玲瓏の美青年――朽木白哉のその容姿の美しさは、例え白哉を快く思っていない者でも認めざるを得ないだろう。
 黒く長く艶やかな髪――怜悧な瞳、氷のようと評される、あまり感情を表さないその無表情さえ、神秘的という評価を彼に与える。
 彼はいつも孤高で崇高で、その動きは流れる水の如く優美で優雅で――――その美しさは頭上に唯一つ浮かぶ月のような。
 誰の手も届かない美しい月。
 誰の手にも入らない美しい月。
 誰もその心の内に入れない、遠く美しい月。
 ――その月が、言った。


「汁粉と団子とわらび餅、白玉餡蜜はクリームを乗せて」

 
 ざわっと店内がどよめいたそこは、瀞霊廷の中にある甘味屋「桔梗亭」。瀞霊廷内で「美味しい甘味屋」として有名なその店は、店舗と食事処が一緒になっている。
 その店に入ってきた白哉を見て、店内に驚きの波が広がったのはつい数分前。
 ここは護挺十三隊の隊員たちがよく利用する場所だ。甘味屋と言えば勿論その客は女性ばかりで、女性と言えば勿論隊内の美形どころはしっかり押さえている。白哉は付き合うことは絶対にない手の届かない実用的ではない物件だが、その美しさは観賞用としては申し分なく、白哉は行く先々でうっとりとした視線を受けることは常だったが――
 ここは桔梗亭――甘味屋。
 そこに白哉は現れ、あろうことか――その手に壊れ物を扱うような細心の注意を持って、あるものを抱いていたのだから、周りがどよめいたのは当然だろう。
 あるもの。
 白哉とは全くそぐわないそれ。
 こっそりと伺う女性客たちの視線は、普段から注視されることに慣れている白哉は意にも介さない。その視線を全くない物として自然に流し、注文を済ませぱたりと品書きを閉じた白哉は、「それ」に向かって――微笑んだ。
 途端、店内は今までにない程の驚きとざわめきとどよめきに包まれた。「え?」「何、あれ」「まさか!」「そうよ、だって――白哉さまよ?」「でも如何見ても――」「白哉さまに何があったの?!」そんな驚愕の声、声、声――
 そのどよめきを気にすることなく、白哉は見たこともない程やわらかな表情でそれを見つめている。
 つい、とその白い手が「それ」に伸びた。
 細い指で、「それ」の口元を撫でる。
 その動きに、今度は一転息を呑み僅かな音も立てないで白哉を凝視する女性たちの前で、白哉は何事かを小さく囁いた。それはあまりにも小さな声で、周囲の誰も聞き取ることができなかったが――目の前の「それ」には届いたようだ。慌てたようにぴょんと立ち上がる。
 小さな両手でこしこしと顔を拭う「それ」をみて、白哉は小さく声をあげて笑った。


 ――笑ったわよ!?
 


 店内の客全員が、全く同じタイミングで心の内に呟いた。
 白哉と言えば無表情の代名詞、その白哉が声を出して笑ったのだ――例えそれが普通の者にして見れば僅かな笑いであっても、それが白哉となれば話は違う。知人が地面を転げまわって痙攣を起こしながら大爆笑をしているのと同じインパクトだ。
 そして、奇跡ともいえるそれを成し遂げたのは、白哉が抱きかかえて現れた「それ」――今は白哉の前に、机の上にちょこんと乗っている「それ」。
 白いうさぎ。
 うさぎの中でも小さな身体のその白うさぎは、二度三度と身体をぷるぷると震わせて白哉を見上げた。ちょこんと机の上に座り、きゅうきゅうと可愛らしく声を出す――そう女性客たちの目に映っている光景は、白哉にとっては全く違ったように映る。
「――冗談だ。あまりにも嬉しそうなので、ついからかいたくなった」
「ひ、酷いです白哉さま」
 顔を赤くして俯く原因は、「涎が出ている」とからかわれたことと突然唇を指で触れられたこと、二つのどちらがより大きかったか。
「楽しすぎて羽目を外した。……失礼だったな。すまぬ」
「楽しい……ですか?」
「ああ。……こんなに楽しいと思ったことは今までにない。――お前がいるからだろうな」
「そん……な」
「不思議だ、お前といると心が休まる――何なのだろうか、お前を見ていると湧き上がるこの想いは……今まで私にはなかった感情だ」
「白哉さま……」
「愛しくて、大切で――護ってやりたい、どんなことからも。苦しみも哀しみもお前には見せたくはない。いつもそばで笑っていてほしい」



 
――何ですかその砂糖菓子より甘い糖度100%の世界はッ!?



