医師を下がらせ、誰もこの室に入ってはならぬと伝え、白哉は部屋の襖を閉めた。
 この部屋だけが、外の世界と隔絶される。
 時間が止まり、風も止まり、世界は静寂で満たされる。


「楽になったか」


 その声は静かで、感情の揺らぎは感じられない。
 白哉は静かに横たわる妻に向かって話しかける。


「お前は決してそれを悟られまいとしていたが……」


 最後まで微笑んでいた。
 苦しくなかった筈はない。
 けれど最後まで微笑んでいた。
 白哉のために。
 心配をかけまいと、ただ、それだけの為に。


『私は倖せでございました』
 そう微笑んだ笑顔は儚くて、差し出された手を取り見守る白哉の前で、微笑みながら目を閉じて。
 それきり二度と、その瞳を見ることは出来なくなった。



「楽になれただろうか。それならば、私も……」



 そこで白哉は口を閉ざす。
 自分に嘘は吐けない。
 

 どんな状態でも傍にいて欲しかった。
 それが自分の勝手な想いだとわかっていても、それでも傍にいて欲しかった。
  

 必ず治してやると約束したのに。
 結局何も出来ずに、日に日に儚くなるその姿を、自分の無力さを目の当たりにすることしか出来なかった。
 

 恐らく彼女は気付いていたのだろう。
 自分が消えた後に、白哉がどうなってしまうのか。
 ゆっくりと白哉は死に到る。
 生きる意志を無くし生きる意味を失くし生きる価値を亡くし。
 それに気付いていたから、
 だから、彼女は願いを口にした。


『どうか、私の妹をお護りください』


 最後の彼女の願いを、白哉は違えることが出来ない。
 頷く白哉に安堵の笑みを浮かべたのは、白哉が自分を追う事態を避け得た故だろう。


『お顔を……』


 見せてください、と苦しい息の下言い切ることが出来ずに、それでも白哉はその言葉の意味を汲み、顔を上げる。
 じっと見つめ、ふ、と笑い、 


『私は倖せでございました』


 はっきりとそう口にして。
 緋真は逝った。













『私しか知らない白哉さまのお顔があることが、私はとても倖せでございます』


 それは知り合って間もなく、緋真は林檎の樹の下でそう笑った。

 
『それは私だけの白哉さまですから……他の誰も知らない、私だけが知る白哉さま』


 



「またひとつ、お前だけが知る私の顔だ……」


 ぱたり、と緋真の顔に水滴が落ちる。
 それは後から後から緋真の顔を濡らしてゆく。



 決して揺らぐ事のない白哉の声が震えていたのを、
 この閉じた空間でただひとり―――緋真だけが、聞いていた。
 




  SIDE「白哉」



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