目の前に広がる青い景色――空と海がつながって果てなく続くその青さに、恋次は小さく口笛を吹いた。
痛いくらいに熱く照りつける太陽も、その日差しに煌々と輝く波も、尸魂界にはない景色だ。溢れる生命力の象徴とも言うべき、夏の景色。
白い砂浜。
透明な海。
眩しい太陽。
今恋次がその景色を見ている原因、それは幼馴染である朽木ルキアの二言――「海に行きたい、連れて行け」というものだった。
ホテルのプライベートビーチである所為か、飛行機に乗ってでしか辿り着けない離島の所為か、本島の海水浴場に比べると海水浴客の数は少ない。砂浜に立てられたパラソルの一つに目をやり、恋次は水中の楽園に案内してやろうと、日焼け止めを塗り終えたであろう連れの元へと泳いでいく。
「ルキア! 早く来い、いいもん見せてやる!」
砂に上がる途中で、パラソルに向かって大きく叫ぶ。小さな姿が何かを叫び返し、けれどその声は遠すぎて聞こえない。それでもパラソルの中から海に向かって来たルキアを迎えるために、恋次は波打ち際まで歩いて行った。
「さっさと一人で楽しみおって」
不機嫌そうな声を「たらたら日焼け止めなんか塗ってる奴を待ってられるかよ」と軽く受け流す。私が海に来たいからここに来たのに、と更に膨れるルキアに、「こんな場所まで来て膨れっ面すんなよ」と笑う。
「ほら、いい場所見付けたから。来いよ」
手を伸ばすと、ルキアは一瞬躊躇した後に頷いて恋次の手を取った。その手とは反対の手が、カラフルな浮き輪を持っていることに恋次は眉をひそめる。
「……何だそりゃ」
「し、仕方ないではないか泳げぬのだから!」
恥ずかしいのか悔しいのか、恐らく両方なのだろうがルキアは顔を紅潮させたまま恋次を睨みつける。
確かに子供の頃、戌吊で川で魚を採って来たのは恋次で、ルキアと言えば川岸近くで踝くらいの水量の場所にしか行かなかった。戌吊を離れて以降は水辺に行くこともなかった所為で、ルキアが泳げないということに全く気付かなかった。勿論周到にルキアが隠していた所為もあるだろう。
「……それで海に行きたいってのはどういった料簡だ」
「別に泳ぎが出来る出来ないは関係ないだろう、海の楽しみはそれだけじゃないし浮き輪で浮かんでるのは気持ちいいと思う!」
「はいはい、とにかく浮き輪は却下」
一護、とまだパラソルの下に居る同行者の名前を呼んでルキアからあっさり取り上げた浮き輪を放り投げる。狙い過たず、くるくると回りながら浮き輪はパラソルの目の前に落ちた。
「そんなもん着けてたら潜れねえだろ」
「も、潜るっ!?」
慄くルキアの手を取って、恋次は半ば強引に海の中に引き摺りこんだ。無意識に腰が引けているルキアの両手を、自分の両肩に乗せ掴ませる。
「掴まってりゃ沈まねえよ。行くぞ」
「やっ、ちょっと待っ……」
怯える声を無視してぐんと水を掻くと、背の低いルキアにはもう足がつかない位置へと泳ぎ出ていた。泳げない者にとって足が付かないということはもうパニック状態なのだろう、ルキアは必死に恋次の首に両手を回してしがみつく。
「絶対離すなよ、冗談でも離すなよ、私に断りなくいきなり潜ったら殺す!」
「しねえよそんなこと」
呆れた口調で首をひねってルキアを見れば、ルキアは冗談でも何でもないらしく、表情が強張ったまま海面を見ている。必死にしがみつく腕の強さも相当なものだ。
普段の強気な態度は鳴りを潜めて、余裕ないルキアの表情を見て恋次は笑いを堪える。堪えずに笑ったとしても、ルキアにはそれに気がつく余裕などないだろう。
恋次は危なげなく水の中を進み、その距離は大分砂浜から離れた。周囲に泳ぐ人の姿は見当たらない。
最初は不安そうに「まだ行くのか」「もう大分離れたぞ」と恋次に尋ねていたルキアだったが、今ではもう何も言わずに恋次にしがみついている。口を開く余裕もないのかもしれない。
「さて到着」
周囲に何もない海の真中でそう告げられ、不安そうに恋次を見つめるルキアの顔の位置は、恋次の首に余計な空間などない程しっかりと両手でしがみついているため、恋次の顔の真横にある。
「今から潜るからな、大きく息を吸え」
「む、無理だっ! 絶対無理っ」
「大丈夫だって、支えてっから。この海に来てこれを見なけりゃ後悔するぞ」
「で、でも、怖……」
ぽろりと弱音を吐いたルキアの腕を安心させるように二、三度叩く。
「絶対離さねえから。そのまま掴まってていいから。お前は息吸って止めるだけでいい」
やや躊躇しながら恋次はルキアの腰を引き寄せ、自分の横に立たせる。ルキアはその状態に気付いてもいないようだ。
「行くぞ」
5、4、3、2、と数えている内に焦ったのだろう、考える暇も反論する暇もなくルキアは大きく息を吸い、それを確認した上で恋次は「1!」と宣言し反動をつけて海の中へと沈み込んだ。
一瞬で目の前が青い揺らめきに変わる。耳に入る音も半端に塞がれたようなくぐもった音だ。顔を横に向けると、ぎゅっと目をつぶっているルキアが居る。腕をつついて目を開けさせると、縋るような瞳でルキアは恋次を見た。安心させるようにぽんと腕を叩き、恋次は指を前へと向ける。
うわあ、とルキアの声が聞こえるようだった。大きな目が更に大きく見開かれる。水への怯えも忘れ目の前の光景に魅入るルキアに満足し、恋次も目の前へと視線を移した。
青い海の中は、何処までも透明に澄んだ水だった。頭上からは陽の光が降り注いできらきらと光り、水の青さを際立たせている。
そして――海底に。
大きな大きな珊瑚礁が広がっている。白や赤や紫や黄色、形状も色も様々な珊瑚の群生のその周囲を――更に色とりどりの魚がひらりひらりと泳いでいた。
魚、と言えば料理されて口にする銀色の魚しか印象にないルキアには、この目の前に群舞する鮮やかな色の魚が居るなど想像もしていなかった。
コバルトブルーの水の中を、白や黄色、赤、青、緑、黒、橙色――ありとあらゆる色の魚が優雅に身をくゆらせている。多様な色が在るというのにそこに雑多な印象はなく、見事に調和されて一つの絵のようになっている。人の手には作りえない自然の美――完璧な美しさ。
それは溜息が出る程の光景だった――5センチくらいの小さな魚がくるくると泳いでいる横を、30センチほどの大きな魚が悠然と横切って行く。頭上からは陽の光が差し込んで光の道を作っている。水の中の身体はふわふわと重力を感じずに浮かんで、何処までも何処までも青い水は続いている――果てなく、大きく広がるその世界に、自然の中の自分の小ささと神々しいまでの自然の美しさを知る。
海面に顔を出し空気を肺の中へと入れると、ルキアは何も言えずにただ目を見張っていた。今目にした光景の美しさや感動を口にしようとして言葉が見つからないらしい。何度か何かを言いかけようとして結局何も言えず、そんなルキアの頭に手を置いて、恋次は「もう一回潜るか?」と聞いた。
答えは即答で「潜る」だった。
一護、という呼びかけと共に飛んできた浮き輪を受け止め放り投げた相手に目を向けると、恋次とルキアが海に向かって泳いで行くところだった。
いや、ルキアに至ってはあれは泳ぐというより連行されていると言った方がいいかもしれない。浮き輪といい、恋次の首にしがみついて引っ張られているあの状況といい、どうやらルキアは泳げないようだ。
内心、少し一護は羨ましい。何故なら、
「さて、泳ぐぞ!」
嬉々と海に向かって目を輝かせている隣の幼馴染―― 一護としてはいい加減「幼馴染」としか言えない関係を何とかしたいのだが、如何すればいいかわからずにいまだ「幼馴染」という関係でしかないたつきを見、溜息を吐いた。
「何」
「いや、別に」
たつきの運動神経は相当なもので、泳ぎも平気で2qの遠泳出来る程の技能と体力を持っている。今はもう恋次と共にかなり沖の方へと行ってしまったルキアのように、たつきが一護の首にしがみつくことなど間違いなく在り得ない。
「泳がないなら先行くけど」
「泳がないなんて言ってねーだろ」
「そお? 何かあんた詰まらなそうだし」
「そんな訳ねえだろ」
お先、と海に向かって駆け出すと、背後から「あ、こらまて一護!」と慌てた声がする。
波打ち際を目指しながら、例えたつきが泳げなかったとしても自分に恋次のような真似は出来ないだろうとここでも溜息を吐く。
水着のたつきは眩しすぎて、とても平静でいられない。
海に行くんだが、と恋次が一護に話を持ってきたのは一週間程前の話だ。
今は現世で空座町の担当をしているルキアの元へ、恋次はちょくちょくやってくる。副隊長のくせに随分と暇だと思うが、その副隊長の立場に居ればわずらわしい手続きを踏まずに現世に来られるらしく、故に仕事後にだの休暇にだの、かなり頻繁に現世にやってくる恋次は、恐らく朽木白哉に一人暮らしの義妹の様子を見てくるよう言われているのだろう。顔に出さない朽木白哉のシスコン振りは周知の事実だ。