 再び店内の女性たちは一斉に心の内で突っ込んだ。
 白哉には、目の前に居るのは多少サイズが普通とは違うが言葉を交わせる、可愛らしい少女だ。けれど他の者たちから見ればうさなは白いうさぎで、うさなの答える返事も聞こえるはずなどないから、彼女たちには白いうさぎに向かって白哉が微笑み一方的に話しかけているようにしか見えないのだ。
 あの白哉が、今まで女性と浮いた話のなかった白哉が、白うさぎを前に甘い台詞を囁いている――愕然と女性たちは一人と一羽を見つめていた。
 そこへ、やや緊張しながら「お待たせしました」と店員が盆を手に白哉の横に立った。白哉に見惚れながら、盆の上のものを机の上に並べていく。ごゆっくりどうぞ、という一言に無言で頷き、白哉はうさなに目を向けた。
 指をからませ胸の前で両手を組み、目をきらきらと輝かせてうさなは机の上のお汁粉や団子などを見ている。甘いものが好きと聞いていたが、ここまでだとは思っていなかった白哉は、うさなを喜ばすことができたことに満足しながら、添えられた匙を手に取った。
 うさなが真先に視線を向けた汁粉を掬ってうさなに差し出す。戸惑ったように白哉を見上げるうさなの口元に匙を運ぶと、うさなは真赤になって「大丈夫です、自分で食べられます!」と後ずさった。
「うさなにはこの匙は大きすぎるだろう」
 確かにその匙はうさなにとって大きすぎる。自分の身体半分もある大きさでは、使用するには無理がある。けれど、と躊躇ううさなの前で、白哉が「遠慮する必要はない」と再びうさなの前に匙を運んだ。



 ――『あーん』したわよラブコメ界では伝説のっ!! 



 その行為自体は知っていても、それをこうした他人が大勢いる場所で実際に行う者は滅多に、というよりまずいない。それをうさぎ相手とはいえ何のてらいもなくスマートに行う白哉に、尊敬と畏怖と畏敬と驚愕の視線を向け、やはり彼女たちは一斉に心の内に呟いていた。










 その女性たちの注視、声のない驚愕を白哉は全く気にすることなくせっせとうさなに匙を運び、妹に「天然」と言われたうさなの方は周囲のそんな様子に天然らしく全く気付くことなく、ただ白哉から運ばれる匙の上のお汁粉を、気恥ずかしさから頬を染めながら小さな舌で舐めている。
 それでも味わう度に幸せそうにうっとりとするうさなに白哉は再び小さく笑って、次の皿へ匙を動かした。
 小さなうさなには全てを食べることは出来ない。ちょうど好い塩梅で、白哉は全てをうさなへと給仕する。
「――うさながしなくてはいけないことと言うのは何だろうか」
 人心地ついて、きちんと机の上で正座をしているうさなを優しく見遣りながら白哉は尋ねた。先日、初めて逢った時にうさなは檻の中で「やらなくてはいけないこと」があると言っていた。
 うさなが何処から来て、何をしたいのか。
 出逢ってまだ数日しか経っていない。その数日の間にはっきりとわかったことは、自分がうさなに心を奪われたということだ。小さな少女、何を目にしても驚きに目を見張り興奮するさまが愛らしい。助けてもらったと恩を感じているのだろう、小さな身体で一生懸命白哉の世話をしようとする姿が愛らしい。そして大抵何か失敗をして、しょんぼりと意気消沈するさまが愛らしい。
 知っているのは名前と甘いものが好きということと、その素直な性格だけ。
 これだけ心を動かされているというのに、白哉には知らないことが多すぎる。そしてうさなの全てを知りたいと思うのは――心惹かれる者としては当然のことだろう。
 うさながしなければならないこと――必死で檻の外に出ようとしなければならない程の。
 白哉の問い掛けに、考え込むように俯いたうさなの姿に、白哉は「言いたくなければ言わなくても良い」と口にした。知りたいことは確かだが、無理に聞き出すつもりもなかった。いつか信頼してくれるその日まで白哉は待つことができる。
「いえ、言いたくないのではなくて――どう説明したらいいのかと。それに、」
 信じてもらえないかもしれないので。
 切なそうに笑ううさなに、白哉は「信じぬことなど」と否定した。うさなは嘘など吐けないことは解っている、と続く白哉の言葉に、うさなはうっすらと頬を染めた。
「――白哉さまは、死神……ですね?」
 知らせてなかった自分の職をうさなに言い当てられ、白哉は内心驚いた。何を見ても珍しがるうさなの知識は、この世界に対する無垢さの表れだ。そのうさなから「死神」という単語が出たことに意表を突かれる。
「死神、現世の守護者。負の存在である虚を滅却し、現世のバランスを保つ――それと同じ、ここ尸魂界の陰の気を浄化し、尸魂界のバランスを保つこと、それが私たち一族の仕事です」
 そこに居るのはいつもの見慣れた――大きな瞳をくるくると動かす無邪気な少女ではない。すっと姿勢を正した小さな身体から気品が溢れ出ている。それは、白哉でさえ圧倒される程の。
「私たちは霊子を自由に操ることができます。陰の霊子を清めて陽の霊子に。そうしてこの世界の、空間の調和を保ちます。――それが皇女であり神子となり巫女と呼ばれる私たちの務め」
 薄紫の瞳が凛とした光を内包して煌めく――その光が、ふわりとした春の光に戻った。
「――それが、満月の夜に私のやらなければならないこと、です」
 何故か照れたようにうさなは視線をそらした。想いを込めて言葉を口にしたことが気恥ずかしかったのだろう。
「皇女――つまり、貴女はこの世界を護る一族、皇族の」
 口調が改まった白哉に、うさなはぶんぶんと首を横に振った。一緒に両手も横に振る。
「いえ、あの、皇女と言っても本当に小さな一族なので――そんな大したものではなくてっ! いつも失敗して皆に笑われてますし、妹にはいつも『お願いだからもう少し威厳を身につけてくれ』って泣き付かれてますし、本当にそんな大したものではなくって!」
「しかし貴女は――この世界を護る」
「いえ、本当にそんな大したものではないのでっ! 今まで通りに接してください、お願いですからっ!」
 それに、とうさなは俯いた。小さな手で白哉の指を縋るように駄々を捏ねるように掴む。
 ――うさな、と呼んでくれる白哉さまの声が聞きたいのです。
 名前を呼ばれるだけでこんなに幸せだなんて知らなかったから。
 包んでもらえる暖かい手を知ってしまったから。
 護ってもらえる心強さを知ってしまったから。
「――うさな」
 優しくそっと白哉はうさなを抱き上げ――その小さな唇に口付ける。
 驚愕の悲鳴――嫌悪ではなく、ただ純粋に驚きの――こんなに美しい人が自分に口付けてくれることなどあるはずない、という悲鳴は、メーターを軽く振りきった驚きからくる硬直で上げることはなかった。
「びゃ、びゃ、びゃく」
「――厭だったか?」
「い、厭だなんて、だって、白哉さまが、私なんかと」
「厭ではないのだな」
 再び白哉の唇がうさなの唇に触れる。
 頭の中が真白になり、白哉の口付けを受けるまま(しかも相当長かった)固まってしまったうさなに声をあげられる余裕など微塵もなく。
 ただそのうさなの代わりと言わんばかりに、店内に居る全ての女性が一斉に「きゃああああああっ!!!」と悲鳴――もしくは歓声をあげた。







