余裕なんてとうにない。
 手足は震えて喉はカラカラ。
 鼓動は速くて頭に響く。
 不安と緊張は最高潮。
 百篇は繰り返した手順を頭の中で反芻する。
 この部屋で待機。
 名前を呼ばれたら返事をして。
 扉が開いたら部屋に入る。
 そのまま真直ぐ総隊長殿の前へ。
 その際周囲を見てはいけない。
 顔は真直ぐ前を見て、姿勢正しく落ち着いた足取りで。
 決して早足になってはならない。
 伊勢副隊長の言葉の後、私は一歩前へ……あれ?
 一歩前に出てから伊勢副隊長の言葉を待つ?
 え? 最初に一礼? 総隊長殿に礼? 礼は総隊長の言葉の後?
 あれ? ちょっと待て、百篇繰り返した手順は一体何処へ?
「なんつー顔してんだよ」
 掛けられた声に我に返り顔を上げれば、そこには見慣れた紅い瞳。
 その瞳が「心配すんな」と笑った。
「緊張して足捻ったら肩車してやるからよ」
 くくっと笑うその声は、意地の悪さは全くなく。
 何があっても心配するな、と。
「……昔見たいに?」
「覚えてるか?」
「当たり前だ」
 樹から落ちて捻った足の痛みに動けない私を、肩車した恋次。
 戌吊の頃、幼い頃。
 あの時と変わらずに、私の隣で恋次は笑う。
「いや、肩車より横抱きの方が様になるな」
「う…っ、うるさい」
 やるなよ、と念を押したら恋次があらぬ方へと視線を飛ばした。
「新隊長は中へ」
 伊勢副隊長の声が響く。
 私を見詰めて落ち着かせるように頷いて、恋次が扉に手をかける。
「行ってこい」
 俺の、隊長。
 私にしか聞こえないその声に、頬が染まった途端名前を呼ばれた。
 ちらりと見れば、私を見守る紅い瞳。
 私の隣に恋次がいる。
 幼い頃と変わらずに。
 これからもずっと変わらずに。
 恐れるものは何もない。
 私は一つ息を吸い込むと、「はい!」と返事をして一歩を踏み出した。