世界は血の色に染め上げられていた。
 夥しい屍の中で、動く者は自分ひとり――むせ返る程の血の匂いの中で、生き残ってしまったのは自分一人。
 愛しい人を護ることさえ出来ずただ独り生き残り――その腕に愛する者の亡骸を抱え、いっそ狂えたらと切望し、いっそ殺してくれと懇願した。
 これが自分への罰なのか。
 過ぎた望みを抱いた咎か。
 この先背負う自身の罪か。
 まだ温もりの残るその身体を何度も何度も抱きしめて、それでも奇跡など起きる筈もなく――その魂は還らない。
『逝かないでくれ……お願いだ、独りにしないでくれ……!』
 咽喉から血を流すほどの絶叫に、答える人の声はなく――















「――っ!」
 飛び起きた恋次は、一瞬で鞘から剣を抜き放った。その殺気を敏感に感じ取り、もたれていた樹の上から鳥が数羽飛び立っていく。その騒がしい音に動じる様子も見せず、恋次は四方の気配を探った。
 浅い眠りを破った筈の何かの気配は、どれ程集中しても掴めない。けれど気の所為かと済ませられるような自身の能力ではない。幼い頃から何年も生死を賭け生き抜いてきた、実践から育まれた他者の気配の察知能力――それを恋次は信じている。
 舌打ちをして恋次は立ち上がった。気配は既に霧散し、つまりは通り過ぎ――若しくは、完全にその気配を消し、この近くに潜んでいるかだ。
 どちらにしろ、気配の相手は真当な人間ではないだろう。この森に足を踏み入れる人間は居ない――ここに立ち入るのは、妖魔のみだ。
 人の姿を纏い、人とは在らざる能力を纏う者。
 人を喰い、戯れで簡単にその生命を奪う妖魔――その妖魔の中で、最強の――最凶の妖魔が、
 吸血鬼。
 人の血を糧とし、圧倒的な魔力を持ち、永い時を歳を経る事無く生き続ける……黄昏の種族。あらゆる妖魔の……否、あらゆる生物の頂点に立つ、絶対的な支配者。
 その支配者の一人が、この森の先に居る。
 長い間恋次が追い続けた――血を吐きながら、死の淵に何度も立ちながら、それでも生き延びてきたのは全て――吸血鬼を殺す、その一念の為だった。
 自分の全てを奪われたあの日、自分の全てを奪ったあの吸血鬼の事を、恋次は一瞬たりとも忘れる事はない。
 夥しい程の屍の群。動くものは自分ただ一人――むせ返るほどの血の匂いの中で、事切れた家族の、友人の屍を抱きながら絶叫した――何も出来なかった自分を呪いながら絶叫した、あの日の事を。















