少女は、許された者しか足を踏み入れることができないこの場所に居ることが多かった。
 年の頃は18くらいだろうか、黒い肩までの髪に、白い肌、珊瑚色の唇。夢見るような瞳の色は淡い紫。
 少女は一目で上質と分かる着物を身に纏い、白く輝く床の中央に直に座り、足元の巨大な、やや欠けた円の形をした透ける部分から下方を見ている。
 楽しそうに――僅かに羨望の眼差しで、少女は自分とは違う世界を見下ろしていた。
 眼下に広がる世界――自分の世界とは違う、自分たちが護る世界。
「生きる」ことに誠実に、「生きる」ことに躊躇なく、「生きる」ことに貪欲に――彼らも別の世界を護っている。
 自分の立場に不満はない。自分の立場に誇りを持っている。一の皇女、一の巫女、一の神子……そう呼ばれる自分の立場を。
 けれど――夢見てしまうことは止められない。
 身分も立場も肩書きもないただの少女として過ごす自分の空想は、少女に唯一許された自由だ。
「姉さま――またここにいらしたのですか」
 ややあきれたようなその声に、少女は慌てて振り返った。そこに立っていたのは、少女と同じ顔、黒い肩までの髪に白い肌に、珊瑚色の唇と濃い紫の瞳を持った少女だった。違うのはその年齢――姉よりも3つ程下のようだ。そして瞳に浮かぶのは、姉の夢見る柔らかさではなく、真直ぐに前を向く苛烈さだ。
「もうお休みにならねば明日に触ります。一の神子が寝不足で祝詞を間違えたなど、また笑い話になりたくはないでしょう」
「……笑い話になっているの?」
「語り草ですね」
 途端しょんぼりと項垂れる姉を見て、妹は苦笑した。その能力にも関わらず、またはそれと引き換えなのか――姉は人よりも多少……否、大分……
「天然、と……かの者たちは言うそうですよ。姉さまのような人を」
「私のような?」
 首を傾げる姉に向かい、妹は笑いをかみ殺した。自覚のないところがまた姉らしい。
 これ以上この件を追い続けると、隠すことすら出来ないほど笑い出してしまいそうだったので、妹は話題を足元に広がる世界に切り替えた。
「――私にはさっぱりわかりません。何故、姉さまがここまでこの者たちに熱を入れるのか」
 姉の隣に座り、透明な床に触れ、妹が念を凝らすとその景色が鮮明になった。映像がより近付き、はっきりと人の姿が見える。黒一色の着物を着た異界の者たち。
「こんな野蛮で粗野で気品の欠片もない者たちを、一の皇女である姉さまが思い入れるなんて……はっきり言って不愉快です」
 きっぱりと言い放つ妹に向かい、姉は困ったように微笑んだ。
「思い入れている訳ではないのよ……私は、私が護る世界が愛しいだけ」
「……お辛いのですか」
 飾る言葉など意味もなく、妹にあっさりと切り込まれた姉は、微かに俯いた。その動作は姉の心を正確に映している。妹の表情に、気遣わしげな色が浮かんだ。
「私がそばにおります。どんな時でも一緒です」
「ありがとう……」
 きゅっと抱きしめられ、妹もきゅっと抱き返す。姉妹はしばらくそうして抱きあった後、照れたように姉が身を離した。
「もう、休むわね。祝詞を間違えたら大変だから」
「そうですね。もうすぐ満月ですし」
 姉のために扉を開けようと妹は先に立って歩き出した。非力な姉はこの部屋の扉を開けるのに相当苦労する。一度など冗談ではなく挟まれそうになっていた。その時は偶々妹が通りかかっていたので事なきを得たが、もし挟まっていればこの扉の重さからして無事では済まなかっただろう。妹がこの部屋に来る姉にいい顔をしないのは、この扉の所為――姉が怪我をする可能性があるからでもある。
「姉さま?」
 姉が、中央に立ったまま座り込んでいる。目を見開いて、驚いたように――何かを見つけたのか、一点を見つめている。
「どうしましたか? 姉さま」
 妹の声に、はっと姉は顔を上げた。その頬が微かに上気している。首を傾げる妹の前で、姉は「あの」と口籠った。
