その破面の男の凶器が私の身体を貫いた時、私がまず真先に考えた事は、驚きとか、恐怖とか、痛みとか、悔しさなどではなく、困った、という感情だった。
 立っている事ができなくて倒れこんだ身体から、地面に血が流れていって、その量の多さに思ったことは、やはり「どうしよう」という困惑。
 恋次が心配する。
 こんな状態の私を見たら、恋次は心配する……怒るかもしれない。またいつもみたいに「莫迦かお前は!」と怒鳴るに違いない。本気で怒って、でもその目は本気で心配していて。
 そんな顔はさせたくないのに。そんな顔をさせるつもりはないのに。
 何とか起き上がろうと地面に手を付こうとしたが、手は私の意思に反してぴくりとも動かなかった。
 身体が重い。けれど私は笑う。頭の中の恋次に向かって笑って見せる。
 私は大丈夫だから、そんな顔をするな。
 恋次が何かを言っている。その必死な表情に、私は薄れていく意識の中、ただ「大丈夫だから」と呟き続けた。




約束step 3






 ぱちん、と泡がはじけるように意識が覚醒した。
 うつ伏せだった筈なのに、私の頭上には月がある。
 鋭利な刃物のような三日月と、静かな星空。
 私はどうしたんだっけ、と考えてると、「ルキア様!」とチャッピーが泣きながら抱きついてきた。うわああん、と手放しでなくチャッピーの声で、私は意識を失う前の全てを思い出していた。
 破面、一護、……一瞬で切り伏せられた自分。
 そう、流れる血と力の入らない身体。
 それなのに、今自分の身体は、まるで何事もなかったかのように普段と変わりない。
 上体を起こして刀を受けた部分に触れてみる。
 ……痛みは欠片もなかった。
 傷さえそこには存在しない。
 チャッピーの横に座って、真直ぐにこちらを見つめる井上が、どうやら私の傷を治してくれたようだ。
「ありがとう、井上」
 すごいな、と感心して呟くと、井上は「あたしなんて……」と、勢いよく首を振った。長い髪が、それに合わせて揺れる。
 その揺れる髪の向こう……無言で見つめる赤い瞳。
「あ……」
 恋次の顔にも、血の色があった。死覇装は土と血で汚れている。切り裂かれた死覇装。乾いた血。
 壮絶な闘いの傷跡。
 恋次、と声をかけようとして、……私は何も言えず、開いた口を閉じた。
 ……何を考えているのだろう。
 酷く、真剣な……思い詰めたような瞳。
 その視線の強さに、私は何を言っていいのかわからずに、ただ、恋次の視線を受け止めていた。
 私の浮かべていた表情はどんなものだったのだろう、突然恋次は我に返ったように瞬きをした。その途端、今までその顔に浮かんでいた思い詰めた表情は消え、恋次は「もう治ったのか?」と尋ねてきた。
 ああ、と頷いて傷のあった場所を触ってみる。
「もう―――何ともない」
 そう答えると、恋次は「そうか」と呟いて再び黙り込んだ。
 入れ替わりのように、今度は一護が「治ったのか、ルキア」と、やはり暗い顔で私に尋ねてくる。
 恋次とは違って、こいつの考えている事はよくわかる。この顔は「自分の所為だ」と考えている顔だ。私の怪我、それに責任を感じている暗い顔。私を護れなかったと自分を責めている顔だ。
「何だ、その顔は」
 私はじろりと睨みつける。
「私の怪我に責任を感じているのか?調子に乗るなよ?この怪我は私自身のミスで受けたものだ、お前が責任を感じることではない」
 そうだ、この傷は私の責任。
 私は決して傷付いてはいけないのだ。
 私が傷つくと、私が感じる痛み以上に、その痛みを受け止めてしまう奴が居るから。
「私は弱くはないぞ」
 だから、大丈夫だ。
 心配するな。
 そう告げたい相手は、やはり何かを考えていて、私の言葉は届いていないようだった。





 破面との戦いで疲弊しきった一護と、怪我人を治療し疲労しているだろう井上を家まで送り届けるよう、私はチャッピーに頼んだ。その後、黒崎家の皆に心配をかけないよう、一護の家に戻れと言った私をチャッピーは心配したが、「井上のお陰で全く問題ない、むしろこの場で私が一番元気なくらいだ」と半ば強引に送り出し、私はようやく恋次と向き合った。
 相変わらず恋次は何かを考えているようだ。視線は一点に固定されたまま揺るがない。
 そんな恋次を見ていると、私の胸に不安が沸き起こる。
 弱い私に呆れたのではないか、と。
 足手纏いだと考えているのではないだろうか。
 座る恋次の前で立ち尽くす私の髪を、風が舞い散らしてゆく。
