平日は恋次が帰宅してから――そして休日は朝から、ウキアは恋次の懐に抱かれて瀞霊廷内を歩いている。
 ウキアが頭上の月から、その能力の大半を失うことがわかっている上で下界に降りた理由はひとえに姉のうさなを探すことにある。それは最初から恋次にも伝えてあったので、口では「疲れた」だの「面倒くせえ」だのと文句を言いながら、結局はウキアを懐の中に入れてうさなを一緒に探している。
 死神という仕事の内容は、巫女としての修行の内に知っていた。ただでさえ生命をかけた危険な仕事だというのに、恋次はその上副隊長という役職でもあるらしい。当然仕事は多いだろうに、ウキアの為になるべく早く帰宅しては夜の街を歩き回り、深夜近くに家に戻り、ウキアが疲れて眠ってしまった後に持ち帰った書類を片付けているらしい。らしい、というのはその現場をウキアが目にしたことはなく、朝に眠い目をこすりながら起き上ると机の上に寝る前にはなかった紙の束が置いてあることが何度もあったからだ。
 自分の所為で睡眠時間を減らしているというのに、自分だけ眠ってしまうのが許せず、何とか頑張って起きてはみるものの、気付けば朝になっている。
 そして机の上には今日も書類が山となっていた。
 熟睡している恋次の寝台の上に、ウキアはぴょんと飛び乗った。身体の軽いウキアの振動では、恋次の目を目覚めさせることはない。
 深い眠りは、それだけ睡眠不足を表している。
 そんな恋次を見下ろしながら、ウキアは恋次の髪に小さな手をそっと伸ばした。
 おひさまみたいな紅い色。
 その手が触れる1p手前でウキアの手の動きが止まる。
 逡巡するようにその手が震える。伸ばそうと震え、止めようと跳ね――
「――朝か」
 ぎし、と寝台を軋ませて恋次が起き上った。あと僅かで届く筈だったウキアの手は、慌ててウキアの背中へと隠される。
 眠そうな、無防備な寝起きの恋次は大きな欠伸をしながら頭を一度掻いていたので、そのウキアの手には気付かない。
 こっそりと触れようとしていた自分の行動が信じ難く、そんな筈はないと自分の心に反発する棘は目の前の恋次に向かう。「遅いぞ、莫迦者」とつい責めるような口を聞いてしまい、その瞬間にウキアは激しく後悔した。
 誰の所為で恋次がこんなに疲れているのか。誰の所為で恋次の睡眠が不足しているのか。
 それがわかっているのに、それに感謝する言葉すら素直に口に出来ない自分が腹立たしい。
 どうしてこうも素直になれないのか……自分が恋次に好意を寄せているなどとそんなことはあり得ないが、それでも受けている恩は恩、感謝は感謝。きちんと相手に伝えなくては一族の名をも貶める。
「いや……私はお前に感謝して」
「何でそんなに食っちゃ寝してんのにお前は育たねえかな」
 胸が、と最後に付け加えられた単語を恋次が口にし切る前にウキアの飛び蹴りが恋次の胸に炸裂する。寝起き直後でやや俊敏さに欠ける恋次はそれをまともに食らい、「うおっ!?」と叫びながら仰け反り背後の壁に後頭部を強打した。
「ざ……っけんなこの凶暴うさぎ! うさぎ鍋にしてやろうか、ああっ!?」
「ふん、それ以上莫迦になりようもないのだからさして問題もないだろう、この猿!」
「上等だ手前、どうしても俺に食って欲しいんだな食ってやる欠片も残さず食いつくす!」
 ここ最近の朝は毎朝この状景が繰り広げられ、広めに庭の取られた副隊長用の敷地でなければ周囲10mに存在する家々から苦情が来ることは間違いなかっただろう。