「――とても……印象的な人がいたの。とても綺麗な……こちらを見ていたわ。如何したのかしら、とても淋しそう……違うわ、淋しいのではなくて、……」
「姉さま」
 妹が帰室を促す。もう時刻は深夜に近い。
「あ……今行くわ、ごめんなさい」
 もう一度、足元の映像に目を向け、後ろ髪を引かれるように姉は立ち上がった。妹に向かって歩き出す為に踏み出した途端、目が眩んでその歩みが止まる。
 眩暈の原因が何か、一瞬分からなかったが、瞼を貫く目映きにその原因を知る。
 足元が――発光していた。
 先程までの異界を映した映像は消え、ただ光の坩堝が足元にある。
「え……?」
「姉さまっ!?」
 光に飲まれる――周囲の景色が金の色一色になる。下方から吹き上げる風に、よろけそうになる身体を必死で制御した。
「何――如何して」
「『門』が開く――姉さま!」
 妹の声だけが聞こえる。悲鳴のようなその声を耳にした次の瞬間、激しい落下感に姉は意識を失った。


















 阿散井恋次と言えば、その存在は誰もが知るところだ。
 六番隊副隊長というその肩書きは、ここ瀞霊廷に住まうものならば誰もが意識する存在だ。現世と尸魂界を護る、選りすぐりの戦士たち――十三に分かれた隊の、その副隊長。生半な能力ではその地位に立てない。
 六番隊副隊長と言えば、その紅い髪がまず有名だった。紅玉を溶かしたような、鮮やかな、混じり気のない燃えるような紅い色。そして身体中に彫られた黒い刺青、眼つきの鋭さや体格の良さ、口の悪さと、部下の面倒見の良さ。――上司にも部下にも、概ね彼の評価は高い。
 その六番隊副隊長の阿散井恋次が、こんな夜半に道を歩いているのは、勿論仕事の所為でもある。先程まで上司である六番隊隊長と、一月後に迫った新人の訓練について書類を作っていたのだ。毎年行われる新入隊員の一括した訓練、一週間に渡る学生気分を払拭させるための洗礼は、担当が一年毎に十三隊で移っていく。そして今年の担当は六番隊だった。
 その年に入った新人を一括して面倒を見なくてはならず、また、訓練後にそれぞれの隊員を彼らに合った隊に入隊させるため、どの隊が彼らに一番相応しいか、各々の資質に目を配らなくてはならない。入隊予定の新人の名簿を作り、いくつかのグループに振り分け、その訓練内容を吟味しようやく完成した内容を書類に起こし、明日朝一番で総隊長に提出できるように整えてからこうして家路に就いた。
 ここニ週間ずっと抱えていた仕事が終わって、気分も軽く歩く恋次の頭上に、見事な月が出ている。
「もうすぐ満月か」
 普段あまり夜空に関心のない恋次は、改めて見上げた夜空に浮かぶ月の美しさに、初めて見るような感慨を覚えた。幼い頃は過酷な状況で育っていた所為で、恋次はそういった景色の美しさというものに全く関心を持たずに来たのだ。そんな余裕のある世界ではなかったし、死神となって働き始めてからは仕事に夢中で、風景や景色など、それはただそこにあるものとしか認識してはいなかった。
 黒い夜空に輝く金色の円。何となく目を奪われて恋次は立ち止まる。
 頭上を仰ぎ見たまま、金色の光を浴び、その金の円を見ていた恋次は――「あ?」と声を上げた。
 金の色一色だった円の中央に、小さな黒い点が現れた。何だありゃ、と思う間にその黒い点はどんどん大きくなっていく。それは僅か数秒――その黒点が、ものすごい勢いで落下してくる「何か」だと気付いた時、鍛え抜かれた反射神経でそれを避けようとした恋次は、同じように鍛え抜かれた動体視力で、落下してくる「それ」を捉えてしまった。
「――っ!?」
 それを見てしまえば、避けることは出来ない。咄嗟に両手を伸ばして受け止めようとした恋次の腕に「それ」は――
「ぐはあッ!!」
 受け止められるのを拒否して、恋次の額を踏み台にして落下のショックを和らげた。
