布一枚では遮断しきれない明るい陽の光が、その部屋を日常から隔離させている。
 暗いと言うには穏やかに明るく、明るいと言うには静かに暗く。
 夜明け前のような黄昏のような、時間という概念がなくなったかのような、そんな空間の中で。
 きぃ、と小さな音がする。
 それは断続的に響き、次いでしゅるりと布に滑る音、そして微かに聞こえる―――艶声。
「―――はぁ、ん」
 喉に絡んだような甘い声が、仄明るい部屋の中に響き渡る。
「や―――ぁ」
 耐えかねたような切ない声が、仄暗い部屋の中に木霊する。
 薄明るい部屋の壁に設えた寝台の上で絡み合う幾多のもの―――絡み合う吐息。視線、指先、―――身体。
「ん……っ!」
 幾何学模様の彫り込まれた男の身体の下で、白い小さな身体がびくんと小さく跳ね上がった。
 広い寝台の白いシーツの海の上で、二人の男女が波に揺られている。
 逞しい身体の男はまだ若い。無駄な筋肉などひとかけらもない鍛え上げられた身体には、黒い刺青が彫り込まれている。その男に愛される女―――少女と言っていいかもしれない、華奢な細い身体。けれど、その少女の唇から洩れる声は、明らかに成熟した女の上げる声……行為に慣れ感じている女の嬌声。
 男の指が、少女の足の間、秘められた場所へと沈められていく―――部屋の中に、新たに響く淫らな音。
 男の指の動きに合わせて、くちゅくちゅと粘着質の水音がする。その音の大きさに、少女の欲情の大きさが、男にも、そして少女本人にも曝される。
 少女の白い肌が、羞恥からほんのりと紅色に染まった。
「…ぃゃ……音、させない……で」
 小さく懇願する少女の声を聞いて、男の口元に笑みが浮かぶ。優しげな、そして楽しそうな男のその笑みを、恥ずかしさから目を閉じていた少女は気付かない。
「……ふ、あっ!」
 少女の胎内に挿入された指が更に増え、鍵盤を弾くように軽やかに踊る。その動きは、更に水の音を大きくする―――不規則に動く複数の指は、少女の内壁をあらゆる角度で擦り、少女は小さく声を上げて身悶えた。
 寝台がきぃ、と音を立てる。
 男の指に煽られるままに、少女の声は大きくなる。悲鳴のように細く、けれど悲鳴にはない悦びの色を滲ませて。
「もう……お願い、はやく……」
 目元をうっすらと紅く染めて、少女は頭上の男に懇願する。男の指を迎え入れている両足はぴたりと閉じ合わされ、何かをねだるように震えていた。
「ねえ、お願い……」
 来て、と言葉にした少女に満足したのだろう、男の動きは素早かった。するりと指を、弄んでいた少女の胎内から引き抜き、合わさった両膝に両手をかけ、少女が羞恥から力を込める前に両手で膝を押し開き、一気に奥まで挿入した。
「あ……っ!」
 少女の身体が反り返る。自分の体内に侵入してくる自分以外のモノ、自分以外の体温、自分以外の熱。激しく熱く猛るソレ。何度迎え入れてもその度に身体が熱く燃える。慣れるということはなく、快感は常に新しい。
 一息で奥まで刺し貫いた後は、男は味わうように少女の内部をゆっくりと行き来する。少女の膝を押さえたまま、その結合部を互いの目に触れるよう大きく開く。
 水音が更に淫らに大きくなった。
 ぐちゅ、ぐちゅと、男が動く度に響く音は、けれど少女の唇から溢れる喘ぎでかき消される。
「や、あ、……んんっ」
 男の右手は少女の胸の頂に触れ、少女の理性を追い詰めていく。あまりの快感に耐えかねて、堅く目を瞑り首を左右に振る少女の頬を抑え、男は唇を重ねた。
 挿し込まれる舌に、少女は自ら舌を絡め甘い唾液を嚥下する。
 二つの結合部から、甘く淫らな水音が響く―――唇と、秘所と。どちらも熱く、相手を締め付けて離さない。
 ぐ、と男の挿入が深くなる。
 一瞬動きの止まった少女から唇を離し、男は本格的に動き出す―――少女の中に激しく己を突き刺し、引き抜き、再び突く。
 寝台が軋んだ音を立てる。
「ひ、あ、あ、あん、あ、ああ……っ!」
 男の動きに合わせるように、少女の声が伴奏する。
 突き上げられ―――仰け反り、引き抜かれ―――縋りつく。
 少女の白い、滑らかな肌に汗が光る。その肌に絹のような黒髪が貼り付き、少女は自分の知らないままに、扇情的な顔を頭上の男に曝け出す。
 乱れる少女を見下ろして、男は優しく微笑んだ。
「あ、ん……っ!だ、め、もう……っ!」
 少女の爪が男の腕に立てられた。きり、と食い込む爪の痛みに、男は更に笑みを深くする。
「だめ……も、う、……っ!」
 男の動きが、獲物を追い込む肉食獣のように容赦なく激しく貪るように―――事実、少女の全てを手に入れる為に、深く熱く狂おしく―――
「―――恋次……っ!」
 自分の名前を呼びながら果てた恋人の一瞬後に、恋次は自身の欲情を開放する。
 ルキアは胎内に恋次の熱い迸りを受け止めながら、幸福そうに微笑み―――ゆっくりと意識を手放した。