 ふ、と恋次が私を見た。
 その手が私に伸びる。
 月の光を背に受けて、恋次の顔は私には見えない。
 恋次は無言で私の腕を掴むと、そのまま有無を言わせず私を押し倒した。
「―――っ!」
 突然の事に抵抗する間もなく、私は恋次に組み伏せられる。反射的に恋次の身体を押し留めようと伸ばした腕は、恋次の大きな手に掴まれてコンクリートに縫い付けられた。
「恋次、何―――」
 恋次はやはり一言も何も言わず、私の上に跨った。そのまま私の死覇装をたくし上げる。ひやりと夜風が腹部に触れて、私は小さな悲鳴を上げた。
「何を―――お前、此処をどこだと―――」
 私の非難の声はすぐに消えた。唐突なその恋次の行為が、私の思ったものではないとすぐに判ったからだ。
 それ以上私の死覇装は乱されることなく、恋次もそれ以上動く事無く、恋次は私の上に跨ったまま、ただじっと一点を見つめている。
 月明かりの中、ただ恋次は私の腹部―――破面に貫かれたその場所、傷付けられたその場所を、ただ見つめていた。 
「跡―――残ってないな。よかった」
 恋次の手が、私の肌をなぞった。快感を与える触れ方ではなく、そっと、いたわる様に触れるその手。
「―――無事でよかった」
 手は、今度は私の顔に触れた。確かめるように、私の無事を確認するかのように、静かに触れて辿る。
 ―――心配を、かけていたのだ。やはり。
「すまない……心配をかけた」
 私の手も、恋次の頬に触れる。恋次に触れたまま、上体を起こして月明かりの下の恋次を見つめた。
 乾いた血がこびりついた恋次の顔。傷だらけの身体。
 その闘いの跡を見て、私はようやく私たちの相手にする者たちの力の恐怖を感じ取る。
 突然、身体が震え出した。
 恋次の流した血は、一体どれだけあったのだろう。恋次の受けた傷は、一体どれだけだったのだろう。
 相手への恐怖より、恋次を失ってしまったかもしれない可能性の恐怖に、私は打ちひしがれる。
「お前も―――無事でよかった」
 がくがくと震え出した身体は、自分の力では止めようもなかった。そんな私の身体を、恋次は安心させるように抱きしめた。力強く暖かい、恋次の腕の中。
 震えが徐々に消えていく。
 此処にいれば大丈夫だと―――恋次の腕の中に居れば心配する事など何もないのだと、私の身体は遥か昔から知っている。
 恋次の胸に顔を寄せれば、私はどんな物からも護られていると実感できた。力強く響く恋次の鼓動に、私はいつも護られている。
「傷、大丈夫なのか」
 恋次の傷は癒えていない―――井上の治癒を私に優先させた所為だろう。塞がってはいるものの、その赤い線が、はっきりと恋次の身体の上を縦横に走っているのが見て取れる。
「何でもねーよ、これくらい」
 にやりと笑った顔はもういつもの恋次だ。私もつられて笑いながら、恋次の背中に回した腕に力を込めた。
「ほら、あのぴょん吉が心配してるだろーからもう帰るぞ」
「ぴょん吉?……チャッピーの事か?……チャッピーに聞かれたら襲われるぞお前?ぴょーんって飛び掛ってくるからな、チャッピーは」
「中身がお前だったら大歓迎だけどな」
 そう言って立ち上がり、私を起こそうとする恋次を、私は胸に顔を埋める事で帰ることを拒絶した。
「もう少しお前と居たい」
「……早く布団で寝とけ。傷は塞がっても、疲労は取れねーからな。出血だって多かったしよ」
「もうちょっとだけ……駄目か?」
 ぎゅっとしがみついていたから、恋次はここで「駄目」と言っても私が従わない事はわかったのだろう、「仕方ねえな」と再び腰を下ろした。金網に背中を預け、私の身体を受け止める。
「眠れるか?」
「うん」
 いつだって恋次の側が一番眠れる。恋次が居ると安心するから、私は恋次が居れば、恋次の腕の中に居ればそこが何処だろうと一番深く眠る事ができるのだ。
 子供の頃から、私を護ってくれるこの存在。
 一度、離れた―――その長い時間の中、求め続けて、もう一度と願い続けて……ようやく手にした幸福。
 もう二度と離れない。
「側に居てくれ……ずっと」
 目を瞑った途端、自分でも気付かぬ内に疲弊しきった身体と精神は、眠りを求めて坂を転がり落ちるように周りの音が聞こえなくなって……
 私は、私の言葉に恋次が何と答えたのか、聞くことが出来なかった。





 次に目を覚ました時、私はきちんと、一護の家のベッドの上で義骸に収まっていた。
 恋次の姿は勿論ない―――あの後、私を此処まで送って、チャッピーと入れ替えてくれたのだろう。