 以前妖魔が現れた為に、村長から入ることを禁じられた森に恋次が一人忍び込んだその日の夕刻――恋次を向かえたのは、村人の叱責でも安堵の声でもなく。
 一面の血の色だった。
 霧のように濃厚に立ち込めた血の匂いと死臭。そして、折り重なるように倒れた村人の上に足を置き――幼い頃から共に遊んだ少女が、異形の者の手にその細い首を握られていた。
 泣きながら、それでも恐怖のあまり声が出ないのだろう――がくがくと震える少女の首を片手で掴み、その白い顔に浮かんだ表情は愉悦――その手に握った少女の生命と恐怖に愉しむ異形の女。
 その身体は決して大きくはない。片手に掴んだ少女よりもほんの少し大きいだけ――十五、六歳にしか見えない小さな身体。その身体を包むのは漆黒のドレス――美しい光沢を持つそれは夜の闇のように深く、女が動く度に光を放った。
 そして――その顔。
 異形としか呼べない――あまりにも美しい、人間には在り得ない――美しすぎるその顔。
 白い肌は一度も日の光を浴びたことのないようにきめ細かな滑らかさを保っている。濡れたように紅く輝く唇、絹のように細い艶のある短めの髪はドレスと同じ漆黒。
 そして――見る者が視線を外すことを許さない、……紫の瞳。
 その紫の瞳が、恋次を見た。
「――まだ、一匹隠れていたとはな」
 紅唇が半月形の笑みを形作る。心底楽しそうにそう呟いた声に、女に掴まれていた少女も恋次を見た。
「――恋次? 本当の恋次?」
 必死に搾り出した少女の声は擦れていて細く――それでも恋次の耳にははっきりと聞こえた。幼い頃からいつも一緒だった少女の声――その声が、恐怖を忘れ安堵の響きを持っている事に恋次は気付いた。
「信じてたよ――これは絶対恋次じゃないって。恋次がこんなことする訳ないって――」
 ぐふ、と血の溢れる音がした。言葉の途中で――あっさりとその生命を絶たれた少女は、首と手と足をだらりとさせ、女の腕に吊られゆらゆらと揺れた。一瞬で奪われた生命は、少女の顔に安堵の表情を残したまま――それは一層凄惨な光景だった。
「――余計な事は言わなくていい」
 つまらなそうに女は軽く腕を振った。その外見にそぐわない力の強さで、女は少女の身体を無造作に放り投げる。人形のようにだらりとしたまま、少女の身体は他の村人達の上に折り重なった。
「手――手前――ッ!」
 恐怖よりも怒りの方が優った。その面に純粋な怒りの表情を浮かべ、女に詰め寄る恋次に向かい、感心したように「ほう」と女は笑みを浮かべる。
「この光景を見ても立ち向かおうとするその気概は良いね――けれどそれを無謀と言うのだよ、少年」
 とん、と女の爪先が屍を蹴った。目にも止まらぬ速さで宙へと舞い、一瞬で女は恋次の背後に立つ。あまりの速さに動くことも身構えることも出来なかった恋次は、三日月のように湾曲した薄い刃が、自分の首を取り囲むように位置している事に気が付いた。
「しかし私は気分が良い――香しい血の匂いと虫けら共の悲鳴と恐怖。口に合う血を持つ者は少なかったが、まあこんな辺鄙な場所だからそう期待していなかったからね。それも想定の内――兎に角久々に遊んだからね、私は気分がすこぶる良い。……愉しませてもらったよ」
 すい、と細い刃は恋次の喉元から遠ざかった。その動きの途中で、恋次はそれが巨大な鎌だということに気付く。少女の身長よりも大きな死神の刃。
「だから――止めは刺さないでいてあげよう」
 次の瞬間、背中を一直線に走った熱に恋次は唇を噛み締めた。切り裂かれた背中から血が溢れる――その時には女の気配は既になく、ただ笑い声のみが恋次の耳に小さく届いた。
 斬られた傷から血を流し、恋次は前へと進む。
 至るところに転がった、既に物体と変わり果てた――村人の姿。村の住人全員――百人以上の人が皆、その場で息絶えている。
 父も、母も、弟も――隣の家の気の良いおばさんも、力自慢の青年も、村長も、友達も、幼馴染も、――少女も。
 震える腕に抱きしめた少女の身体はまだ暖かかった。妹のように思っていた小さな少女――今朝も一緒に森へ行くと言った少女。足手纏いだと一蹴した恋次に、子供扱いしないでと怒っていた少女。
「畜生――畜生!」
 夥しい屍の中で、動く者は自分ひとり――むせ返る程の血の匂いの中で、生き残ってしまったのは自分一人。
「殺してやる――手前を必ず殺してやる……ッ!」
 絶叫は木霊となって、森の奥深くへと響き渡った。
 
 