 阿鼻叫喚の坩堝と化した店内を全く気にする様子もなく、真赤になったままふらふらしているうさなを抱き上げ勘定をすますと、白哉は店の外へと出た。
 休日の、二人の時間はまだまだある。
 うさなが喜ぶのはどんな場所だろう、と思案しながら歩いている腕の中で、ようやくうさなが正気に返る。
 真赤になってる顔が堪らなく愛しい。
「白哉さまは、ずるい」
「ずるいとは?」
「おひとりで涼しい顔をなさって――私だけ、こんな」
 両手で顔を隠すその仕草も愛らしい。
 手玉に取られていることが悔しいのだろう、そこはやはり皇女のプライドなのかもしれない。小さく笑みをこぼすと、うさなは拗ねたように頬を膨らませた。
 その顔がふと思案する顔になり、――次いでにこりと微笑む。
「そう、私、霊子を操れると申しましたよね。そしてこの世界を構成する物は全て霊子。つまり――」
 うさなの周囲が、空気が微かに振動したように感じて白哉は目を向けた。
「白哉さまのお好きな衣服に変えることなどすぐですよ」
 うさなの身に纏っていた薄桃色の着物が消え、次の瞬間には黒と白の現世服を身に付けたうさなが白哉の腕の中に居る。
「如何でしょう、ご主人さま」
 悪戯気味に笑うのは、以前「ご主人さま」と呼ばれて動揺した白哉を覚えている所為だろう。そして、その時と同じように動揺している白哉を見上げている所為でもあるだろう。
 現世の、西洋の召使の服を着たうさな――確かにそれは愛らしいが、白哉が動揺したのはその所為ではなく。
 その服に変わるほんの一瞬、瞬きする間、その刹那に―― 一糸纏わぬ姿になっていることを、うさなは気付いているのだろうか。
 否、気付いていないのだろう――それは本当に刹那の瞬間、一瞬の半分の半分程の、限りなく零に近い時の中。
 けれど、白哉にはその瞬間が補足出来てしまうのだ――護挺十三隊の隊長である白哉には。
 はっきりと目に焼き付いて離れないのだ――白い肌も、予想以上に豊かな膨らみも。
「――白哉さま!? 白哉さま、白哉さま!?」
 うさな以上に動揺した白哉を目にし、その動揺の激しさに慌てるうさなの声を遠く聞きながら、白哉はこの動揺がその現世服の所為だと思われるのは心外だと如何でもいいことを考え――そしてそれは図らずもうさなの裸身を見てしまった白哉の、動揺の激しさを表す何よりの証拠でもあった。

 



 
 








 六番隊副隊長である阿散井恋次についてその周辺に居る者たちに評判を聞くならば、殆どが好意的な意見が返ってくるだろう。
 勿論真先に目に入る刺青が、男らしく精悍な顔つきに作用して粗野な印象や「怖そう」という感想を持つ者もいるが、それは言葉を交わしたことや普段の言動を見ることが出来るほど傍に居ない者の意見だろう。
 実際、阿散井恋次の評判と言えば、「口は悪いが部下思い」「熱血漢・正義感」「実は優しい」「裏表がない」等、そんな褒め言葉が上司同僚部下から返ってくる。
 彼の直属の上司の完璧に整った月のような美しさとは真逆の、整ってはいるがそれは荒々しい焔のような美しさだ。そして朽木白哉と違いこちらは彼女たちも手が届くかも知れない物件なので、阿散井恋次の周りには大抵女性隊員が群がってくる。いつか護挺十三隊の隊長になることは確実という将来性も見込まれて、恋次の周りには色とりどりの花や蝶が引きも切らない。
 休日の今日も、通りを歩く恋次にはその奇抜な私服をものともせず、一人歩く恋次を目敏く見つけた女性たちが群がってきた。こんにちは、と笑顔を向ければ暫く話に付き合ってくれるというのは彼女たちも折り込み済みだ。
 ところが六番隊の副隊長は、今日は何故かあまり乗り気ではないらしく、会話を早々に切り上げて歩いて行ってしまう。予定があるようにも見えず、ただ通りをうろついているだけだというのに、誰とも話そうとしない彼らしくもないその応対に首を傾げながら、彼女たちは大きな背中を見送っていた。




