「恋次?」
 いつものように恋次が買って帰ってきた薔薇の花を、今日は寝室の花瓶に活け、一歩下がってその出来栄えに満足すると、ルキアは周囲を見回した。
 その美しい眉が、僅かに顰められる。
 しんと拡がる静かな空間。
 家に帰ってくれば、逢えなかった時間を埋めるように自分の傍にいつもいるはずの恋次が、今日は何処にも見当たらない。
 広い高層マンションの、最上階のワンフロア全てが誰も知らない秘密の部屋で、その秘密の部屋の中を、ルキアは恋次の姿を求めて歩く。
 窓の無い白い壁が続く、広い広い部屋。
 頭上に月、暗い夜空。
 音の無い世界。
 淡い間接照明が、今は小走りになったルキアの後を追い影を引く。
 不意に不安に駆られて、ルキアは再び恋次を呼んだ。
「恋次?」
 微かに泣きそうになったその声の揺らぎを聞いたのか、恋次の声が聞こえた。
 その声に向かってルキアは走り出す。
 恋次、と再び呼べば、此処だ、と近くで声がした。
「如何した?」
 居間に立つ恋次の姿を見つけて、ルキアは小さく安堵の溜息をついた。
 既に世界は、恋次を中心に成り立っている。
 他の何も要らないと、他の全てを犠牲にしてもいいからと、熱く燃える激しい想い。
「何かあったのか」
 少し驚いたような声を上げる恋次に、ルキアは「何でもない」と首を振る。
「いや、……お前がいないから。吃驚して、それで」
 ほんの少し、拗ねたようにそう呟いてみれば、思った通り恋次はルキアの身体を引き寄せ抱きしめた。
 恋次の香りに包まれて、恋次の腕に包まれて、ルキアはようやく心から安心する。
 恋次は自分を愛している、そう信じられて。
 ずっと憎まれていると思っていた―――ずっと疎まれていると思っていた。
 自分の存在を無いものとする恋次の言動に傷付き、怒り、憎悪し―――その心を手に入れることの出来ない苦しみに、気が狂いそうだった数日前。
 たった数日前―――そして、今は。
「悪い」
 甘やかすような恋次のその笑顔と言葉に、かえってルキアは意地を張る。
「悪くなんてない。……おかしいのは私の方だってわかってる」
「おかしい?」
「お前が傍にいなくちゃ厭だなんて。子供みたいなこと、言ってるのはわかってるから」
 子供のように拗ねながら、ルキアは恋次の腕の中で、恋次に抱きつきながらそう言った。
「おかしくねえよ。俺だってそう思ってんだからな」
 軽々とルキアを抱き上げて、自分の顔より上へとルキアの顔を移動させると、恋次はルキアの頬に軽く唇を触れる。全くの子供扱いなその口付けに、ルキアの顔が更に膨れた。
「私は幼児では無い。そんな子供騙しの―――」
「子供騙しの?」
「―――子供騙しの、キスでは満足できない」
 ルキアの雪のように白い頬が赤く染まったのは、怒りの所為でないことは、ルキアにも恋次にも、お互い充分わかっていることだろう。
 ルキアの望む大人の口付けを、ルキアを抱き上げたまま恋次は与える。
 するりと忍び込む恋次の舌を受け止めて、ぎこちなくルキアも舌を絡める。おずおずとした動きは、すぐに恋次の動きに煽られて熱い動きに変化する。
「ん……」
 吐息も熱く潤んでいる。縋るように恋次の肩に手を置いて、一度離れた唇を、今度はルキアから重ねてねだる。
 熱く絡む恋次の舌に、頬を赤らめながら受け入れるルキアの横で、カシャ、と小さな音がした。
「―――?」
 不思議そうに音の方へと顔を向けようとするルキアを許さず、恋次はルキアを抱き寄せ再び唇を重ねる。恋次に抱き上げられたルキアの足先は宙に浮き、ぴくんと小さく揺れ動いた。
 カシャ。
 また小さな音がする。
「何―――?」
 首をかしげて音の原因を知ろうとするルキアに、恋次は苦笑する。
「他に意識を向ける余裕」
「え?」
「失くすからな」
「え?え?」
 次の瞬間、ソファに転がされ目を丸くしたルキアは、何気なく触れた恋次の指、たったそれだけで―――理性の全てを、失った。