その恋次の「ルキアが海に行きたいと言いだしてよ」という言葉に、へえそうかとしか言いようがなく、実際そう返した後、恋次が「という訳で手配頼む」と言って来た時には「はあ?」と不機嫌そうに眉をしかめたものだ。
「何で俺が」
「現世の旅行の手配の仕方なんぞ知るか」
「だからって何で俺がするんだよ。手前で店行って手続きして来いよ」
「面倒臭え」
「俺だって面倒臭えよ! 大体俺関係ねえじゃん!」
馬鹿らしい、と一護はベッドの上に寝そべった。この夏、何処にも行っていないのに何故他人のバカンスの世話をしなくちゃならねーんだ、とぶつぶつ呟いていた一護は、続く恋次の「手数料はお前ともう一人の旅費だ」という言葉にはたと動きが止まった。
自分ともう一人。
瞬時に脳裏に浮かんだ顔を見越したように、恋次は「もう一人は女限定」と追い打ちをかけた。
「一泊だからな。ルキアと同室の奴が欲しい」
それが一番の目的なのだろう。恐らく自分よりも、ルキアと一緒に部屋に泊まれる誰かが必要なのだ。流石に恋次とルキアが同室という訳にはいかないだろう。
そういった理由なら。
……誘うには正当な理由だ。引け目を感じる必要はない。
「――本当にタダなんだな?」
「副隊長の給料舐めるなよ」
それにしてもルキア一人の為に随分と、と思うが、恋次のルキアへの甘さは既に十分承知しているので何も言わない。
恋次のルキアへの想いは、最初は恋愛感情なのかと思っていたが最近はそれも揺らいでいる。
あまりにも進展がないのだ。
二人が居る光景はよく見かけるが、そこに特に甘い雰囲気はなく、あくまでも仲の良い幼馴染でしかない。口喧嘩はしょっちゅうだし、しかもお互い容赦ない。けれどお互いのことは深く知っているのだろう、余人の入り込む隙間はない。つまり幼馴染というよりも兄妹のような――
そこまで考えて、それがまんま自分と「もう一人」に当てはまることに気付いて少々へこむ。
仲が良すぎる幼馴染――兄妹(向こうにしたら姉弟の認識かもしれない)のようなその関係。
それを望んではいないのだが、それが壊れることも望んでいない。
恋次の行き先に関する希望を聞きながら、「もう一人」はこの旅行を受けてくれるかどうか一護はぼんやりと考えていた。
「別にいいけど」
たつきに下心があると誤解をされないように(いや実際には多少の進展があればという下心はあるのだが)、ルキアが海に行きたいと言っているということ、恋次がルキアと一緒に泊まってくれる女を探していること、旅費はタダなこと等を言い訳のようにまくし立てた一護への返事はそんなあっさりしたものだった。
「ちょうど海行きたいって思ってたし。……でもいいのかよ? 旅費、相当掛かるんじゃないの?」
「まあ金持ってる奴だし、本人がいいって言ってんだからいいんじゃねえの?」
OKを出したたつきに内心かなり浮かれながら、一護は駅にあった旅行会社のパンフレットを床の上に置いた。相当数あるパンフレットにたつきが目を丸くする。
「何、すごい量」
「急いで決めて申し込まねーと。ぐずぐずしてると夏が終わるぞ」
恋次に聞いた金額の上限は、4人で旅行するには十分すぎる金額で、恋次の提示した「海が綺麗な場所、目の前に海があるホテル」の条件に合う場所を二人で探す。
わいわいと場所を探すのは楽しかった。自分が見つけたプランを相手に示し、相手の意見を聞く。「その内装ありえねー!」「いいじゃん可愛いじゃん! ちょっと、朝食ついてないプランなんてあたしヤだからねっ」「大浴場もあるといいな」「……オヤジくさい」「あ? 何か言ったか?」
数々の南国の写真にテンションは上がっているのだろう、ちらりと盗み見たたつきはとても楽しそうだ。その様子にほっとしながら、出来ればいつか、二人だけで行く旅行の相談も出来たらいいんだけどな、と心に呟く。
2時間ほどで候補を3つに絞った後、一緒に旅行会社に申し込みに行こうと誘い――こちらも問題なくOKを貰い、旅行会社に向かう。
空座町から少し離れた店を選んだのは、少しでも長くたつきと歩きたかったから、とは誰にも言えない。
チェックインの時間前に到着し、海に必要なものだけ取り出して残りの荷物はフロントに預けて海に出る。
着替えの楽な一護たちの方が砂浜に出るのは早く、パラソルやチェアを借りる手続きを済ませ海遊びの基地を作っている時に現れた二人を見て――正確にはたつきを見て、息を呑んだ。
特に肌の露出が多い訳ではない。見渡した周囲の女性に比べれば、地味といっていい水着だった。競泳用のようなシンプルな形の白い水着。けれどそれは、健康的に日に焼けたたつきにはとても合っている。
すらりと伸びた綺麗な足と、予想していたよりも大きかった胸に目が行って慌てて視線を背けた。
恋次はと見れば、特に動揺する様子もなくルキアと普通に会話している。自分だけ餓鬼のような気がして、少し悔しい。
「一護、すごい! 見てみろよ、魚がすごい!」
先程までの出来ごとを思い返していた一護は、たつきのその声に我に返った。振り返るとたつきが海に潜るところだった。数瞬遅れて一護も海へと沈みこむ。
テレビの中と本の上でしか見たことのなかった、海の中の楽園が目の前に広がっている。
鮮やかな魚の群れに目を奪われる中、やはり一番目を奪われたのは心の底から楽しそうなたつきの笑顔だ。
来てよかった、と思う。
この笑顔を見られただけで、例え二人の関係が今年も変わらなかったとしても、後悔はないと思う。
……………………多分。
何か食う物買ってくる、と一護を連れて少し離れた場所の店に向かった恋次が、知らない女性と話しているのを偶然見てしまい、ルキアはきゅっと唇をかみしめた。
恋次と一護、二人が並ぶと確かに人の目を引く。特に恋次の人目の引き方は老若男女を問わない。それが身体中に彫り込まれた刺青の所為だと本人は思っているだろう。勿論それはその通りなのだけれど、それは老若男女の「老男」「若男」「老女」の三つの組み合わせだけで、「若女」については別の理由で人目を引いているのだとルキアには解っている。
確かに最初はぎょっとするだろう、紅い髪に顔と身体に彫り込まれた黒い紋様に、恋次は彼女たちの住む穏やかな日常とは違う世界に住んでいる住人だと解る筈だ。けれど、その逞しい身体と精悍な美貌を彼女たちが見てしまえば、夜の暗闇に燃え盛る火に向かって身を投げる虫のように、危険を承知で吸い寄せられてしまうのもルキアには理解出来た。
実際には恋次はそう危険な男でもないのだが――面倒見はいいし情に篤いが、そんな利点は恋次の外見からは想像もつかないだろう。だから安心していた面もあるのだが……
「当てが外れた」
「え?」
知らずに口に出していた言葉に、隣の椅子で寝ていたたつきが起き上った。「何?」と聞き返すたつきに「いや、何でもない」とルキアは言葉を濁す。
ん、とたつきは小さく首を傾げて再び椅子に寝そべった。ルキアが中央霊術院で同級だった女生徒たちは、そう親しくもないのにやたらべたべたと根掘り葉掘り聞いてくる者が多かったが、たつきに関しては今までそういったことはない。恐らく人の意を汲み取ることに長けているのだろう。無関心とは違う、優しい心遣いなのだとルキアは思う。
実際、今ルキアが胸に抱いている想いを言葉にすることなど出来る筈もなかった。
一人暮らしの気儘さで、よく聞く深夜のラジオ番組から流れた曲――夏の、海の音楽に引っ張られるように恋次に「海に行きたい」と言ったのは二週間程前のこと。
それで二人の中の何かが変わればいいと思った。――否、ルキアの中ではもう変わっている。変わってほしかったのは恋次の中の自分へのスタンスだ。
ルキアが恋次を好きだと気付いたのは、そんな昔のことではなかった。
幼馴染で、ずっと一緒にいて――近過ぎて、気付かなかった。
朽木家に引き取られ、逢えなくなって淋しくて辛くて哀しくて――けれどその時は、ただ家族に逢えない淋しさとばかり思っていた。
再び逢って。
剣を向けられ。
絶望して。
そう、突如告げられた処刑をぼんやりと受け入れてしまったのは、あの時恋次が自分に剣を向けた所為だったのだと思う。恋次はもう自分を必要としていないのだと、そう思って絶望して――
けれど恋次は助けに来た。
上司を、同僚を、仲間を、護挺十三隊を、何もかも全てを捨てて、ただ自分だけを選びとった。
嬉しくて、幸せで――
恋次を死なせたくないと藍染の元へ行こうとした自分を引き止めた恋次の腕の中で、迫る刃を見ながらこのまま恋次と一緒に死ねたら幸せだと思った。
そしてようやく――恋次への気持ちに気がついた。
幼馴染じゃなくて。
家族じゃなくて。
異性として恋次が好きだったのだと――ようやく、気付いた。