 口では文句を言いつつも、朝食を食べた後恋次はウキアを懐に放り込んで家を出た。ウキアも文句は言わずに恋次の懐で丸くなっている。最初は無礼だと怒っていたこの位置も、今では居心地のいい場所になっていることをウキア本人も気付いていない。
 ウキアを懐に入れたまま、恋次はただひたすら歩く。昨夜は瀞霊廷の5区を歩いたので、今日は6区から歩き始め、昼近くには8区まで足を延ばしていた。
 商店街は最初の一週間で回り尽くしたため、今は住宅街を中心に回り姉を探している。
 姉が近くにいれば確実に気配がわかるウキアだが、その「近く」の範囲がせいぜい100m程度しかないので、見つけ出すにはただひたすら歩きまわるしかない。それをウキア自身の足でするとなればあまりにも時間がかかりすぎるが、恋次のおかげで随分とその作業ははかどっている。
 全ての場所を漏らすことのないよう、恋次は正確に瀞霊廷の中を歩き回る。人がいなければウキアに悪態を吐くのを忘れない。面倒くせえ、何で俺がこんなこと、そうぶつぶつと呟きながら恋次は休日の朝から住宅街を歩き続けた。
「おい、まだ感じねえのか、姉貴の気配」
「感じたのならばすぐに言うに決まっているだろう。こんな窮屈な思いなど私だってしたくないのだからな」
 恋次の悪態に胸を痛めていたウキアは――出逢った頃は恋次が何を言おうと全く気にも留めなかったのだが、最近は恋次のそんな言葉の数々が何故か辛い。その痛みのままについ返した冷たい言葉に、恋次もふんと鼻を鳴らす。
「さっさと見つけてさっさと出て行って欲しいもんだ」
「私だって早く汚いお前の家から出て行きたい」
 仕方なく居るんだからな、とぷいっと顔を背けると、恋次は右の眉を上げて不快な感情を表した。
「別に止めやしねえよ。今すぐにでも出て行って構わねえぞ俺は。そうすりゃこんな面倒なこともしなくて済むしな」
「出ていけるのならばとっくに出ている。出来ぬのだから仕方なく居るのだ」
 私の声が聞けるのはお前しかいないから仕方なく。
 そう小さなこぶしを握り締め呟くウキアを見下ろし、それから恋次は何も言わずに前を向いた。
 先程まで居心地の良かった懐の中の居場所が、今ではとても居心地悪い。それでもウキアは姉を探すためにその場所に居るしかなく、しばらく無言で周囲に意識を集中した。
 ――いまだに姉の気配は感じ取れない。
 瀞霊廷内にいることは間違いなく、全てを歩き尽くせば必ず姉は見つかる筈。そしてそれはもうすぐだろう。姉の無事を確認して、月へと帰る。
 姉が見つかったら――月へ帰る。
 そのことにようやくウキアは思い至って息をのんだ。
 月に帰ること、それは即ちこの世界との離別だ。
 巫女に戻ればもう二度とこの世界に降りることもない。巫女が下界に降りるなど、本来あってはならないことなのだ。今回も一の巫女である姉を探し出すためにと方々を説き伏せて半ば強引に降りたのだ。
 月に帰れば、二度と逢えない。
 そこまで思考を進めてウキアは我に返る。別に逢えなくなっても何の問題もない、そう打ち消した答えの先、誰に、という部分に「恋次」という固有名詞が入ることに更に狼狽する。
 どうしていつも考えの先を、心の奥を突き詰めれば「恋次」という名前が出てくるのか。
 こんなに厄介者扱いされ容赦ない言葉を浴びせられているというのに、――こんなにはっきりと嫌われているのに。
 別に誰に如何思われようと今まで関係がなかった。自分の世界のすべては姉と共にあったのだし、自分に必要なのは姉しかなかった。それ以外には何も必要ないのに。
 必要ない――すぐに離れなければならないのなら、何も要らない、必要ない。
「――下りる」 
「はあ?」
 突然何の脈絡もなく丸まっていた態勢から立ちあがり、襟元から這い出そうとするウキアに恋次は唖然とした。覗き込んだ懐には、睨みつけるウキアの顔がある。
「下りる! こんな場所に居たくない! 下ろせ莫迦者!」
「何なんだ突然」 
 呆れる恋次の顔から視線を反らし、ウキアは着物を掴み恋次の身体をよじ登る。胸元付近から顔を出し、自分でも混乱したまま、とにかく恋次の傍から離れたくてウキアは勢いよく外へ飛び出した。――その高さも目に入らないまま。
「おい、こら――」
 身長188センチの男の胸の位置は、小さなうさぎの身体にはとても高く――一瞬の浮遊とその直後の落下感に思わず悲鳴を上げる。あまりにも高すぎて受け身など意味もない。自分の身長の8倍近くの高さから落ちたのだ。次の瞬間に来る全身への衝撃を予測してウキアはぎゅっと目を瞑る。
 身体が大きな何かに受け止められたのがわかったのは、来る筈の衝撃が来ないことに恐る恐る目を開けた時だった。自分が恋次の手に受け止められている、そう気付いてウキアは慌ててその手から飛び降りた。逃げ出したくて飛び降りたのに何故再び掴まっているのか、その動揺したウキアの目が恋次の手を捉えた。
 ウキアの身体が地面に叩きつけられる寸前に、間一髪で受け止めた恋次の手は、地面とウキアの身体の僅かな隙間に無理矢理滑り込ませたせいだろう、擦過傷が――擦過傷、というにはあまりにも大きい傷が出来ていた。
 土に擦られた肌に一定の方向に平行に並んだ大小の傷、その全てからじわりと血が滲む。
「――っぶねえじゃねえか莫迦野郎!」
 自分の怪我よりも前に、ウキアの身体を心配して怒鳴る恋次に、ウキアは泣きたくなった。
 これ以上感情を乱したくないのに。自分の気持ちなんて知らなくていい。自分にとって大切なのは姉一人でいい、月に帰ることに迷いが生じていい筈がない。
「――おい? んだよ、どっか打ったのか?」
 俯き動かないウキアに恋次の声は乱雑な言葉の底に心配を滲ませる。そんなことも気付きたくないのに、とウキアは顔を覆って蹲った。情緒不安定だ、制御が利かない。それがわかっていてもどうにもできない。心の中は滅茶苦茶だ。感情が暴走する。精神を鍛えられ、どんな時にも冷静であれと諭された巫女には在り得ない、在ってはならない自分の現在の状況にウキアはただ途方に暮れる。
「おいウキア――」
「阿散井副隊長?」
 突然割って入った声に、恋次は反射的に振りかえった。そこに目を丸くした見知った顔――四番隊の七席、山田花太郎の顔を見付けて恋次は焦った。同時に、周囲の者たちが不思議そうに自分――とウキアを見ていることに気付いて更に焦る。
 恋次の目にはウキアはサイズは小さいが人の形に映っている。それが当然過ぎて忘れていたが、他人から見ればウキアは黒い小さなうさぎにすぎない。
「いや、違う、これには色々事情があって」
 自分がうさぎを飼い、あまつさえそれに話しかけている――そんな光景を見られたことにどう言い繕うか焦る恋次の前で、花太郎は呆けたようにウキアを見つめ続けている。
 普段からどこかふんわりとした空気を纏っている、男――というよりも少年だが、今日はそれが度を越している。
「おい――山田? お前何か今日おかしい――」
「そ、それは一体何ていう生き物なんですか」
 恋次の言葉が耳に入っていないのか、恋次の声にかぶせるように呆然と、そう口にした花太郎の視線の先には――ウキアが。
「え? 何で? 何でそんなに小さいんですか? って頭にあるのは、え、耳?」
「もしかしてお前――こいつが、」
 息をのむ恋次の横でウキアも呆然と花太郎を見上げる。
「私が――見えるのか?」
「しゃべった!!」
 仰け反る花太郎に、恋次とウキアも呆然とそれぞれが花太郎に視線を向ける。
 三人が三人とも呆然としながら、暫く無言で視線を合わせていた。








