の部屋におられます」と、萩原の声が追う。
「北の離れ?」
 何故、と問い返す時間も惜しく、白哉はルキアの自室に向けていた足を、北の離れの方へと向けた。そのまま、萩原を気にせずに部屋へと向かう。
「白哉さま」
 開け放した襖の前に、これも白哉の子供の頃からこの家に仕える藤井が、主を迎えるために頭を垂れた。「ルキアは?」という白哉の問いかけに、「この中に……」と項垂れる。
「何故ひとりにさせておく」
「わたくし共が居りますと、ルキアさまが怯えられ……その、錯乱……されます故……こうして外で、ただ白哉さまの帰りをお待ちするしか……」
 申し訳ございませぬ、と額を畳に付ける藤井へ一瞥をくれ、白哉は襖の向こうへ「ルキア」と声をかけた。
「入るぞ」
 返事はない。数秒待って、白哉は襖を大きく開いた。
 灯が、暗い部屋の中の隅まで照らす。
 その部屋の隅に、蹲ったルキアの姿があった。突然の灯と、その真中に立つ白哉の姿に怯えるように顔を上げ、目を見開いている。
「ルキア。一体如何し……」
 言葉が途切れたのは、ルキアのその表情を見たからだ。
 最初の怯えの表情が瑣末なものと思えるほど―――その表情は、激しかった。
 怯え―――否、それは恐怖。
 絶望、恐怖、恐れ。
 極限まで見開かれた目。
 激しく震えだした身体。
 悲鳴を上げようと開いた口―――けれど、聞こえてきたのは荒い呼吸。
「ルキア?」
 その尋常でない様子に顔色を変え、白哉が一歩部屋に足を踏み入れた時だった。
「………―――あああああああああああああああああっっっっっ!!!!!」
 絶叫、だった。
 耳を塞ぎたくなるほどの、恐怖と絶望に満ちた声。
 喉が裂けるのではないかと思う程の、声だった、
 身を仰け反らせるルキアの傍に駆け寄り、反射的に身体を抱きとめた白哉の腕の中で、もう一度ルキアは絶叫した。
「いやああああああああぁぁぁぁぁっ!!!!」
「ルキア!」
「いやあああ!いや!助けて!離して!助けて、いやああああっ!!!恋次、恋次!!助けて、恋次!!!」
 呆然と立ち尽くす白哉の腕を払い除け、ルキアは白哉から飛び退った。泣きじゃくり、ただ恋次の名前だけを呼んで蹲る。
「白哉さま……」
 荻原の声に、白哉はゆっくりと振り返った。事情を求める厳しい視線に、荻原と藤井は揃って頭を下げる。
「……全て……お話いたします。この三日間の出来事……申し訳、ございません……」
 荻原と藤井、二人の口から語られるその事実に―――白哉の顔から血の気が引いていく。
 ただでさえ白い顔を蒼白にし、白哉は無言でただ、二人の言葉を聞いていた。
 