 遥か頭上から落ちてきた謎の物体に額を飛び蹴りされた状態になった恋次は、両手で額を抑えて呻いた。その前で、くるりと宙で一回転した「それ」は、軽やかに地面に降り立ったようだ。
「――どうやら無事に辿り着いたようだ」
「無事じゃねえっ!」
 ぐらぐらする頭を押さえながら恋次は叫んだ。首がよく折れなかったとその僥倖に感謝しながら、この原因を作った相手を睨みつける――その紅い瞳が驚いたように見開かれた。
「ん? 何だ貴様は。どこから現れた?」
「最初からここに居たっての! ……てか、お前こそ何だ、どっから現れた」
「これだから未開の猿は……守人である私に、巫女であり神子であり皇女である私に、ニの姫と呼ばれる私によくもそんな口を……って何をする!?」
 突然身体が浮き、目線が急に2m近く高くなったことに「それ」は思わず悲鳴を上げた。混乱した頭に、ようやく目の前の紅い髪の異界人が自分の襟首を掴み吊り上げているのだ気付き、その白い顔が激怒に赤く染まった。
「無礼者! 離せ、何をするか、私を誰だと……っ!」
「……何だこれ」
 恋次はじたばたと暴れる「それ」を無視して、目の前にある「それ」の頭、黒い髪の間から2本すらりと伸びている短い毛に覆われたものを凝視した。せわしなく動くその形状を恋次は知っている――知ってはいるが、それが人の頭にあることなど聞いたことがない。いや、聞いたことはあるが――そういった玩具があることも知っていたが、それはあくまで成人女性が男性を歓ばせるために付ける装身具の一部、プレイの一環としてであって、こんな風に自在に動くそれは聞いたことがない。
「生えてんのか? 本物?」
 左手でそれを――うさぎの耳に触れた途端、目の前の「それ」が大きく身体をのけぞらせた。その反動を利用して、恋次の額に――先程飛び蹴りをした同じ箇所に蹴りを叩きこむ。一度ならず二度三度、四度五度六度……
「てっ! いて、いてっ!」
「無礼者無礼者無礼者!!!」
「何しやがる手前! 十二番隊送りにするぞ物体X!」
「汚い手を離せ、猿!」
「さ、猿だとっ!? 獣はそっちじゃねえか、うさぎ鍋にして喰っちまうぞ!!」
 吊り下げた手を一杯に伸ばすと、「それ」――20p程の体長の、頭にうさぎの耳を生やした謎の生物は、どんなに足を延ばしても恋次の身体には届かない。えいえいと蹴り上げても目標物は遥か彼方だ。
「卑怯者卑怯者卑怯者! 離せ、下ろせ、土下座してひれ伏せ!」
「最後の二つは何だ! ぜってー下ろさねえ!」
「何してるんですか、阿散井副隊長?」
 突然割り込んだ第三者の声に、恋次と謎のうさぎ少女は同時にそちらを振り返った。ぴったりと息の合ったその行動を、二人は気付かない。
「わあ、うさぎじゃないですか!」
 どうしたんですか、こんなところにうさぎがいたんですか、と桃色の声を上げながら、恋次の部下である少女は恋次が止める暇もなく恋次の手からうさぎを奪い取った。そのまま胸にぎゅっと抱きしめる。
「何をする! 苦しい、離さぬか!」
 その強さにじたばたと暴れるうさぎもどきには頓着せず、少女は「可愛いなあ!」と頬擦りしている。その様子を見て、恋次は「……お前、それ見てどう思う?」と恐る恐る聞いてみた。
「え? ……ああ、第三者からの感想ってのを知りたいんですね副隊長? 可愛いですよ、すごい綺麗な黒うさぎ! こんなに美人なうさぎさん、なかなか見ないですよお。どこで買われたんですか? 私も欲しいなあ」
「……いや、さっきここで見つけたんだけどよ」
 やや呆然としながら恋次は少女の腕の中で相変わらず「いい加減にしろ、力の加減というものを知らぬのか、小娘!」と可愛いとは程遠い悪態を吐くうさぎもどきを見つめた。
 部下の少女には、このうさぎもどきが普通のうさぎに見えるらしい。恋次の耳にはっきり聞こえるこの声も、少女の耳には聞こえていないらしい。
 ――やばい、仕事の疲れが脳に来た?