 場所を花太郎の勧める公園へと移し、事前に用意してあった昼食用の弁当を広げる。
「――ちょっと行った先を右に曲がったところが、僕の家なんです」
 恋次が自分の握り飯をウキア用に小さくちぎり手渡すとウキアは微妙な顔をした。花太郎に会う前の自分の行動と言葉を思い出しているのだろう、躊躇いや戸惑いといった表情が濃く表に出ている。
「いい公園でしょう? 近所でも評判なんですよ」
 そう花太郎が話しかけるのはウキアで、ウキアは花太郎の膝の上に座りうんうんと頷いている。恋次と言葉を交わすのが気まずいのか、先程からウキアは花太郎としか話していない。
 いや、そうではなくて――ただ単に気が合うのか、と恋次はウキアと花太郎を眺めながら思った。
 花太郎は線が細く、男くささを感じない。そんな花太郎に気負う必要がない所為か、ウキアもすぐに馴染んで花太郎と談笑していた。その言葉の端々に自分に対する言葉のような棘はなく、にこやかに楽しそうに話をしている。
 花太郎が問うままに、自分のこと、姉のこと、月のこと、今まで恋次しか知らなかったことを、そして恋次も知らなかったことをウキアは花太郎に話し――花太郎も真剣にその話を聞いている。
「実際には私には姉上の他に妹と弟がいる――母が違うが」
 花太郎の膝の上でウキアは言う。
「義妹と義弟だな。母上が亡くなった後、父上が迎えた女性との間に生まれた。義弟はまだ幼い故、その母が政りごとを取り仕切っている。私と姉さまが属するのは神事の領域、姉さまがその長となっている。一の姫巫女―― 一の位は出生の順位ではなくその能力によって冠された称号。そして私が二の姫巫女―― 一の巫女を助けるのが私の役目。そして三の姫巫女――それが私たちの義妹にあたる、」
 ウキアは言葉を途切れさせた。立ちあがった恋次を見上げ、気まずそうな顔をする。その顔を見ずに、恋次は「悪いけどよ」と花太郎にだけ話しかけた。
「ちょっと寄りたい場所があるんだよ。そいつのそのつまんねえ話が終わったら、お前、そいつ俺んちまで運んでくれ」
「恋次! そんな勝手なこと、それにそれは花太郎殿に失礼――」
 咎めるウキアの言葉を無視して、恋次は「いいよな?」と花太郎に笑顔を向けた。その目が笑っていないことに気付かない花太郎は、人の良い性格のまま「はい、構いませんよ」と生真面目に頷く。
「僕、今日は何の用事もありませんし。よかったらこの後、阿散井さんの代わりに一緒にウキアさんのお姉さん探しますよ」
「いや、そんな迷惑は――」
「よかったじゃねえかウキア。一緒に探してもらえよ」
 笑顔で――遠慮の言葉を口にしようとしたウキアの言葉に被せ、恋次は背中を向けて歩き出した。「恋次!」と呼び止めるウキアに一度だけ振り返る。
「お前、そんな勝手な――」
「用があるんだよ」
 じゃあ頼んだぜ、と花太郎に言い置いて恋次は歩き出す。もう一度ウキアが「恋次!」と慌てたように呼び止めたが、恋次は振りかえることはしなかった。










