どんなことも厭わなかった。
辛いことなど何もなかった―――そう、あの過酷な状況の中でさえ。
一瞬も気の休まる事が無かったこの十年、
何度も生命を堕としかけたこの十年間を、
それでも俺は笑って幸せだったと断言できるだろう。
何故ならその時間全てが、
お前に近づいているその証だったのだから。
お前の約束を果たす、そのためにする苦労は決して苦労ではなく
お前に近づく、そのために必要な罪悪は罪悪ではなく
例えこの身が傷付いても、例え誰かを傷付けても、
己の血を流しても他人の血を流しても、心が揺らぐことは決してなかった。
この世に大切なのはお前だけ。
この手で護るべきはお前だけ。
お前との約束を叶えるため。
お前の笑顔を取り戻すため。
血を吐き。
地を這い。
それでも笑って立ち上がる。
何度も、何度も。
何度でも。
『きっと迎えに来てね―――ずっと、待ってる……』
それが約束―――それが誓い。
それだけがこの狂った世界で自分を支える。
お前を迎えに行く。
キット迎エニ来テ。
キット迎エニ行ク。
『 き っ と 迎 え に ―――』
けれど、それは既に遅く―――その約束を果たすことは永遠になく。
あの時、手を放してしまったあの時に―――全ては手遅れだったのだ、と。
今更気付いても―――もう遅い。
お前は居ない。
約束を果たすべきお前は、十年前のあの時に、既にこの世から―――消えていた。
『記憶を消した。―――“ルキア”の記憶は、何も無い』
けれど、と。
だけど、と。
信じていた。
記憶が失われても、決して自分たちの絆が切れることは無いと。
初めて出逢ったときのあの感覚、
初めて出逢ったときのあの歓喜を、
『見つけた』というあの想いを忘れることは無いだろう、と。
一度失ったとしても、もう一度出逢えば必ず俺たちは惹かれあう―――そう、確信していた。
それが、単なる思い込みだと―――自分に都合のいい夢だと、現実を―――突きつけられる。
二度目に目にした『光』は、―――他の男のためにその身を輝かせていた。
目映い照明の中、それ以上の美しさで光り輝き、その紫の瞳は目の前の男だけを見つめ―――
その男にごく自然な仕草で甘え、頼り、その身を預け、崇拝と憧れと愛情を込めてその男だけを見つめていた、その姿。
見ていることが出来なかった。
蒼褪め直ぐにその会場を後にした―――平静で居られるはずもなかった。
何故、あんな潤んだ瞳であの男を見つめるのか。
何故、全てを委ねるように身を任せていたのか。
何故、―――僅かも俺に気付くことがないのか―――。
身を焦がすほどの灼熱。
心が凍るほどの焦燥。
ルキアは―――俺のルキアではないのか―――と。
何度も自問し、何度も自答した。
そんな筈は無い。
ルキアが他の男を愛することなど、
ルキアが自分を忘れてしまうことなど、
ルキアがルキアでなくなってしまったなど、
そんな筈は無い、と。
己に言い聞かせるように、
何度も、何度も、何度も、何度も……
もう一度、その紫色の瞳を見つめ、
もう一度、その体温を確かめ、
もう一度、その名前を呼んで―――
もう一度、お前を取り戻すために。
そして、二度とお前を離さないように。
見つめ合った暁の色の瞳も、
抱きしめた華奢な身体から伝わる温度も、
珊瑚色の唇から零れる音色も、
触れた唇の甘さも、
全て、昔のまま―――
ただひとつ。
心を除いて。
『私の兄様を。あの美しい人を。私の―――愛する人を、私の存在する意味の全てを』
心は―――想いは、遠く。
自分の知る「ルキア」は、今は、もう……
『兄様を傷つけようとする者は―――私の敵だ』
―――ルキア。
ずっと一緒にいると誓った。
いつまでも傍にいると誓った。
離れないと誓った。
そのお前が、
―――お前が、見えない。
姿は同じ。
声も、仕草も。
けれど、心が、想いが違う。
正視―――出来ない。
同じ姿と声、それなのに
「ルキア」とは違う―――自分の「ルキア」とは。
その存在を受け入れられない―――正視できない。
『迎えに行く―――必ず』
その言葉を支えに―――生きてきた。
けれど。
今。
迎えに来た、今。
お前は、もう、ここには―――どこにも。
存在しない。
ずっと一緒にいる。
その誓いを護る。
お前が居る場所がこの世界では無いというのなら、
お前の居る場所まで必ず行くから。
現世にお前がいないというのなら、
このうつし世に意味は無い。
恐れるものは何も無い。
失うものも何も無い。
其処が何処でも構わない。
其処が果てでも構わない。
―――お前の世界へ俺を連れて行ってくれ。