 ――その復讐を、ようやく果たすことが出来る。
 血を吐く思いで厳しい修行に耐え、剣を修め、人以上の力を持つ決して忘れることのなかったあの女を殺す為に――恋次はこの森へと辿り着いた。
 紫の瞳の吸血鬼。
 笑いながら恋次から全てを奪い取ったあの女。
 森を抜け、霧が掛かったその向こうに――寂れた古い城を見つけ、恋次の顔に獰猛な笑みが浮かぶ。
 必ず殺す。
 右手に握り締めた剣のその紅く輝く刃――妖魔を滅する事の出来る、世界に数本の稀有な剣。
 人ならざるものの魂魄を斬る唯一の刀、その名を斬魄刀という。
 人が妖魔を倒すことの出来る唯一の武器――斬魄刀。それは意思を持ち、己の所有者の意識と同調する。
「行くぜ、蛇尾丸」
 高揚する恋次の意識に刃も煌めく。その輝きに不敵な笑みを浮かべ、恐れることなく恋次はその城へと足を踏み入れた。
 ――古い、暗い城だった。
 吸血鬼はあらゆる生物の支配者――その力は凄まじく、一人の吸血鬼に従う妖魔の数は複数だ。いかに力の強い部下を持つか、それを競い遊ぶ趣向もあるという。
 けれどこの城に複数の気配はない。
 あるのはたった一つの気配――部下すら持たない吸血鬼が一人。
「――待っていた」
 長い廊下を越え、大きな扉を開け放したその先の広間の奥に――大きな椅子に腰掛けた小さな身体があった。
 黒い天鵞絨のドレスを身に纏い、漆黒の髪を持ち、白い肌と紅い唇、そして――紫の瞳。
 あの日と寸分変わらない姿のまま、女は椅子に背中を預け、乱暴に押し入った恋次に向かい「待っていた」と言葉を発した。
 その声も――あの時と同じ、女にしては少し低めの、静かな声。
「ずっと――この時を待っていた」
「奇遇だな――俺もずっとこの瞬間を待っていた」
 数メートル離れたその距離で、恋次と吸血鬼の視線が出会った。
 気分が高揚する。歓喜ともいえる感情に身を任せ、恋次はその手に斬魄刀を構える。恋次の意思で形を変える、斬魔の剣――それは小さな破片が連なった形状へと変わっていた。
「あの日から――永い時が過ぎた。私はただ、お前に殺される為だけに……それだけを望んで生きてきた。長い永い時――それもようやく今日で終わる……」
「騙されるかよ、化け物」
 ひゅ、と刃が空気を斬る。その紅い軌跡が暗い城に鮮やかな色を残した。
「興醒めなこと言うなよ? 殺し合う為に俺達は在るんだろうが!」
 振るった刃は吸血鬼へと襲い掛かる。普通の剣には決して出来ないその形――小さな欠片が連なり伸び、鎖のようにしなりながら吸血鬼へと肉迫した。
「それがお前の望みならば――それも良いだろう」
 気だるげに右手を上げ、女は無造作に刃を指先で止めた。ぱき、とその欠片を指で圧し折る。
「殺し合って――殺して欲しいのならば」
「死ぬのは手前だ!」
 一度恋次の手に戻った斬魄刀が、再び勢いを増して女へと襲い掛かる。先程の比ではない速さに今度は受け止める事が出来ず、女は宙へと飛び上がった。
「予想済みだ!」
 手首を翻し、刃に思念を送る。刃は細く分裂し、縦に連なり湾曲しながら女を追う。舌打ちをしながら女は身を仰け反らせた。斬魄刀の切先が、女のドレスの裾を切り裂く。
「あの日の手前の動きは逐一覚えてるぜ?」
「――あの日?」
 白い顔に浮かんだ怪訝な表情に恋次の怒りが爆発する。自分の全てを奪い取ったあの日の事を、女は思い出せずにいる。
「手前には一時の遊びだったのかも知れないけどな――記憶に残らねえ程の些細な遊びだったのかも知れねえけどな――貴様が俺の家族を、友達を、皆を殺しやがった、俺の全てを奪い取ったあの日のお前の事は――全部覚えてるんだよ!」
「何を言っている? 私は――」
「うるせえ! 今更惚けるな化け物!」
 激怒した恋次の刃は、四方から女へと襲い掛かる。唸りを上げ形を変えて迫る刃を避けることが容易ではないのは、千々に切り裂かれていくドレスからも明らかだった。女の顔に焦燥が浮かぶのを見、恋次は暗く笑う。
「その罪、その生命で償え――!」
 女の顔から表情が消えた。
 突然動きを止めた女に、恋次は手元に引き寄せた刃を、破片の連なりから一本の鋭い刃へと姿を変えさせ、大きく開いた胸元から覗く白い肌へ――吸血鬼の急所、心臓へと突き立てる。
 あと数センチで、それは成し遂げられたはずだった。
「ぐ……はっ」
 唇から血が溢れる――肺に溢れた血が逆流する。肺に流れ込んだ血は胸に開いた傷の所為、胸に開いた傷は細い刃の所為、細い刃は――湾曲した薄い刃、その切先は――恋次の背後に立つ気配の所為。
 背中から胸へと貫通した、剃刀のように薄い刃、三日月のようなその形――巨大な死の鎌。
 それを見下ろし、恋次は前へと視線を向けた。あと数秒で生命を奪う筈だった女の目が、驚愕に見開かれている――恐怖に彩られて。
 背中に突き立てられた刃が、背後の何かによって引き抜かれた。胸に突き出ていた切先がそれと共に身体の中へと引き込まれ、恋次の唇から再び血が溢れ出す。
 ぐらりと傾ぐ恋次の身体を、恋次ではない違う誰かの名前で呼び、崩れ落ちる恋次の身体に両手を差し伸べ――女はその身体を受け止めた。
 冷たい筈の吸血鬼の腕の中は不思議なほど暖かく――その温もりを、いつか何処かでこの腕に抱いた、そう確信した記憶の欠片は、――恋次の意識と共に消え失せた。