「―――まだ昼間だというのに」
 気怠い声に苦笑して、恋次は傍らのルキアを抱き寄せた。咎めるような言葉とは裏腹に、ルキアは素直に恋次の腕の中にその身を委ねる。互いの汗ばんだ身体が重なって、同じ温度に心地好さを等しく伝える。
「厭だったか?」
「―――答えはわかってるくせに、そんな質問をするな」
 本当にお前は意地が悪いな、とルキアは細い指で恋次の頬を抓りあげる。
「自分に驚いているだけだ。―――此処までお前に溺れているとは」
「自覚してなかったのかよ?酷ぇな―――でもまあ」
 俺の方がお前に溺れてる、と恋次は笑う。
「一日でも離れてるのは辛ぇ」
 ルキアの髪を撫でながら、溜息と共に恋次は言う。その言葉にくすぐったそうに照れた笑みを浮かべ、ルキアは「まだ言っておるのか」と、ほんの少しだけ厳しい顔をして見せた。
「たかが一週間だ。その程度―――」
「耐えられねえよ」
 ルキアの言葉が終わる前に、恋次は不満そうに口にする。
「何でお前が行くんだよ。あそこにはお前の後任がいただろう、車谷だかっていう」
「元々空座町は私の担当だ」
「外されたじゃねえか」
「撤回の理由は承知だろうに」
「撤回は撤回だ」
「何を子供のように……」
 呆れたような口調でルキアは諌め、見上げた恋次の顔が、本当に憮然としているのを見て思わず苦笑した。
 愛されていると、幸福の中で思う。
 けれど、口にするのは相手を諭す言葉だ。でなければずっと恋次の機嫌は悪いだろう。明日が出発なのだ、それまで同じ言葉を何度も繰り返したくはない。
「一護の学校行事が……ん、確か『修学旅行』と言ったかな……一護が空座町を一週間離れるのだ、仕方ないだろう?一週間で終わるのだ、そのくらい我慢しろ」
「だから何でお前が行くんだよ」
「私の担当だからだ―――何も言い返すな、同じことを繰り返したくないぞ。言葉を変えると『任務』だからだ。『命令』だからだ。―――わかってくれるな?規律を重んじる六番隊副隊長、阿散井恋次殿」
 にこりと微笑めば、恋次にはもう何も言えない。確かに正式な、これは命令だった。恋次にもそれはわかっている。数々の繰言は、一週間愛しいルキアと離れ離れになる愚痴を溢していただけに過ぎない。
「―――はああ、ったく……」
「一週間なんてすぐだ。―――そうだな、土産に現世で何か買ってくる。何か欲しいものがあるか?」
 恋次の首に両腕を回し、甘やかすように見上げるルキアの腰を引き寄せて、暫く考えた後に恋次は「そうだな」と―――にやりと笑った。
「お前から、口付けてもらおうかな」
「は?」
「会ったその場所その瞬間に。『ただいま』って言って口付けてもらおうか。『逢えなくて淋しかった』『大好き』という言葉も欲しいところだな」
「……覚えてたらな」
「あ、全くやる気なく言いやがったな?その場で誤魔化すつもりだろう、コラ」
「何を言っている?私が愛するお前を騙すようなこと、そんなことをする訳がないではないか、酷い事を言う」
「笑顔が嘘くせぇんだよ!」
 抱かれた腰に、恋次の両腕が回される。拘束するほどに強く抱きしめられ、ルキアは笑いながら「苦しい!」と悲鳴を上げた。その悲鳴が、慌てたような戸惑いの声に変わる。
「こら恋次、お前何処を触って……」
「ん?」
「何を……んっ」
 慌てて恋次の腕の中から逃れようとしたルキアの身体を、一瞬早く恋次は抑え付け、両手を寝台の上に縫いつける。頭上から見下ろす恋次の顔を思い切り睨みつけても、恋次は何処吹く風だ。
「……私は明日から現世行きなのだが」
「認めたくないけどな」
「……つまり、あまり無理をすると明日からの仕事に差し支えるという訳で、私としてはこれ以上の疲労は避けたい所なのは、勿論お前にも解っていることと思う」
「当たり前だろう、疲労を蓄積したままで現世に行ったら、お前の仕事に差し支えるしな」
「うん、物分りのいい恋人を持って私は幸せだ。という訳で放して欲しいのだが」
「まああと一回した所で休む時間はまだあるさ。大丈夫大丈夫、まだ日は高い」
「お前の一回は一回で終わった例がない……こ、こら!駄目だって言っているだろう……!」
 制止の声はすぐに甘い声に変わる。恋次の手に、指に、舌に、声に煽られて蕩ける身体はいつものこと……結局、恋次と一週間離れることは、恋次だけでなくルキアにとっても淋しいということを、互いは深く良く理解していた。