 一晩きちんと深く眠った所為で、私の身体には昨夜の疲労は殆どない。
 恋次は昨日、一体何処で眠ったのだろうか……ちゃんと布団の上で眠る事ができたのだろうか。
 こうなってみると、やはり一緒の部屋に居た方がいいのかもしれない……私が尸魂界で恋次に、現世で一護の部屋に泊まるといったのは、恋次と一緒の部屋に住んで、その、いわゆるそういった関係になるのが恥ずかしかったからで……結局その後、ええと、そういった関係になってしまったのだから、別に一緒に住むのは差し支えないのだから。
 つい数日前に初めて経験したその行為を思い出して、私は一人で真赤になった。
 ああ、でも、一緒に住んだら……やっぱり毎日、その、……してしまうのかな。
 いやいや、恋次は昨夜、きちんと己を律していたではないか?私と抱き合っても何もせずに、私の身体を気遣って、ただずっと抱きしめていてくれただけだったではないか。
 だから問題は……私の方か。
 あの行為は……直接肌を触れ合う行為、互いの体温を直に感じるその行為を、私は決して厭じゃないと……むしろ、恋次に愛されていると実感できて、恋次の側に居る事が実感できて、私はその行為をまた体験したいと思ってしまっている。
 恋次の側に居られれば幸せだと思う。たったそれだけで私はこんなに幸福だ。
 そんなことを考えながら制服に着替えて一階へと降りていくと、そこに一護の姿はなかった。普段ならまだ家に居る時間なのに。
 朝食の支度をする遊子に一護の所在を聞いてみると、既に家を出たという。
 私は昨夜の一護の顔を思い出す。
 思い詰めた表情―――力の制御。浦原に聞く気は無いといったあの遠い目。
 私は一護の霊圧を探る……学校の近くにそれは在った。
「では、わたくしも行って参ります」
「え、まだ早いよ?」
「早く学校に慣れなければなりませんので……それでは」
 驚く遊子に向かって微笑むと、私は鞄を手にして優雅に頭を下げる。この辺りは朽木家で培われた猫の出番だ。
 私は爽やかにもう一度「行って参ります」と告げ、家を出た途端に一気に走り出した。





 一護は私にとって、弟のような存在だ。
 今でこそ私の力を追い越し、誰よりも強い力を持ってはいるが、心は人間の、16歳の子供なのだ。
 そして、一護のその力を発動させてしまったのは私。
 進む道を導く事ができたら、と思う。
 その、人間が背負うにしては大きすぎるその苦しみを、軽くする事の手伝いをしたいと思う。
 普通の高校生だった一護を、尸魂界、虚圏、そして現世を巻き込む闘いの渦の中心に放り込んでしまったのは、私という存在の所為なのだから。
 一護の気配―――学校近くにあったその気配は、不思議な事に途中で消えてしまっている。一護の霊圧を感じない―――けれど、それは危険に遭遇し途切れたわけではないと思う。気の乱れは感じずに、突然その気配が消えたという事は―――恐らく、どこかの「結界」に入ったのだろう。
 自ら望んで入ったか。
 己を制御する方法を求めていた一護の瞳―――その糸口を掴んだか。
 走っていた足を緩めて私は溜息をつく。
 私は一護に役に立っているのだろうか。
 弟のように思い、成長を見守っているつもりだったが、一護は私の考えるよりも遥かに大人になっている。自分で考え、自分で答えを見つけるために、自分で方法を見つけ出した。
 私は……役に立っているのかな。
 消えた一護の気配はもう追う事が出来ず、私は緩慢な足取りで学校へと向かう。井上に会って、もう傷は完全に治った事を見せて、昨夜の礼を改めてしよう。
 それから一護を探そう。
 まだ登校時間には大分早い。学校へ向かう生徒の姿は殆ど居ない。私は一番乗りの静かな教室へ向かったはず―――だったのだが。
「よう」
「随分早いな、恋次」
 もしかして此処に泊まったのかな、と私は考えた。保健室にはベッドもあるし、もしかしたらそこで休んだのかもしれない。でも今後も学校で泊まるのは無理があるから、やっぱり一緒に住んだ方がいいんじゃないかな、と私は考えて、先程も思い出したその行為に思い至り再び真赤になる。
「傷は如何だ?あ、昨日は送ってくれてありがとう」
「もう傷は何でもねえよ。お前の方は如何だ?」
「うん、私は大丈夫だ、たくさん休んだから。―――お前は何処で休んだのだ?」
 その問いには明確な答えがなく、曖昧にしてしまった恋次に、私はやはりこのままではいけないと思った。
