最後の文章を書き終えて筆を起き、ようやく完全に仕事が終わったと恋次は思い切り伸びをした。
深夜を回った六番隊隊舎には勿論人気はなく、しんと静まった気配に恋次は立ち上がると、たった今完成した書類を一つに纏めて小脇に抱える。室内の明かりを消して部屋を出、そのまま当直の隊員のいる部屋へと足を向けた。
「阿散井副隊長、お疲れ様です」
「お前らもな」
掛けられる声に頷き返すと、当直の隊員は何処か眩しそうに恋次を見つめた。まだ入隊して間もないのだろう、何処となく板についていない死覇装姿の少年達は、憧憬の眼差しで恋次を見る。
「現世から戻られたばかりだというのに……お身体は大丈夫ですか」
「そんなやわな身体は持っちゃいねーよ」
ひらひらと手を振る恋次が、現世から3日振りに尸魂界へと戻ったのは数刻前のことだった。新たに再編成された四十六室からの命令で、白哉と恋次、二人揃って現世へと赴いた。基本的に現世へと降りる死神は単独行動だが、それは虚滅却の業務や魂送の業務をする、いわば一般的な死神だけだ。隊長・副隊長クラスが現世へ降りなければならない状況は、ただの虚ではあり得ず―――そしてその場合、普段から職務を共にし、互いの能力・長所短所を補い合える、隊長と副隊長が現世へ赴く。それはそう何度もある事態ではないが、滅多にないという頻度でもない。
「それに明日は非番だからな……先に報告書作っとこーと思ってよ」
恋次は当直の隊員に「これを明日、隊長に渡してくれ」と手にした書類の束を渡した。それを少年は「はい、確かにお渡しいたします」と神妙に受け取る。
「じゃ、な。今1時か……あと7時間、頑張れよお前ら」
「はい、阿散井副隊長。ごゆっくりお休みください」
頭を下げる隊員達ににやりと笑いかけ、「後で鯛焼きでも食っとけ」と札を一枚渡し、恐縮する彼らに背中越しにもう一度手を振り、恋次は部屋を出た。
真冬の深夜1時。その空気は刺すようで、吐く息はすぐに白くなる。けれど恋次は寒さを気にすることもなく、頭上に広がる煌めく星空を見上げ小さく微笑む。
現世に降りる前日、ルキアと見上げた星空と同じ宙。
『貴様は怪我をしすぎなのだ、いつもいつも。その、何も考えずに突っ込む性格を何とかしろ、単細胞め』
口ではそんなことを言いながら、恋次の袖を握り締める手は微かに震えていたのを、恋次は知っている。
『一度くらい血を流さずに帰って来い、莫迦者』
見上げる瞳は、心配と不安で揺れていた。
明日、ルキアに会いに行って、無事な姿を見せてやろう。
それ以前に白哉の口から無事は伝えられているだろうが―――そう考えながら歩いていると、伝令神機が小さく振動した。こんな時間に、と訝しく思いながら懐から取り出しボタンを押す。
『―――私だ』
「隊長?如何したんですか」
白哉が伝令神機を使うことは滅多にない。恋次に連絡をしてきたのも今日が初めてと言っていいだろう。どこか厭な感覚が身を走り、恋次は知らず、伝令神機を持つ手に力が入る。
「何か―――」
『深夜に済まぬ。―――済まぬが、此処に来てくれぬか』
「此処―――隊長の家へ?」
『事情はそこで話す……どのくらいで来られるか』
「今隊舎を出たばかりですから―――直ぐに」
『待っている』
唐突に電話が切れた。
いつも平静な白哉の声が、いつもと違う気がしたのは―――気のせいだろうか。
冬の空気が、恋次の心の冷たさを映して身体を突き刺す。
「……ルキア?」
何か―――あったのだろうか。
深夜の白哉からの連絡。
冷静さを欠いた白哉の声。
恋次の身体は、次の瞬間その場から立ち消えた。
瞬歩で移動した恋次の風圧が去ると、その場は再び静けさが支配する。
雪が―――降り始めて、いた。
朽木邸は、隊舎のある瀞霊廷中心部からやや離れた場所にある。
周りは貴族の屋敷ばかりで、長く高い壁が道路の両端に拡がっている。その中でも一際大きく広い敷地の中に、白哉の屋敷は在った。
何度か訪れたことのあるその屋敷が、こんな深夜にもかかわらず複数の窓に明かりが灯っている。
不安に押し潰されそうになりながら、門の前で瞬歩を解除した恋次に、直ぐに「阿散井様ですね?」と声が掛けられた。
白哉が待機させていたのだろう、お仕着せの服に身を包んだ朽木家の従者が、「どうぞ」と門を開け、直ぐにもう一人の従者が「こちらへ」と恋次を中へと導いていく。
普段ならば貴族の家らしくゆったりと静かに通されるべき案内は、白哉の意思か緊迫した空気の所為か、あるいはその両方故か、例を見ないほどの迅速さで恋次は白哉の室に通された。