 彼らしくもない行動の原因は、今から5時間ほど前の彼の自宅を覗いてみればすぐにわかる。
「起きろ下僕!」
 久々の休日、新人教育の計画を立てていた間は休みが取れなかった恋次にしてみれば、心行くまで睡眠を堪能したかったしするつもりだった。実際、布団の気持ちよさに誘われうっとりと夢の世界へ誘われていたのだ。
 小さな暴君が寝ている身体によじ登って踏み付けるまでは。
「さっさと支度をしろ、下僕のくせに主よりも起床が遅いとは何事だ!」
 静かな部屋が怒声に満たされる。もぞもぞと布団の中から手を伸ばして枕元の小さな時計を目に近付けると、時刻はまだ6時半だ。
「……勘弁してくれ……久し振りの休みだぜおい」
「知るか! さっさと支度をしろ! 私は姉さまを探さねばならぬ!」
「一人で行ってこいよ、俺は寝る……」
 布団に潜り込んだ恋次に、暴君は「寝るな!」と激怒した。小さな足で恋次の身体を渾身の力で踏みにじる。
「気持ちいー」
「くっ!」
 下僕への制裁行為も、体重の軽いウキアがすると恋次にとってはどうやら適度なマッサージになってしまうらしい。悔しげに唇を噛むと、ウキアは布団の中に潜り込みがぶりと首筋に噛みついた。
「っっってええええええ!!!」
「起きたか」
「な、何しやがる! 手前実は人食い人種か! そうだな、そうなんだな物体Xめ!」
「ふむ、起きたようだな。外へ出る故、伴をしろ」
「くそ、いつか見てろよ手前」
 さすがに眠気は吹っ飛んでしまった。不承不承起き出すと、慌てたようにウキアは部屋の外に飛び出していく。何だ、と訝しんだ恋次の視界に、逃げ出すウキアの顔が赤くなっていることに気付いて自分の姿を見下ろす。
 肌蹴た襟から胸と腹が見えていることに気付きこの所為かとにやりと笑った。――どうやら暴君は男に免疫はないらしい。
 護挺十三隊に女性隊員は多いが、鍛練の際に汗をかいた後、上だけ着物を脱いで涼をとる男性隊員が多い所為か、この程度で頬を染める者は少ない。大人しそうな同期の雛森でさえ、上半身が裸の恋次に向かって平然と「もう、そんな恰好でうろついちゃだめだよ?」と声をかけてきたくらいだ。
 頬を染めて逃げ出す、周囲では見ないその行動に新鮮さを感じて笑っていると、隣の部屋から「気色の悪い物を見せるな!」と暴言を浴びせられ恋次は途端に憮然となった。



 恋次の私服を目にした途端、ウキアは暫く無言で恋次を見つめ、やがてふうと深い溜息をついた。そして憐みの視線を向け「所詮猿は猿か」と小さく呟く。
「んだと手前!」
「最ッ低なセンスだな。いっそ感心してしまう程の」
「うるせえ黙れ」
 それ以上言葉を重ねて口論となり外出が遅れるのを厭ったのだろう、ウキアはもう何も言わず、黙って腕を組みくいっと顎を引いた。
「――何だよ」
「特別に私に触れることを許す。本来ならばお前は私に口も聞けぬ賤しい身分、私に触れるなどあり得ぬことだが、寛大な私はそれを許す。感謝しつつ私を抱き上げろ。外へ行くぞ」
「ちょっと待て――抱き上げて? 外?」
「早くしろ。姉さまを一刻も早く保護せねばならぬ」
 腕を組んで精一杯大きく見せようとふんぞり返るウキアを見下ろし、恋次は頷いた。
 確かに、この歩幅では瀞霊廷の中心部に行くのでさえ3時間はかかる。恋次が抱き上げて連れて行けばものの15分だ。
 なるほど理に適っている。
 適ってはいるが。