 きちんと食事が出来て、きちんと眠る場所がなくちゃ駄目だ。じゃないと今後の闘いにだって影響してしまう。
 うん、そうだ。こう言えば大丈夫だ。決して、いつもお前の側にいたいから、なんて理由じゃないぞ。うん。
「―――その、もし、お前の、泊まる場所が決まっていないのなら……」
「ルキア」
 下を向きながら話しかけた私の言葉を恋次は遮った。その声の様子がちょっとおかしい。あまりにも真剣な声で、今のこの会話の流れには不釣合いだ。内心首を傾げて顔を上げると、声と同じほどに真剣な顔の恋次がいた。
「何だ?」
 眉を顰めて恋次を見る。恋次はしばらく私を見つめた後、はっきりとその言葉を口にした。
「お前、尸魂界へ帰れ」
「――――――え?」
 思いがけないその恋次の言葉に、私はきょとんと恋次を見上げていた。
 そんな言葉を恋次が言うはずはないんだ。
 だって私は恋次といたくて、いつも一緒にいたくて、いつでも側にいたくて、それなのに恋次がそんな事言うはずがない。
 今だって私は、一緒に住もうか、って言うつもりで。
 それなのに恋次が帰れなんていう訳、ない。
「ええと、今、何を……」
 聞き間違いだ。
 絶対そうな筈なのに、どうして私の声は震えているんだ。
 声ばかりか、震える手を、何事もない振りで持ち上げ前髪をかき上げる。
「すまぬ、お前の言葉が聞こえなかった」
 無理矢理笑った顔は、きっと滑稽だったに違いない。
 けれど恋次は、その真剣な顔を崩さず、真剣な声を変える事無く、もう一度、その一言を口にした。
「尸魂界へ帰るんだ、ルキア」
「―――何を言ってるのだ?お前は!」
 目の前が赤くなった。
 怒りの所為で、眩暈がする。ぐるぐると恋次の言葉が回る。
『お前は尸魂界へ帰れ』。
「日番谷隊長には許可を取った。尸魂界へも地獄蝶で連絡してある。今すぐ尸魂界へ帰れ、ルキア」
「―――だからお前は何を言っている、阿散井恋次!!」
 ばん、と目の前の机を両手で叩いた。木の机が、私の渾身の力を受けて悲鳴を上げる。それでも恋次は瞬きひとつしなかった。
「昨日、お前一人重傷を負ったな?お前だけが意識を失い、瀕死の状態になった。いや、井上って娘がいなけりゃお前は死んでた筈だ」
 淡々と語る恋次の言葉に、私は何も言い返せず唇を噛み締める。
 それが事実だったから。
 他の者たちも、同じ時間に破面の連中に襲われた。恋次も、日番谷隊長も、松本殿も、斑目殿も、綾瀬川殿も。
 けれど、傷付いたのは私一人。
 命を落としかけたのは、私一人。
「元々お前の任務は一護との繋ぎだ。こうして一護と会えた今、もうお前は必要ない。あとは俺達に任せて、お前は尸魂界へ帰れ」
「必要―――ないのか」
 私は恋次と一緒にいたくて。
 いつでも側にいたくて。
 離れたくなくて。
 でも、恋次は
「私は必要ない、のか」
 もう、恋次の顔が見られない。
 俯く私の前に、恋次が近寄って、私の腕を取った。
「行くぞ、ルキ―――」
「煩い莫迦ッ!」
 思いっきり蹴り上げた右足は、恋次の脇腹に見事食い込んで、恋次は呻いて掴んでいた私の腕を放した。もしかしたら昨日の傷にヒットしてしまったかもしれないと思ったが、とりあえず私は蹲る恋次の前から身を翻し、教室を飛び出した。
「待て、ルキア……!」
 背後で叫ぶ恋次の声がする。とりあえず恋次は大丈夫そうだと、その声でほっとした。けれど立ち止まらない。私は尸魂界へ帰る気など全くないから、例え恋次が何を言おうと、此処から離れる気は全くないから。
 必死で走る私の背後から、恋次の霊圧が近付くのがわかる。体の大きさの違いは、即ち歩幅の違いでもある。私がいくら必死に走っても、恋次は必ず私に追いついてしまうだろう。そうすればもう、どんなに私が騒いでも、恋次は私を尸魂界へと送り返してしまうだろう。そんな目をしてたから。子供の頃から見ていたからわかる。あれは、私が何を言ってももう聞いてくれない目だ。
 私が風邪気味のとき、大丈夫だから皆と一緒に町へ行くと言った時も、あんな瞳で「駄目だ」と言って、家から出してもらえなかった。
 恋次の布団で一緒に寝ようとしたとき、ある日突然あんな瞳で「もう一人で眠れるだろう」と言って、一緒の布団で寝させてくれなかった。
 だから今回も、恋次は私を必ず尸魂界へ戻してしまう。
 掴まってしまえば、私の力では恋次の腕を振り解くことができない。
 掴まっちゃ駄目だ。
 逃げなくちゃ―――でも、何処へ?