 こんなファンタジーな白昼夢を見るようになるほど俺は疲れているんだろうか。
 しかし幻影にしてはあまりにもはっきりとうさぎもどきの表情が見える。今も、少女の加減を知らない抱きしめ方の所為で、苦しそうに顔を歪めているうさぎもどきが見える訳で――
「あ」
 腕の中からうさぎを取り上げられて、少女は声を上げた。何するんですか、と軽く頬を膨らませる部下に、恋次は「悪ぃな」と一言で部下の不満を無視した。恋次の腕に抱かれて、うさぎもどきは空気を求めてはあはあと喘いでいる。今は素直に恋次の腕の中に居ることにしたようだ。小さな身体が暖かい。
「副隊長のうさぎじゃないなら、私に下さい。欲しいと思ってたんです、犬とか猫とか」
 微かに腕の中の身体が震えたのを感じた。その震えは止まらずに、小さな振動を恋次に伝える。
 自分の言葉が通じない相手。一方的に自分の感情のままに向けられる過多な愛情、力の加減を知らない愛情表現。
 厭だと叫んでも、苦しいと叫んでも、相手には伝わらないのだ。その恐怖をつい数瞬前に体験して、うさぎもどきは怯えているのだろう……自分が今この場に居る危険、自分の安全の不安定さを。
 そのうさぎもどきの恐怖と不安をわかってしまったから――
 それすらも夢だとしても、幻だとしても、妄想だとしても。
「俺のだよ」
「えー、さっきここで見つけたって言ったじゃないですか」
「俺が見つけた。だから俺が面倒みる」
 腕に伝わる震えが止まった。――僅かに、本当に僅かに、身を委ねるように腕に重さが加わったのも自分の妄想だろうか?
 副隊長一人暮らしなのに大丈夫なんですかあ、と詰まらなそうに言う部下に恋次は再び「悪ぃな」と謝ると、部下は「気が変わったらいつでも言ってくださいね」と頭を下げて去って行く。
 その背中が遠くなってから、恋次は腕の中のうさぎもどきに「さて」と声をかけた。うさぎもどきは無言で恋次を見上げている。大人しく収まっているうさぎもどきの顔を、恋次は初めてはっきりと見ることが出来た。
 大きな紫の瞳。
 その瞬間、身体を貫いた衝撃が一体どんな感情から生まれたものかわからないまま――恋次は紫の瞳に目を奪われる。
 気品のある顔立ちをしている。その造作は、今まで見たこともないほど整っている――白い肌、珊瑚色の唇、絹のように細く光沢のある黒い髪。高名な人形師が作ったような、それは完璧な美しさ――
「何を呆けて見ておる、猿」
「なななな何だとう! くそう、前言撤回だ、完璧なんかじゃねえ、何だその口の悪さは!」 
 ふん、と腕を組んでうさぎもどきはそっぽを向いた。その口の悪さにも勝ち気そうな表情にも、何故か本気の怒りを覚えない自分を恋次は不思議に思う。
「よし、お前の家に行ってやる。光栄に思え、巫女であり神子であり皇女であり二の姫である私が、貴様のような猿の家に居てやるのだからな」
「やめた! 面倒なんかみねえ!」
「私にはこの世界での拠点が必要だ。――姉さまを探さなくてはならぬ。勿論お前にも協力させてやろう、ありがたく思えよ」
「何だその上から目線! 礼を言うのはどう考えてもお前の方だろう!」
「そうと決まれば行くぞ、お前の猿小屋へ」
「人の話を聞け!!!」
 うさぎもどきは、恋次の胸に背中を付けていた態勢からくるりと身体を反転させた。身を委ねる仕草、それがうさぎもどきの、部下の少女から身を護ってくれた恋次への感謝の表現なのだろう――かなり解りづらい表現方法だったが。
「貴様の名は――ああ、阿散井というのだったな。下の名はなんという?」
「――恋次だよ」
「随分と可愛らしい名前ではないか」
「知るか俺が付けたんじゃねえ! いいか名前で呼ぶな、阿散井さんと呼べ!」
「ふふふわかった、ではお前を恋次と呼んでやろう」
「嫌がらせだなちくしょう!」
「――私の名は、そうだな……ウキア、だ」
 ウキアは……恋次が驚いた事に、にこりと笑いながらそう言った。途端、元が美少女なだけに、空気が華やぐほど明るくなる。今ならウキアが空から降りてきたことも納得できる。全開の笑顔はウキアの気品を抑え、あまりにも愛らしく可愛かった。――恋次が完全に、目を奪われるほどに。
 その、愛らしい笑顔を浮かべてウキアは言う。
「ご主人さまと呼ぶが良い」
「誰が呼ぶかっ!」
 