「――断固拒否だ!!」


 力一杯拒否した。
「何だと貴様!」
「何で大の男がうさぎ抱いて練り歩かなくちゃいけねえんだよ! いい見世物じゃねえか! 男の沽券にかかわる、却下だ!」
「何だと!?」 
 ウキアの紫の瞳が怒りに燃えあがった。拒絶を受けたことがないのだろう、屈辱に唇を震わせて恋次をきっと睨みつける。
「お前の沽券など知るか、そんなもの最初からないだろう! 未開の猿がこの私に逆らうというのか!? 口応えは許さぬ、反論は許さぬ、貴様は私の言うが儘に動け、私の言うが儘に従え!」
 ふ、と恋次の顔から表情が消えた。――流石に、聞き流せる範疇を逸脱している。
「主に逆らうのか貴様!」
「大体俺はお前の下僕じゃねえ。最初の一歩から間違ってるんだよ手前は」
 何処から来たのか、何故自分にしか人の姿に見えないのか、何故自分にしか声が聞こえないのか、全く解らないままにそれでもウキアを拾ったのは、腕の中で震えているのに気付いてしまったからだ。
 誰にも気づかれない不安と恐怖を感じ取ったからだ。――主や従者など関係なく。
 ただ、助けてやりたいと思った。
 その想いを全く受けとめようとしないウキアに、恋次も――瞬間的にかっとなった。
「行くなら手前一人で探しに行け。俺に関係ねえからな、お前の姉貴がどこ行ったかなんてよ」
 突き放すようなその言葉に、更なる暴言が返ってくることを予想した恋次の前で、ウキアは今までに見たこともないほど悄然と――俯いた。
 そのあまりにも小さな肩を落とした姿に、言い過ぎたかとやや後悔する恋次の前で、ウキアは再び顔を上げた。唇を噛み、くるりと背を向け前を見据えて無言で玄関に向かって歩き出す。
 外に行こうにも、あの身体じゃ扉さえ開けられないだろう。ったく、と呟いて恋次は立ち上がる。
 瞬間的な怒りはもう消えていた。あの、顔を上げた時のウキアの、泣くのを堪えた、泣き顔を見せまいと唇をかみしめ前を見据えた気の強い顔を見てしまったのだから。
 一人で行け、など無理な話なのだ。言葉も通じず、他人には小さなうさぎにしか映らないウキアが一人で外に行けるはずもない。小さな足でこの広い瀞霊廷を姉を探して歩き回ることなど不可能だろう。
 それなのに突き放してしまった自分の言葉、そしてその言葉に悄然となったウキア。
 ウキアにも解っていたのだろう、恋次と姉は関係ないということを。姉を探さなくてはいけないのはウキアの事情で恋次には何の関わりもない。本来ならば頭を下げてお願いをしなければならない立場だが、生来の気位の高さが邪魔をして頼めなかった。ウキアが出来るのはいつも通り、高飛車な態度で恋次に接することだけだったのだ。不安な心を隠すにはそうするしかなく、そうしなければ自分の身を護れない。――ウキアのあの一瞬の、泣くのを堪えた顔を見ただけで――そこまで、恋次には解ってしまう。
 本当に性格が悪いわけではないのだ。そうでなければ、恋次の言葉を聞いたあの瞬間、あんな風に――途方に暮れた子供のような、あんな無防備な瞳をする筈はない。
「――ったく」
 もう一度呟いて歩き出す。
 ウキアには五歩で追い付いた。
 ひょいと後ろから抱きあげると、驚いたようにウキアが目を見張った。その睫毛が濡れていたことには気付かない振りをする。
「買い物行くぞ、付き合え」
 返事を待たずに小さな身体を懐に押し込むと、「乱暴にするな、莫迦者!」という聞きなれた怒り声と、ウキアがこっそりと目元を拭う動きを腹で感じて、恋次はまだ朝の光の眩しい外へと踏み出した。


 