そうして始まるべき新たな道は――何故か全く塞がれたままなのは、一体どういった料簡なのだろう。
ルキアの向ける視線の先で、恋次と一護が女性二人に話しかけられている。
何を話しているかは遠すぎて聞こえない。恋次がどんな表情を恋次がしているのかはこちらに背を向けているので見えない。
ただ、女性二人はよく見えた。
すらりとした肢体、少し色を抜いた、ゆるくウェーブをかけた長い髪。
胸は魅力的に形良く盛り上がっていて、肌は健康的に焼けている。二人の綺麗に化粧した顔を見て、ルキアは海に入る気がないなら何しに来たんだ、と心の中で毒を吐く。
嫉妬だと解っている。
彼女たちは自分が欲しくて持てない物を持っている。
すらりとした身長や、大人びた顔立ちや、豊かな胸や、くびれた腰や、大きなお尻や、長い脚を。
男性が見惚れるような、女性の魅力を。
あんな美人に声を掛けられて、きっと恋次も悪い気はしないだろう。元々此処へはルキアの我儘に付き合って来ているのだ。
恋次が自分のことを幼馴染としか見ていないことはよくわかっている。
海に行きたい、海の見える部屋に泊まりたい、思い切ってそう言ったのに、恋次が用意したのは4人の旅行だった。
二人きりで行こうとは恋次は考えなかったのだ――二人きりで行きたいと、恋次は思わなかったのだ。
何かが変わりたくて海へ行きたいと言ったのに、結果はただ恋次が自分を何とも思っていないという事実を目の前にしただけだ。
そしてこうして、恋次が他の女性の目を引いているのを見せつけられる。
見つめる視線の向こうで、女性たちが恋次と一護に手を振った。そのまま二組は分かれて、女性たちはパラソルに向かって歩いてくる。
ルキアたちのいるパラソルの斜め前のパラソルの椅子に二人は腰かけ、そのまま後ろを振り返り、ルキアを見――
くす、と笑った。
その笑みの意味は知っている。
あれなら勝てそう。――そんな、笑み。
「少し泳いでくる」
「うん。あいつら戻ったら呼ぶよ」
「ああ」
肩にかけていたタオルを置いて、海に向かう。――視線の中にあの二人組が居ることが厭だった。
あの勝ち誇ったような笑みは、目に焼き付いて消えなかったけれど。
自分にないものを欲しても仕方ないのかもしれない。恋次に女性として見てほしいなんて、永遠に無理なのかもしれない。
けれど、恋次が誰かのものになるのを見るのは嫌だ。
今のままの関係は嫌だ。幼馴染、もしかしたらそれよりも悪くただの家族としかみられていないのは嫌だ。
でも、その関係を失うのはもっと厭だ。
自分を見てと気持ちを伝えて、それは出来ないと言われたら――幼馴染、家族としか思えないと言われたら――きっと恋次は自分から離れていく。自分の為に離れていくとルキアには解っていた。傍にいることが出来なくなるのは、この関係が続いていくよりももっと厭だ。
逢えなくなったあの時と違って恋次はいつも傍にいる。それでも胸の苦しさは理由は違えど変わらない。
八方塞がりだ。
唇を噛んで思考に没頭していたルキアは、それが最初自分を呼んでいる声だとは思わなかった。そのまま歩いて、肩に乗せられた手でようやく振り返る。
「近藤さん、久し振り」
呼びかけられた名前も知らないが、呼びかけた相手も知らない。焼き過ぎたパンのような色の肌をした若い男がルキアの顔を覗き込みながら「いつ以来?卒業式以来だっけ?」と話し続ける。
「? いや、私は近藤ではないが」
「え、近藤さんでしょ? だって近藤さんじゃん。また冗談言っちゃって」
「いや、冗談ではなく……私は朽木という」
生真面目に返すと、男はにこりと笑った。何処かしてやったりと言った様子が底の方に流れていたが、こういった経験値のないルキアには全く気付かない。
「そっか、近藤さんじゃないのか。ごめんね朽木さん、すごいそっくりだったから」
「いや。では」
「あ、ちょっと待ってちょっと待って。せっかく会えたのに、もしよかったら少しだけ話に付き合ってくれない?」
「話?」
「いや、俺、近藤さんのことすごい好きで……告白できないまま離れてずっと後悔してて、そこに近藤さんそっくりな君を見付けて、何か嬉しくてさ」
「はあ」
「迷惑じゃなかったら、話付き合ってよ。あ、かき氷食べる? ジュースは? 腹へってる? 何でも欲しい物おごるからさ、何だったら部屋に来る? 酒もあるよ?」
腕を取られて歩き出そうとする名前も知らない男に、「いや私は」と辞退しようとしたが、「ああ、誤解しないで。近藤さんが云々じゃなくて、俺、朽木さんが気に入ったんだ。可愛いから」と男が口にした言葉に思わず顔を上げた。
「可愛い? 私が?」
「ルキア」
背後からかけられた剣のある声に、ルキアと男は同時に振り返った。そこに恋次の姿を見、男の表情が一瞬で強張る。男は慌てて掴んでいたルキアの手を離した。
「あ、俺も友達が呼んでるみたいだから。じゃあね、朽木さん」
早口で囁いて、男は足早に恋次の来る方向とは逆に去って行く。
その唐突さに唖然とその背中を見送っていると、今度は恋次に腕を掴まれた。その力の強さに思わず「痛いぞ、莫迦者」と睨みつけると、それ以上に恋次に睨まれて驚く。
「何を怒っているのだ?」
「何だよあいつは」
「知らぬ。私を友人と間違えたようだ。親切そうな人だったぞ、何を怒っているのだ」
「………………お前なあ、」
何かを言おうとして口を開き、それでも何も言わず、もう一度何かを言いかけ……結局何も言わず、恋次は掴んでいたルキアの腕を離した。
「知らねえ奴に付いてくんじゃねえよ。急にいなくなったら心配すんだろうが。お前泳げねえし、方向音痴だし」
「別に方向音痴じゃ……っ!」
「ほら、食うもん買って来たぞ。腹減ってるだろ。戻るぞ」
恋次の手がルキアの手首を掴んだ。今度は先程と違ってごく自然な力で痛みはない。故に、恋次の手が触れているその事実がはっきりと認識できて一瞬身体が硬直した。
体温が伝わる。
手首を掴まれただけでどうしてこんなに鼓動が速くなるのか。こんなことは戌吊の頃からよくしていたことなのに。
ぎこちなく歩き出した次の瞬間、恋次の手はルキアの手首から離れた。がっかりすると同時に脈の速さを気付かれる前で良かった、と安堵する。
恋次の体温は、しばらく手首に残ったままだった。
思い切り泳いで潜って楽しんだ後の心地よい疲労感から寝そべった椅子の上で、一護と恋次が派手な女二人に話しかけられているのが見えた。
あんな一見して全うじゃない男どもによく声をかける気になるな、とたつきはその光景を見ながら胸に呟く。
たつきは地毛だと知っているが、他人から見れば念入りに染めているだろうと思われても仕方のない鮮やかな橙色の、立てた髪の眼つきの悪い一護だけでも相当な迫力だというのに、その横にいる恋次に至っては燃えるような紅い髪に身体と顔に彫られた刺青がある。どう考えても別の世界の住人――確かに尸魂界という別の世界の住人だが、ここではそれとは違う意味の別世界――だろう。
それが作用しているのかとも思う。
ただでさえ人目を引く外見なのだ、目を向けさせてしまえばその鍛えた身体や男らしい顔つきを知られてしまう。実際に生命のやり取りをしている彼らの放つ雰囲気は、恰好だけの軟派な男とは明らかに違うだろう。ただでさえ夏という季節は、多少の危険に身を投じたくなる側面も持っている。そしてここは日常と切り離された南国――日常とは違う、非日常。
それでも自分にとっては全く日常と変わらないのはどうしてだろう。
海に行かないか、と一護に言われた時にたつきは内心驚いた。それは、その一週間程前に聞いた深夜のラジオで読み上げられたリスナーからのハガキに「幼馴染の彼が好きだけれど告白して関係が壊れるのが怖い」というような内容があって、その内容に共感してその後流れた曲を聞いて、海に行きたいと思っていたからだ。
流れた曲は、恋をする少女を応援する真夏の歌。
「恋する少女」なんて自分には似合わないとわかっている。
それでも海に行きたいと思ってしまったのだ。
一護と。
けれど一護の口から出たのは、自分は間に合わせ要員のようで――ルキアと同室になれる女の同行者が欲しいというだけの話。
「他に頼める奴がいなくてよ」
――それが全てを語っている。
こんな事、普通の女の子には頼めない。自分が一護に少しでも異性として意識されているのなら、こんな誘いは受けない筈だ。
つまりはきっとそういうこと。
自分はあくまでも一護にとって「異性」ではない。
兄弟――そんなスタンスなんだろう。
海から一緒に戻って来た恋次とルキアを交えて、一護たちが買って来た海の家の定番メニュー、焼きそばやカレーやおにぎりを皆で口にする。
