「子供が授かりました」


 その瞬間の白哉の様子に気付いたのは恋次だけだったろう。ルキアは頬を染め両手を畳みに付け頭を下げていたのだから。
 ルキアの発した言葉の威力に固唾を呑む恋次の前で、白哉は一見、何の変化もないように見えた。
 実際、白哉をよく知らない者が見れば、その変化は全くわからなかっただろう。いつもと変わらない無表情―――そう評したに違いない。
 けれども恋次は白哉を「良く」知っているのだ。
 考えれば、一番長く白哉との時間を共に過ごしているのは、他の誰でもなく恋次に他ならない。出勤してから帰宅するまでほぼ顔を合わせているのだから。
 しかも恋次の仕事は、無表情な白哉の元で、その微かな表情の変化を読み取り他の者へと指示を出すこと。
 他人の気付かない白哉の表情の変化に気づいても仕方がないという訳だ。
 ……恋次にしてみれば気付きたくはなかったのだが。
 まず、白哉の目がほんの僅か見開かれた。
 次いで、蝶が羽ばたくような音の小ささで白哉が息を呑んだのがわかった。
 そして、手にしていた筆を持つ手が積もる雪のような静かさで震えていた。
 やがて、これは誰が見ても明らかに―――殺意の籠った視線で恋次を睨みつけた。
「貴様よくも私の大事な義妹に」
 恋次にしか聞こえない小さな声で、白哉は言う。
 何処から出したのか、既に鯉口から刀身が覗いている千本桜に後退りながら、「ちょっとちょっと」と恋次は手を上げて制した。白哉の理性を取り戻すべく、恋次もルキアに聞こえないよう小さな声で、白哉の道理に訴えてみる。
「当然の事でしょう。むしろ遅かったくらいで」
「私は結婚の許可は、ルキアが哀しい顔をするので仕方なく・不承不承・意に沿わぬ上に・不本意だが・出したことを認めるが、ルキアに触れることを許可した覚えはない」
「普通ワンセットでしょう!」
「黙れ猥褻男。―――ルキアを穢した罪、万死に値する。万死に相応しくこの千本桜で万回滅してやろう」
 躊躇なくすらりと抜き払った斬魄刀の前で、恋次は深い溜息を吐いた。全くの予想通り、寸分違わぬ白哉の反応だった。
 僅か数秒の間に小声でやり取りされていたこの緊迫感あふれる状況にルキアは気付くことなく、ただ、ルキアの言葉に対して何も応えない白哉に対して不安を抱いたのだろう、顔を上げひたと白哉を見つめた。紫色の瞳が煙る。
「……兄様、……兄様は……お喜びいただけませんのでしょうか……?」
 傷付いた瞳で白哉を見つめるルキアに、白哉は「そんなことがある筈はないだろう」と穏やかに微笑んだ。たった今まで恋次に向けていた殺意は完全に消えている。
「これ以上喜ばしいことはない。緋真も喜んでいるはずだ。―――よくやった、ルキア」
 労わるようにそっとルキアを抱きしめ、ルキアの顔を自分の胸に押し付け視界を遮ると、白哉は再び恋次を睨みつけた。だがそれ以上の事は何も出来ず―――千本桜は既にその手にはない。
「ありがとうございます、兄様。―――実は少し心配していたのです。まだ早いと兄様がお怒りになるのではないかと」
 少し照れたように白哉の腕の中で頬を染めるルキアに、もう白哉は何も言えない。「何を言う、遅かったくらいだ。待ちかねたぞ」と優しくルキアの髪を撫でると、ルキアは嬉しげに微笑んだ。
 結婚の申し込みと全く同じ道程を辿ったこの展開に恋次は苦笑する。
 あの時も、結婚の許可を求めて頭を下げた恋次に、最初は頑として頷かなかった白哉だが、ルキアがこぼした涙一粒であっさり許可を出したのだ。
 本当に白哉はルキアに甘い。泣かせる者は言語道断―――例えそれが白哉自身であってさえも。
「護廷十三隊は辞めるよう、卯ノ花隊長に言われました。―――それが残念なのですが……」
「当然だ。もうお前一人の身体ではないのだから」
 未だルキアを抱きしめたまま白哉は言う。何も知らない者が見たのならば、子供の父親は誰か誤解されそうな構図ではある。それでも恋次が以前のようにルキアを取り返そうとしないのは、偏に「ルキアは自分を一番愛している」という自信を恋次が持てるようになったからだ。