「貴様――ッ!」
 憎悪と激怒の表情を浮かべる同属を見下ろし、男は小さく笑った。男にしてみればこの同属は年端も行かない小さな少女に過ぎず、その怒りは駄々を捏ねる子供のように愛らしいだけだ。
「貴様、何故――っ!」
「貴女がこの虫けら如きにその生命を奪わせようとしたからですよ――ルキアさま」
 困ったものだ、と男は静かに溜息を吐く。
「この程度の虫などものの数秒で踏み潰すことが出来るでしょうに――わざと挑発して、殺し合う素振りを見せてまで――この虫に殺されようとしましたね? そうまでして貴女は過去に殉じたいのですか? 折角私が過去を切り捨てる機会を与えてあげたというのに」
 その言葉に、ルキアははっと顔を上げた。腕の中の恋次を抱きしめる。その怒りを代弁するかのように、その声は怒りに震えていた。
「この男の村を襲ったというのは――貴様か、藍染!」
「愉しかったですよ、色々とね」
 穏やかな顔で藍染は微笑む――瞳に酷薄な光を湛えて。
「貴女を縛る元凶の魂を見つけたものですからね――貴女を解き放ついい機会でしたから」
 結局失敗でしたけどね、とさして残念がる様子もなく藍染はくすくすと笑う。
「それでも――良しとしましょう。貴女を手に入れる算段はもう直ぐ整いそうだ。――貴女のその力――貴女の身体に封印されたその力。私が頂くまで、誰にも殺させる訳には行かないのですよ。この男にも――過去の残像にも、ね」
 抱きしめた恋次をそっと床に置き、ルキアは立ち上がった。その目に燃え上がる怒りの焔に、藍染が楽しそうに咽喉を鳴らして笑う。ひゅ、と持ち手を一回転させ、巨大な鎌を一閃した。対したルキアの手首には、そこから直接白い細身の刃が現れていた。白く輝くその刃を目にし、藍染は嬉しそうに微笑む。
「久しぶりに見ましたが――美しさは変わりませんね」
 その言葉には何も返さず、ルキアは鋭く空気を吐き出し、それと同時に藍染に襲いかかった。刃と共に、掌大の雪の結晶が不規則な動きで藍染を襲う。それを鎌で受け止めながら、藍染は「いいんですか? あの虫けらの死を看取らなくて」と穏やかに嗤う。
「ほら――もう、それこそ虫の息だ」
 息を呑み、ルキアは藍染から恋次へと視線を移した。雲のように白い顔――その胸から溢れる紅い血――人の生命の流れ。
「では、ルキアさま――また近い内にお逢い致しましょう」
 笑い声と共に消えるその気配を、もうルキアは意識していなかった。全ての意識を、目の前の死んでいく男に注ぐ――血に塗れ、力の抜けたその身体。
 既視感――忘れることの出来ない絶望感。
 夥しい屍の中、生き残ってしまった自分一人。 
 愛しい人を護ることさえ出来ずただ独り生き残り――その腕に愛する者の亡骸を抱え、いっそ狂えたらと切望し、いっそ殺してくれと懇願した、あの日。
 まだ温もりの残るその身体を何度も何度も抱きしめて、奇跡を願い絶叫した――遥かな時の向こう。
 その時と同じ――絶望の叫びをルキアは上げる。
「逝かないでくれ……お願いだ、独りにしないでくれ……!」
 長い永い時を、ただもう一度逢いたいと、それだけを願い生きてきた――自分の所為で生命を落とした愛しい人、その愛しい人に殺される為だけに生きてきた。
 転生を待ち――百年の時を、独り。
「死なないで――!」
 また独りになる――ようやく出逢えたのに、僅かな、瞬きするほどの時間しか与えず、また逝ってしまうのか――その絶望が、ルキアの思考を奪った。
 己の手首を喰い千切り、溢れ出る血を恋次の口元にあてがい、懇願する。
「死なないで、死なないで、死なないで――死なないで!」
 自分の生命を分け与える――その行為の意味もわからずに。











 身体が思うように動かない。
 泥のように重い身体は、瞼を上げることさえできない。
 その異常さに思い至る前に、猛烈な咽喉の渇きが襲う――焼け付くようなその熱さに呻き声を上げると、その唇からとろりと何かが注ぎ込まれた。甘く熱い――今まで口にしたこともない程極上のそれを、何かはわからないまま貪るように咽喉を鳴らして嚥下する。
 渇きはぴたりと収まり、甘く穏やかな眠りが再び絡みつく――それに抗わず身を委ねる唇に、冷たくやわらかな何かがそっと触れた。