散々泳ぎ疲れた身体は、出来合いの物でも十分美味しく感じられた。騒ぎながらやや多めのそれらを綺麗に片付けて、たつきとルキアはパラソルの下で横になる。一護と恋次は食後の運動とまた海に入ってしまったが、流石に一番日差しが強いこの時間、肌をさらすことは躊躇われた。急に日焼けをすると後がつらい。それはルキアもそう思っているようで、タオルにくるまってパラソルの作る陰にいる。
斜め前にいた、先程一護たちに声をかけていた女二人連れは、一護たちが二人で海に行っているのを目敏く見つけてはしゃぎながら海へと入りに行った。本来ならば決して強い日差しの下には出そうもないタイプだが、チャンスは逃がせないのだろう。実際、一護も恋次も大抵たつきとルキアの傍から離れない。
そんな彼女たちが、内心たつきは羨ましい。
女性として一護の前に立てる彼女たちがうらやましいのだ。最初の一歩で、自分は幼馴染という位置に甘んじてしまった。それは強い呪縛で、その位置からは動けない。相手が好きならばなおさら――その位置から逃れたいと思えばなおさら。
そして彼女らはとても綺麗で――自分とは同じ性別だとは思えない程、女らしい丸みを帯びた身体をしている。
自分はと言えば、来る日も来る日も空手の稽古に明け暮れて、やわらかな立ち居振る舞いも可愛らしい仕草もとても出来ない――例えどんなにしたくても。
明るい彼女たち。遠く、無邪気に一護たちに声をかけているのが見える。彼女たちの想いが本気でないと如何して自分に言えるだろう?自分はこんなに一護が好きなのに。自分はこんなに一護に目を奪われているというのに、他人が同じように一護を見ないなど言える筈もないのだ。
そして一護が可愛らしい彼女たちをどう見るか――自分のように女として意識されない筈はない。さっきだって一護は困ったように彼女たちから目を逸らしていた。きっと真正面から見ることが出来なかったのだろう。
「人の想いの強さがわかればいいのに」
ぽつりと呟いたたつきの言葉に、同じように海を見ていたルキアがふとたつきへと顔を向けた。その言葉に何を見たか暫く無言でたつきを見つめた後、「そうだな」と呟く。
「人の想いの強さが分かれば、きっと――悩むことなどないのだろうが」
淋しそうに微笑みながら、ルキアは再び視線を海へと戻した。もしかして一護を見ているのか、と震えたが、ルキアが目で追っているのは紅い髪の、彼女いわく幼馴染の方だった。
ああ、とたつきは思う。
あたしと同じだ。
「私が知っている方法は――」
遠くからでもよく目立つ紅い髪の相手を見つめながらルキアが小さな声で言う。
「相手が虚になってしまった時だろうか」
「虚に?」
現世と尸魂界の関係、虚と死神の話は既に聞いている。けれど何故相手が虚になれば想いの強さがわかるかはわからない。
疑問が顔に出ていたのだろう、ルキアは小さく笑って答えた。
「虚となった魂は亡くした心を埋めるために、生前最も愛した者の魂を求める」
だから真先に向かう相手がその者の想い人――虚に真先に喰われるのは、何よりも強く誰よりも激しく愛された証。
「そしてそれがわかった時には、もう永遠に手遅れなんだ」
そんなルキアの言葉に、たつきはぼんやりと考える。
あたしが虚になった時には、きっと。
夕食はホテルの敷地内のレストランで4人で取った。
財布を持っている恋次から気にせず何でも食べていいとの太っ腹な言葉があったので、4人は遠慮なく飲み食いし(勿論恋次以外はアルコールなしで)会計で残った恋次と一護より先にルキアとたつきは外に出た。
夜風がとても気持ちいい。都心に近い空座町とは夏の暑さが違う。湿気がほとんどないので、暑いといっても爽やかだ。
そんな夜風に吹かれながら、恋次たちがなかなか出て来ないのをいぶかしんでルキアはレストランへと目を向けた。ガラス張りの入り口は店内の様子がよく見える。
そのレストランの入り口近くで、恋次と一護と一緒に――昼間の女二人が居た。
「ああ――よくやるわね」
背後から、ルキアが見ているものと同じものに気付いたたつきが呆れたような声を上げる。恋次と一護に部屋のキーを見せ、恐らく自分たちの部屋番号を伝えているのだろう。一護は当惑したように曖昧な笑みを浮かべ、恋次は極自然に相槌を打っている。
行くのかな。
そんな恋次の様子を見ながらルキアは胸を押さえた。気の所為でなく胸が痛い。
部屋はルキアとたつき、恋次と一護になっている。だから、夜に恋次が何処に行こうとルキアにはわからない。例えこの後、恋次が部屋を出て彼女たちの部屋に行ったとしても――ルキアには解らないのだ。
女性たちと話す恋次の姿を見ていたくなくて、視線をそらせたルキアの視界に、見覚えのある顔が横切った。少し考えて、それが昼間、自分を近藤という女性と間違えた男だったことに気が付く。
そうだ、あの時――「可愛い」と言ってくれたのだ。
自分が男性から「可愛い」と言ってもらえる容姿なのか、それを聞こうとした時に恋次が来て聞けなかった。
自分が可愛いと見えるのか――その言葉に値するのか、もう一度ルキアは聞いてみたかった。
「すまぬ、先に部屋に帰っていてくれ」
「え? 朽木さん、何処に――」
呼び止めるたつきの声を振り切って、ルキアは昼間の男のそばへと駆け寄った。
男は一人ではなく、他に二人いた。同じような年代で、同じような服を着て、何故か四方へ目を配っている。
名前を呼び掛けようとして相手の名前が解らずに、ルキアは一瞬躊躇した。その間も男たちはきょろきょろと何かを物色するように周囲を見回している。
躊躇っているうちにどんどん距離が離れて、意を決してルキアは男に向かって小走りに近寄った。
「――すまないが」
一斉に三人の男が振り返った。居心地悪く身を縮こませると、昼間の男が「ああ」と声を上げる。
すぐに周囲を見回したのは、恋次が居るかどうかを確認したのだろう。
「どうしたの?」
「少し、聞きたいことがあって」
俯きながらぽそぽそと小さな声で呟くルキアの頭上で、三人の視線が交差した。無言で何かを頷き合う。
「昼間の紅い髪の、あれ、君の彼氏?」
「いや――そういうのじゃない」
苦くその言葉を口にすると、男は打って変わって親しげな表情を見せた。別の二人は「じゃあな」と男の肩を叩きながらルキアたちの傍から離れていく。何か含みがあるような笑みを男に残して行った二人に、残った男は親指を立てながら同じような笑みを返した。
これから聞こうとしていることを関係のないあの二人に聞かれることを躊躇していたルキアは、二人きりになったことに安堵していると、「それで、どうしたの?」と優しげな声がする。
「聞きたいことって、何?」
「あ、それは昼間の……」
「ん、ちょっとここは人が通って落ち着かないから海の方行こうか」
ルキアの返事を待たずに、男はさり気なくルキアの肩に手を置いて歩き出した。あまりよく知らない人物に肩を抱かれて一瞬身体が強張ったが、現世ではこれが普通のことなのかと納得する。
ぎくしゃくと歩くルキアの肩に、男はずっと手を回したままだった。砂浜に来ると「足元に気をつけて」と引き寄せられる。
「――それで、話って」
波打ち際から少し離れた場所にボートが引き上げられている。監視員の小屋の陰に在るそこは海を散歩する人の目にも触れない。その中にルキアを座らせながら、男は当然のようにルキアの隣に腰を下ろした。その近さにルキアは居心地悪そうに身を少し離す。
「その――昼間、言っていただろう。私が、その……可愛いって」
こんな言葉は柄じゃない、それがわかっているのでルキアの頬は真赤になる。そしてそれは、男を誤解させるには十分だった。
「ああ――可愛いよ。すごい可愛い」
「本当――だろうか? 本当に?」
「勿論。朽木さんは可愛いよ」
「でも、男の人はもっと――その、胸が大きくて、大人っぽい綺麗な人が好きなんだろう?」
「朽木さんも綺麗だよ? 鏡見たことある? 今までだって色々声掛けられてきただろ」
ルキアは無言で首を横に振った。今まで誰もルキアに声をかけてくる物はなかったのは事実だが、それはルキアが朽木という名前を背負っていた所為と、白哉と恋次が無言の圧力をかけていた所為なのだが、そう言ったことに疎いルキアに解る筈もない。
「朽木さんは綺麗だよ。それに可愛いし」
「それは恋愛対象になれるくらい?」
恋次の、という枕詞は脳内でしか言わなかった所為で、完全に男はアクセルを踏んだ。
ルキアが距離を離していたその間を一気に詰め、ルキアの身体を抱きしめる。え、と突然のその男の行動に驚いたルキアの身体を、ボートに押し倒した。
「な、何……!?」
遠慮会釈なく胸を触られ、ルキアは硬直した。何が起きているのかわからない。それを男は初めて故の緊張と受け取って、「大丈夫だよ」と耳に囁く。
「恋愛対象だよ、君は。――君から誘ってくれて嬉しいよ」
