「――お前は向こうに行ってろ」
 大きく振った手は、けれどふわりと舞う蝶に当たらないよう、遠く離れた空気を薙いだだけだった。
「この後の事は見られたくないんだよ。向こうに行って花でも探して来い」
 その恋次の言葉が聞こえたかのように、恋次の傍らを舞っていた蝶は恋次の傍から離れていく。ゆっくりと去っていく蝶を見遣り、恋次は小さく笑った。
 その背後で、草の踏む音がする。
 ゆっくりと振り返る恋次の視線の先に、男の姿がある――驚いたように目を見張り、やがてその表情は恋次の身体――男の半分ほどしかないまだ小さな身体、そしてその両手に凶器となるものを何も持たず、身構えることもなく静かに立つ恋次に何の脅威も感じなかった所為だろう、歪んだ形の笑みを浮かべた。
「さっきの女の子はどうした?」
 上辺だけの微笑で、男は恋次にそう尋ねた。数刻前、偶然見かけた小さな少女。この流魂街では珍しい小さな女の子供、しかも綺麗な顔立ちの。
 すぐに行動に出なければ、他の誰かにこの金の卵を奪われてしまう。
「少し話したいことがあってね。――そうだ、キミがあの子をここまで連れて来てくれたら、ほら――これをあげよう」
 懐から小銭を取り出して、男は恋次に笑いかける。
「――林檎をもらったって」
「あ?」
「あいつ、あんたに林檎をもらったって喜んでた。酷い大人ばかりじゃない、こんなに親切な大人もいるんだってな、すっげえ嬉しそうに笑ってよ」
 男の笑みが、酷薄なそれに変わる。下手な冗談を聞いたように声だけの笑いで答えると、男は「そりゃああの子の考えが浅はかなんだよ」と肩を竦めた。
「ここを何処だと思ってんだ――戌吊、だぜ?」
 生き伸びる為に行う行為を、咎める者の居ない場所。
 くくっと笑う男を無表情に見詰め、恋次は「そうか」と呟いた。
 怯える様子のない恋次に一瞬男は笑みを消したが、恋次の薄い着物の何処にも武器を隠す場所のないこと、素手では自分に敵うことはないと判断し、再び余裕の表情を取り戻す。
「あの子を連れてくるならお前は見逃してやる。じゃなきゃ一足先に、他の小僧達を向こうで待ってろ」
 懐から匕首を取り出し、見せ付けるようにゆらゆらと切先を振る男に、それでも恋次は無表情だった。
「仕方ねえな――でも、あいつのしょげた顔は見たくねえし」
「――? 何言ってんだお前?」
「あいつの中で、あんたはずっと『いい人』でいてもらう。むかつくけどな」
 恋次の言葉の意味は全く男にはわからない。それでも素直に少女を連れてくる気がないことだけはわかる――そしてそれだけわかれば男には充分だ。
「じゃあお前は先に向こうに行ってろ」
 振り上げた匕首の切先を、恋次の額目掛けて男は勢いよく振り下ろす。刃は空気を切り裂き、ぶんという鈍い音を立てて恋次目掛けて一直線に襲い掛かった。
 相手は子供、しかも素手――反撃の可能性は全くない。
 その、筈だった。
 キン、と可聴域の限界近くの細く甲高い音と共に、男の手から匕首が跳ね飛ばされた――茫然と男は恋次を、恋次の右手を見る。
 先ほどまで何もなかったその右手に、逆手に握られた細い剣。
 それが男の匕首を受け止め、跳ね上げ――そしてその切先は、流れるような動きでそのまま男の胸へと突き刺さる。
「か――はっ」
 口から少量の血を吐き、突き立てられた刃と恋次を交互に眺め、男は「まさか――」と呟いた。
「まさかそれは、斬魄刀――」
 言葉は、無造作に引き抜かれた恋次の刀傷から溢れ出す血に紛れ途絶えた。数瞬前には予想だにしなかった自分の死を目の前にして、男は愕然と目を見開く。
 血を吹き上げながら地面に倒れいていく男のその瞳に最後に映ったのは、刀を振り刀身に纏わり付いた赤い血を飛ばす恋次の姿だった。



「ざんぱく――とう?」
 聞き慣れぬその言葉に恋次は眉を顰めた。事切れた男にはもう視線を向けることなく、恋次は自分の手の中にある刀を見詰める。
 自分の意思で出現する、この刀がどんなものかを恋次は知らない。
 何故自分がそんな事が出来るかもわからない。
 けれど理由など如何でも良かった。
 護る力、それだけが重要なのだから。
 仲間を、家族を――ルキアを護る、この力が。
「――恋次、遅かったではないか」
 小さな小屋へと戻った恋次を真先に迎えたのは、咎めるような怒気を含んだ声。――それは恋次の身を心配していた裏返しの声。それがわかっているから、恋次の口元には微笑が浮かぶ。
「悪い」
 素直に謝る恋次に、その無事に安堵したルキアはその安堵を見透かされないように「で、失せ物は見つかったのか?」と腕を組んだ。睨むように見据える紫の瞳に、恋次は「もう誰かに拾われちまったみてえだな。何処にもなかった」と溜息を吐いてみせる。
「全くお前は――気を抜くからそんな風に物を落とすのだ」
「ああ、悪い。これからは気をつける」
「まあ、良い。――ほら、お前が戻るまで待っていたのだ。帰り道の途中で言っただろう、林檎を貰ったと。お前が帰ってからと思って食べないで取ってあるんだ」
 みんなで分けよう、と恋次の手を引いて小屋へと入りながらルキアは「戌吊にも親切な人はいるのだな」と嬉しそうに笑う。
「厭な大人ばかりではないのだな。――それが私にはとても嬉しいんだ」
「ああ、そうだな。――こんな世界でも、親切な人はいるんだな」
 泉で洗った両手は綺麗で、――けれど他人を殺めた罪は、どんなに洗っても決して消えない。
 それでも――何事もなかったように恋次は笑う。
 ルキアを護ること――それだけが、重要なのだから。