 恋次が入れない場所、今すぐ見つけないと―――追いつかれてしまう。
 必死に走る私の目に映ったその場所は―――。






「こらルキア!さっさと出てこい、何てとこに逃げ込みやがる!!」
 外で恋次が叫んでいるのを、私は両耳を塞いで聞こえない振りをした。
 狭い個室。
 壁は真白なタイル張り。
 私は女子トイレの中に逃げ込んで、きっちり鍵を掛けて立て篭もっていた。
 そろそろ生徒達も登校してきている時間だ、現に廊下では時折人の声がする。特にこの女子トイレは、下駄箱のすぐ前に在る階段の横にあるトイレだから、登校した生徒は必ず前を通る場所なのだ。その、人の視線の多い女子トイレの中に入ってくることは、恋次には出来ないだろう。そう思って思わず駆け込んだのだが、案の定恋次は入ってくることが出来ずにトイレの前で立ち往生している。
「いい加減にしろ、子供か手前ぇは!」
「うるさい変質者!」
「へ、変質者だと!?」
「私は此処から出ないからな、絶対尸魂界になんか帰らないからな!!」
 怒鳴り返して私は再び耳を塞いだ。恋次が何か叫んでいるが、もう何も聞こえない。意地でも聞かない。さっきみたいな言葉はもう、二度も聞けば十分だ。
 恋次の莫迦。
 恋次の莫迦。
 耳を塞いで、下ろした蓋の上に膝を立てて座り込んで、私は呟き続けた。そうすれば外の恋次の声も聞こえなくなるから。
 一緒にいたい、そう思っているのは私だけなのか。
 任務の邪魔になるから、恋次は私を尸魂界へ帰したいのか。
 私が弱いから、もう要らないのか。
 確かに、私は弱い―――あの、破面の男に、一撃で切り捨てられた。剣筋さえ見えなかった、一瞬で私の身体は貫かれ、血が溢れ、何も出来ずに昏倒した。
 情けない、と思う。
 強くなりたい、と思う。
 強くなれば恋次の側にいられるのか。
 そうしたら、私はきっと強くなる。強くなることでしか側にいられないのなら、私は強くなるしかない。
 恋次の側にいたい。
 離れたくない。
 もう独りになりたくない。
 帰りたく……ない。
 立てた膝に顔を埋めて、私は唇を噛み締めた。
 このまま立て篭もっていても仕方がない。何か考えなければ。此処にいられる方法を。強くなれる方法を。
 次の瞬間、物凄い音がした。
 ばきばきばき、と重機で破壊されたような音、同時に暗い個室に差し込む蛍光灯の光、そして、ドアのあった場所に仁王立ちしている大男。
 こいつの性格上、まさか入ってくるとは思わなかったから、私は膝を立てて座った格好のまま、目の前の恋次を呆然と見上げた。
「行くぞ」
 呆然としていなかったとしても、こんな狭い個室の中では逃げる場所もない。恋次はあっさりと私を捕まえると、そのまま有無を言わせずに私を担ぎ上げ、何事かと覗き込む空座高校の生徒達を無視して階段に向かう。さあっと人が真中から分かれて、真直ぐに道が出来た。
「放せ莫迦!変態!」
 肩に担がれている所為で、暴れて恋次に手放されると顔面から階段に突っ込んでしまうのも怖かったが、私は必死に足をばたつかせて逃げ出そうと試みた。けれど恋次は私を放そうとはしない。変わらないしっかりとした足取りで階段を上がっていった。行く先は―――屋上。空の見えるところ。尸魂界への帰り道。
「厭だ、絶対帰らない!横暴だぞ恋次!」
「もう決定事項なんだよ」
「そんなの私は承知していない!私の意見も聞かずに勝手に決めて!お前は一体何様のつもりだ!!」
「六番隊副隊長だ。十三番隊所属、朽木ルキア」
 何の感情も読み取れない淡々とした声。所属の隊と階級を口にした恋次は、言外に「席官でもないお前は、無条件に俺の命令に従う義務があるんだよ」と告げている。
 ぎい、と屋上へ出る重い扉が開かれた。
 頭上に蒼天。
 恋次は屋上の真中に来ると、ようやく私を肩から下ろした。入り口と私の間に自分を置くのを忘れない。これで私は不意を付いて階下へ行く事はできなくなった。結構抜け目のない奴だ。
「義骸から抜けろ。帰るぞ」
 恋次は義骸から抜け出し、死覇装を身に纏った魂魄の姿で、私にそう言った。
