ルキアは何かから逃げ出すように走っていた―――否、紛れもなくルキアは逃げ出していた。
たった今、ルキアが自身の目で見た、見てしまった事。
蒼白になった顔で、ルキアは走る。何処へ、という意識は無かった。ただ、あの場から離れたかった。
辺りは夕暮れの赤い色に染まっている。血のように赤い景色の中、ルキアは自分が木にもたれているのに気がついた。
耳に入るのは、自分の荒い息遣い。
頭に浮かぶのは、たった今見た―――恋次と、女の姿。
「―――うっ」
不意に吐き気が込み上げて、ルキアは地面に膝をついた。口元を押さえて蹲る。そのままはあはあと喘ぎながら、呼吸と吐き気が静まるのを待った。
「―――っ……」
見たくなかった。
恋次があの女と付き合っているのは知っていた。それだけでも辛いのに。
―――あんな二人を見たくはなかった。
あの女の喘ぎ声が耳について離れない。
―――あの女が好きなのか、恋次……?
自分にそんな資格はないとわかっている。嫉妬をする権利なんてない、自分が恋次を待てなかったのだから。2年という僅かな期間、信じて待っていることが出来なかったのは自分の方なのだから。
あげく、恋次を傷つけた。
そんな自分に、何の権利も無い―――だけど。
「恋次、恋次、恋次……」
苦しい。
胸が苦しくて―――死んだ方がましだ。
見たくない。知りたくない。何も聞きたくない。
こんなのは厭だ。
「何やってんだよ、貴族のお嬢様がこんなとこで」
背後からの声に、ルキアは愕然として振り向いた。そこには夕日と同じ赤い色の髪をした、
「……恋次……」
「久しぶりだよな、元気かよ?」
口元に笑みを浮かべて、恋次は蹲るルキアに近付いた。さく、という草を踏む足音がルキアの耳に入り、それでルキアは我に返る。
「何故、お前がここに……」
「追ってきたんだよ、お前を」
顔に浮かぶ笑みはそのまま、けれどその目には笑みの色など微塵も無い。ぞくりとして、ルキアは立ち上がった。よろける足で恋次から離れようとしたが、その時には既に恋次はルキアの目の前に立っていた。背中の木と目の前の恋次に挟まれるようになって、ルキアの動きは封じられる。
「具合でも悪いのか?顔色が悪いぜ」
「……ああ、気分が優れない。家に戻る故、悪いがお前と話している暇は無い」
「気分が悪いなら休んで行けよ」
「いや、もう帰る」
「そう言うなって、こないだは全然話せなかったしよ」
恋次はそう言うと、つ、と腕を伸ばした。ルキアの頬に触れる。その途端、ルキアはびくっと一瞬身体が反応したのを隠す事が出来なかった。
「何びびってんだよ、変な奴」
くくく、と可笑しそうに恋次は笑った。
「お前、別れた時から全然太ってねえじゃねえか。しょうがねえな」
言葉は優しい。
昔の恋次と同じ話し方でもある。
それでも何かが決定的に違う。
以前恋次には感じた事の無い感覚―――殆ど恐怖といっていいような―――を感じて、ルキアは逃げ場を探して視線を彷徨わせるが、背中には木の幹があって動けない。目の前には恋次が、覆いかぶさるように立っている。恋次よりも遥かに小さいルキアには、隙を突いてこの場から離れることは出来ない。
ルキアの頬に触れていた恋次の手は、何かを確かめるようにゆっくりとなぞり、次に耳へと動かした。そして首に触れ、そのまま首の後ろを支える。
理由の解らない緊張感に、ルキアは射竦められたように動けない。
恋次の手の動きは、いっそ優しいと言っていい程だった。柔らかく、愛しそうに。首を支えていた手は、次いでルキアの髪を弄ぶ。
「昔のままだな。別れた2年前のあの時と変わらねえ」
恋次の、以前よりも精悍な顔がルキアの目を覗きこむ様に近付いた。反射的に息を呑み、両目を瞑る。とても恋次の瞳を見ることが出来なかった。
唇に、恋次の唇が触れたのが解った。腕を上げて制止しようとした手を掴まれて、舌で唇をこじ開けられる。
「……っふ……」
首を振って逃れようとした顔を押さえつけられ、更に深く。もう一度。呼吸すら絡め取るように、深く。
くちづけも、昔のように、何故か優しかった。だからルキアは泣きそうになる。
今、すべてを告げれば―――謝れば、許しを請えば、恋次は―――すべては元に戻るのだろうか?