「……お疲れさまですピョン」
 袖白雪を鞘へと収め、小さく息を整えたのが、たった今虚を滅却した名残だった。
 ルキアの実力は席官級だ。余程のことがない限り、その身に傷を負う事はない。現世の虚の滅却など今のルキアにとっては全く問題のない仕事で、現れる虚をさしたる危険もなく、余裕を持ったまま滅却し続けている。滞在中四体目となる虚を無へと還したルキアは、傍で見守っていた義骸のチャッピーの言葉に微笑みながら頷いた。
「これで最後かな。流石にもう現れないだろう。―――一護が居ないと知った途端、虚が湧き出るのだから始末が悪い……」
「それだけあの人が恐れられてるってことですピョン」
「まあな」
 弟を褒められた姉のように、ルキアは面映そうに笑った。
 実際、一護の力は突出している。
 けれど、いつまでも死神の仕事を代行させるわけにも行かない。この仕事は「死神」の仕事なのだ、人間である一護の人生を犠牲にしてまでやらせるべきではないとルキアは思う。
 それは上層部でも同じことを考えているようで、恐らく一護の死神代行は、近い内に解除されるだろう。
「……一護が納得しますかピョン?」
「ん……如何だろう。ごねるかもしれぬが……でも、今しか出来ないことをやることが一護にとって最良の事だと私は思う。死神の仕事に追われて、友人と遊ぶことも出来ず歳を取っていくなんて……可哀想だろう」
 一護が密かに想う少女の存在を知っている。
 だから一護には、平和な世界に居て欲しい。
 生命のやり取りをするような、そんな殺伐とした世界に居るのは―――ヒトとしての一護にはあまりにも。
「まあ、あいつが死んだら否応なく死神になるだろうからな。あと七十年ぐらい、尸魂界としても待つことに異論はないだろう」
 ううん、と伸びをして「さて」とチャッピーを見遣ると、チャッピーは頷いて義骸の身体から抜き出ようとする。それに「いや、そのままでいい」と声をかけ、ルキアは腕を組んだ。
「折角現世まで来たのだ、お前も何処か行きたいだろう。そのまま義骸に入っていていいぞ。一緒に買い物に行こうか」
「いいんですか?」
「ああ、私も土産を買いたいしな。その際はお前に買ってもらうことになるが……一緒に歩いても問題ないだろう、魂魄の私の姿は誰にも見えぬ」
 嬉しそうなチャッピーを見ながら、ルキアは何を買って帰ろうかと考えを巡らせた。尸魂界にない珍しいもの、恋次の好きそうなもの……食べ物よりも形の残るもの。
 あと半日で尸魂界へ帰還できる。
 一護が旅行から戻って、引継ぎをして、それから帰るので、尸魂界へ着くのは恐らく夜半過ぎだろう。その足で恋次の家に行ったのならば、恋次は喜んでくれるだろうか。出掛けにあんなに愚痴をこぼしていた恋次の事だ、すぐに顔を出さなかったら更に機嫌が悪くなるだろう。それは避けたいな、と苦笑するルキアの心も、恋次に逢いたくて仕方がないという事は、ルキア本人は気付いていない。
 何十年も言葉を交わさない時があった。
 遠く姿を眺めるだけの日々があった。
 触れることも触れられることもなく、声も聞けずただ遠くから見つめるしか出来ない日々―――そんな日々によく耐えられたものだと、ルキアは思う。
 もう二度と、その日々には耐えられないだろう。
 たかが一週間でこの淋しさ。
 ―――はやく……お前の声が聞きたいよ。
 左手の薬指に口付ける。
 尸魂界では、鎖に通して首から下げている銀の指輪。今はルキアの左手薬指で輝いている。
 何となく気恥ずかしくて、尸魂界では隠すように胸元にしまっているが、此処では他に誰がいる訳でもない。そう思いずっと薬指に嵌めていた銀の指輪―――恋次からもらった、大切なもの。
 裏に恋次とルキアの名前を刻み込むよう店員に頼んだ恋次を、ルキアは「顔に似合わぬ少女趣味だな、恋次」と眉を顰めたが―――本当はとても嬉しかった。
 指輪を贈ってくれたことも。
 名前を刻んでくれたことも。
 薬指に嵌めてくれたことも。
 二人しか知らない繋がりだ。兄あたりに知られたならば、恋次はかなりの嫌がらせを受けていることだろう。
 もうすぐ帰るからな、と心の内に呟いたルキアの耳に、「ルキアさま!」とチャッピーの緊迫した声が突き刺さった。
「逃げ―――……っ!」
 目の前で―――チャッピーの身体が吹き飛んだ。
 その、暴風と言っていい程の圧倒的な風圧に身体をよろめかせながら、ルキアは見た―――身体中、一瞬にして切り刻まれ、宙に赤い血を撒き散らし、壁に叩きつけられる小さな身体―――チャッピーの姿を。
「チャッピー!」
 瓦礫の中に崩れ落ちるチャッピーに駆け寄ろうとしたルキアの背後に、唐突に現れた気配―――虚ではなく、明らかに。
 自分と同じ死神の。
「な―――」
 腰の斬魄刀に手を伸ばす。
 柄に、手を。
 神技のような速さ、けれどそれは―――最初からルキアを標的としていた相手に対して余りにも―――遅かった。
 絶望的に。
「――――――っ」
 身体が弓なりに反る。
 痛みはなかった。
 背後から叩きつけられた一閃に、痛みを感じる暇もなく、ルキアの身体は倒れ込む。
 見開いた目に映る、紅。
 地面を濡らしていく紅い色。
 世界が侵食される。
 赤く紅くあかくアカク………
 恋次と同じ紅い色。懐かしいほどの紅、心を震わす紅い色。
 恋次。
 瞼に映る愛しいひと。
「―――もうすぐ、帰る、から……」 
 かり、と地面を掴んだ手が、刀の刃に刺し貫かれる。
 壊れ始めた耳に、狂ったような哄笑が聞こえる。
 甲高い声―――耳障りな哂い声。







 ルキアの意識はそこで途切れ、―――暗黒の淵に沈み込んでいく……
















 長い、永い夢を見ていた気がする。



 身体がひどく重い。
 まるで全身を拘束されているように軋み、まるで全身が泥沼に浸かっているように重い。
 腕を上げるどころか、指一本動かすことが出来ない。
 瞼すら持ち上げることが出来ない。
 痛みはない。
 最後に目に映った己の血の色、その量の多さから想像する自分の身体の状況と、余りにもかけ離れている。
 ……それとも。
 既に痛覚など感じないほど、全てが完全に完璧に壊れてしまったのだろうか。
 意識はあるというのに。
 このままゆるゆると死んで行くのか。
 それとも既に自分は死んでいるのか。
 ……死にたくない。
 このまま死ぬのは厭だ。
 自分が死ぬということよりも、……が哀しむのがつらい。
 ……と離れるのがつらい。
 ……の声が聞きたい。
 もう一度。
 もう一度……。