 朽木白哉に「趣味は何ですか」と聞けるつわものはそうはいない。
 強いて言えば彼自身の副隊長などは聞けるかもしれないが、今までそれを聞かれるような話題になったことはない。故に、彼の趣味である「夜の散歩」について、知っている者は誰もいないと言ってよかった。
 ここ暫く取りかかっていた、一月後に行われる新入隊員の訓練についての草稿作りがようやく先程終わり、白哉は帰宅がてら夜の道を歩いている。
 頭上にはもうすぐ満ちる月があり、夜道を優しく照らしている。
 夜の散歩が好きなのは、この「月」の所為であるのかもしれない――幼い頃から、夜空に大きく輝くこの光を見ると、言葉にはできない感情が込み上げた。大切で、愛しくて――そして、哀しい。決して手が届かない、決して手に入れることができない月の美しさ。
 月の光を浴びる度、何度も頭上を見上げ――その遠さに嘆息した。
 けれど、今日見上げた月はいつもとどこか違っている。
 見上げる度に感じた、柔らかな気配がない――胸を締め付ける、あの切なさの感情が湧いてこない。
「――?」
 先日までの、月を見上げる度に抱いたあの愛しさを感じない。
 その原因を考えながら歩く白哉の足は、やがて流魂街1区の繁華街に差し掛かっていた。
 喧騒を厭う白哉にとって、そこは滅多に足を踏み入れる場所ではなかった。いくら考え事、月に抱く自分の感情の変化の原因に没頭していたとはいえ、道の選択を間違えるなど――自分に内心舌打ちし、白哉は足早に通りの端を歩く。
 死覇装姿の者はあまりなく、通りには時刻の割に人の数は多い。仕事後に酒を飲んだ者が店を出るにはいい頃合いなのだろう、酔いの所為で声の大きい者や、千鳥足の者などが通りを歩いている。
 白い羽織と牽星箝を隊舎に置いてきた所為もあるのだろう、またその凛とした雰囲気、男から見ても整った白哉の容姿は酔客にとっては絡みやすいものに違いなく、すれ違いざまに呂律の回らない言葉で声をかけられる。
 白哉の前方から来た女が白哉の顔を見て嬌声を上げた。いい男ねえ、と欲望を含んだ声で言い、その連れの男が不愉快そうに白哉を見る。酔いは男を攻撃的にしているのだろう、じろりと白哉を睨みつける。
 前方から来たその二人とのトラブルを避けるために、白哉は開いていた店にするりと身を滑り込ませた。
「いらっしゃいま……」
 営業用の明るい声が途中で途切れ、「あら」と驚いたような声に変わる。それは初めて白哉の顔を見た女性ならば大抵の者がする反応なので、慣れてしまった白哉自身は不快にも思わない。けれどそれは一瞬で、女主人は営業用の笑顔を取り戻して再度「いらっしゃいませ」と繰り返した。
「何をお探しですか? 犬? 猫? 小鳥? 何なりと仰ってくださいな」
 その言葉で、白哉はこの店が何を販売しているのかを知った――白哉が入ったその店は、愛玩用の小動物を販売している店だったらしい。
 広い店内は明るく清潔な作りになっている。こんな夜半まで店を開けているのは、恐らく酔客を当て込んでのこと……店勤めの女性が、馴染み客にねだって小動物を買うのはよく聞く話だ。勿論昼間は普通の客を見込んでいるのだろう。死神の中にもそういった動物を飼うものは多いと聞く――やはりその小さな愛らしい動物に癒しを求めているのだろうか。それは白哉にはわからない感情だった。
 動物には興味がない。「ご希望はどんな?」と必要以上に近付く女店主をさり気なくかわしながら、「いや、私は――」と店を出ようとした白哉の目に、それが目に入った。
「――主人」
「はい、何でしょうお客様」
「あれ、は―― 一体」
 一点に注がれた白哉の視線を追い、店主は「ああ」と満足気な声を上げた。何度も大きく頷いてみせる。
「お客様、お目が高くていらっしゃる。――あれは、昨日買い取ったばかりのものなのですが、素晴らしいでしょう? 毛並みといい、顔立ちといい――」
 笑顔で宣伝を始める店主の言葉は既に白哉の耳には入ってはいなかった。「それ」にひたすら目を奪われる――呆然と。
「あの、私の声が聞こえますでしょうか?」
 それ――檻の中の「それ」が、鉄格子を掴みながら必死な声で言った。
「お願いです、私をここから出してください、もし私の声が聞こえてましたら――」