 カシャ。
 そんな音で目が覚めた。
 身体はまだ熱く火照っている。
 乱れた服もそのままに、ルキアはソファの上で―――座る恋次の膝に頭を預け、甘く激しい行為の余韻にぼんやりと頭上の月を見上げている。
 カシャ。
「―――また」
「ん?」
 汗に濡れるルキアの髪をかき上げながら、恋次は上からルキアの顔を見下ろした。
 しどけなく投げ出された腕、しっとりと汗で濡れた細い首筋。
 数分前まで、蕩けるような声で恋次の名前を呼び、その腕の中で恋次にしか見せない女の顔を浮かべていたルキアは、まだ夢の中にいるような、とろりとした声で「音―――」と呟く。
「音、が」
 カシャ。
 小さな音。
 聞き逃してしまいそうな、微かな音。
「―――聞こえねえように作れって言ったのに、理吉の奴」
「りきち?」
 溜息をつく恋次に向かい、誰?と問いかけるルキアの耳に、再びカシャ、と小さな音がする。
 小さな音―――まるで、写真を撮るような。
「―――ような、じゃなくて、この音!」
 がばっと身を起こすと、ルキアは先程恋次が立っていた場所まで駆け寄った。その背後で恋次はソファの上で額に手をあて頭上を見上げている。
「―――恋、次?」
 その声に、顔を覆った手の隙間からルキアを眺めれば、にこりと笑顔を浮かべた―――ただし、目は全く笑っていない、愛しい恋人。
「これは何か―――説明してもらおうか?」
 ルキアの手にしたデジタルカメラに、恋次はもう一度、理吉の奴、と呟いた。








「お前の写真が欲しかったんだよ」
 溜息をつきながら恋次はルキアへ手を伸ばした。撮られまいと握り締めるルキアの手から、魔法のように恋次はカメラを取り戻す。
「―――ああ、よく撮れてるな」
「返せ、莫迦!」
 真赤になりながらルキアはカメラへと手を伸ばした。液晶画面に次々に映し出されるのは、とても自分とは思えないほどの淫らな姿。恋次に抱かれる自分の姿だ。
「悪趣味だぞ、阿散井恋次!」
「何で?綺麗じゃねえか」
「そ、そんなもの撮る必要ないだろう!」
「まあそれもそうだな」
 恋次は頷き、全ての写真を消去する。隠し撮りしながらあっさりとデータを消してしまった恋次のその行動がルキアには全くわからず、きょとんとしていると、恋次はにやりと笑って言った。
「お前のこの顔なら、写真で撮っておかなくたっていつでも見たいときに見られるしな」
「う」
 真赤になるルキアに、恋次は「写真が欲しかったんだ、お前の」とくしゃりと頭を撫でてもう一度そう言った。
「自然に笑ってるお前の写真。それを撮るのが目的だったんだけどな」
 今度は隠さずに机の上にカメラを設置すると、恋次は「ちょっとお前の誘惑に負けちまって、あんな写真が撮れちまったけど」と笑う。
「ゆ、誘惑って言うな!」
 カシャ。
「誘ってくれて俺は嬉しい」
「誘ってないってば!」
 カシャ。
 カメラはオートにしてあるのか、一定の間隔で自動的にシャッターが下りていく。
「だから何で写真が欲しいんだ?!」
 無理矢理話を逸らそうとするルキアに、恋次は「ちょっとな―――」と恋次らしくなく言葉を濁す。
「恋次?」
 怒っていたルキアの顔が、俄かに泣きそうに歪む―――隠し事、それがルキアの恐れることだ。
 外の世界の恋次を、ルキアは知らない。
 この秘密の部屋で独り、ただ恋次を待っているだけだ。
 本当は全てを独占したい。恋次の時間、全てを奪ってしまいたい。24時間、朝も昼も夜も、ずっと恋次の傍にいたい。
 それが無理だとわかっているから―――せめて、同じ時間を過ごす間だけは、恋次の全てを独占したい。
 だから、恋次が隠し事をするのは厭だった。恋次が何を考えているかを、知りたかった。
 けれど、全てが欲しいと、何もかもを知りたいと、そう言ってしまったら、きっと束縛されていると恋次は思うに違いない―――だから、ルキアはその思いを口にしない。 嫌われたくないから。
 恋次にはそんなルキアの考えなど、手に取るようにわかるのだろう―――ルキアのその泣き顔に、恋次は小さく笑った。降参、と呟いてルキアの頭を優しく撫でる。
「お前の写真、いつも持ち歩きたかったんだ。お前と俺の写真―――こら、笑うな」
 泣き顔から今度は驚いた顔へ、そして―――笑顔へ。
「だって―――恋次がそんな事、言うなんて」
 女子高生みたいだ、とくすくすと笑うルキアの頭を抱え寄せ、恋次は軽く唇を合わせる。
 カシャ。
「―――ベストショットだろ?」
「こんな写真持ち歩くのか?」
「そう。仕事中、ずっと目の前に置いておく。そうしたら仕事もはかどるだろ」
「―――そうしたら、早く帰ってくる?」
「勿論。はやく本物に逢いたくて」
「じゃあ―――いい」
 こつんと額を付けて、ルキアは言う。
「少女趣味な恋次のために、その願いを叶えてあげる」
「少女趣味―――」
「乙女チックと言ってもいいぞ」
「乙女……」
「私よりも余程ロマンティックなのだな、恋次は」
 額を付けたまま恋次の顔を覗きこむと、その顔が珍しく複雑な表情を浮かべている。あまり自分に言われたことの無いその単語類に戸惑ったのか、考え込むその恋次の顔が面白くて、ルキアは声を上げて笑った。
「笑うな」
 そう言いながら、恋次も声を上げて笑う―――額を付けたまま二人はいつまでも笑い続けていた。





