 まだ店も開いていない早朝から買い物が出来る筈はないということは、いくら世間に疎いウキアでもわかっているのだろう。懐に入れられることは受け入れたようだ。文句は言わずに大人しくじっとしている。
 外を見なくても姉がそばに居たのならば気配でわかるらしい。けれどそれは近い距離でしか感じ取れないものらしく、ウキアは神経を集中し気配で姉を探し、恋次は肉眼でうさぎもしくはウキアのような小さな少女の姿が見えないか、意識を集中して周囲を見回している。
「――この近辺に居るのは間違いないのだ。『 門 』が開く直前、姉上はこの世界の何かを見て意識を奪われていた」
「門?」
 ウキアの世界の話を聞くのは初めてだ。興味を惹かれて問い直すと、ウキアは暫く口にしていいものかどうか悩んだようだったが、問題はないと判断したのだろう、「私たちは」と懐の中から恋次を見上げて話し始めた。
「お前たちが見ている月の裏側にいる――というよりも、お前たちが月だと見上げているあれは私の住む世界との境界線、つまり『 門 』だ。その先に私たちの国がある」
 私たちの側からお前たちの世界を見る、鏡の役割も月は果たしている、とウキアは続けた。
「『 門 』からこの世界に降りるとき、強く念じた場所に降下する。姉さまは最後に見たこの辺りに何か心惹かれるものがあった。だからこの辺りに居るのは間違いない。私は降りるときに姉さまを強く念じたのだし、私は姉さまのすぐそばに居るはずなのだ」
「へー。で、どんな感じなんだ、お前の姉貴は」
「素晴らしい女性だ」
 間髪いれずにそう答え、誇らしげにウキアは顔を輝かせた。
「一の姫皇女、一の神子、一の巫女と讃えられる方だ。姉さまの浄化の力は歴代の巫女の中でも群を抜いている。優しくてたおやかで聡明で麗しい」
「つまりお前と正反対だと」
「何だと貴様!」
 容赦なく爪を肌に立てられた。しかも両手の指全部で。
 突然腹を押さえ、呻き声を上げて蹲った恋次を、周囲の者が驚いて見る。さっそく「優しく介抱する自分」を売り込もうと寄ってくる女性たちを片手で制して、恋次はよろける足を踏みしめながら再び歩き出した。
「手前……覚えてろよ」
「無礼なことを言ったお前が悪い」
 ふんとウキアは懐の中で円くなった。恋次を見上げるのをやめて、腹を立てたまま周囲に姉の気配がないか探るため意識を集中する。
 姉は自分もこの世界に降りたことを知らない。助けに来たことを知らない。怖い目に合っていないだろうか、姉の言葉が聞こえないこの世界の誰かに檻に閉じ込められてはいないだろうか、月を見上げ泣いてはいないだろうか。
 自分が助けなくては。姉を護るのが自分の役目だ。幼い頃からずっと護って来たのだ、綺麗なだけではないあの世界で、それでも人を信じることをやめない姉をずっと護って来た。
 優しい姉さま、身を護る術を持たない姉さま。
 待っていて下さい、必ず私が見つけ出します。
 集中しすぎて眩暈がし始めたころ、不意に懐から取り出されてウキアは目を瞬かせた。目に入る光の量の多さに思わずぎゅっと目を閉じる。
 安定していた恋次の懐の中から抱き上げられ、宙に浮いた足に不安で足をじたばたさせたウキアの耳に、くくっと咽喉を鳴らして笑う恋次の声がする。
「大丈夫だって、目ぇ開けてみろよ」
 ――草のにおい、爽やかな風。
 恐る恐る目を開いたウキアの前に、一面の野原が広がっている。
 とんと地面に下ろされて、ウキアは目を丸くした。
 広い広い緑の丘。
 白い野の花が咲いている緑の野原、見渡す限りのその場所には誰もいない。
「家でも閉じ込めっぱなしだったからな、少し羽を伸ばした方がいいだろ」
 ほら、と差し出されたのはおにぎりだった。普通サイズのそれは、ウキアにとっては自分の顔ほどもある。
 そういえばお昼時だった、と気付いた途端ぐうとお腹が鳴った。真赤になるウキアから目を背けた恋次の方は震えている。笑いを堪えているのだろう。
「茶もあるぞ。まあ昼飯食う間くらいは、お前の姉貴も待っててくれるだろうよ」
 自分の分のおにぎりを頬張りながら、恋次は大きく伸びをした。緑の風を存分に身体に浴びている。
 いつの間に昼食を買っていたのか――自分の分もきちんと買っていてくれたことにやや戸惑いながら、ウキアは目の前に置かれたおにぎりを両手で支え、暫く逡巡した後、思い切ってかぶりついた。
 箸も使わずに食事をすることなど今までになかったが、こうして外で風に吹かれていると、そんなことは些細なことに思えてくる。
 大きなおにぎりを一生懸命食べていると、恋次と目が合って赤面した。
「食事中に見るな、無礼者」
 口にした途端、自分のその尊大な言葉に後悔したが、朝のように恋次が怒ることはなかった。「へーへー」と肩を竦めてそのままごろりと横になる。
 大きな欠伸をする恋次を見て、ルキアの小さな胸がちくりと痛んだ。
 恋次が疲れているのは知っている。それを無理やり起こしたのは自分だ。その疲れている恋次をもう5時間も歩き回らせている。それは全く恋次には関係のない事情で、付き合う義務などない筈なのに。
 今更ながら自分の横暴さに気付いてウキアは目を伏せる。
「――少し休んで良いぞ」
「ああ?」
「いや、その……私は休むぞ。疲れたからな、暫く一人でゆっくりする故、お前はお前で勝手にしていろ」
 そう言い捨ててウキアはとととっと走り出した。草の上を勢いよく走っていく。まさに脱兎のごとく、という言葉が当てはまる。
「――勝手な奴だな」
 速攻で離れるほど俺を嫌ってんのか、と既に見えなくなった背中を見送って恋次は舌打ちした。確かに朝に自分は酷い言葉を投げ付けた。あの気位の高いウキアを泣かせたのだ、相当根には持たれているだろう。それにしてもあんなあからさまに離れることはないだろう、と腹を立てている自分に気付いて再び恋次は舌打ちした。
 嫌う理由はある、嫌われる理由もある。
 お互い良いことじゃねえか、と恋次はウキアの消えた方に背を向け、言い訳のように考えている自分に再び気付いて腹を立てつつ、思考を放棄するために目を瞑って全てを遮断した。