「―――三日前の晩、私達が現世へと降りた日の晩のことだ。春日が屋敷を出、自宅へと向かった」
 春日はやはり朽木の家で働く比較的若い従者だ。この次の日休暇を取っていた春日は、前日の内から実家へ戻ろうと、仕事が終わって夜間の内に朽木邸を出た。
 時刻はまだ九時を回ったばかりだというのに、この周辺に人気はない。周りは貴族の屋敷ばかりで、普段から人通りはあまりないが、この寒さの所為で更に外に出る物好きなものもいないのだろう。冬の空気は身を切るようで、自然、春日の視線は下を向く。吐く息は白く凍って夜道を白く染める。早く実家へ辿り着こうと、早足で歩いていた春日の目にそれが映ったのは、偶然だった。
 最初、それが何か良くわからなかった。ただ、白いものがあるな、と思い、それが月の光を受けて淡く光り、綺麗だ、とふと思った。
 興味を引かれてそれをじっと見つめると、それが、人の手首だとわかって春日は飛び上がった。瀞霊廷に住むのは基本的に死神だけだが、春日のように貴族に雇われている死神以外の住人もいる。春日は死神ではなかったから、虚との闘いも、虚に襲われ凄惨な死体となった骸を見たことはない。ひっと息を呑み、凍りつきながら凝視したその手首が、切断されたものではなく植え込みの中から手首だけが覗いている事に気付いて、春日は恐々とその植え込みの中を覗き込み……再び恐怖で立ち竦んだ。
「そこに……ルキアが倒れていた」
 予感に―――震える。
 それは紛れもない恐怖―――身を震わせるほどの。
 白哉は一瞬目を伏せ、恋次から視線を逸らせた―――これから言う言葉、その言葉を、恋次の目を見ながら―――言える筈がない。
「ルキアは―――乱暴されていた」
 恋次の表情は変わらなかった。
 ただ、膝の上で握り締められた拳が一度、強く握り締められ、その力は解かれることがなかった。
 身体が震えるのを必死で恋次は押さえつけた。唇を噛み締め、その歯は唇を傷付け鉄の味が口の中に広がる。
 震えの正体は怒り。
 ルキアを傷つけた者への。
 そして―――ルキアを護ることができなかった己への。
「そのままルキアは屋敷に運び込まれ―――幸い、誰の目にも留まらずルキアは保護された。意識がないまま―――医師の診断を受け、傷の手当と……妊娠せぬよう、内部の洗浄と……」
 そこで白哉は堪らず言葉を途切れさせた。常に感情を表に出さぬよう己を律している白哉が、耐え切れずに感情を迸らせる。
「許さぬ……っ!」
 机の上に握り締められた白哉の拳も、恋次と同じように震えていた。
 それでも白哉は暫く目を伏せ、感情の波を押さえつけると、「……すまぬ」と口にした。そして顔を上げると、話を続ける。
「ルキアの意識が戻ったのは、翌日の朝だったらしい。目が覚め、その時から―――ルキアの意識は子供に戻っていた。周りの誰も覚えておらず、ただ怯えて震えるだけだ。口にするのはお前の名だけ―――他人、特に男がいると錯乱状態になるので、とりあえず部屋にひとりにするしかなく……私の帰りを待っていたようだ」
 ひとりにしておけば、とりあえずは落ち着いている……怯え、震えながらただ蹲る状態が落ち着くとは本来とても言えなかったが、あの絶叫―――それを上げ続けるよりは精神にも身体にも負担は少なかっただろう。
 ただ、ルキアはひとりになっても決して寝ようとはしなかった。藤井が何度か食事や飲み物を与えようとしたが、全く手を付けずにルキアは震えながらこちらを伺うだけだったという。安定剤を投与しようにも、他人が近付くだけで正気を失い己の身体を傷付けるので、それすらも出来ない。胸を痛めつつどうすることも出来ず、朽木家の者達はただ見守ることしか出来なかったという。
「ルキアを襲ったのは、恐らく死神。ルキアが最初私を見た時の錯乱状態―――藤井の言うには、あれほど狂乱したのは二日間の内で初めてだったと。恐らく、死覇装に反応したのだろう……その時私は羽織を纏っていなかった」
 故に、ルキアに会わせる前に白哉はまず死覇装を着替えさせたのだと恋次は気付いた。再び狂乱し、あれほど呼んでいた恋次の来訪を気付かぬことがないように。
「……しばらく、ルキアの傍にいてくれ。あれが落ち着くまで……」
 頷く恋次に、白哉は「すまぬ」と目を伏せた。
 立ち上がり頭を下げ、ルキアの部屋へと戻る恋次が、事実を知って以来一言も何も言葉を発していないことに、白哉は気付いていた。



 



 恋次の見守る前で、ルキアは小さな寝息を立てて眠り込んでいる。
 ルキアの意識は子供に戻り、けれど今の恋次を恋次と認識した。
 その矛盾、大人の恋次と子供の自分という矛盾に気付かないのは、やはり自分の精神を護るための自己防衛なのだろうというのが、今朝方診察に来た医師の言葉だった。
 現実を直視できなくて。
 傷付いた精神を護るために。
 無意識に逃げ込んだルキアの―――世界。
 それが、子供時代だったということに、恋次の胸は痛む。
 握り締めた手の、ルキアの手首にはいまだ―――押さえつけられたか縛られていた故か、赤い痕が残っていた。
 胸の痛みは―――激しい怒りへと変わる。
 ルキアを襲ったものに関しては、何の手がかりもなかった。
 目撃者がいないのが災いし―――ただそれは、ルキアのこの件が誰にも洩れていないという幸運にも繋がってはいる。
 犯人は瀞霊廷の中にいる死神。
 単独か複数かもわからない。
 今この瞬間にも、ルキアを襲った者が平気で出歩いているかと思うと、恋次は怒りのあまり己を失いそうになる。
 今まで感じたことのない程―――激しい怒り。
 殺す。
 殺す。
 殺す―――絶対に。
 完全に。
 そいつの欠片すら残さず、完全に完璧に消滅させてやる。
 ゆらりと立ち上った殺気に反応したのか、ルキアの瞼が震えた。
「ん―――ん」
 きゅ、と握る力が強くなり、ゆっくりと瞼が開く。綺麗な紫色の瞳が真正面から恋次を捉え、―――ルキアはにこりと笑った。
「夢じゃなかった」
 安堵の笑みを浮かべて、ルキアは恋次を見上げて手を差し伸べる。
「ずっと呼んでたの。来てくれないかと思った」
 ―――助けて、恋次……!
 恐らく……その時、ルキアは必死で叫んだだろう。心の内で、何度も自分の名前を呼んだのだろう。
 自分は―――助けに来られなかった。
 護れなかったのだ。
 自分の生命よりも大切なこの―――存在を。
「恋次……?」
 目を伏せる恋次に、ルキアは首を傾げる。その幼い動作に、無垢な笑顔に、恋次は一層打ちひしがれる。
 いや……まだ。
 終わりじゃない。手遅れじゃない。
 ルキアが居る―――此処に。この手に。
 償い―――救うことが、今、自分に出来る最善の事。
「遅くなって―――悪かった」
「ううん。来てくれたから、もう平気。……恋次?」
 突然抱きしめられ、ルキアは恋次の腕の中で不思議そうにその顔を見上げる。
「どうしたの、恋次?」
「遅くなって―――悪かった……」
 食い縛った唇から洩れたその声は、慙愧の思いに溢れ―――恋次は堅く強く、いつまでもルキアを抱きしめていた。






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