「……れ、ん」
「おやあ?」
 あまりにも場違いな明るい声に、ルキアは一気に覚醒した。
 飛び起きようとするが、やはり身体は動かない。けれど、先程のように指一本動かせないという状況ではなく、もがくように腕を微かに上げることができた。途端、全身を駆け抜ける激痛にルキアは呻き声を上げる。
 意識の覚醒と同時に、痛覚も覚醒したようだ。痛みに、必死に空を掴もうと弱々しく動かした指を、誰かの手が包み込む。
「これは吃驚……さて、どうしたものやら。テッサイ?」
「……私にも解り兼ねます。こんな話は聞いたことがございません」
「アタシも聞いたことないですよ。見たこともない」
 困ったですねえ、とぱたぱたと、恐らく扇を仰ぐ音がする。
「とりあえず、ヨコシマなものではないようですねえ」
「……誰が邪だ」
 辛うじて声が出た。どうやら声帯も回復していないようで、自分の声とは似つかない声だった。それとも耳の機能が壊れているのか。
「ここは……浦原商店か?浦原が助けてくれた……のか」
 たったそれだけを話すにも苦痛を伴った。何処かに力を入れるだけで身体中が軋む。全身が悲鳴を上げる。それでも、その痛みは自分が生きているという証だ。それを喜びながら、ルキアは呻き声を噛み殺し、「私は一体……」と呟いた。
「……浦原?」
 瞼を開けてもぼやけていた視界が、ゆっくりと焦点を結び出す。それでも、目の前の浦原の顔ははっきりと見えない。特徴のある帽子姿がぼんやりと見えるだけだ。それでも、声で間違いなく浦原だとわかる。
 ほっとしながらルキアは「浦原」と呼びかけた。
 そして妙な事に気付く―――「浦原」とよびかけた瞬間、空気が凍りついたことに。
 絶句、と言っていい。
 浦原ともう一人―――恐らくテッサイが、息を呑んだ音が聞こえた。
 返事のない事に首をかしげながら、ルキアは身体を起こそうと手を付いた。けれど、やはり力は入らず、妙な違和感をルキアに伝える。
 まるで、自分の身体が自分の物ではないような、そんな違和感。
 それを無視して、ルキアは何とか身体を起こそうともがいた。
「……そのままで」
 妙に真剣な―――普段の浦原にはあまりにもそぐわない真剣な声で制止され、ルキアは動きを止めた。微かに首を傾げ、いまだぼんやりとした目の前の浦原に視線を向ける。
「そのままで……無理はしないでください」
「しかし―――」
「大丈夫です、そのまま横になって。横になったままでも話しは出来るでしょう」
 誰かの手に支えられ、ルキアは再び布団の上に横たわる。ほう、と吐き出した吐息に、ルキアはたったこれだけの動きに全力を出している事に気付き、不安がよぎる。
 自分は一体、如何してしまったのか。
 あの時、一体何があったのか。
 突然名前を呼ばれ、目の前でチャピーの身体が―――
「―――チャッピーは?」
「え?」
「チャッピーは如何した?無事か?無事だな?浦原!」
 再び起き上がろうともがくルキアの肩を押さえ、浦原は「―――大丈夫ですよ」と呟いた。酷く静かに、小さな声で。
「チャッピー……大丈夫です―――ええ、大丈夫です」
 そして一呼吸置き、
「アナタの方は大丈夫ですか……朽木サン」
 静かに―――尋ねた。
「私は―――こうして生きている。だが身体が―――動かない。如何してだ、私の身体は一体……」
「……まだ、回復していないんですよ」
 囁くようにひっそりと、浦原は言う。
 あまりにも普段と違う浦原の声。
 それを疑問に思う心の余裕は、今のルキアにはない。
「もう少しお休みなさい。次に目が覚めた時、もう少しはっきりとしているでしょう……色々と」
「……そうか」
「薬を差し上げましょう、ゆっくりと休めるように―――夢を見ることもなく」
 まるで雨に話しかけるように、浦原の声は酷く優しい。
 腕を取られ、浦原の為すがままになりながら、ルキアは「浦原」と呼びかける。
「なんでしょう?朽木サン」
「恋次に……心配するなと。……心配していないかも知れぬが、一応……その」
「ええ、阿散井サンにお伝えしますよ……だから安心してお休みなさい」
 ちくりと腕に刺さる鋭利な痛み。
 ルキアの意識は強制的に眠りの世界へと引き込まれていく。