 ポストの中の手紙の束に違和感を感じて、少年はそれを取り上げた。
 普段、ここに配達される郵便物は、事務的な封筒が使われたものが多い―――それが、その封筒は明らかに違っていた。
 じっと目を凝らすと、ただ白一色ではなく、まるでレースのように細やかな柄が刻まれている。指先に触れる紙の感触も、ざらざらとしたものではなく上質なものだと少年はわかった。
 誰からだろう、と封筒を裏返してみても、そこには何も無い。
「どうしたの?」
 背後からかけられたやわらかい声に、少年は「これ、来てたよ」と手紙を差し出す。少年と同じようにその手紙に首を傾げ、やわらかな声の持ち主は、その声と同じ優しげな顔をやや緊張させその場で封を切った。
「―――!」
 息を呑む音がする。少年の目の前で、その女性は―――母と言っていいその女性は、見る見る目に涙を浮かべ、そして顔を覆い堪えきれずに泣き出した。
「どうしたの?―――ねえ、どうしたの?」
 母の涙を見るのは、少年は初めてだった。いつも優しく穏やかな母の顔は、時折何かに思いを馳せるように遠くを見つめ悲しみに翳る時はあったけれど。
「どうしたの―――何が哀しいの」
 自分が護らなければ―――と少年は思う。
 数多い兄弟の中で、自分が一番年長なのだ。女性の―――母である女性を助けるのは、自分しかいない。
「僕に話してよ、先生」
 顔を覆い泣き崩れる母に向かい、少年は尋ねる。
「違うの―――ごめんなさいね。哀しいのではないの。嬉しいの―――嬉しくて」
 そして再び泣き伏す母に困惑し、訳がわからず少年は母の―――シスターの手にあった手紙を取り、中身に目を移した。
 手紙はなく、ただ写真が一枚。
 紅い髪の青年と黒い髪の少女が、額を付け向き合い笑っている写真だった。
 横顔の二人は、どちらも目を瞑り笑っている。今にもその笑い声が聞こえそうなほど、楽しそうな、幸せそうな、そんな笑顔の写真。
 そして、写真の裏に、一言。

 ―――元気です

 たった一言。
「逢えたのね―――もう一度。幸せなのね―――ルキちゃん……恋次君」
 よかった、と―――シスターは涙を流す。
 後から後から溢れる涙を、シスターは拭うことなくただ泣き続けていた。  


 


 



2007.11.13