「――可愛いねえ」
 恋次の持つ盃に酒を注ぎながら、楓は堪え切れないようにくくっと咽喉を鳴らして笑った。その楓を不機嫌そうに眺めながら、恋次は「何がだよ」と棘のある声を出す。
「何って、あんたがだよ。可愛いじゃないか」
「は? 何言ってやがる、莫迦か手前は」
「妬いてるんだろ、その後輩の男の子に。あんたの大事なお嬢さんを取られたみたいでさ」
「莫迦か手前は」
 同じ言葉を繰り返し、恋次は盃の中の酒を飲みほした。咽喉を落ちる酒は強く、焼けつくような熱さを後に残す。
 ふらりと楓の居る店に現れた恋次は、いつものように金を支払い楓の客となった。酒と料理を運ばせて、数時間はここに腰を落ち着ける様子の恋次を一目見た楓は「お嬢さんと何かあったのかい」と苦笑した。
「お嬢さんって何だよ」
「お嬢さんだよ。あんたに小さなうさぎを預けたお嬢さん」
 楓にはウキアの姿は見えない。恋次が必死で看病したうさぎ、その飼い主が恋次の想い人なのだと解釈している様子で、用意させた酒を恋次の持つ盃に注ぎながらそう聞いてきた。
 事実を言うのも面倒くさく、実際事実を言っても信じてもらえないことは解っていたので、恋次は「何もねえよ」とぶっきら棒に吐き捨てた。盃の酒を飲み干す。またすぐに楓の手から酒が注がれる。
「まだうさぎさんを預かってるのかい? いいのかい、放っておいて。まだ随分小さかったじゃないか」
「別に。他の奴が面倒みてるからいいんだよ」
「他の奴? 何だい、うさぎさん渡しちまったのかい」
「あいつがそっちに懐いてっからな、これ幸いと渡して来た。それに大体俺は端からあいつの面倒なんて見たくなかったんだ、めんどくせえしぎゃーぎゃーうるせえし、押し付ける先が出来て丁度いい」
 そう嘯く恋次の口調はとても清々した様子はなくあからさまに不機嫌なので、色恋沙汰と恋の駆け引きの専門家である楓には恋次の内心は手に取るようにわかった。それが「可愛い」という言葉に繋がったのだが、恋次にはそれが更に腹立たしいようだった。
「誰が誰に妬くんだよ。ふざけたこと言うなら手前でも承知しねえぞ」
「ほら、その機嫌の悪さだよ。言葉通りならそんなに刺々しくなる訳ないじゃないか」
「別に機嫌悪くなんてねえよ。いつも通りじゃねえか」
「いい加減、認めた方が楽だと思うけどねえ。何をそんなに意固地になってるんだい?」
「うるせえな。見当外れのことをぐだぐだ言ってんじゃねえよ」
 内心の腹立たしさを表すように、恋次は酌をする楓の腕を強引に掴んで引き寄せる。大きく波打った徳利の中の酒が滴となって畳の上を濡らした。
「ああ、もう、零れたじゃないか」
「放っとけ」
 咎める唇を乱暴に塞ぐ。恋次の手が楓の身体を抑え帯を解き出すのを、内心苦笑しながら楓は受け入れた。
 恋次と肌を重ねるのは嫌いじゃない。
 楽しむ時は楽しむ、それが花を売る職にいる楓の不文律だった。