 ―――再び目覚めると、身体の軋みは確かに軽減されていた。
 多少の違和感は残るが、腕も動かすことはできる。ただ、
 ―――何も見えない。
 目に布の質感。
 そこに触れると、幾重にも巻かれた布の―――包帯の感触がある。日の光さえ感じることが出来ないほど、厳重に念入りに巻きつけられた細い布。
「―――浦原」
「起きましたか、朽木さん」
 傍に浦原がいるのは気配で解っていた。すぐに返された返事に驚くことなく、ルキアは「起きたいのは山々だが」と不機嫌な声を返す。
「何の真似だ、これは」
「緊縛プレイ?」
「ふざけるな莫迦者。はやく解け」
 ん、とルキアは咳をした。身体の軋みは軽くなっているが、声の調子がまだおかしい。それとも耳の調子がまだ悪いのか―――まるで自分の声ではないような声。
「それは追々……」
「浦原?」
「少し状況を説明していただきたいのですが」
 浦原の声の調子が変わった。この男にもこんな真面目な声が出せるのか、とルキアは不思議な気がする。
「状況?」
「そう、状況。……アナタの事件、まだ解決してないんですよ。……その時の状況を説明していただけませんか、朽木サン」
「説明と言っても……突然の事だった。目の前のチャッピーが吹き飛ばされて、傍に行こうとしたら、背後に死神の……」
「死神?」
 鋭い浦原の声に、思わず息を呑む。
 確かに、死神が死神に刃を向けたとあらば―――問題だ。この件が解決していなければ尚更。
「……ああ、死神の。死神の気配が背後に―――気付いた時には、もう遅かった。背中を斬られ―――多分。あまり覚えていない」
「あっという間だったと?」
「ああ。全く躊躇う様子もなく、一閃してきた。斬魄刀だったと思う……」
 背中を切り裂く感触が不意に甦り、ルキアはぶるっと身体を震わせた。
 躊躇なく振るわれた刃。
 続く、哄笑―――
「哂い声、が」
「哂い―――声?」
「ああ……甲高い哂い声―――狂ったような……何を言っていたか思い出せぬが……」
 記憶を辿ろうとしたが、何故か茫洋として掴めない。何とか思い出そうと集中した途端、突き刺すような痛みが頭を突き抜け、ルキアは呻き声を上げた。
「朽木サン!」
「いや……大丈夫だ」
 包帯の上から目を押さえ、動かぬようにして痛みを逃す。
「―――私の説明できることなどこの程度だ。すまないな」
「いえ……充分です。こちらの情報と合わせれば、それなりの量になるでしょう……少なくとも、現状よりは」
「現状?」
「今度はアタシが説明しましょう。アナタが襲われたところから―――アナタが意識を取り戻す間、何があったのか」
 そのまま聞いていてください、と浦原は言う。
「ただ、気分が悪くなった時はすぐに言って下さい。いいですね?」
「―――わかった」
 唐突に、ルキアは恋次を想う。
 何か―――起きているのだろうか。
 自分の知らない場所で。
 自分が知らないことが。
 恋次は今―――何をしているのだろう。
「アナタを発見したのは黒崎サンです。学校行事から帰宅して、そのすぐ後に黒崎サンの家に運び込まれたアナタの義骸―――チャッピーの傷だらけの瀕死の身体を見、それが義骸だと、朽木サンではないと気付き、黒崎サンはすぐに義骸が発見された場所に駆けつけた。果たして、黒崎サンの予想、危惧通り、其処にアナタが居た。魂魄のアナタは誰に見つけてもらうことなく助けてもらう訳でもなく、倒れた時そのままに―――否、倒れていたというにはおこがましい、其処に『置いてあった』と言うべきか、『放置されていた』『打ち捨てられた』『放棄されていた』―――そう言った方がより正確でしょう。アナタは―――廃棄されていた」
 黒崎サンでさえ、声を失うほどだったと言いますよ―――と、浦原はその凄惨さを現すように淡々と言葉を続ける。
「血、血、血。肉片。内臓。皮膚も肉も切り刻まれ引き千切られ解され―――曝され。自ら作った血の海で、アナタはたゆたっていた。死んでいてもおかしくない状況で、死んでいないとおかしい状況で―――でも」
 陽の光さえ届かない厚い包帯の内で、ルキアは蒼褪めていた。何も映さない目に、自分の切り刻まれた身体がありありと映る。
 血に。
 溢れ。
 塗れ。
 静に。
 ―――死に。
「でも、アナタは生きていた―――辛うじて。瀕死の状況で、けれど生きていた」
 一護は叫んだという。
 絶叫し、伝令神機を取り出し―――叫ぶように、四番隊の出動を要請し。溢れる血を押さえ、ルキアの名前を呼び、ルキアの血に塗れながら。
「そして四番隊―――卯ノ花隊長と朽木隊長と―――阿散井サンが、現世へ」
 すぐにその場で救命治療が行われた。事は一刻を争うものだった。僅かでも動かせば、それだけでルキアは死に至る。危うい均衡の上に成り立っていた僅かな生命が、吹き消された蝋燭の火のように一瞬で消え失せるだろう。
「卯ノ花隊長の全ての力を費やし、四番隊隊員が補佐し、とりあえず出血を止めることが出来ました。そこでようやくアナタは尸魂界へ―――でも、四番隊の力には限界があった」
 四番隊の力は治療―――治癒。傷を塞ぎ、傷を治す。
 ルキアの身体は―――あまりにも損傷が激しすぎた。
 切り刻まれた身体は至る部分が欠損していた。
 引き千切られた身体はあらゆる部分が破損していた。
 修復は、難しいと……ルキアの回復は不可能だと、四番隊の誰もがそう思った。
「だが―――たった一つ。方法があった―――まだ誰も試していない未知の領域。それに思い至り、朽木隊長は決断しました。即ち」
 十二番隊。
「十二―――番隊?」
「そう、そこでならば……アナタの破損した肉体を修復し、元に戻すことが可能だと……そう、十二番隊の隊員は言った。勿論莫大な治療費と時間はかかる、けれど可能だと。そして、朽木隊長は即答しました、すぐに治療にかかれ、と」