 唐突に覚醒した意識、その次の瞬間に、勢いよく恋次は身を起こした。
 咄嗟に胸を見下ろす――意識を失う最後の瞬間の、胸から引き抜かれる刃の痛みを思い出す。けれどそこには傷口一つない、見慣れた自分の肌だった。
 次いで周りを見回す。――古びた広い部屋の一室、寝台の上、清潔なシーツの上に横たわった自分の身体――成り行きが掴めずに無意識に動かした右手が、手に馴染んだ柄を掴んだ。
「――蛇尾丸」
 恋次は安堵の吐息を溢す。斬魄刀さえあれば問題ない――あの吸血鬼を殺すことが出来る。あと一歩の所まで迫ったというのに――何があったのか。あの時突然現れた背中の気配は、あの女の部下だったのか。
「――目覚めたか、我が僕」
 抑揚のない冷たい声が背後から聞こえ、恋次は勢いよく振り返った。そこに、追い続けた敵が――紫の瞳を真直ぐに恋次へと向けている。
「丁度良い――さっきは邪魔が入ったが、ここから再戦と行こうぜ? 今度こそ殺してやるよ――化け物」
 好戦的に微笑む恋次を見据え、女は冷たい視線を向ける――やがて蔑んだように小さく笑った。
「下僕が主の生命を奪うか――それもまた一興。しかしその瞬間に、お前もその生命が絶たれるが」
「何言ってんだ手前?」
「身体が今までになく軽くはないか? この暗闇の中、何故貴様は何の支障もなく私を見ている?」
 はっと恋次は自分の身体の異変に気が付いた。壁に掛けられた鏡へと目を向ける――その顔が、驚愕に彩られた。
 鏡に映った自分の姿――黒かった髪は、燃えるような紅に変わっている。
 そして同じように――その瞳もまた。
「な――何だと――?」
 茫然とする恋次の前で、女は細い指先を自身の唇に触れた。その指先に歯を当て噛み切る――その瞬間、甘く漂う香気に恋次はくらりと眩暈を起こした。
 咽喉が――酷く渇いた。気が狂いそうなほどの渇き。身体全体がある物を求めている。そしてそれは――目の前に。
「お前は私に逆らえない――お前は私の血がなくては生きて行けない。お前は既に人ではなく、お前は私の下僕――私の血なくしては一日とて生きられない異形のもの」
 す、と差し出された指先から、細く血が流れ落ちる。紅いその流れに、恋次の視線は固定された。その咽喉がごくりと動く――咽喉の渇きを沈める唯一の、極上の美酒。
「お前は私と生きていくんだ――私が生きている限り、私と共に」
 淡々と発せられたその言葉の奥に潜められた感情に気付くことなく――ふらりと恋次は女の指に舌を這わせた。流れる血の全てを受け止め味わう――甘い毒。
 支配者と従属者――血の誘惑に抗えず、恋次は女の前に跪き、貪るようにその血を飲む。
「私の真名は――ルキア。この名をお前が呼ぶことを許す」
 遠い昔――呼ばれた名前。
 ルキア、と呼ばれる度に――幸せで泣きそうになった。恋しくて、愛しくて――何度も名前を呼んで欲しくて。
「精々私に尽くせ――下僕」
 唇の血を拭い、自分の行動に愕然とし――恋次は全てを理解した。
 目の前の吸血鬼は――戯れに、自分に血を与えたのだ。
 吸血鬼にその血を吸われれば意思を持たない下僕となる。
 しかし吸血鬼の血を与えられたものは――意思を持ったまま、下僕へと成り下がる。
 主の血を一日一度、必ず口にしなければ消滅する、生死を握られた、完全な――下僕。
 目の前の、自分を人間から妖魔へと変えさせた元凶、ずっと追い続けた仇を、恋次は激しく睨みつける。視線に力があれば瞬時に焼き殺されるほどの――苛烈な瞳。
 その瞳を受け止めながら、ルキアはその心を隠し冷たく微笑んだ。
 独りが耐え切れず――再び百年の永い時を独りで過ごすことが耐えられず、身勝手に愛する人の運命を歪ませた。
 自分を見据える瞳に憎しみしか見出せない、愛した人と同じ魂、同じ姿――転生し再び現れた愛しい人の前で、ルキアは冷たい支配者の仮面を被る。

 ――これが自分への罰。
 過ぎた望みを抱いた咎。
 この先背負う自身の罪。

 心の傷に溢れる血は、渇くことなく流れ続ける――





 





続きます
(初出:2009.3.15)