現世での任務を終えて修兵が瀞霊廷に戻ってきたのは二週間ぶりの事だった。
 滞在期間が長くなったのは任務が困難だったわけではなく、瀞霊廷通信の現世取材という名目の休暇も兼ねていた所為で、修兵は義骸を持ち込んだおかげでかなり有意義な時間を過ごしていた。
 休暇終了の前日に瀞霊廷に戻り、最後の一日は瀞霊廷内をぶらつこうと、昼から平日の瀞霊廷の大通りを歩いていると、目の前に本が歩いていた。
 勿論それは本当に本が歩いている訳ではなく、小さな身体で分厚い本を抱えている所為で本に手足が生えているように見えただけなのだが、その本の奥に揺れる紅い髪に修兵は見覚えがある。そしてその小さな―――同じ歳の子供達に比べて身長は高かったが―――身体であの厚さの本を読めるのは、瀞霊廷内でも自分の知る子供ただ一人言うことも知っていた。
「煉!」
 修兵がかけた声に足を止め、本の横から顔を覗かせると煉は「檜佐木さん」と嬉しそうな声を上げた。直ぐに「お久し振りです」と丁寧に頭を下げる。
 僅か5歳にしてこの行儀よさ。
 しかも外見は恋次そっくりなので何回見ても笑ってしまう。
 本当に外見は恋次のクローンなのではないかと思うほど瓜二つだというのに、その性格はまるで正反対だ。外で暴れるよりも室内で本を読むことを好む、学者肌の大人しい子供。怖ろしく頭の良い子供なのだが、奢ることなく子供らしい無邪気さも持っている。
「しばらく現世に降りていらしたとか。父に聞きました」
「ああ、二週間振りだ。色々見てきたぜ。今度ゆっくり教えてやるからな?」
 自分の知らないことには大きな興味を持つ煉は、檜佐木の土産話をいつも楽しみにしている。それが今日に限ってはあまり嬉しそうな顔をしない。不思議に思い顔を覗きこむと、「檜佐木さん」と思い詰めたように修兵の瞳を真直ぐに見返した。
「―――僕を卯ノ花隊長の所へ連れて行ってくださいませんか」
 真剣なその眼に驚きながら、修兵は「如何した、身体の具合でも悪いのか」と額に手をやる。
「いえ、僕ではなくて―――」
 俯く煉の手にした分厚い本が、専門的な医学書なのに気付いて修兵は眉を顰めた。どうやら煉以外の誰かが病気の疑いがあるらしい。煉の身内といえば、両親である恋次とルキア、伯父の白哉しかいないのだが……この3人が病に臥せった話など聞いていない。そんな事態になれば、瀞霊廷に帰還して直ぐ修兵の耳に入るだろう。
「如何した?誰か病気なのか?」
 俯く煉の頭を撫でてやると、ずっと一人で悩んでいたのだろう、ぽろりと涙が一粒煉の瞳からこぼれ落ちた。慌ててぐいと涙を拭う姿は、両親の意地っ張りの血を受け継いでいる証拠だろう。
「―――お母さんが」
「朽木?じゃなかった……まあいいや、お前の母さんが?」
 如何した、と先を促す修兵に、暫く躊躇うように口を閉ざしていたが、一人で悩むことに耐え切れなかったのだろう、煉は「お母さんが―――」と小さな声で話し出した。
「―――夜、声がするんです。寝室で、苦しそうな声でお父さんを呼んで―――お父さん、一人で看病してるみたいで。悲鳴と、お父さんを呼ぶ声と―――本当に苦しそうで―――毎晩、聞こえるんです。お父さん達の寝室は僕の部屋から離れてるからあまり良く聞こえないけれど……でも、お母さんがお父さんを呼ぶ声は聞こえて……その後しんとしちゃうから、もしかしたら意識を失ってしまうのかもしれない―――どこか痛いのか、苦しいのか、でも朝になると僕の前ではいつものお母さんで―――え?」
「気にすんな、それは病気じゃねえ」
 脱力しながら、修兵は煉の肩に両手を置いて「病気じゃねえ」と繰り返した。
「え?」
「それはな、まあなんつーか、お前のお父さんとお母さんが仲の良い証拠というかだな……」
「はい?」
「あー、その件については俺からお前の父さんに伝えておく。もう今夜からは大丈夫だ。お母さんの声は聞こえなくなる」
 ぱんぱん、と背中を叩くと、煉は不思議そうな顔をして修兵を見上げる。それでも修兵に対する信頼の方が上回ったのか、はい、と元気良く頷いた。
「ありがとうございます、檜佐木さん。僕、すごい心配だったんです。よかった、お母さんが病気じゃなくて……でも、じゃあお父さんがお母さんを苛めていたんですか?でもお父さん、あんなにお母さんが大好きなのに」
「苛めちゃいねえんだけどな……毎日……は一種苛めてるような気もするが……」
 言葉の後半部分は、修兵は口の中だけで呟いたので煉の耳に入ることはなかった。ほっとしたように「苛めてないんだ、よかった」とにこにこしている。
「そうですよね、お父さんがお母さんを苛めるわけないもの。いつも仲良しだから」
「そんなに仲良しか?」
「はい、お母さんにぺたぺたして怒られてます。『煉の前だろう!』っていっつも」
 にこにこと話す煉の言葉に、興味本位で聞いてしまった自分に脱力しながら、「煉」と修兵は呼びかける。
「お母さんに夜の声の事言っちゃだめだぞ。もし言っちゃったら、その夜はお父さんの土下座する姿を見る事になるぞ?そんなお父さん見るのいやだろ?」
「―――お父さんが僕に見られたくないと思うので、そんな事態になるのは嫌です」
 生真面目にそう答える煉の顔は、あの恋次と瓜二つ。
 同じ顔してどうしてこうも性格が違うのか―――溜息を吐きつつ、修兵はもう一度煉の頭をぽんと軽く叩いた。
「じゃあ、今日は早く帰ってお母さんのお手伝いをしてきな。今日のお父さんの夕飯はいらないと伝えてくれ。俺がちょっとお父さんと話があるからな」
「はい、わかりました。―――ありがとうございます、檜佐木さん」
 子供らしく元気に手を振り帰って行く煉の後ろ姿を見送って、修兵はもう一度溜息を吐く。
 煉に約束した手前、恋次に夜の事について少し配慮するよう伝えなければならないが―――どうやら今夜は、恋次に惚気られることは間違いないようだ。







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