 店主の声は変わった様子もなく続いている。白哉は暫く無言の後、店主に「これのことだが」と檻の中の「それ」を指差した。
「何というか――これは、普通とは違うのではないか」
「仰る通りです!」
 ファンファーレでも鳴りそうなほどの明るい声で店主は両手を打ち付け目を輝かせた。若干引き気味の白哉に向かい、「流石お客様、よくぞお気づきになられました」とぐいと身を近付ける。
「この私でさえ見た事のないくらい、ええ、極上の品種ですわ、当店の一番のお勧めの子でございます」
「いや、そうではなく」
「私の声が聞こえませんか? ああ、如何しよう……如何したらいいの、もうすぐ満月だというのにこんな檻に入れられて……ああ、それよりもこんな事をあの子が知ったらまた怒られてしまうわ……もう当分の間、きっとアイスを食べさせてもらえない……お汁粉だってきっと出してくれないわ、ああ如何したらいいの……私の楽しみといえば甘いものと下界を見ることなのに……そうよ、こんなことになってしまったからもう二度と下界を見ることなど、あの子に許してもらえなくなってしまうわ……って違うわ!一番問題なのはもうすぐ満月ということじゃないの! ああ、如何したらいいの……誰か私の声が聞こえる方はいないのかしら……!」
 檻の中でぺたりと座りこむ「それ」――店主には普通のうさぎにしか見えていないらしい「それ」。
 白哉には、小さな少女に見えた。
 体長20センチ程の小さな身体。その身体は、小さいというだけでほとんど自分たちと同じ姿だ。――ただ一点を除いて。
「ああ……如何したらいいのかしら……」
 しょんぼりと項垂れる少女の頭に2本、すらりと生えているもの。普段は直立しているであろうそれは、今はその気落ちを反映してだろう、二つにぺたりと折れている。
 白いうさぎの耳を持った小さな少女。
 ふとそのうさぎが顔を上げた。薄紫の瞳と、白哉の黒い瞳がぴたりと合わさる。
「あなたは――あの時の」
 うさぎが小さく声を上げた。座り込んでいたうさぎは立ち上がって、鉄格子を両手でつかみ白哉をじっと見つめている。
 小さな手が鉄格子の隙間から白哉に向かって伸ばされた。小さな身体に見合う腕の長さは、勿論白哉に届くことなく宙を掴むだけで、少女の瞳が哀しみに伏せられる。
「――店主」
 はい、と笑顔を向ける主人に向かい、白哉は「これを貰う」と、白哉の目には小さな少女に映る白うさぎを見た。檻の中で少女は驚いたように目を見開く。
「お値段が多少――何しろ珍しい品種で――」
「言い値で構わない」
 ありがとうございます、と喜色満面の笑顔で計算機を叩きだす店主に「鍵を」と告げ、白哉は受け取った檻の鍵を回して扉を開ける。
 戸惑う小さな少女に手を伸ばし、白哉はその身体を抱き上げた。――軽い。そしてとても――暖かい。
「お前の声は聞こえている。――安心しろ」
 ぱあっと少女の顔が笑顔に変わった。きゅ、と手にしがみつく小さな身体を胸に抱き、白哉は懐から適当に札を掴んで机の上に置く。この店の一月分の売り上げの金額を目の前に置かれ店主が唖然としていると、その目の前で白哉はうさぎを胸に歩き出していた。
「あの、お客様――籠は。サービスでお付けしますから、今ご用意しま――」
「要らぬ。――閉じ込める訳にもいかぬ故」
 はあ、ときょとんとする店主を振り返ることなく、白哉は店を出て歩き出した。――頭上の月は変わらず下界を照らし、ふと白哉は腕の中の少女が月のようだと思った――それが何故か、わからなかったが。






「ありがとうございます」
 白哉の広い自室の座布団の上にちょこんと座り、うさぎ少女は深々と頭を下げた。
 この部屋に来るまでの、家令を筆頭にすれ違う従者たちの驚きの視線――今まで全く小動物に興味を持つことのなかった当主が、腕に小さな白いうさぎを抱いて帰宅したことに、朽木家に仕える者たち全てが仰天した。その驚く従者たちに見守られ、ようやく辿り着いた誰にも邪魔されることのない自分の部屋で、白哉は腕の中の少女を座布団の上に置いた。
「――何か欲しいものはあるか。飲み物は? 食べ物は?」
 それ以前に何を食べるのだろう、やはり草や野菜か――と無言で考えていると、うさぎ少女は「大丈夫です」と座布団の上に正座した。
「助かりました。あのまま檻に入れられたままだったらどうしようかと――本当にありがとうございます」