唇が離れて、恋次の広い胸に抱きしめられる。
自分の居場所だった。ここにいればどんな不安も消えた。安心していられた。
「……っ!」
この香り。
恋次の身体から、仄かに漂うこの香り……男が付ける香ではない、甘い、纏わり付くように重い香り。
―――あの女の、香り。
「やめろ、離せっ!―――私に触れるな!!」
突然暴れだしたルキアに、それでも意に介した様子もなく恋次は易々とルキアを押さえ込む。揶揄するような瞳で覗き込む恋次を、ルキアは蒼白な顔色で睨みつけた。
「他の女に触れた手で―――私に触るなっ!!」
「気にするなよ、俺だって気にしてないんだからよ?」
耳元に下ろされた恋次の唇から漏れる吐息がルキアの耳朶に触れ、ルキアの身体は敏感に反応する。そうと知って恋次の唇に、嘲笑が再び浮き上がる。
「よく調教されてんなあ、よっぽどやりまくってんだな」
「な、何を……」
「見てたんだろ?さっき、俺と流佳を。見てたよなあ、お前が見てるのが解ったからサービスしてやったんだぜ?」
「お前、私がいると知って……」
「お前の気配なんざ目瞑っててもわかるんだよ。あん時俺達に近づいてくるのが解ったからな、お前に見せてやろーかと思ってよ。どーだ、興奮したか?」
「………っ」
「何だったら同じことしてやるよ、お前にも。昔の男がどれだけ変わったかお前も知りたいだろ?遠慮すんなよ」
「……巫山戯るな!」
「―――巫山戯てんのは手前ぇだろうがっ」
ばん、と背後の木に叩きつけられてルキアは呻いた。痛みを堪えて目の前の恋次を見据える。間近にある恋次の瞳に、暗い憤怒の炎が揺らめいているのが見えて思わず息を呑む。
「笑えただろうなあ?お前がとうの昔に忘れてた約束を一人で覚えてて、莫迦みてえにお前に会いに来た俺を見てよ?」
「違う、あれは―――」
続けようとした言葉は、自分の身体に阻まれた。
恋次の手がルキアの襟元から侵入し、はっきりと意思を持ってルキアの身体を弄っている。
「何―――?」
「流佳にしたのと同じ事してやるって言ってんだろ。足開けよ、おら」
―――本気だ。
恋次は本気で―――
「い、厭だ、離せッ!!」
押し退けようと突き出した両手はあっさりと押さえつけられた。苦もなく片手で両手の動きを封じられると、そのまま頭上へと縫い付けられる。
「やめろ、恋次……っ!」
言葉は唇で塞がれる。
胸元をはだけられ、触れる外気の思わぬ冷たさに身体が跳ねた。
唇から顎へ、首筋へ、鎖骨へ、胸へ。徐々に、丹念に舌で辿りながら降りてくる。固くなった胸の突起に恋次の唇が触れて、ルキアは漏れそうになった声をかみ殺した。
左の胸、心臓の上で恋次は肌を強く吸う。白い肌に、鮮やかに紅の痕が刻み付けられた。
「立ったまま挿れてやるよ。お兄様はこんな体位はしねえだろ?」
「……兄様?」
突然白哉が出てきてルキアは戸惑った。次いで、自分が今、恋次との行為に流されそうになっている事に気付き蒼くなる。
―――もし誰かに見られたら……朽木家に知られたら……
恋次の身に危険が及ぶ。
再び激しく抵抗しだしたルキアを、恋次は暗い目で見下ろした。
白哉の名を出した途端、ルキアの抵抗は強くなった。
『朽木ルキア』―――朽木白哉のもの、というその名前。
更に激しく、胸の内の暗い炎は燃え上がる。
「生まれの卑しい女は正妻には出来ねえから、義妹として手元に置いて、好きな時にいつでもヤれるようにしてんだろ?流石お貴族様は考える事が違うよなあ?」
「何を言って……」
「ま、貴族ったってヤる事は俺達と変わんねえよな。いや、昼間っから六番隊の隊長室で、お前と兄貴ヤってんだってな?庶民よりやる事はすげえよ、お盛んなこって」
ルキアは呆然と、目の前の恋次の顔を凝視した。
恋次はそれを、隠していた事実を恋次が知っているという事への衝撃だと受け止めた。