 昼の情事は夜の情事とは違う。どこか背徳感が付き纏う倦怠感――その、まだ日差しが入り明るい部屋で楓は身を起こした。一糸纏わぬ白い肌の上に流れる黒い髪が艶めかしい。
 恋次よりも幾つか年上の筈の楓は、まさに今咲き誇る華だった。絢爛で豪華な華――鮮やかで驕慢な、それは自らを美しいと知っている所為だろう。そしてそれが楓の、貧しく荒んだ戌吊からこの瀞霊廷まで昇り詰めた強力な武器なのだ――恋次にとっての、他を圧する霊圧のように。
「あんたと肌を重ねるのはこれで最後かも知れないね」
 感慨深そうに髪をかき上げる楓を下から眺めながら恋次は右の眉を訝しそうに跳ね上げる。その無言の疑問に、楓は「あんたはもうあたしを必要としないからさ」と微笑んだ。
「あんたにはもう、『唯一人』がいる。あたしの出る幕はないよ」
「まだそんな下らねえこと言ってんのか」
 心底呆れたように言う恋次に向かい、楓は更に微笑んだ。姉が弟を見るような、そんな愛しげな眼差しで。
「返事はいらないから考えてご覧。あんたに小さなうさぎを預けたお嬢さん、そのお嬢さんが今その後輩の男の子と、あたしとあんたが今したような事をしてる所をね」
 ぎっと唇を噛みしめて視線を背ける恋次の、その顔を眺めながら楓は続ける。
「苦しいだろう? そんなこと考えたくもない事だろう? 胸が痛いだろう、焼けるような痛みで苦痛だろう?――それが、『唯一人』がいる証拠だよ」
「俺は――違う、俺はあんたが」
「そう、あんたはあたしが好き。それは間違いないよ。でもそれはあんたのお嬢さんとは違う種類の『好き』なんだ。確かにあんたはあたしを特別と思ってくれている。あんたが肌を重ねるのはあたしだけだったね。でもあんたはあたしが他の客と肌を重ねることを止めやしないだろう?」
「――それは」
「ああ、別にあたしはあんたを責めてる訳じゃないよ。あたしはこの仕事が好きだし、あたしは自分が惚れた男しか客にしないからね。それにあんたがあたしを好きだと思ってくれている事は疑ってないよ。好意の順で言ったら、あたしはあんたの中で圧倒的に一番だったろう。他の誰よりも好かれていた自信はあるよ。――でもそれは、お嬢さんが現れる前までの話さ」
 諭すように楓は恋次に言葉を続ける。優しく穏やかな口振りで。
「怖がる必要はないんだよ。あんたはずっと独りで生きてきたし、独りの力であのくそったれな戌吊からここまで昇り詰めた。誰かの心を奪った事はあっても誰かに心を奪われた事はなかったんだろう。だから、初めて自分以上に大切に想える相手が出来てあんたは戸惑ってるのさ」
 暫く恋次は楓から視線を反らしたまま、目に見えない何か、この場に居ない誰かを睨みつけるようにきつく唇を引き結んでいた。やがて、ゆっくりと楓に視線を戻す。挑むように――頑なに。
「俺は、あいつなんか何とも思っちゃいねえよ」
 その言葉に、楓は小さく微笑んだ。その笑みが、目を反らしている恋次の心の内を見透かされているような気がして、恋次は先に飲みさしの盃に手を伸ばして荒々しく中の酒を煽った。