 右手に蛇尾丸。
 尸魂界へ帰るために、解錠をするためだろう。
「もう……何を言っても、考えを変える気はないのか」
「ない」
 きっぱりとした口調だった。もう、それは恋次の中で決定したこと、変える事のないものなのだろう。
 ならば、仕方がない。
 私は義骸から抜け出し、恋次と同じ、死覇装を纏った魂魄の姿……本来の姿へと戻る。
 少しだけ、微かに恋次が安堵の表情を浮かべるのが見えた。
 その恋次の顔を見ながら、私は静かに呟く。
「舞え―――袖白雪」
 手にした刀が、私の解放の言の葉と共に、その姿を純白に変えてゆく。
 雪の化身、手に馴染んだその愛刀を正眼に構え、私は恋次に相対する。
 その私の姿に、言葉もなく唖然と見つめる恋次に、私は「仕方ない」と告げる。
「私を尸魂界へ帰したいなら―――力尽くでするのだな」
 同時に、恋次に向かって一歩踏み出す。咄嗟に後ずさった恋次の目の前で地面を蹴った。
 頭上から、袖白雪で斬りかかる。
 その切先が恋次に届く直前、恋次は一瞬で横に移動した。その速さに私の目の動きは付いていけない。頭上から振り下ろした刀身は、太陽の光を反射して空を切った。
「何考えてんだ手前!」
 私との間合いを取って、恋次は怒鳴った。蛇尾丸の切先は地に向いている。私に斬りかかるつもりはないのか―――若しくは、刀を切り結ぶ必要などないと考えているのか。
「お前を打ち負かして、私は実力で現世に残る」
「出来るわけねーだろーがっ!」
「―――舐めるなっ!」
 渾身の力で振り下ろした袖白雪は、蛇尾丸の刀身に受け止められた。
 力では私は恋次に叶わない。恋次の蛇尾丸も私の袖白雪も、ロングレンジの攻撃が得意な斬魄刀だ。いや、袖白雪の方がよりそれは顕著か。
 私は一気に恋次との間合いを取る。
「初の舞―――」
「手前本気で―――」
「―――月白!」
 ひゅう、と刀身が空気を切り裂く。その軌跡は白く輝く円を描く。
 私は目の前で袖白雪を回転させた。
 空気が一瞬で凍りつく―――恋次に向かって。
 きらきらと太陽の光を受けて輝く氷片、けれどそれは溶けることが無い。
 これに触れれば、その存在は凍りつく―――袖白雪の能力を知っている恋次は、回避が不可能になる空中へ飛ぶ事をせず、月白の領域から高速で移動した。
 私はその恋次の動きを予測していた。月白の弱点は、発動した時にその軌道の直線上に居る相手にしか影響しないという事だ。その弱点を知っている恋次は間違いなく跳躍で月白を避ける事はしない。そして、前、後ろ、どちらに移動しても直線上に有効な月白には意味が無い。つまり、恋次の移動は限られる―――右か、左。そして恋次の利き手は右―――咄嗟に移動する方向は、恐らく、右。そしてその予測は当たった。
 右へと移動した恋次を中心点にして、私はその周りを、円を描くようにして恋次の背後へ回り込む。今度は僅かに私の方が速かった。
「散在する獣の骨!尖塔・紅晶・鋼鉄の車輪、動けば風、止まれば空!槍打つ音色が虚城に満ちる―――破道の六十三、雷吼炮!!」
 突き出した左手に小さな光が発生し、それは見る間に大きくスパークした火花に変わり、それが最大になった瞬間、雷撃が同心円状に恋次に向かって襲い掛かる。
「咆えろ、蛇尾丸!」
 恋次の呪言―――斬魄刀の解放の言葉。忽ち斬魄刀は姿を変え、その刀身は幾重にも連なった蛇腹のものへと変化する。
 その蛇尾丸の一閃で、恋次に襲い掛かった雷はまるで蒸発したように四散した。それを最後まで見届ける事無く、今度は一直線に私は恋次へ向かって一気に間合いを詰める。
 雷吼炮を左から右へ、地面と平行に刀を動かし両断したその刀身は、恋次の前面を無防備に晒している。その懐へ一気に飛び込んで、私は下から上へと切り上げた。
 キィン、と澄んだ音がする。
 恋次は―――蛇尾丸の柄で、袖白雪の刃を受け止めていた。
「いい加減にしとけよ、ルキア」
「随分余裕がないように見えるぞ、阿散井副隊長殿?」