「ち、違う……っ、そうじゃなくて、私は……っ」
ようやく男の誤解に気付いたルキアは必死で暴れ出すが、完全に押し倒された状態では力が入らない。押し返そうにも、流石に男の体重はルキアの腕では叶わない。
「やだ……っ!」
「今更何言ってんだよ、自分から誘っといて」
「違う、そんなつもりじゃ……っ」
ワンピースの裾から手が入り込んだ。固まるルキアの太股を男の手が撫で回す。興奮し息が荒くなった男が、ルキアの下着に手をかけた瞬間、
「――何やってんだ手前は」
頭上から降って来た声に、男は反射的に首をひねって上を仰ぎ見た。
月光を受けたその男に見覚えがある。絶対に間違えようのない、その紅い髪と顔に彫られた紋様――声もなく固まるのは、男もルキアも同じだった。
恋次は真直ぐにルキアを見ている。ルキアの上に覆いかぶさっている男には一顧だにせず、ただルキアだけを睨みつけ、「何やってんだ手前」ともう一度繰り返した。
「あ、――」
何も言えずに震えているルキアの上の男の襟首を掴み、恋次は片手一本でボートから砂浜に男を放り投げた。3メートルほど投げ飛ばされて勢いよく砂の上に落ちた男は、ヒイと悲鳴を上げて這いながら逃げていく。
ルキアが今までに見たことがない程、恋次は怒っていた。その紅い瞳が焔を内包している。そんな目で見られたことは今まで一度としてなく、ルキアは乱れた服を直すことも出来ずにただ震えて小さくなる。捲れ上がったスカートは白い脚を月の光にさらしていた。それを見て更に恋次の目に怒りがこもる。細められた目を、ルキアは見返すことが出来ず俯いた。
恋次の手がルキアに伸びる。びくんと身を竦めるルキアの身体を、恋次は――
ホテルの庭のベンチで心配しながら座っていたたつきは、一護の「戻って来た」という言葉のしばらく後、遠くに人影が見えてほっと胸をなでおろす。所がその人影が一つしかないことに気付き不安そうな声で一護に顔を向けた。
「朽木さんが居ないんだけど」
「あ? いや、ちゃんと霊圧は二人分……」
そうこう言っている内に、人影は大分近付いた。影ではなくはっきりとその姿を認識できる距離までに近付いて、一護とたつきは揃って呆気にとられて恋次を見る。
「有沢」
呆然としている時に名前を呼ばれ、「な、何?」と声が裏返ったたつきに恋次は何かを差し出した。受け取ると、ルキアが持っていた筈の女部屋のカードキーだ。
「一護、お前今日はそっちの部屋で寝ろ」
「はあっ!?」
「こっちは夜通し膝詰めで説教だ」
恋次の肩には大きな荷物――ルキアが乗っている。麻袋を担ぐように無造作に肩に担ぎあげているその様子は、相当恋次が腹を立てていることが見て取れた。今まで恋次がルキアにそのような暴挙はしたことがなく、全身から怒りのオーラが燃え盛っている。これは本当に徹夜で説教だな、と一護はルキアに本気で同情した。
「お、下ろせ恋次。逃げないから、自分で歩くから」
「うるせえ黙ってろ」
羞恥から願い出たそのルキアの懇願も一刀両断で却下だ。「じゃ、悪いな」とエレベーターホールに向かう恋次の背中を最後まで呆然と見送って、一護とたつきは顔を見合わせた。
「………………」
男部屋のカードキーは恋次が持っていて一護は入れない。かといってたつきと一緒の部屋で寝るなど出来る筈もない。子供の頃ならいざ知らず、この歳になってしまえば一緒の部屋に寝ることなど不可能だ。――普通の男女ならば。
「……仕方ない、部屋戻るわよ」
「は!?」
「部屋入れないんじゃ仕方ないでしょ。いいわよ、こっちで寝れば?」
あっさりと許可が出たこの状況に――歓喜ではなく虚脱感が押し寄せる。
異性として見られていないことが決定的。
「……悪いな」
「別に、あんたが悪い訳じゃないし」
エレベーターホールには既に恋次たちの姿はなかった。ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。ちらりと横目でたつきを伺ったが、特に変わった様子もなく普段通りのたつきに一護は内心肩を落とした。
海の見える部屋、その恋次のオーダー通りに選んだ部屋は10階で、窓を開けると真正面に海が広がっている。波の音が絶え間なく聞こえ、絶好のシチュエーションに違いない。
けれど隣の部屋では今現在炎の説教の真最中、そして今この部屋では――
「ちょっ、信じられない、そこでトゲゾー甲羅!? ムカつく!」
「うるせー、勝負の世界に情けはねえんだよっ」
部屋に備え付けのプレイステーション2でマリオカートにいそしむ男女(17歳)。
「退け退け退けっ! 邪魔ッ! 何人たりともあたしの前を走ることは許さん!」
「あ、ざけんな手前! うわっ、えげつねー!!」
胸の切なさをゲームで発散。
男として全く見られていないことを自覚した現在、その悲哀を隠すために無理矢理ギアを入れたハイテンション。
ひとしきり騒いだ後に、付属のソフトを次から次へと試して行く。
時計は周り、時刻は午前二時を過ぎる。相変わらず何の意識も危機感も持たないたつきに一護は何度目になるかわからない挫折感を味わった。
少しは危険を感じろって。
お前は女で俺は男だろーが。
溜息は胸に仕舞い込んで、次のゲームをと手にしたソフトは「バイオハザード」だった。
これは発売当初にやっている。随分昔なので細かい攻略は忘れているが、それはそれで新鮮な気持ちで楽しめるだろう。確かゾンビが出てくるホラーだった筈だ。
「やる?」
「いや、あたしは……それ系はちょっと」
その言葉は予想外で、一護はまじまじとたつきを見た。
たつきはと言えば、そんな一護の視線を避けて窓の外を気にする素振りで目を合わせようとしない。
「何で? お前、見えるじゃん」
たつきの霊力はここ数年で飛躍的に高くなり、人には見えないものが見えるようになっている。今まで一護にしか見えなかった筈の彼らの姿を今ではたつきも見ることが出来る。
見慣れている筈だろ、と言外の一護の言葉に、「それとこれとは違う!」とたつきは噛み付いた。
「実際のそういったのは結構明るいじゃん! 何かデートとかしてるし、普通にふわふわ漂ってるじゃん! でもそれは違うじゃん! 怖いって! 襲ってくるし、驚くしっ!」
そういえば以前、遊子と夏梨と三人でこれをやったというような話をちらっと聞いたことがある。夏梨曰く、「たつきちゃん、結構怖がりだよね」で、遊子ですら平気だったゲーム内容に相当びびっていたらしい。始めて30分もしない内にすごい勢いで謝りながら勝手に電源を落としてしまったという。
ホラー系が相当苦手なのだろう。
「そうか、苦手か」
ふむ、と一護はパッケージを眺めた後、
「じゃ、やるか」
「ふざけんな一護!」
「うるせー、俺はやるゲームやるゲーム全部お前に負けて切れてんだ!」
「知るか一護が弱いんだろあたしの所為じゃないじゃん!」
じょーん、とプレイステーション2が立ち上がる音の後に画面が現れる。映画のように始まるオープニングムービーに、トラウマが甦ったのかひっとたつきの息を呑む音が聞こえた。
「今すぐに切れ消せ早くしろっ!」
「あー、それが人にものを頼む態度かあ?」
「今すぐ止めなきゃあたしがあんたの息の根を止めてやるッ!」
たつきの腕が一護の首を挟む。ヘッドロック――相手の頭を脇に抱え締め上げるその絞め技に、激痛を感じながらたつきの胸を目の前にしてやたら胸がときめいた。
末期だな、と気が遠くなりながら一護は思う。
あー、死ぬ、本気で死ぬかも。そんでもし虚になったらお前んとこ行くからな、そん時は遠慮なく殺してくれ。
「――何だよ、それ」
突然一気に空気が肺に流れ込んで一護はむせた。激しく咳き込みながら「ふざけんな、殺す気かたつき!」と涙眼で睨みつけると、何故か呆然と自分を見ているたつきに気付いて一護は「おい、たつき?」と声をかけた。
「何呆けてんだ? 殺されかけたのは俺――」
「何で? 何で虚になったらあたしの所に来んの?」
口にしたつもりはなかったが、酸素欠乏状態と疲労と眠気と恍惚感で朦朧と思ったままを口にしていたらしい。誤魔化そうにも咄嗟に上手い言い訳は思い付かず、おまけにたつきは誤魔化されてくれる雰囲気でもない。
「何でってそりゃお前――」
――虚となった魂は亡くした心を埋めるため、
生前最も愛した者の魂を求めるのだ。
1巻P117参照。
ルキアがそう言ってる。
つまり俺が虚になったら間違いなく真先に向かうのがたつきのところで、それはつまり俺が最も愛しているのはたつきでだから俺はたつきの魂を求めて――
「って言えるかあ―――っ!!!」
がばっと一護は絶叫してみたが、たつきはノリ悪く――というよりまだ呆然と一護を見つめている。虚脱したようにへたり込んでいるたつきに普段の覇気は全くない。途方に暮れているように見えるのは気の所為か?