 それでもやはり、目の前の光景はやきもきさせるには充分ではあるけれど。
「良い子を産め―――お前によく似た子を」
 言外の意味を悟って恋次は溜息を吐く。ルキアはその白哉の言葉の意味も恋次の溜息も気付かずに「はい」と明るく頷いた。 
「それで、いつ此処に戻るのだ?」
 当然のようにそう尋ねた白哉の言葉に「え?」と恋次とルキアは顔を見合わせた。その二人の様子は完璧に無視して白哉は続ける。
「初産は何かと心配が多い。人手も必要だろう。その身体で家事をすることもない。出産まで此処にいるといい―――雑事は全て従者に任せればよいのだからな」
「いや、それは―――」
 思わず声を上げた恋次の言葉に被せるように、白哉は「恋次も心配だろう?ルキアが一人で家にいるのは」と畳み掛ける。
「いや、それはそうですが、でもずっと此処に居るというのは」
「恋次も心配していることだ。恋次を安心させる為にも、お前は帰って来なさい」
 芸術的なまでに恋次の抗議を無視して白哉はルキアに向き直った。その白哉の前でルキアは考え込んでいる。おいおい、と内心焦る恋次を余所にルキアは「……そうですね」と笑顔を向けた。
「そうか。ではこのまま、今日からでも―――」
「ですが、身体は動かさなくては駄目だと聞いております。絶対安静の方も中にはいらっしゃるようですが、幸い私は順調ですので―――卯ノ花隊長も、出来る限り動くように仰っておりましたし」
 動かなくなって急に太る方が問題だそうです、と上目遣いでルキアは白哉に言う。
「此処に戻りましたら、私は何もすることがなくなってしまいますので―――やはり、家で家事をして身体を動かしています。でも、お兄様のお心遣いはとても嬉しいです。ありがとうございます」
 笑顔できっぱりとそう断られ、途端に白哉は意気消沈したようだ。勿論それは恋次にしか気付かないが。
「―――でも」
 ルキアと離れ離れの生活をしなくて良いと恋次がほっとしたのも束の間、ルキアは遠慮がちに、畳にもう一度手を付いた。
「兄様が休暇の折、私がこちらにお邪魔してもよろしいでしょうか。家から此処まで歩くのに丁度良い距離ですし……もし兄様がお許しくださるのでしたら」
「勿論」
 間髪入れずに白哉は頷いた。そして―――次に発した白哉の言葉、その言葉に驚愕し恋次の顎がかくんと落ちた。
「では、月水金と私は仕事を休むことにしよう。その位の頻度で運動した方が、お前の身体に良いだろう」
「ちょっと隊長―――」
「いえ、それはあまりにも兄様と六番隊の方々にご迷惑―――」
 白哉の意図に慌てる恋次と、白哉の言葉を素直に受け取ったルキアは、感じたものは別にして同時に拒絶の言葉を口にする。
「お前が気に病むことはない、ルキア」
 慈愛にあふれた瞳でルキアを見つめ、返す瞳で恋次に殺気を送り黙らせると、白哉は何事もなかったようにルキアへと向き直る。
「私は恋次をいずれ隊長へ推薦するつもりでいる―――その為にも恋次は隊長の仕事を覚えた方が良い」
「―――兄様」
 純粋なルキアは白哉の言葉を疑うことなくそのまま受け取る。今も、隣で恋次が「違ぇよ!」と手を振っていることにも気付かずに、白哉の持つ恋次への期待の大きさに胸を一杯にし、言葉もなく感激した瞳で白哉を見つめていた。
「兄様、兄様はそこまで恋次を―――」
「期待している。そして私は恋次の能力を知っている―――」
 あまりにも見え透いた白哉の言葉に呆気にとられるしかない恋次をちらりと見遣り、白哉は微笑む―――その微笑みは恋次の目には「してやったり」と言っている笑顔にしか映らない。
「お前の選んだ男は有能だ。―――私が居なくても仕事の全てを処理できる能力を持っている」
 だから、と白哉は微笑む。
 この場の勝利を宣言するように。
「心配せずとも良い。―――わかったな?」
 はい、と嬉しそうに頷く妻を見遣り、―――恋次は今日一番の深い深い溜息を吐いた。

 




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