 ぎりぎりと力で押す私の力は、本来ならば恋次にはあっさりと押し返せる程度のものだろう。けれど今、恋次は蛇尾丸の柄で、不安定なバランスで袖白雪の刀身を受け止めている。少しでも均衡が崩れれば、私の力が押し勝つに違いない。
 対して私はと言うと、やはり元の力のなさが影響して、これ以上恋次を追い詰める事ができない。力を緩めれば、恋次は袖白雪を跳ね返すだろう。
 完全な拮抗状態。
 私達は刃を交えて、刀身越しに睨みあう。
「決定を翻せ。私は尸魂界へは帰らぬ」
「引き摺ってでも連れ戻してやる」
 きつい視線の私を、恋次は無表情に見返すだけだ。
 そんな風に―――今まで一度だって私を見た事はないのに。
「その横暴、その傲慢―――最低だな、阿散井恋次」
「ああ」
 どう言っても恋次は何も感じないようだ。特に反論も、弁解もしなかった。
「最低だとわかっていてこの所業か。もしこのまま私を向こうへ追い遣ったら、私はお前を心底軽蔑するぞ。それもわかっているのか?」
「わかってるよ」
 恋次の表情は変わらない。
「……お前を嫌いになるって言ってるんだぞ、私は!!」
 怒りを湛えたその叫びにも、恋次は「わかってる」としか答えてくれなかった。
「もうお前なんか何とも思わなくなるぞ、お前以外の男を好きになるぞ、お前以外の男に抱かれるぞ、それでもいいという事だな!?」 
 この言葉になら違った返事が聞けると思っていた私の思惑は―――見事に外れた。
「…………ああ、それも仕方ねえ」
 そんな風に。
 そこまで―――私が。
「そこまで―――私が邪魔なのか」
 そこまで私が不要なのか。
 不意に全身の力が抜けた。
 力なく下ろされた私の右手は、袖白雪の切っ先を地面に向ける。
 もう―――これ以上如何しようも、ない。
 邪魔だ不要だと恋次に疎まれて、それでもこの現世に居てどうするというのだ―――今以上、これ以上に嫌われるだけのことなのかもしれない。
 俯く私の前で、恋次は蛇尾丸の始解を解き、空を見上げた。解錠、する気なのだろう。尸魂界へ到る門の。
「―――もう、あんなお前を見たくねぇんだよ」
 不意に、恋次の声がした。
 その言葉に顔を上げた私の前には、恋次の背中がある。
 私に背を向け、恋次は言葉を続ける。
「血に塗れて、呼んでも答えねぇ。血の気のない白い顔と、力無く垂れた腕とか。もう二度と見たくねぇんだ、俺は」
 それは恋次の完全な私情だ。
 それがわかっているから、恋次は顔を見せない。
 けれど。
「―――お前が死ぬのは、厭なんだよ。それくらいならお前に嫌われるくらい何ともねぇ」
 顔が見えないけど―――どんな表情をしているのか、私にはわかる。
 私はお前に、そんな顔をさせてばかりだ。
 いつだって私を想ってくれているから―――子供の頃から、変わらずにずっと。
 私は立ち上がって、飛び込むように恋次の背中を抱きしめる。
 恋次の体温が伝わる。 
「本当に勝手だ、お前は」
 破面の力は強大。
 仲間の生命、自分の生命さえ危ないというのに……恋次は、それをわかっていて、私だけをその危険から逃がそうとした。
 自分の私情で。ただ私を死なせたくないと、そんな自分勝手な考えで。
 そう、勝手以外の何物でもない。
 横暴、無責任、卑怯者。
 そう誰かに謗られても仕方がない―――それでも恋次は。
「私だって―――お前が死ぬのは厭だ。遠く離れた場所で、お前の無事をただ祈るだけなんて厭だ。お前に何かあった時、すぐにお前の側へ来られない遠くに独りでいるのは厭だ」
 独りにはなりたくない。
 たとえば、兄様。
 たとえば、海燕殿。
 愛する人に先立たれたその悲しみを、私は間近で見ているから。
「だから、私だけ安全な場所にいるなんて厭だ」
 そばにいさせて。
 お前の横にいられるように、もっともっと強くなるから。 
「だから、『必要ない』なんて、言わないで」
 我慢してたのに、私の声はとうとう震え出してしまった。涙がこぼれる。必死で堪えていたのに。
 前に回していた腕が、恋次の手で解けられた。拒絶される、と硬直した私の身体を、包む大きな腕が二本。
 私は恋次に抱きすくめられていた。
 痛いほど、息も出来ないほどに、強く。