「兄様……が」
「確かに十二番隊の隊員の言った事は本当でした。アナタの身体は修復された。培養液の中で、アナタ自身の細胞を活性化させ、足りなかった部品を培養し複製し、完璧に元の身体へと」
 言葉を切った浦原に、ルキアは暫く黙り込んだ。
 恐らくそれが紛れもない事実。
 ならば、何故。
「ならば―――何故」
「そう……何故、アナタは此処にいるのか?」
 ルキアの、横になったままの手が握り締められる。
 本当の話は―――浦原が語り辛かった本当の話は、此処から始まるのだと、感じた。
 はっきりと―――明瞭に。
「気分は……如何ですか。悪くないですか?疲れたならば少し休みましょう」
「いや、平気だ。続きを頼む」
 きっぱりと断るルキアに、内心は少し時間をおきたかったのだろう、浦原が小さく溜息を吐くのが聞こえた。
「―――アナタの受けた被害は、私の方にも伝わっていました。けれど、アタシは尸魂界を追放された身。直接見聞きする事は出来ません。心配しながら、けれど時は流れ―――アナタの身体も元に戻ったと風の便りに聞きました。ただ、―――意識が戻らない、と」
「意識が……」
「そう、身体は戻った。傍目にも完璧に。けれど―――目覚めない。呼びかけても、刺激を与えても、如何しても―――目覚めない」
 そうそう、と浦原は突然明るい声を上げた。
「アタシは尸魂界に出入りできない身ですけどね……物は売買しているですよ。もう百年近くなりますかね、追放されてから始めた商売ですから。尸魂界の物を仕入れて、必要な人に売る。需要と供給。商売の基本ですね。アタシは商売に才があるようだ、この百年で得意先も出来ましたし、贔屓にしてくれる方も多い。独自の仕入れルートも確立しましたしね」
 無言のルキアを置き去りに、浦原は明るく話し続ける。
「その、私専用のルートから、珍しいものが入ったと連絡があったんですよ。前々から何か変わった物があったら回してくれるよう頼んでたんですけどね。色んな物が入ってきましたよ、珍奇で珍妙で高価で稀有な様々なもの。今回の物もとびきり珍しいものでした……なんせ、この私が何かわからなかったくらいでしたから。小さい、ビー玉くらいの大きさの、紅い玉。良く見ると色が徐々に変わっていくんですよ。薄く、濃く、明るく、暗く。きらきらと、それはもう美しくて、アタシは随分長い間見惚れてましたよ。こんな宝石を、愛するあの人に贈ったらば、あの気紛れな、美しいものを見慣れたあの人さえ、きっと喜んでくれるだろう逸品。で、アタシは指輪にでも加工しようと思って―――ふと、思ったんですよ。この形に良く似たものを知っている。似てるけれど、全く違う。それで、加工する前に面白半分に―――試してみたんですよ」
 何を?
 そう口にしかけて、ルキアは一度開いた唇を閉じた。
 浦原の、唐突に始められた一見無関係な話。
 その話の形が、急速にルキアの中で成形される。
 事実。
 物語のような。
 夢のような。
「―――その、紅玉……」
 乾いた唇から洩れる声は、やはり他人のような声。
 聞いた事の無い……いや、何処かで聞いた覚えのある、低い声。
 自分の声ではない、他人の声。
「その紅玉……一体何に似ていると、お前は思った?」
 小さな、ビー玉くらいの大きさの。
 その形に良く似た、けれど全く違うもの―――。
「義魂丸、です」
 ルキアは大きく息を吸い込んだ。
 ぐらぐらする。
 横になっているのに、如何して。
 目を瞑っているのに視界が回る。
 吐き気がする―――頭痛がする。
 軋む身体。
 聞き慣れない声。
「―――朽木サン!」
「大丈夫―――大丈夫だ」
 何度も呼吸を繰り返し、ルキアは揺らぐ心を落ち着かせる。
「目隠しを―――解いてくれ」
 低い声で―――ルキアは言う。
「自分の目で確かめたい」
「アタシは―――もう少し、間を置いてほしいんですが。―――アナタの身体は今、不安定なんです」
 やはり、とルキアは目を閉じる。
 想像通りの現実。
 夢のような。
 御伽噺のような。
 性質の良くない、荒唐無稽な―――事実。
「大丈夫だ。だから、頼む」
 溜息と共に、浦原が立ち上がる気配がした。すぐに、巻きつけられた包帯が解かれていく―――するすると布の触れる音と共に、視界が穏やかに明るくなる。陽の光を感じて、けれどルキアは浦原が頷くまで目を開ける事はなかった。
「いいですよ。―――ゆっくりと、どうぞ」
 一度、大きく深呼吸をする。
 ゆっくりと開けた目に、浦原の姿が映る。
 いつものように深く帽子をかぶり、心痛に耐えるような顔を隠し。
 昨日まで焦点の合わなかった目は、今ではすっかり元の視力に戻っていた。
 ―――いや。
 元の、ではないのだろう。
 次いで、ルキアは両手を前に翳す。
 褐色の肌。
 自分の肌の色とは違う色。
「―――鏡を」
 ルキアの震える声に、浦原は無言で立ち上がる。
 すぐに渡された手鏡を前に、目を閉じる。
 心を落ち着かせ、呼吸を整え―――
 ルキアは目を開いた。
「―――ああ」
 こんな時だというのに、思わず笑ってしまった。いや―――ルキアは笑うしかなかったのかもしれない。そうしないと、狂ってしまっただろう、きっと。
「こんなこと―――こんなものがあると、あの方はご存知なのか」
「実は秘密なんです」
 神妙に答える浦原に、ルキアは呆れたように視線を戻す。
「怒鳴られるぞ……悪趣味だ、と」
 再び鏡の中を覗き込み、くくく、と喉を鳴らしてルキアは笑う。
 震えながら、笑う。
 鏡の中の自分の顔。
 四楓院夜一に良く似た顔が、其処には在った。