 身体が軽い。
 三日程度の徹夜ならば何の痛痒も感じない程度に身体は鍛えてある。けれど僅かな睡眠時間で日常勤務をこなしつつ残業をしていたこの一月という時間に、やはり疲労は堪っていたようで、それを回復するには睡眠がやはり一番だ。
 目覚めた時にはすっきりと身体が軽くなっていた。草の上で眠ったのも良かったのかもしれない。大地の気と草の気と風の気、自然の気を存分に浴びて身体は復調している。大きく伸びをしながら恋次は周囲を見渡した。
 ウキアの姿が見えない。
 どれくらい寝ていたんだと時計を見れば、それは2時間ほどだったようだ。よくあの暴君が黙って待っていたものだと内心驚きながら恋次は「ウキア」と声をかける。
 さわさわと風が通る。
「ウキア?」
 再び呼んでみるが気配がない。
 惰眠を貪る自分に激怒して出てこないのかと溜息を吐きながら「出てこいよ、ウキア」と立ち上がった恋次の眼下に、小さな丸い薄紫の毬がある。
 あの毬の色は知っている。どういった仕組みかは知らないが、毎日変わるウキアの着物、今日着ていたウキアの着物と同じ色。
 大きさも――まるでウキアが眠るとき、小さく丸くなっている時と同じ、
「――ウキアっ!?」
 慌てて抱き上げたウキアの身体は酷く熱かった。見下ろすといつもは滑らかな白い陶器のような肌も赤く火照っている。小さな唇から洩れる吐息は速く熱い。だらりと力なく垂れた手は、抱き上げた恋次の手からこぼれてゆらゆらと揺れる。
「しまっ……」
 夏も近い晴れた午後。
 小さな身体は人よりも気温の影響を受けやすく、体温調節も難しい。
 水分を取ろうにも、小さな手では水筒の蓋を開けることも出来ず。
「おい、ウキア! 目ぇ覚ませこら!」
 荒い怒鳴り声とは真逆に、ウキアの頬に滑らす恋次の指の動きは、壊れ物に触れる時と同じそれだ。
 焦りの声にも反応する気配はない。
「――くそっ!」
 意識のないウキアを抱きしめたまま、恋次は必死の形相で走り出した。












「――随分久しぶりに来たと思ったら――」
「うるせえな、仕方ねえだろ休めるところで一番近いのはここだったんだからよ」
 呆れた声に対抗するには乱雑な声だ。呆れられるのは当然だと思っているから、より一層言葉は荒く刺々しくなる。
「金は払ってんだから俺が何しようと勝手だろうが」
「別に責めてやしないよ。どんな理由でもあんたが逢いに来てくれるのは嬉しいからね」
 護挺十三隊に入る前の、小さな子供のころから恋次を知っている楓は、恋次の無愛想な態度も気にすることなく艶然と笑う。その笑顔に舌打ちをしながら、恋次は楓の言葉に返すことなく黙々と団扇を動かし続けた。
 恋次の前、団扇の風が当たるところ、質の良い、原色を多く使った大きな布団の上に、小さな身体が横たわっている。
 その額に、恋次が丁度良い大きさに切った手拭いが、水に濡らされて乗っていた。
 ウキアは先程よりも顔色も呼吸も安定して、けれど意識が戻ることなく昏々と眠りこんでいる。眠りに落ちているその表情は体温が下がったせいか穏やかで、普段の生意気な態度は全く気配も見せず、あどけないと言っていい寝顔だ。その顔を複雑そうに睨みつけながら、恋次は団扇で風を送り続けていた。
 熱射病、もしくは日射病になってしまったウキアを休めさせるために、恋次が飛び込んだのは流魂街一区にある花街――馴染みの娼館だった。
 元々恋次と同じ戌吊の店に居た楓だったが、恋次が中央霊術院に入学が決まった時に73区を捨て共に1区までやって来た。「あんな場所にいつまでもいるつもりはなかったんだよ。あんたが瀞霊廷まで行くんなら丁度いい、あたしの護衛もついでに頼もうかねぇ」とにっこりと笑い、共に上層区までやって来た。その足の弱さの所為で歩く速度は恋次一人よりも大分遅くなったが、美人の楓がにこりと微笑めば、宿を無償で提供したがる男たちが行く先々で現れたので、なかなか楽な旅だった。楓がいなければ野宿ばかりの旅だっただろう。食うものにも休むところにも苦労せず大した危険もなく旅が出来たのは、間違いなく楓のおかげである。
 1区に辿りついた楓はその美貌が幸いし、すぐに勤め先が見つかり、そして当然のようにその店の看板になった。
 恋次は恋次で、同じ護挺十三隊の女性隊員と寝所を共にするのは色々と面倒という理由で、気が向いたときに楓の下に足を運び、恋愛感情はなくただ身体の相性が良いのは間違いなく、お互い割り切った関係が何年も続いている。
 新人で護挺十三隊に入った時からもう何年も経つが、楓は相変わらず美しいままだ。 
 その楓が恋次の後ろで笑っている。
「まさかあんたがそんな可愛らしいもんを飼っているとはねえ……」
 くすくすと口元を扇で隠しながら笑う楓をじろりと恋次は睨みつける。
「俺だって好き好んで面倒見てんじゃねえ! 我儘だし可愛げねえし喧嘩腰だわ高飛車だわ、ムカつくことこの上ねえ!」
「でも気に入ってんだろう、その娘」
「はあ? 何言ってんだ手前」
「我儘で可愛げがなくて喧嘩腰で高飛車な娘に頼まれて、断れなくて面倒見てんだろう? そのうさぎをさ」
 楓の目にはウキアはうさぎにしか見えず、恋次が口にした我儘で可愛げがなくて喧嘩腰で高飛車なのが目の前のうさぎだと知る由もない。ごく自然に、文句を言いながらも必死に面倒を見ているのは、うさぎの後ろに恋次が気にする少女が存在すると踏んだのだろう。
「あんたにもとうとう、特別な子が出来たってことなのかねえ」
「なっ……にを言ってやがる、んな訳あるか!」
「ああ、少し妬けるねえ。あんたがそんな風に誰かを好きになるなんてね」
「違うって言ってんだろうが、人の話を聞けっての!」
 荒げた声に、ウキアの長く伸びたうさぎの耳がぴくっと反応した。ふるふると震える耳に気付いた恋次が慌てて口を閉ざすのを、再び楓は口元を隠しながら肩を震わせて笑っている。
 恋次の目の前でゆっくりと大きな瞳が開いた。ぼんやりとした焦点が、恋次を見て――花のような笑みを浮かべた。無防備に――素直に。
 ――ちょっとまてそれは反則だろう!
 固まる恋次の前で、ウキアの目に光が戻る。焦点を結んだ紫の瞳が恋次を捉え、まるで春の雪のように愛らしい笑顔は一瞬で消えた。
「この――莫迦者め!」
 ウキアは一瞬で恋次の肩まで駆け上り、両手で恋次の口をびよーんと力一杯引っ張った。「私を殺す気か!」と小さな足でびしびし恋次を蹴り上げる。
「てっ! 痛っ! 蹴るな、引っ張るな悪かったって!」
「何度呼んでも起きぬし! 何度声をかけたと!」
「本当に悪かったって、何でも言うこと聞くって、だから蹴るな引っ張るな!」
「――そうかならば許そう」
 あっさりと引いた攻撃に呆気にとられる恋次に、ウキアは「ではお前は私の下僕に相違ないな?」とびしりと指をさした。
「私の望みは、貴様が私の下僕となることを自ら認めることだ!」
 腕を組んでふんぞり返るウキアに、恋次は「何だと!」と抵抗するも、じろりと睨まれ何も返すことが出来ず――がくりと畳に手を付き敗北を表現した。
「くそ、一生の不覚……!」
「ふむ、お互いの関係が明らかになったところで、今日はもう帰宅するぞ。まだ身体の調子が戻らぬからな」
「あーくそっ!」
 悪態を吐きながらウキアを抱き上げ、恋次は背後で、隠すことを既に放棄して笑っている楓をじろりと睨みつけた。「帰るぞ」と不機嫌に言い捨てる恋次に、笑いすぎて涙が滲んだ目元を細い指で拭いながら楓は「わかった」と頷いた。
「お前のいい子によろしくな」
「んなもんじゃねえっ!」
 ウキアはそこで初めて他人がいるということに気付いたようだ。瞬間、怯えるように恋次の首にしがみつく。
「随分慣れているんだね。こんなにしがみつかれて」
 どう返事をしてよいかわからず複雑な表情を浮かべる恋次の頬に手を伸ばし、つい、と楓は恋次を自分の方へと向かせた。
 楓から重ねられた唇――肩の乗ったウキアの目の前で。
 硬直するウキアの見ている中で、楓の唇が離れた。
「――またおいで。次は抱いてくれるといいんだけどね」
「気が向いたらな」
 重ねられた唇に動じることもなく、恋次はじゃあなと片手を上げて部屋を出る。
「お前のいい子に振られたらいつでも慰めてあげるよ?」
「だから違うって言ってんだろうが!」
 振り返って怒鳴りつける恋次に、楓は声を上げて笑う。その声を背中で聞きながら、恋次は憮然と外に向かって歩き出した。