「―――お前が必要だから、現世には居て欲しくねぇんだよ」
「でも、私はお前のそばにいたいんだ」
 それだけは譲れない。私はもう、恋次の側を離れないと誓ったのだから。
「約束する。絶対に私は死なない。何があっても生きて見せる。だから」
 必死にしがみついて離れない私に、恋次はとうとう―――
「負けた」
 仕方なさそうにそう呟いて、恋次は斬魄刀を放り投げた。
 からん、とその音は小さく響いて、青空へと吸い込まれていった。
















 屋上から階下へ向かうその階段の途中、私は恋次に「お前も絶対死ぬなよ?」と念を押す。
「いいか、お前が死んだらその場で私も後を追うぞ?お前が私を殺す事になるんだ」
「な、なんてぇ脅しをかけやがるんだ手前は!」
「それが厭なら絶対死ぬなよ?」
「わかったよ」
 恋次は不意に真面目な顔になってそう言った。
「俺は死なねえよ」
 それは、約束。
 恋次は今まで、私との約束を違えたことは無い。
 私達は互いに約束を交わす。
 決して死なない、と。
 独りにはさせない、と。
 恋次の手が私の手を掴んで引き寄せた。途端に顔が赤くなる私を、恋次は面白そうに笑う。
 子供みたいに、私達は手を繋いで歩く。
 気恥ずかしくて、視線を彷徨わせる私を笑い続ける恋次に腹が立って、私は「それと」と尖った声を出す。
「二度と私に『必要ない』なんて言うな」
 怒ってそう言う私に、恋次は「手前も」と言い返す。
「二度と『他の男を好きになる』なんて言うんじゃねえぞ?しかも『他の男に抱かれる』まで言いやがったな、今度そんなこと言いやがったら監禁してやる」
「あの時は『それも仕方ない』ってお前言ったじゃないか」
「仕方ねえ訳あるか、莫迦野郎。絶対ぇ許さねえ」
「本当に勝手な奴だな、お前は!」
 繋いだ手を放して恋次に掴みかかった途端、頭上で軽やかなチャイムの音が流れた。
 一時間目の終わりの合図。
 途端に廊下に溢れ出てくる生徒達。
 その生徒達は恋次を目にすると一様に、ひそひそと何かを囁きあっている。
「―――なんだ、お前?注目の的だぞ」
「俺何かしたっけか」
 顔を見合わせ、囁き合う私たちの耳に入ってきた単語の数々は、
「―――女子トイレの―――」
「無理矢理……」
「女子生徒を拉致―――」
「変態」
「……痴漢……」
「……おいルキア」
「何だ?」
「記憶置換、持ってるか」
「さすがに全校生徒に使用する数は用意しておらぬ」
 まあその内みんな忘れるさ、と無責任に微笑み肩を叩いた私に、恋次は「元々手前があんな場所に立て篭った所為じゃねえか!!」とぶち切れた。
「知るか、勝手に押し入ってきたお前が悪いんだろう!!変態、痴漢、変質者!」
「手前、言うに事欠いて―――」
 私を捕まえようと延ばした恋次の手を掻い潜って、私は校庭に逃げ出した。
 恋次には可哀相だが、これもまたいい結果かもしれない。
 この噂を聞けば、人間の女子達は。
、―――誰も恋次に惹かれないだろうからな!
「くそ、待ちやがれルキア!」
 恋次の声が背中にぶつかる。
 私は笑いながら、青空の下に向かって飛び出した。
  









表…久しぶり…(笑)

現世編捏造シリーズの3番目、「約束」です。
今まで恋次は、ルキアが血塗れになっているところは見たことなかっただろーなー、と思って書きました。
自分の大好きな子が、目の前で血だらけで死にそうになってるの見たら、普通、絶対そんな危険は回避させようとするんじゃないかなあ。たとえそれが自分勝手なエゴであっても。
今まで恋次はルキアを大切にしてきたから、ルキアが血を流してる姿はホントにもう大ショックじゃなかったかと例の如く勝手に妄想。

それでは、読んでくださってありがとうございました!



2006.7.2  司城 さくら


いやあ、これ書いてる時はものすごい眩暈で世界が揺れていたよ!
まっすぐ歩けないってのはすごいね…驚きの世界。
あ、これは未来の私へのメモです。こんな状態で書いてたんだなー、とあとから思い出すために(笑)