「たつき? どうした、何か変だぞお前」
顔を覗き込みながら、一護がたつきの頬をぺちと叩くと、突然たつきは弾かれたように身を仰け反らせて一護から距離を取った。珍しいことに頬を赤くしている。そんな反応をたつきがしたことなど今までになく、まるで――普通の女の子のような。
勿論今まで一護がたつきを普通の女の子と思っていなかった訳ではなく、逆に「特別な女の子」のポジションだったのだが、たつきの方が一護を普通の男として見ていなかった――男というよりも兄弟、仲間、幼馴染、といった「恋愛には発展しない」逆ベクトルの「特別な存在」としてのポジションだったと認識していた一護は、そんなたつきの態度に戸惑い更にたつきの顔を覗き込む。
「あっ――あたしも、そうだからっ!」
「は?」
「あたしもっ――もし虚になったら、あんたのとこ行っちゃうから! だ、だから――」
何故か怒ったようにたつきはそう言い――顔を赤くしたまま俯いた。
虚になったら。
「――虚が一番最初に誰を襲うのか――お前、知ってるのか?」
「……朽木さんに聞いた」
言った者が同じならば、言った言葉も同じ筈。
それならば――だとしたら――もしかしたら――
「……本当に? 本当にあたしの所に来る? おじさんじゃなくて遊子ちゃんじゃなくて夏梨ちゃんじゃなくて織姫じゃなくて朽木さんじゃなくてあたしの知らない誰かの所じゃなくて?」
泣くのかと思うほど。――たつきはそんな顔をしていた。今まで見せたことのない顔。泣き顔は何度か見たことがある。自分が泣かせたこともある。去年だって、「お前には関係ない」と突き放して泣かせた。
「――お前の所にしか、行かない」
きっと他の思考なんて真先に亡くして、たつきへの想いだけ残したまま、たつきの元へと飛んで――たつきの魂を喰らうだろう。それ以外は望まないだろう。自分の中にそれしか大事なものがないから。
「あっ――そ、う」
ぎくしゃくとたつきは立ち上がって、自分のベッドへと潜り込んだ。一瞥して誘っている訳ではないとわかる。ただ混乱の極致なのだろう。布団を頭までかぶってしまった。
「たつきも俺んとこ来るのか?」
たつきも同じ気持ちだと、もう一度聞きたい――ずっとたつきは自分をただの幼馴染と思っていると思っていた。
如何しても踏み出せなかった次の一歩を、もしかしたら今踏み出しているのかもしれない。
「ずっと、あんたはあたしのこと只の幼馴染って思ってるのかと思った」
「そりゃあこっちの台詞だよ」
「この旅行だって、他に頼める奴が居ないっていうから、だからあたしは特別だって思われてないって思って」
「お前としか行きたくなかったからだよ!」
「あたしへの態度、子供の頃から全然変わらないし、女だって思われてないって思って、」
「お前だって俺のこと男だって思ってないだろ、さっきだって平気でこの部屋呼んだじゃねえか、躊躇なく!」
「だって――あんたがあたしを女って思ってないって、そう思ってだから!」
叫んだ勢いでたつきが起き上った。隠れていた布団からたつきの顔が現れる。その目が涙で濡れているのに気付いて一護は息を呑んだ。
子供の頃から一緒にいた。一番つらい時に傍にいてくれた。母親を亡くしておかしくなった時、ただ何も言わず傍にいてくれた。自分の所為で母親を殺してしまった現実を真正面から見られなくて、絶望して死を選ぶことを躊躇せずに緩慢に死へと向かっていた一護を、引き止めてくれたのはいつも傍にいてくれたたつきだ。
どれだけたつきに救われたのだろう。
どれだけたつきに救われているんだろう。
どれだけたつきに救われていくのだろう。
「俺――お前が好きだ」
するりとその言葉が一護の口から滑り出た。言いたくても言えなかった言葉が、たつきの涙を見て何も考えることをせずに。
たつきは泣き顔を人に見られることを極端に嫌がる。幼い頃から一緒にいて、泣き顔を見たのはほんの数度だ。そしてそれは大抵、自分の所為で泣かせているのだ。
一年前のように。
今この時のように。
「子供の頃からずっと好きだ。それを伝えて、お前の傍にいられなくなるのが怖くて何も言えなかったくらい、お前が好きだ」
ベッドの上のたつきは、信じられない、という顔をしていた。
言葉を理解するのに時間がかかっているのか、ただ一護の顔を見続ける。
一護にとっては長い長い時間が経過した後、たつきは一護から視線を反らして下を向いた。膝を立てた両足に視線を落とす。
やはり幼馴染は幼馴染のまま――突然幼馴染からそんな事を言われても困惑するしかないもんな。
そう諦めた一護の耳に。
「あ――たし、も」
切れ切れの声がした。聞こえるか聞こえないかの小さな声。
「あたしも――同じ」
俯きながら答えたたつきは、膝に顔を埋めていた。かろうじて見える耳が真赤になっている。
――本当に? 本当に!?
変わらないと思っていたのに――今年も何の変化もないまま、夏は終わるかと思っていたのに。
顔を隠したままのたつきが座るベッドの上に一護は膝を付く。
ぎし、と軋んだベッドの音にたつきが驚いたように顔を上げた。間近にある一護の顔にうろたえているたつきは、もう一護を男として見ていることを隠せない。
怯えているのがわかる、黒い瞳。
ああ、そんな不安そうな上目遣いで見ないでくれ、と一護は思う。
理性が飛ぶって。
ずっと好きで好きで、言えないけれどずっと好きで――大切で、大事な、大好きな、たったひとりの。
「俺、昼間からずっと泳いでたからすっげえ疲れてるし、今こんな時間で眠いし、その上に今最高に緊張して頭ん中が朦朧としてるし、きっとこれ以上は何かする心の余裕も身体の余裕もないから、」
――キスしていいか?