「―――完全に瓜二つ、という訳では―――ないのだな」
 ぽつりと呟いたルキアに、浦原は「それは……」と苦笑する。
「心が、違いますから」
「こんなに顕著に現れるものなのか」
 浦原が作り上げた義骸―――そう、ルキアが今現在、自分の身体としているのは、浦原が作り上げた義骸だった。
 浦原が作り上げた義骸だ、恐らく動き出す前は四楓院夜一を完全に模した義骸だったのだろう。四楓院夜一の、恐らく―――少女時代の。
 けれど今は、確かに似てはいるが、他人の相似と言い切れば通る程の、それは微かな相似だった。
 褐色の肌。
 金色の瞳。
 均整の取れた身体。
 しなやかな筋肉。
 身体の要素はきっと四楓院夜一と同じなのだろう。
 けれど、鏡の中の顔は―――夜一が決して見せることのない、憂いを帯びた顔だった。
 漲る生命力の表れた、強く輝くような夜一と同じとは決して言えない―――ルキアの心をそのまま表した、顔。
「―――夜一さんの子供の頃は、どんなだったろうなと思いましてね」
 精密に作り上げた義骸―――そこに、手に入れた紅玉を入れてみようと思ったのは、本当にただの思い付きだった。
 義魂丸に良く似た美しい紅玉。
「まさかそれで動き出すとは―――しかも、それが尸魂界で意識を失っている朽木サンだったとは」
 流石の私も予想外でしたよ、と浦原は嘆息した。
「その紅玉―――あれは、一体」
「恐らく―――朽木サンの『心』でしょうね。魂魄のアナタの想いの『核』。『鎖結』『魄睡』……魂だけの存在に、そういった場所があるのならば、『心』を司る場所があってもおかしくない。―――のでしょうかね、今まで聞いた事はありませんが」
「浦原―――でも、か」
 義骸の扱いに長けるという事は、魂魄の在り様に詳しいということ。加えて前技術開発局局長―――その浦原でさえ。
「お主でも、知らぬと」
「当然です。『心』は魂魄の最重要部位……否、『心』が無くては魂魄足り得ません。『魂魄』即ち『心』なのですから―――ヒトと同じ肉体を持たぬ我等には。ヒトが死に、心が肉体から離れ―――つまりそれが魂魄。分離するなど、そんな話は」
 技術開発局局長の片鱗を見せ、浦原は科学者の目付きで明瞭に言い切った。
「―――聞いた事は、ありません」
 心が離れたのは偶然では有り得ない。恐らく自分を襲った者の仕業だろう。哄笑しながら斬り付けた誰か。
「元に、戻れるのか」
 ぽつりと呟いたルキアの言葉に、浦原は無言で扇子を閉じる。
 暫く、どちらも話すことは無かった。しんとした空気だけが、この部屋を支配する。
「つまり―――そういうことか」
 戻る事は出来ない。方法はない。
「私は、このまま……と、いうことか」
「いえ……このままでも、居られません」
 顔を上げた浦原の面には苦渋の表情が浮かんでいる。
「昨日、アナタを休ませて―――検査させていただきました。こんな事例はありませんでしたので、隈なくありとあらゆる検査を、情報を得るために」
 一度、半ば強制的に眠らせたのは、そういった意味があったのかとようやくルキアは気が付いた。
 浦原も戸惑っていたのだろう……有り得ないことが起きている現実に。
「義骸―――魂魄―――義魂丸。この三つの関係はご存知でしょう。義魂丸がヒトの中に入るのならば、そう大した拒絶反応はありません。霊子と肉体、元々魅かれあうもの同士です。すんなりと義魂丸はヒトの肉体に納まり問題はない。しかし、義骸に魂魄が入る場合―――そう物事は簡単に進みません。霊子と霊子、同じ属性の異質なもの。去年の九月、アナタが現世に行くときに作成した義骸を思い出してください。何度も調整したでしょう?アナタのデータを登録し、アナタの霊子レベルでシンクロさせ、拒絶反応が出ないように、最新の技術で細心の注意を持って調整したはずです。それだけ……義骸と魂魄の調整は難しい」
 恋次は今、如何しているのだろう。
 ぼんやりとルキアは想う。
 立て続けに語られる事態に、心が付いて行かない。
 ―――恋次の声が、聞きたい。
「アナタの心が入っているその義骸―――何の調整もしていない義骸。最初、身体が軋んだでしょう?動き辛くはなかったですか?つまり……拒絶反応です。当然です……この義骸は何の調整もしていない。アナタの身体データの登録も、霊子の同調も何も―――何も」
 浦原の声が、冷えた心に容赦なく突き刺さる。
 元に戻れない。
 停滞も出来ない。
 義骸に拒絶された魂の行末は?
「……私の生命は、あと如何程だ」
 真正面から浦原の視線を捉える。嘘も誤魔化しもして欲しくはなかった。
「恐らく―――一ヶ月」
 それは。
 死刑の宣告にも似た―――言葉。
「異なる霊子同士の融合は、器と核、双方の負担が大きすぎます。普通ならば恐らく一週間……持てば良い方でしょう」
 浦原の―――未だ他の誰もが到達できない浦原の技術、他の義骸と比べ物にならない精巧さと精密さ、それをしてようやく……一ヶ月。
「そう、か」
 ぼんやりと、ルキアは窓の景色を眺めやる。
 見える景色は同じだというのに。
「一ヵ月後に……私は消滅するのか」
「……まだ、そうと決まった訳ではありません。私の持つ全ての力を持って、アナタを元に戻す努力を致しましょう」
 自分に言い聞かせるようにきっぱりとそう言い切った浦原は、「申し訳ないです……朽木サン」と、浦原らしからぬ気落ちした声でルキアに向かって頭を下げた。
「アタシが―――紅玉を義骸に入れるなんてことを考えなければ……こんなことには」
 ただの気紛れ―――ただの出来心。
「いや」
 もし、浦原が紅玉を義骸に入れてみようと思わなかったら―――こうして意識を取り戻すことなく、身体は永遠に眠りに墜ちたまま、心も永久に闇に堕ちたまま、無為の時を過ごすことになっていただろう。
 結果は―――結果。
 今出来る最善のことを。
 今望む最良のことを。
「浦原のお陰で、こうして私は此処にいる。感謝する。それに私は―――」