 時刻はもうすぐ夜中と言っていい時刻になる。
 恋次は一向に帰ってこない。昼過ぎに別れてからもう何時間が経っただろう。今までこんなこと――仕事をしている日中以外、恋次がウキア一人をこんな風に放り出して行くことはなかった。
 花太郎は、恋次に言った通り午後はウキアに付き合って瀞霊廷を歩いて姉を探してくれた。恋次のように懐に放り込むのではなく、しっかりと腕に抱いて、周りの景色をウキアに見せ、時には説明しながら夕刻まで付き合ってくれた。
 花太郎は親切で優しくて、ウキアに対する気遣いは細かい。きつい言葉を投げることもなく、憎まれ口を叩く事もない。
 だからこそ、自分が今恋次と一緒に居ないという事をウキアに強く感じさせた。
 ともすれば姉を探すことに神経を集中させることよりも、何故恋次が自分を花太郎に預けて姿を消してしまったかと、そちらの方に意識が向いてしまう。
 今までそんな事はしなかったのに――そう考えて、ウキアは今までは自分の姿が見えるのは恋次だけだったから、という事実に気が付いた。
 恋次は事あるごとに「さっさと出て行け」と言う。
 此処まで姉を探すことに付き合ってくれたのは、ひとえに早くウキアに出て行って欲しいと思っていた所為なのだとわかっていた。
 それが、恋次以外にウキアの言葉が聞こえる者を見付けたのだ。
 これ幸いと――そう思われても不思議はない。
 花太郎に押し付けて、そうすればもう面倒なことはない。
 その時、がた、と扉が鳴ってウキアはぴんと耳を立てた。所在なげに部屋の中を歩き回っていたウキアは、急いで玄関まで走り寄る。
「――何だ、居たのか」
 口にされた恋次の言葉に、ウキアは咄嗟に返す言葉がなかった。明らかにウキアが居ないことを期待したその言葉。
 身体を部屋の至る所にぶつけながら居間へと入る恋次の様子がいつもと違う事にウキアはようやく気が付いた。その独特の臭気――それは清浄な神域には存在しない香り、酒の匂い。
「飲んでいたのか」
 恋次の心に一人悩んでいたウキアは、思わず詰問口調でそう詰った。それに冷たい視線を向け、恋次は無言でどかっと椅子に腰を下ろす。
 その目の前の机に、「ウキアさんの言葉に甘えて失礼させていただきます」と書かれた花太郎の手紙に気付き、ふんと鼻を鳴らした。
「楽しい時間を過ごしたようで」
 花太郎の書き置きをぐしゃりと手の中で丸めて恋次は屑籠へと放り投げた。その行為に、瞬間的にかっとなったのだろう、ウキアは「恋次!」とはっきりと咎める声を出す。
「花太郎に迷惑をかけて――花太郎は何の関係もないのに午後中私に付き合わせたというのに、何なんだそのお前の態度は!」
「俺だってお前と何の関係もねえよ」
 はっきりと拒絶されたその言葉に――自分との関係を否定した恋次の言葉に、ウキアは唇を噛み締めた。その言葉は深くウキアを傷付ける。傷付く意味をウキアは知らずに、泣くのを堪えるために更に厳しく糾弾し、そしてそれは更にウキアを傷付ける言葉を恋次の口から導き出して行く。
「それでも――用事があったのならば兎も角、酒を飲んで、そんな歩く事が覚束ない程酔って――花太郎はずっとここでお前を待っていたのに」
「いいじゃねえか、邪魔が入らなくてお前らも楽しかっただろ?」
「何を莫迦な――」
 詰め寄ったウキアの鼻に、覚えのある香が薫った。男が着ける筈のない薫り、華やかで艶やかな――その人となりと同じ、鮮やかな香り。その香りを身に付けた女性をウキアは知っている。
「――あの人の所に居たのか」
「俺も楽しんだ、って訳だ」
 野暮なこた聞くなよ、とにやりと笑う恋次に――理性が止める間もなくウキアの両目から涙がこぼれ落ちた。今までこっそりと滲ませていた涙とは違う、隠しようもない程の涙を溢れさせながら、ウキアは俯いた。
「最低だ――お前なんか、お前なんか――! 信じられない、最低だ!」
「手前に最低なんて言われる筋合いなんざねえよ」
 俯くウキアに恋次の表情は見えない。けれど酷く冷たい顔をしていることは想像できた。今その恋次の顔を見たら、自分が如何なってしまうかわからない。
「最低だ――最低だ! 貴様になんか頼った私が莫迦だったんだ、貴様になんか出逢わなければよかった! 貴様みたいに冷たくて乱暴で酷い男なんて――」
「じゃあさっさと出て行け!」
 叫ぶウキアの言葉を掻き消すように、ウキア以上の大きな声で恋次は怒鳴った。
「別に俺である必要なんざねえだろうが! さっさと花太郎の所へ行けよ、止めやしねえよ! 出て行きゃいいだろうが!」
 真正面から浴びたその怒声に、ウキアは硬直する。思わず上げた顔に、恋次が一瞬ウキアに目を止め、すぐに目を反らした。
「私、は……」
 此処に居たら迷惑なのか、そう呟いた小さな声は恋次の耳には届かなかったのか、答える必要はないと判断したのか――恋次は無言で居間を出て行った。
 ぱたん、と扉の閉じる音がする。
 それが恋次の拒絶のように感じて、ウキアは両手で顔を覆い蹲った。