従者の扉を叩く音に、白哉の「入れ」という声が間髪いれずに聞こえ、直ぐに扉が開かれる。
「隊長……」
「こんな時間に済まぬ」
白哉の顔は、幾分白く恋次には見えた。憔悴……そんな、白哉に似合わない雰囲気が、間違いなくその身を包んでいる。
「いえ。それより一体……」
胸の不安は大きくなるばかりだ。否、白哉のこの様子で、不安は確信に変わる。
「ルキアに何か……」
それへは答えず、白哉は従者に「着物を」と告げ、恋次に「着替えて欲しい」と短く告げた。
「そんな場合じゃ……!」
「着替えねばルキアに会わせることが出来ぬ」
荒げた言葉に帰ってきたのは、有無を言わせぬ白哉の声だった。不承不承、纏っていた死覇装を脱ぎ捨て、運ばれてきた銀鼠色の着物に袖を通す。上等の絹の滑らかな肌触りも、今の恋次の意識には全く関心がない。
着替え終わり、言葉ではなく視線で先を促すと、白哉は小さく頷き「下がれ」と従者達に命じた。その言葉に手を付き一礼してから、従者達は恋次の死覇装を手にして速やかに引き下がる。
室内に二人きりになっても、暫く白哉は何も言わなかった。ただ、机の上に指を組み、その指の上に額を乗せ、何かに耐えるように沈黙している。そうして数十秒経過した後、やがて伏せていた顔を上げると、白哉は「とりあえず……ルキアを見てもらおう」とだけ言った。
「全てはそれから話す。ルキアはここ二日、全く眠っていない……お前ならばルキアを眠らせることが出来るかも知れぬ」
「眠ってない……?」
「……来い」
静かに立ち上がった白哉は、「……ルキアがお前をわからなかったとしても……」と言いかけ、「いや」と首を振った。
「実際見たほうが早い」
今は何を言っても白哉は答えてくれぬと察した恋次は、もう何も聞き返さずに白哉の後ろを黙って歩いた。しんと静まり返った広い屋敷の中は、凍てつく空気が満ちている。冬の所為だけではなく、それは恋次の心理も影響している。
「私だ」
奥の部屋の前で白哉がそう告げると、瞬時に目の前の襖が開いた。中から現れたのはやや年配の女性で、白哉の姿を見て深々と頭を下げる。
「如何だ」
「はい、変わらず……」
何処か痛ましげな響きを持ったその、声。
「恋次が来た、と……あれに告げてくれ。……恋次、私はこの部屋の中には入れぬ。お前だけが入れ。そして、ルキアに会い……ルキアがお前を認識したのならば、何も聞かず、ただルキアの話に合わせ、何とかルキアを寝かせてくれ……頼む」
最後の言葉に籠められたあまりに悲痛なその想いに、恋次は息を呑む。問い直す時間もなく、白哉は直ぐに部屋を出て行った。
「阿散井様……」
小さく呼びかけられ、恋次は振り向いた。先程の年配の女性が頭を下げ「よろしくお願い致します」と白哉と同じく悲痛な響きを滲ませて恋次にそう告げ、部屋の奥の襖に向かって声をかけた。
「ルキアさま……ルキアさま。恋次様がいらっしゃいました……お開け致します。よろしいですか?」
中から返事はない。それでも女は静かに、僅かの音も立てずに慎重に襖を開いた。
「どうぞ……私も中には入れません。ここからは阿散井さまおひとりで」
背後で襖が閉じられると、夜の漆黒の闇が恋次を包み込んだ。
部屋の中は暗く、明かりひとつついていなかった。その何も見えない黒一色の世界の中、まだ闇夜になれない目に映るのは何もない。けれど、部屋の奥のほうに確かにルキアの気配がする。
「ルキア」
声をかける。
何があったのか……何故、皆一様に、悲痛な声でルキアの名を口にするのか。
「ルキア、どうした?」
闇夜に、徐々に目が慣れてくる……ぼんやりと現れる、部屋の隅で小さく蹲る小柄な身体。
「……恋次?本当?」
小さく、微かに声がする。やがて蹲っていた影が立ち上がり、よろけるように走り寄ってきた。
「恋次……!」
ぶつかるように飛びついてきた華奢な身体をしっかりと受け止めて、恋次はルキアの震える身体を抱きしめた。ルキアの両腕が恋次の首に回り、縋るように身を寄せる。
怪我か病気で生命が危ないのか、と恐れていた恋次は、暖かいルキアの身体と、幾分力はないがしっかりとした動きに安堵の溜息をつき……次の瞬間、ルキアの言葉に凍りつく。
「恋次、ここどこ?他のみんなは?ねえ、みんなどこに行っちゃったの……?どうしてルキアはこんなところにいるの?ルキアたちのおうちはどこ?」
子供のようにあどけなく……否、子供のままに。
ルキアは不安そうに恋次を見上げて、言った。
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