そう尋ねた一護に、たつきは真赤になりながら「そういうことは聞くな!」と怒った。
両手を肩に置いて、引き寄せる。
細い肩が震えている。
女の子だな、と思った。
そっと触れた唇はやわらかくて、吐息は甘い。
本当はもっと味わいたい。深く深く分け入って、唇より甘いたつきの声を聞きたい。けれど今日は――
「――限界」
極限まで張り詰めた緊張の糸が途切れて、一護の意識はブラックアウトした。
カーペットの上に正座させられ、目の前には胡坐をかき腕を組んで睨んでいる恋次の姿――そんな状況では、折角の波の音の聞こえるロマンティックな部屋も役には立たない。
もう既に2時間は恋次の説教が続いていた。膝詰めでルキアの無分別さと無思慮さと無鉄砲さと無知とを延々と糾弾し、浅はかさと愚かさを追及する。
そしてそれは尤もなことで、恋次の言葉はどれも至極真当で、振り返って自分の行動を考えてみれば、恋次の言う通り自分の浅はかさと愚かしさに穴があったら入りたい状況だ。
そしてそれを恋次に言われるのがルキアには最もつらい。
好きな相手の口から、自分の愚かな行為を責める言葉が延々と出続けるのだ。少しでも好いてほしいのに、これでは全くの逆効果――悪印象しか持たれない。
それでもこれは自分の無分別が招いた結果なのだ。
あの時恋次が助けてくれなければどうなっていたか――それを想像すると恐怖に震える。太股に張り付いた見知らぬ男の体温を思い出してルキアは身震いした。
本来は男部屋になる筈だったこの部屋に入った途端、恋次はルキアを風呂場に押し込んだ。砂交じりのボートの床の上に押し倒されたルキアの身体には砂や土が付いていて、それをまず落とせということらしい。
肩や胸、太股などを撫で回された男の手の感触をはやく洗い流したかったルキアは、異も唱えずに風呂場に飛び込んだ。熱いシャワーを浴びて痛いくらい肌を擦ってその感触を肌から消す。何度も何度も繰り返していた所為で、風呂から上がったのは1時間は経過していただろう。脱衣所に出て着替えはどうしようかと今更に思ったルキアの前に、籠に入った部屋に備え付けの浴衣が置いてあった。恐らく恋次が置いていったのだろう。洗面台の横のごみ箱には、ルキアが着ていた白いワンピースがびりびりに破かれて捨ててある。
今まで見たこともない程恋次が激怒している――その事実が十分にわかる程の、それは光景だった。
怯えながら浴衣に袖を通し、おずおずと部屋に戻ったルキアを恋次はじろりと一瞥した。その瞳に険呑な光が宿っている。真直ぐに制止できなくて、ルキアは足元に視線を落とした。
そして恋次の説教が始まり――ルキアは縮こまってその尤もな怒りを身に受けている。
「大体何であんなのに付いて行った? ってかお前、自分からあいつに声かけたそうじゃねえか」
きっちり答えてもらおうか、そう発した恋次の声は不穏な空気を纏っている。
「もしかしてお前、あーゆうのがタイプか? だとしたら相当趣味が悪いぞ、自覚しろ」
「違……っ!」
それは想い人に最も誤解されたくない事だ。俯いていたルキアは顔を上げ必死で首を横に振る。
「じゃあなんであいつに声をかけた? 何であいつに付いてくんだよ? あいつに何の用があった?」
恋次は追及を止める気配はなく、ルキアは咄嗟に嘘を付く事が出来ない。再び俯きながら、「昼間、私の事を可愛いって言ったから……それが本当かどうか、知りたかったのだ」と小さな声で答えた。
「莫迦か! ああいったのはどんな女にも可愛いって言うんだよ、真に受けるな!」
それはつまり恋次は自分を可愛いと思っていないということか、とルキアは目を伏せた。こんな風に現実を突きつけられるのはつらい。好きな人に可愛いと思ってもらえないなら、誰にそう思われても意味はない。
「それとも何か、手前は『可愛い』って言ってくれるなら相手が誰でもいいのか」
節操がねえ、と吐き捨てるように言う恋次に、思わず涙がこぼれた。
そんなことないのに。可愛いって思ってほしいのはただ一人なのに。
それを口にすることが出来ない。数時間前まではただ幼馴染という関係すら壊れるのが怖くて口に出来なかった事が、今は――こうまで恋次に呆れられた状態で、自分は全く恋次に可愛いと思われていないと知った状況で、口に出すことなど出来る筈がなかった。
堪え切れずに、けれどせめてと声を殺して泣くルキアを前にして、恋次の怒気がやや落ち着いたようだ。目の前のルキアから目を反らして溜息を吐く。そして暫く何も言わず、ルキアの嗚咽だけが部屋に響く。
「――頼むから自覚してくれよ」
疲れたように恋次がぼそりと呟いた。横を向いたまま、ルキアを見ずに恋次は言葉を続ける。
「あんまり隊長を心配させないでくれ。お前に何かあったら隊長が悲しむだろ? 俺は隊長からお前を見てるよう言われてるんだからな、お前に何かあったら隊長に申し訳ないんだよ」
隊長を――隊長が――隊長から――隊長に。
そこに恋次の意思は何一つない。
白哉を心配させないために。
白哉が悲しむから。
白哉に言われたから。
白哉に申し訳ないから。
幼馴染より、家族よりもっと酷い。
――上司の妹でしか、ないのか……私は。
ただの上司の妹。
命令でなければ共にいることもない。
命令でなければ心配しない。
「――莫迦に、するなっ!」
何かを考える前に手が出た。思い切り振り上げた手は、けれど何なく恋次の手に掴まれて阻止された。目の前に驚いた恋次の顔がある。それに向かって今度は左手を振り上げた。それも恋次の手に掴まれて身動きが取れなくなる。
「何なんだよ手前はいきなり!」
「莫迦に――莫迦にするなっ! こんな、酷い――ただ兄さまに命令されたから傍にいるなんて、兄さまが悲しむからだから私の心配をするなんて――そんな酷いこと――どうしてそんなこと私に言うんだ、お前の意思なんて何一つないことを! そんなことならいらない、そんな心配なんていらない、お前が傍にいる必要なんてない! 私のことなんて如何でもいいって思ってる奴に心配なんてされたくない、もうほっといてくれ――もう放っておいてくれ!」
「如何でもいいなんて思ってるかよ!」
ルキアの両手を掴んだ恋次の手がぎり、と力を加えた。そのままルキアを引き寄せる。
「俺がどんだけ何も考えないよう努力してると思ってんだ! どれだけ自分を押さえてると……っ!」
指が触れる度、手が触れる度。
ルキアの身体が硬直することに気付いていた。
その度に思い知る、自分はルキアに触れてはいけないのだと。
ルキアを女として見ている自分を知ったら、ルキアは怯えて離れていくだろうと。
傍にいることすらできなくなる。
それよりは、どんなに苦しくても――望みのない恋だけれど、傍にいたいと思った。
激情を――決して口にする筈のなかった恋次の激しい想いを、目の前に聞くルキアの両目は大きく見開かれていた。驚いたように恋次を見ている。その身体が震えている――硬くなった身体。今までと同じように、恋次が触れる度に緊張していたルキアの身体。
その硬直は、拒絶の証。
何も言わずにただ恋次を見つめるルキアの紫色の瞳を見つめることが出来ず、恋次は視線を背けた。縛めていた両手首も離す。
言わなければ傍にいられた筈の言葉を口にしてしまった今は、もう傍にいることもできない。
今までルキアが自分の横にいたのは、ただの幼馴染という安全装置があったからだ。
それが機能しないとわかった今、もう一緒にいることは出来ないだろう。自分が安全ではないと知ってしまった今では。
「――二度とお前の前には現れねえよ。心配すんな」
疲れたように呟いた恋次は、もう全てを諦めた声で――。
「……厭だ」
離された両手を、今度はルキアから恋次の手を掴む。驚いたようにルキアを見つめる恋次の紅い瞳を真正面からルキアは見た。
「もし、今まで――恋次自身の意思で私の傍にいたなら、何処にも行かないで。傍にいて」
踏み出せなかった一歩を、――ルキアは決心して歩き出す。
叶うかもしれない。ずっと夢に描いていたことが。
幼馴染としてでなく、もっと別な関係になれるかもしれない。今まで臆病で、決して口に出来なかった言葉を口にすれば。
「自分を押さえてるって何? 如何して? ――それは私を女として見てくれてるから、か?」
近付くな、と掠れた声で恋次はルキアから視線を再び逸らす。
「女としてしか見てない。だから、今だって――触れたくて仕方ない」
だから近付くな。
堪えるようにルキアから身を遠ざける恋次の胸にルキアは顔を埋めた。もう既に考えることは放棄した。そんな余裕はとうになく、心に思ったままを口にするしかできない。そしてそれが一番いいと、朧気ながらルキアは悟っていた。
今までは考え過ぎて身動きがとれなかった。
それならば、何も考えずにいる方がいい。
「触れて。恋次に触れて欲しい」
ずっと女として見てもらえてないのかと思ってた、そう呟いたルキアの身体が、恋次の腕に包まれた。
「そりゃこっちの台詞だ」
まだ事の成り行きを受け入れられないのか、不安そうにルキアの身体を抱く恋次の胸に、ルキアは身をすりよせた。
今までとは明らかに違う。
触れる場所から伝わる暖かさは、触れる場所から伝える暖かさは、今までとは全く違う。
「私のこと、好きか?」
顔が見えないことをいいことに甘えるようにそう言ってみる。抱えられた頭の髪越しに唇が触れ、「好きだ」と言葉が伝わった。
「戌吊の頃からずっとな。どっかの鈍い誰かとは大違いの歴史だぜ」
「そっ……んな、確かに自覚したのは最近だけどっ、でも気付いてなかっただけで、私だってずっと……」
自分の気持ちを信じてもらえないような気がして焦りながら顔を上げたルキアの目の前に、恋次の笑顔がある。見慣れている筈なのに、やはり何処か違ったように見える恋次の笑顔。
「嫌われたくなくて言えなかった」
「私も……この距離が壊れるのが怖くて言えなかった」
二人で莫迦みたいだな、と泣きながらルキアは笑った。
その笑顔が「な、何だ?」という慌てたような声と共に戸惑いの表情へと変わる。只でさえ近かった恋次の顔が更に間近に在って、その予想外の距離にルキアの声が裏返った。
「何って何が」
「いや、その……ちょっと近いような気がして」
身動ぎして身を遠ざけようとするルキアの背中に両手を回して、恋次はルキアを囲い込む。その手慣れた動きに身構えることは、動揺しているルキアには完全に無理な相談だった。
あわあわとうろたえるルキアの顔を嬉しそうに――そしてほんの少し意地悪そうに、恋次は覗き込む。
もう何十年も想い続けてきた相手をようやく手にした幸福と。
もう何十年も苦しみ続けた無垢という名の鈍感さへの報復と。
その双つが混ざり合った視線と笑みで、恋次はルキアの髪に口付ける。
「触れていいんだろ?」
「い、……いけどっ、まだ心の準備がっ」
出来てない、と続けようとした言葉は恋次の唇に塞がれた。びくんと硬直するルキアの唇に恋次の舌がゆっくりと分け入る。
求める舌におずおずと応じて舌を絡ませると、抱きしめる恋次の腕の力が強くなった。
更に深く唇が重なる。それでもその行為は優しくて――夢中になる程、それは甘い。
「――は」
離れた唇に思わず喘ぐルキアの耳に恋次の唇が触れる。軽く甘噛みされ、小さく身体を震わせるルキアに、恋次は耳元で「可愛い」と囁いた。
「な――何をっ……」
「お前が可愛いかどうか知りたかったんだろ? 可愛いよ、お前は。誰より可愛い」
「う……」
「すっげえ可愛い。真赤になってるとことか、照れて声も出ないとことかめちゃくちゃ可愛い」
「――っ」
「泣いてるとこも笑ってるとこも怒ってるとこも全部可愛い。食べちゃいてぇ」
「も……う、いい加減にしろっ!」
可愛いと連呼する恋次に、恥ずかしさから思わず怒鳴ってしまったルキアの唇を再び恋次が塞ぎ――「可愛いよ――ルキア」と耳元で甘く囁くとどめの一撃。
ぷしゅう、と顔から煙を出して気絶してしまったルキアを、恋次は驚いたように腕に抱きしめ――しまった、と呟いた。
身体の下に抱えている枕の抱き心地が素晴らしく気持ちよくて、一護はその枕に顔を埋めた。
やわらかくて弾力があって、しかも何だかいい匂いがする。――こんな枕うちにあったっけ、とぼんやりと目を開けると、そこにロゴ入りの白いTシャツがあって一瞬で硬直した。
恐る恐る顔を上げると、熟睡しているたつきが居る。そして自分を振り返ってみれば、たつきに抱きつく形でベッドの上にいる。着ているものはTシャツにGパン、そのGパンの足はたつきのデニムのミニスカートから伸びている素足に足を絡めて、顔はと言えばたつきの胸に埋めて――
「うわあああああっ!?」
飛び起きた一護の動きでたつきも目が覚めたようだ。数秒ぼんやりと視線を彷徨わせているたつきの前で、一護はこれを一体どう説明しようかと混乱した頭で考えた。変態と罵られても仕方ない態勢だったのは否定できない。
――女の子の上でその胸に顔を埋めて足を絡ませてなんて普通しないし絶対っ! しかも男の性として朝の生理現象でトランスフォームしてるしそして今は確実に「朝の」ではない生理現象でトランスフォームを維持してるしでもそれは好きな女の子とこんな近付いていたら誰にでもある現象ででもそれを一体どう説明すればっ!?