「相当激しいらしいなあ?俺が真央霊術院で勉強している間、お前が自分から足開いて男のモノを咥え込んでいたとは思わなかったぜ」
不意に押さえつけているルキアの身体から力が抜け、ルキアの胸に顔を埋めていた恋次は訝しげに顔を上げる。
見開いた目。
色を失った白い顔。
かすかに震えながら、ルキアは小さく、絞り出すように囁いた。
「誰にそんな話を……いや、誰でもいい。そんな事より、お前は……」
つ、と涙が頬を伝って落ちた。
「……お前はそれを、信じたのか……」
涙が落ちる。
ずっと堪えてきたものが、今堰を切って溢れ出した。
心の中を、激しい嵐が駆け抜ける。言葉にしたくても、胸が苦しくて言葉にならない。呼吸すら儘ならなく、ルキアは胸を押さえて荒く息をついた。悔しくて、悲しくて、苦しくて、辛くて、ただ泣いた。
こんな創り話を恋次が信じた事が、何よりも衝撃だった。
「私は……私は……っ!」
恋次の胸元を掴んで引き寄せ、ルキアは慟哭した。
今でも変わらない。
この心を占めるのは、ただお前一人だけなのに。
「―――私は……っ!!」
衝動のままに、ルキアは恋次の唇に自分の唇を触れさせた。
口には出せない。
言葉には出来ない。
だから。
「ル……」
呼びかけた恋次を、渾身の力で突き飛ばす。僅かによろめいた恋次の横を駆け抜けた。
「ルキア……!」
背後で聞こえる恋次の声は、あっと言う間に小さくなった。
驚く近習たちを無視して自室へと駆け込んで、ルキアは扉を閉めた。
大きく上下する胸を押さえて、ルキアは項垂れる。
『私は……っ!』
あの時、私は何を言うつもりだったのだろう。
あんなに冷たい瞳を前にして、私は。
あんなに怒りをぶつけられて、私は。
あんな誤解をこの身に受けて、私は―――。
汚れてしまった死覇装を、ルキアは唇を噛んで脱ぎ捨てた。
目の前の鏡に映る自分の胸に咲く紅い花。
胸に残る、恋次が刻み付けた痕。
「……っ」
襟を掻き合わせ、ルキアは床に膝をついた。
あとからあとから涙が頬を伝って落ちる。
噛み締めた唇から、耐えかねたように小さく嗚咽が漏れた。
―――逃げられない。
恋次を想う気持ちから、逃れられない………。
NEXT―――女郎蜘蛛
お待たせいたしました!奥様劇場です!
ほんとにお待たせしてしまって…(苦笑)1ヶ月に1話は更新したかったのにー。
さて。
奥様劇場、いよいよ私の書きたかった辺りに突入していきます。
頭の中で想像(妄想?)したシーンがうまく文章に出来なくて、楽しいながらも苦しかったりします。
もっと上手に状況を書けるようになりたーい…。
冒頭のシーンは、白ルキですね。
前回の「tatoo」を書いたときに、最後の流佳創り話部分で「VinylRose」のラビさまに興奮していただいたので(笑)更に書いてみました(笑)
アンケートにも白ルキ、と書いてくださった方もおりますし、どうでしたでしょうか。まあ、流佳の作り話なんですけど。
流佳、家で一人、細かい設定とか考えてたんでしょうか。「んー、机の上でしてたってことにしよう。やっぱ自宅より隊長室の方がインパクト大よねー」とか言いながら。うわ、私みたい(笑)夜中一人でえろ話を書く女(笑)
イツマさんから頂いたイラストに、「いまだ台詞無し」と書いていただいた(笑)浮竹隊長も、登場して欲しいです。次回くらい?
でもイツマさんには別の物の方が喜んでもらえるとわかったから、そっちを御礼にするかもしれません(笑)
ふー、ほんとはすぐにでも書きたい続きですが、やっぱり少し間をおきますね。
頭の中で妄想を煮詰めなくてはいけません。
次回、「女郎蜘蛛」。
もうしばらくお待ち下さい。
……感想とかいただけたら、すごく、すごく嬉しいです。
ぜひお願い致します。
2005.2.9 司城 さくら