 自分以外に向ける笑顔が厭だった。
 自分以外に話すその言葉が厭だった。
 自分以外に向ける視線が厭だった。
 自分以外に誰かがその心に存在するのが嫌だった。
 自分だけが知っていればいい。
 自分だけがその笑顔を、声を、視線を、知っていればいい。
 誰にも渡したくない。
 笑顔も声も視線も――心も。





 これが嫉妬だと。
 これが誰かを「唯一人」と想う事なのだと。




 恋次とウキアは、この日この時――初めて、知った。 




























 定刻通りに出勤した恋次は、六番隊の前で待っていた花太郎を見付けて僅かに表情を動かした。けれどそれは花太郎からまだ大分距離があった所為で、花太郎には気付かれない。
 花太郎に向きあった時には、恋次は普通通りの表情で相対する。
「昨日はすみませんでした、帰りを待っていないで」
「いや、俺も遅くなって悪かったな。迷惑かけた」
「いえ、全然迷惑じゃ」
 元々の性格と、話している相手が副隊長という地位にある所為もあるだろう、花太郎はやや緊張した面持ちでそう言った。
「ウキアさんは大丈夫でしたか?」
「大丈夫? 何が?」
 昨夜の会話を思い起こしながら恋次は尋ね返した。真正面から見据えた花太郎は、その思いがけない恋次の視線の強さにやや狼狽しながら「いえ、あの」と口籠る。
「夜なのにウキアさん一人を置いて帰ってしまったので……」
「ああ、大丈夫だ。あいつは昼間一人でいるからな、慣れてんだよ」
「そのことで……」
 花太郎は恋次を見上げる。人の良さそうな、やわらかい表情。雰囲気も顔立ちも、自分とは違う真逆のもの。花太郎が言葉を荒げるようなことは恐らくないのだろう。強い言葉で、酷い言葉で誰かを泣かすような事も。
「昨夜考えたんですけど……ウキアさんからも聞いてます、仕事後に遅くまでウキアさんのお姉さんを探したり、休日も休まないで瀞霊廷中を歩いてるって。忙しいのに、そんな生活が続いたら身体壊してしまいますよ? だから、阿散井副隊長さえよろしければ、僕の家にウキアさん引き取っても……そうすれば阿散井副隊長の負担も減るんじゃないかと思って。それに、僕は実家から通っているので、昼には僕の家族がいますから危なくないですし」
 善意で言っているのだろう。それは解っている。花太郎は自分とは違う。純粋に仕事量の多い自分を案じ、ウキアを助けるためにそう言ってくれている事は。
 ウキアの目的は姉を探し出すことだ。それだけがウキアの至上の目的で、ウキアの言葉を理解するのが自分しかいないから、だからウキアは仕方なく自分の家に居ただけにすぎない。
 ウキアにとってどちらがいいか――優しい花太郎の家に居るか冷たい自分の家に居るか、そんな事はウキアに聞かなくても解っている。
 だから。
「――ありがとよ」
 恋次は花太郎に笑いかけた。心の奥の本音を隠すことなど子供の頃から手慣れたものだ。花太郎の目には心から感謝の笑顔を浮かべているようにしか見えないだろう。
「だけどな、やっぱりあいつを見付けたのは俺だから。――ま、最後まで付き合うさ」
 如何しても無理になったらその時はお前に頼むからよ、と続けた恋次に一瞬だけ花太郎は残念そうな顔をし――納得したように頷いた。
「そうですよね。失礼なことを言ってすみませんでした」
「いや、こっちこそ悪かったな、折角の申し出を」
 では、と深々と頭を下げて四番隊の隊舎へ向かう花太郎を右手を上げて見送ってから、恋次は息を吐いた。
 解っている。自分と花太郎と、ウキアがどちらを選ぶかなど。
 だからこそ渡せない。
 自分の気持ちを認めた今となっては、渡すことなど出来る筈もない。
「――悪ぃな」
 その言葉は花太郎にかウキアにか――自分でもわからないまま呟いて、恋次は六番隊隊舎の方へと歩き出した。




 