「――重い」
「はいすみませんっ!」
不機嫌そうに呟いたたつきの上から転がり落ちると、恐る恐る一護はたつきの顔を窺った。
怒っているたつきの表情からは、とても甘い雰囲気は掴めない。もしやあの記憶は自分の作りだした妄想かと、呆然と一護は呟いた。
「ええと――もしかして、夢?」
「馬鹿野郎っ!!」
本気の手刀が額で炸裂した。思わず呻いてベッドに突っ伏すと、「夢にするな、馬鹿」と怒ったような――拗ねたような、声がした。
「夢じゃない?」
「夢にしたいのかよ」
聞き様によっては怒っているその声は、一護には照れているのだと今ならわかる。何故ならそっぽを向いたたつきの頬と耳が赤い。
あの幸福は、想いが届いたあの幸せは、夢ではなかった。
唇に感じたあの柔らかさも。
「――まだ実感がわかない」
「そんなの知るか」
勝手に寝たのはそっちだろ、と拗ねるたつきの肩を引き寄せる。ヘタレた汚名を返上するには、男らしく実行あるのみ。
「実感、わかせてくれ」
「一……」
一護の意図に気付き、たつきの頬が更に赤く染まる。緊張しながらきゅっと目を瞑るたつきが愛しくて、近付けた唇が触れる直前――
「朝だ起きろ一護!!」
何故か思い切り不機嫌そうな恋次の声と共に部屋の扉が叩かれて、二度目のキスは未遂に終わった。
ひどく寝心地の良い所為で夢も見ずに熟睡していたルキアは、ゆっくりと覚醒していく意識の中で遠く波の音が聞いていた。
寄せては返す波の音――波に揺られるようにゆらゆらと心地よい。きっと母親の胎内にいる赤子はこんな心地よさなのだろう。幸せで何の心配もしなくていい、満たされた想い。
心地よさに小さく声を上げる。髪を撫でられる手の暖かさに笑顔がこぼれた。もっと触れて欲しくて身をすりよせる。
「――よう」
ぱっと眼を開いたそこには、逞しい胸と何度か目にした黒い文様。――普段は服に隠れているその刺青の形を、こんなに間近で見たことはない。
吐息が触れているのは誰かの肌。誰か? 誰ってこんな奇天烈な模様を肌に刻んでるのは一人しかいなくて何で私は恋次の腕の中にいるんだこんなくっついてるししかも恋次は裸だし何で如何してって私ちゃんと服は着てるっ!?
「起きたか?」
パニックを起こしているルキアは先刻承知なのか、笑いを含んだ恋次の声が頭上からする。慌てて飛び起きて横に寝ている恋次を見下ろしこくこくと声もなく頷くと、「そうか」と横になったまま自分の腕を枕にする。
「身体はつらくないか?」
「つ……つらいっ!? つらいって何がっ!? つらいって如何してっ!?」
「如何してってお前……そりゃあ昨夜、」
そこで言葉を切って意味深に笑う恋次を見、ルキアはさらにパニックを起こす。
まさか昨夜一線を越えたとか!? 幼馴染の一線を越えたと思ったらすぐに恋人として一線を越えてしまったのか!? でも全然記憶がないんだけど、ええっ!?
真赤になってから真青に、驚愕と唖然と羞恥と一人百面相をするルキアの顔を眺めていた恋次は、堪え切れずに笑いだした。
「何たって散々お前の顔で遊んだからな!」
「な……っ」
「引っ張ってもつねっても全然起きねえでよ、ムフーって寝てるしいやもうついつい何時間もお前の顔で遊んじまって」
「な、何だと――――っ!?」
思わず掴みかかったルキアの両手を絡み取って、恋次はぽすっとルキアを両腕に閉じ込める。途端硬直するルキアに、その硬直の意味が拒絶ではなく自分を男として意識しすぎるルキアの反応だと恋次が知った今では、苦しみではなく愛しさしか生じない。
「さっさと一人で寝ちまった罰だよ」
「ぐ……っ」
ぐうの音も出ないルキアの耳に、「まあ、その内な」と囁いて恋次はルキアを開放する。
「さて、隣の部屋に突撃するか」
「え?」
「お前の服、取りに行かなくちゃいけねえだろ。昨日の服は俺が捨てたし」
洗面台の横に屑かごに放り込まれていた、びりびりに破れたワンピースを思い出してルキアは俯いた。恋次をあそこまで怒らせていた自分の行為を思い出し身を縮込ませる。
「ごめんなさい……」
「ちげーよ。お前に怒ってたわけじゃなくてだな、いや怒ってたけどそうじゃなくて」
気まずそうに横を向きながら恋次はぼそっと呟いた。
「他の男が触った服の存在なんざ許せるかってーの」
俺がずっと我慢してたのに勝手に触れやがって、と口にした恋次の怒りはルキアではなく昨夜の男に向いているのだと知り、ルキアは意外な恋次の一面――独占欲の強さを知って、目を丸くする。
唖然として見守るルキアの前で、恋次は腕を組んでルキアを見下ろした。
「いいか、金輪際お前の物は誰にも触らせねえからな! 言っとくが俺は心が狭いんだ、もう遠慮しなくていいとわかった以上、今後一切俺以外の男に触らせないからな! 他の男にも話しかけるな! 他の男を見るな、年齢は問わん、餓鬼から爺まで性別が男なら全て該当するからな、覚えとけ!」
その宣言は独占欲の塊――まるで、そう、子供のような。
「笑うな!」
その恋次の声に更に笑ってしまい、ルキアがベッドの上で笑い転げていると、恋次は憤然と部屋を出ていき―― 一護の部屋の前で「朝だ起きろ一護!」と怒鳴る原因となった。
朝食に向かう為に部屋の前で落ち合った4人は、一護は右を、たつきは左を、ルキアは下を向いて視線を合わせようとしない。
ただ一人普段と変わらない恋次は「何でお前ら視線合わせねえんだよ?」という訝しげ声をかけ――答えられずに3人は更に視線を合わせず、各々が赤面した。
バイキング形式のレストランで、昨日の女性ふたりとすれ違う。視線を送る女二人に気付いたのはルキアとたつきだけで、一護はたつきにややぎこちなく「いっしょに取りに行こうぜ」と話しかけ、恋次はルキアが自分の彼女だと他の男をお牽制するようにその手をしっかりと繋いでいる。
恋次と一護の、ルキアとたつきに対する態度が昨日と全く違うことは、やはりそういった事に鼻が利くのだろう、正確に気付いて女二人は悔しそうな表情を浮かべた。ぷいっと視線を反らせて4人から離れていく。
来てよかった、とルキアは思った。
この旅行のきっかけを作ってくれたあの番組、海へと誘ってくれたあの曲。
それに感謝をしながら、ルキアは目の前で食事をする恋次を眺める。
まだ夏は終わらない。
とりあえずは食事が終わったらもう一度、あの綺麗な海へ、手を繋いで。
そしてまた来年も。今度は二人きりで。
そう思っていたのは、4人同じだった。
おまけ Before [Rhapsody in Blue]