 深々と三つ指を付いて頭を下げるうさぎを見る白哉の表情は無表情のままだ。
 元々、白哉は表情を面に出すことをしない。貴族として、幼い頃から教育されていた賜物――もしくは弊害――の所為で、感情を表現することが出来なくなっている。
 それでも内心、白哉は戸惑ってはいた。
 こんな生き物は見たことがない。聞いたこともない。人語を解し、頭にうさぎの耳を生やし、自分たちと同じ身体を持ち、けれどその大きさが8分の1程度しかない。
 上に報告した方がいいのだろうか、と考えた白哉は、次の瞬間十二番隊の隊長を思い浮かべその案を却下した。恐らく「見たことのない何か」が発見されたと聞きつけるや、あの十二番隊隊長はその個体を引き取り徹底的に調べるだろう――それにこのうさぎが耐えられるとは思えない。
 さてこれからどうするか、と思案する白哉の耳に「あのっ!」という声が聞こえて無言で視線をうさぎ少女に向ける。
「このご恩は、私の身体でお返しいたします!」
 一瞬、脳内が真っ白になった。
「――いや、それは……サイズ的に」
「何でもお申し付けくださいっ!炊事洗濯掃除お使い雑用、何でもさせていただきますっ!」 
「――そちらか」
 無表情ながらも動揺していたらしい白哉は、失言を繰り返した。幸いうさぎ少女は白哉の失言に気付くことなく、両手を握りしめ使命に燃える瞳で白哉を見上げている。
 こほんと咳をして、白哉は平静を取り戻した。
「気にする必要はない。お前には何かやらねばならないことがあるのだろう。自由にして構わない」
「でも、それでは……受けたご恩はお返ししなければ、一族の掟に反します。お世話させてくださいませんか」
 掟、と言われれば、掟を重んじる白哉には反論できる余地はない。それを否定すれば、掟を守ることを重視する自分の考えをも否定することになるからだ。
 ふと見下ろすと、うさぎ少女は必死に白哉を見上げている。小さな手が白哉の着物の袖を掴んで握りしめている。
 まるで、離れたくないというように。
「――お前がそうしたいのならばそうするがいい。自由にして構わないと言ったのだから」
「……ありがとうございます!」
 うさぎ少女が笑う――何と愛らしく笑うのだろう、と白哉は驚いた。少女が笑っただけで、その場が明るくなるのは何故だろう。まるで春の日差しの中に居るように。
「精一杯お世話させていただきます、ご主人さま!」
 白哉の身体が揺れた。
 もしこの場に白哉の従者がいたのならば、恐らく驚きに硬直しただろう――自分たちの主が、氷の花のよう、月のようと賛辞を受ける、自分たちとは違う孤高の存在、下々のように感情を乱すことのない、いつでも冷静沈着な、類稀なる高貴な存在、その朽木白哉が――まさかたった一言を受けてここまで動揺することなど!
「如何されましたか、ご主人さま?」
 心配そうに、少女は白哉の顔を覗き込む。正座した白哉の膝に、えいえいと頑張ってよじ登り、下から「ご主人さま?」と呼びかける。
「――白哉でいい」
「?」
「白哉でいい。私を呼ぶのならそう呼んでくれ」
「はい、白哉さま!」
 嬉しそうに少女は頷いた。春のような明るい笑顔。
 動揺したのは決してやましい心からじゃない。「何でもします」と言った少女が「ご主人さま」と自分を呼ぶ状況に、違う世界に行きそうになってしまったからではない、決して。
「お前の名は」
 勤めて無感情にそう問いかけると、うさぎ少女は「ひ、」と言いかけ口を閉じた。思案するように瞼を伏せすぐに顔を上げる。
「うさな、と申します」
「うさな、か」
「はい、白哉さま」
 あ、とうさなは声を上げた。ずっと膝の上に乗ったままのことに気付いたのだろう、頬を染めて「失礼いたしました」と降りようとする。
 その小さな身体を抱き上げて、白哉は歩き出し部屋を出る。
 数分後、一室に集められた朽木家の主だった従者たちは、いつもと同じ高貴な無表情で、腕に白いうさぎを抱いた主が、
「うさなという。――以後、私の部屋に共に住むことになった。よろしく頼む」
 と淡々と語るのを、驚きの表情を押し止めることに必死になりながら聴く羽目になった。








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