 肩に乗ったままのウキアがいつになく静かなのが気になって、恋次は「どうした?」とその顔を覗き込んだ。幾分しょげたように見えるその顔は、恋次の視線に気付いてふいと顔を背ける。
「別に。まだ身体がだるいだけだ」
「――暫く休んでた方がいいな。家でもじっとしてろよ? 手前はすぐうろちょろするからな」
 そんな恋次の言葉にいつもならばウキアは言い返しているだろう。けれどそんな気力もないまま、何故気力がないのかがわからないまま、ウキアは視線を下に向けた。
 結局、あれだけ厭がっていたというのに、恋次はウキアを懐に入れずに抱きながら歩いている。
 それが自分の体調の所為だと―― 一番楽なようにそうしてくれているのだと、わかる。  
 ウキアの体調を崩したことに責任を感じているのだ。
 ――本当は、恋次の所為ではないのに。
 何度も恋次を起こしたというのは嘘だった。一度も起こしてはいない。眠る恋次の寝顔をただ横で見ていたのだ。のどの渇きも身体の熱さも気付かないほど――少しおかしいな、と思った時も、こんな風になるとは思わずに、恋次を起こさずにそのまま過ごした。
 自分の管理がなっていないだけのことだったのに。
 恋次が責任を感じる必要はないというのに。
 自分の言うことを聞いてほしくて嘘を吐いた。そしてその罰が――
「綺麗な人だな」
 ぽつりと呟いたウキアの言葉に、恋次は躊躇いもなく当然だとばかりに「ああ、そうだな」と頷いた。
 再び沈み込む気持ちが何故なのかわからないまま、ウキアは黙って恋次の肩から頭上の月を見上げた。
 


 もうすぐ、月が満ちる――。

  





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