 昨夜は一睡もできなかった。では日中に眠れたかと言えば決してそうではなくて、ウキアは居間の椅子の上でぼんやりと座っていた。
 今朝の恋次も何も言わないまま出掛けてしまった。視線も合わせずに家を出て行った恋次に言葉をかける勇気はなかった。
 ――此処に居たら迷惑か。
 そんな答えがわかりきってる質問を投げることは出来ない。その答えを望んでなければ尚更。
 拗れきった関係はどう修復すればいいのか、それとももう二度と修復できない程壊れきっているのか。
 今までその立場の所為で友人と呼べるものはいなかった。素直に謝る術も知らず、知っているのは後ろ盾のなくなった宮廷で身を護るために身に付けた辛さを吐露することのない冷たい言葉と表情や、事あるごとに自分と姉を追い落とそうとする義母と義妹に付け入る隙を与えない強さ、弱さを認めない為の意地の張り方ばかりで、こんな自分を好いてくれるのは姉唯一人しかいないという事も身に染みてわかる。
 ウキアの両耳がぴんと立ちあがった。玄関で鍵を回す音――その音を耳にして、ウキアは思わず立ち上がる。この部屋の鍵を持っているのは一人しかいない。
 いつも通りに扉が開く。外の夕焼け色が室内に差し込んで、部屋の中を橙色に染め上げた。
 黒一色の死覇装に、鮮やかな紅い色が映える。
 立ち尽くすウキアに向かい、恋次は「おい」と呼び掛けた。言葉もなく見返すウキアの視界に、不機嫌そうな恋次の顔がある。もう何度も見慣れた恋次のその表情。普段と――変わりないと言っていい、その表情。
「探しに行くんだろーが。早く出てこい」
「――でも」
 思わず声が出たウキアに、恋次は気まずそうに視線を背けた。暫く明後日の方向を見ていたが、観念したように「悪かった」とぼそっと呟いた。
「昨日は悪かった。八つ当たりした」
「――――」
「此処に居ていい。姉貴探しも手伝う」
「――――」
「許して下さい、ご主人さま」
「――棒読みだぞ、莫迦者」
 そろりと橙色の光の中に足を踏み出す。嫌われていないかと内心怯えながら恋次の前に姿を見せたウキアに、恋次は片方の眉を跳ねあげて「それは失礼」と笑った。
 いつもと同じ――人を食ったような笑顔で。
「どうぞ、ご主人さま」
 差し伸べられた手によじ登る。そのまま懐に潜り込もうとした身体を掴まれて、ウキアは肩に座らされた。
「え――?」
「行くぞ」
 肩にウキアを乗せたまま恋次は歩き出した。その恋次の心境の変化に呆気にとられつつ、横の恋次の表情を伺い見る。今まで見た事のない程、近くにあるその相貌。
「――何だよ」
「一体どういった心境の変化だ」
「別に」
「……気持ち悪い」
「ほっとけ」


 よく月のようだと周囲に評された。
 気を許せるものが殆どいない所為で、笑顔を見せず、常に張り詰めた空気は鋭利で、自分の周囲に与える冷たく孤高な雰囲気は瀞霊廷に住む者たちが抱く月のイメージに酷似している。だから月に例えられたのだろうと思う。


 背の高い恋次の肩から眺める瀞霊廷の景色は、何処も橙色に染まって――夕日が目に眩しい。
 この世界は好きではなかった。月から下界を好んで見下ろす姉の気持ちが解らなかった。この世界に持っていた印象は粗野で乱雑で、とても好きになれなかったというのに。
 如何して今、自分はこの世界が綺麗だと思うのだろう。
 如何して今、自分はこの世界が好きなのだろう。
 その答えは昨日の夜に出ている。
 それは、――恋次が此処に居るからだ。


 そう、自分が月ならば。
 太陽に魅かれるのは当然のことなのだ。もう何億年も昔から、月は太陽を追って空へと昇る。近付きたくて傍にいたくて、必死で追いかけ続けるのだ。
 自分が月ならば、きっと太陽は。
 紅い瞳と紅い髪を持つ、荒々しくて強くて乱暴で、――でも本当は優しいこの男だろう。








「――こら、危ねえだろうが」
 ぐらりと傾いだ小さな身体を慌てて支えると、ウキアは既に目を閉じて熟睡しているようだった。恋次が肩からウキアを抱き上げてもその目が開く事はない。ほっとしたように安堵したように眠るウキアの姿に、昨日と今日、自分がウキアに掛けた負担の大きさを思い知って恋次は胸が痛んだ。
 ろくに眠っていなかった所為だろう、ウキアの眠りは深く眼を覚まそうにない。
 安心しきって眠るウキアの耳はぺたりと垂れている。その耳と髪と一緒に頭を撫でながら、恋次は歩く方向を自宅へと変え、ウキアを胸に抱いてゆっくりと歩き出す。
 その振動で、僅かでもウキアの眠りを妨げる事のないように。
  

 




 

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