 恋次に逢いたい。
 恋次の声が―――聞きたい。

「―――諦めない」
 残り時間は一ヶ月。
 その間に自分を襲った犯人を見つけ、心を分離する術を聞き出せば―――
 可能性は零じゃない。
 諦めたら其処で終わる。
 挫けたら其処で止まる。
 前を。
 前だけを、見て。
「―――強くなりましたね、朽木サン」
 静かに微笑み、「それならば―――全面的に協力いたしましょう」と、恭しく頭を下げた。
「あらゆる力とあらゆる技を、惜しみなくアナタに捧げましょう」
 ぱん!と浦原の扇が閉じられる。
「アナタを尸魂界へ戻します。アナタが朽木ルキアであることを余人に知らせることなく、向こうでアナタが自由に動けるように、アタシが一切の責任を持って手配いたしましょう。存分に充分にお調べください―――その補佐も勿論致しましょう。例え現世に縛られた身であっても、アタシの名は浦原喜助―――お客様が欲しいものを用意するのがアタシの商売。ご用意いたしましょう、アナタが欲しいすべての物を」
 アナタのお望みのものは何ですか―――そう、問われたルキアの脳裏に浮かぶのは唯一つ。
 欲しいものはいつだって、大切なものはいつだって、たった一つ……たった一人しかない。
「なるべくこの身体を持たせる方法はあるか?予測で構わない」
 残された時は一ヶ月。
 相手は誰かも何かもわからない、途方もなく無謀なことをしようとしている。
 時間はいくらあっても足りないはずだ。出来得るならば、可能な限り最後の時を迎えるその瞬間は先へと延ばしたい。
「予測ではなく、はっきりとわかっていますよ。長く持たせる、という意味もありますがそれよりも―――これを守らなければ、確実に崩壊が早まる事態になります」
 あまり蒸し返したくはないのですが―――とそう言ってから浦原は、
「アナタに初めて出会ったときにお渡しした義骸、あれは霊子を含まない違法な義骸だったわけで、霊子体のアナタが入っても霊子同士の反発はなく崩壊はしなかった訳ですが―――あの時私は最終的に、義骸に入ったアナタの霊力を分解し人間にすることが目的だった。それを促進する方法、というのは当時からわかっていましたし、基本的に今回もそれと同じです。合わない義骸に入った魂魄を疲弊させる方法。つまりそれとは逆の行動は崩壊を先伸ばす」
 初めて浦原と出会った時。……一護と出会い、様々な人と出会い、溝で隔たれた兄と―――恋次と、再び近付くことの出来た、今は遠い……昔。
「注意事項はひとつ。必ず護っていただきたいこと、それは―――アナタの身体は不安定です。同調してない霊子同士、義骸と魂魄です。些細な衝撃で均衡が崩れる危険性が高い。それをいつも念頭においてください。いつ、如何なる時も」
「具体的には?」
「斬魄刀は振るってはいけません」
 即答だった。
 恐らくそれこそが、義骸と魂魄の反発を強め、崩壊へと至る一番の道なのだろう。
「斬魄刀を?」
「斬魄刀はアナタの心と密接に結びついている―――アナタだけの、アナタしか扱えない、アナタの魂、アナタの心の具象化したものが斬魄刀―――『袖白雪』。こんな不安定な状態で斬魄刀を呼び出したら、それだけで崩壊が始まるでしょう。決して斬魄刀を振るわないでください」
 真剣な顔で「約束してください」と念を押され、ルキアは「解った」と頷く。
「尸魂界へは明日―――今日中に色々手配しておきます。アナタも今日はゆっくりお休みなさい。明日から―――姿の見えない敵を相手にするのですから」
 確かに「心」はまだ義骸に慣れず、たったこれだけの時間、布団の上に座っていただけなのに激しい疲労感がルキアを襲っている。これから先、あと一ヶ月―――たった独りで闘うには、あまりにも心許ないこの身体。
 僅かな衝撃で生命を堕とす、短命が運命付けられているこの身体。
 まるで蜉蝣のようだ、とぼんやりと宙を見ていたルキアは、不意に今の季節に思い至った。
 現世に降りたのは六月。
 今は―――肌に触れる空気が熱を帯びている。あの時とは違う、乾いた空気の、日差しの熱さ。
 あの日から―――ニヶ月は過ぎているということか。
 小さく呟いたルキアの声を拾い上げ、浦原は「ああ……」と嘆息した。
 それもまた―――言い難かった一つの事実。
 重い声で浦原は言う。
 事実は隠せない―――例えそれが、どんなに非情な現実だとしても。
 重い心で重い口を開き、重い事実を浦原はルキアに告げる。
「アナタが襲われたのは―――十年前」
「…………え?」


 もうすぐ帰る。
 尸魂界に戻ったらその足で―――
 会ったその場で、『ただいま』と、『淋しかった』と、『大好き』と、そして口付けを。
 たかが一週間。
 すぐに終わる。
 すぐに帰るから。
 待っててくれ―――


「朽木サンが何者かに襲われた日から今日まで―――十年、過ぎています」
 
 
 だから待っていてくれ、
 恋次。


  
 あの日から―――十年。




 ルキアは茫然と、ただ空を見つめていた。


 




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