これは、小さな魔女と、強大な吸血鬼の、むかしむかしの――恋のお話。





 広い広い、その広大な領地を治めている領主さまの名前は「朽木白哉」と言いました。
 けれど、その名前を口にする者はありません。領主さまの力はとても強大で、戯れにその名前を口にしてしまったら、その身を引き裂かれてしまうと人々は恐れ言い伝えられていました。
 なので今では領主さまの本当の名前を知る者はほとんどいないと言っていいでしょう。
 黄昏の世界の住人の中でも、最強の力を持つ「吸血鬼」。しかも領主さまは吸血鬼の一族の中でも頂点に立つという「朽木」の姓を持つ吸血鬼です。その力は想像するよりももっとすごいものなのでしょう。ひと睨みで人を塵に変えたり、思念だけで天候を操り人の村を滅ぼしたという恐ろしい逸話が、緋真さんの住む村にも伝わっていました。
 領主さまには関わってはいけない。
 そのお姿を見ただけで殺されてしまうから。
 震える声でそう伝えられていた話を思い返しながら、緋真さんは首を傾げました。
 緋真さんが見た領主さまは、とてもそんな怖い人には見えなかったからです。
 勝手に領地に入り、無断で大切な、貴重な月光花を持ち去ろうとした、誰何の声に驚いて樹にぶつかり気絶してしまった誰とも知らぬ人間を、屋敷に運んで傷を治し、食事の用意までしてくれた人が、とても言い伝わる恐ろしい人には見えなくて、「領主さま、ですよね?」と不躾にした質問にも頷いて、領主さまの名前が「朽木白哉」だと教えてくれたのです。
 恐ろしい人には見えませんでした。
 それどころか、どこか淋しげに見えてしまったのです。
 この広い屋敷の中に、他の気配が全くないということ、しんと静まり返った豪華で美しい空間が、それ故にとても寂しく哀しく、緋真さんは領主さまの孤独を感じてしまったのです。
 緋真さんは魔女としては少し……いえ、かなり……資質的に問題がある女の子でしたが、とても心優しい少女でした。人の、淋しさや哀しさという感情にとても敏感です。領主さまのその凛とした美しい、完璧なまでに整ったその美しさ故に冷たいとも見える表情の中に、緋真さんだけが領主さまの孤独を見たのです。
 出て行くのも残るのも好きにして良い、と言い置き眠りについた領主さまを見送って、緋真さんはお礼をしようと思いました。
 助けてくださったのです。その場で殺されてしまっても仕方のない状況で、領主さまは緋真さんを助けてくださったのです。
 ご恩は必ずお返ししなければいけませんよ、と緋真さんの亡くなったお母さまはよく口にしていました。
 だからお礼を。
 ……けれど、緋真さんが出来るお礼がありません。
 緋真さんの得意なことはお掃除です。他にはご飯を作ることとお洗濯。魔法は少し……いえ、かなり……苦手な分野で、とても領主さまのお役に立てると思えません。
 ではお掃除でお役に立とう! と思い立ったのですが、このお屋敷はとても綺麗で、緋真さんがお掃除する余地がありません。
 お洗濯する物は見当たりませんし、仮にあったとしても勝手にいじっていいものではありません。ご飯の支度は、と考えて緋真さんは少しだけ顔の色が蒼くなりました。吸血鬼のお食事と言えば、血液なのでしょうから。
 自分が出来るお礼と言えば、領主さまのお食事なのでしょうか。けれど、自分のような取るに足らない者の血が、貴族と言われる吸血鬼の領主さまの口に合うとも思えません。どうしたらいいのかしら、と緋真さんはおろおろと考えました。
 考えても緋真さんには、いい考えが浮かびません。
「……とにかく、領主さまにはもう一度お礼を。その時に私に出来ることがないか聞いてみましょう」
 そう決めて、緋真さんは領主さまが用意してくださった食事を採ることにしました。
 領主さまが緋真さんにと用意してくださったものです。口にしないのはとても失礼です。
 それに食事が終わったお皿を片付けるというお仕事も出来るし、と緋真さんは考えました。
 緋真さんは少し、いえ、かなりのんびりした、ふんわりした性格の女の子なのです。





 

 太陽が沈んで空が暗くなったころ、白哉さんは暗い部屋で目を覚ましました。
 屋敷内に人の気配があることに気付き、少し驚いたようでした。勿論、ここに誰かがいたとしても、白哉さんの表情から感情は読み取れないと思いますけれど。
 白哉さんは、昼間のうちに少女は屋敷を出ていると思っていました。自分が人々に何と言われているか、どう恐れられているかは知っています。その話は事実とは違うのですが――力の強大さはその通りでしたが、白哉さんは気分で人の生命を奪ったり、理不尽に他者の命を奪うことなどはしないからです。勿論、正当な理由があればその力を奮うことにためらいはありませんでしたが。
 暗闇の中で、白哉さんは昨日の少女を思い出します。
 自分を見た途端、前後不覚に陥って、樹に激突して気絶してしまった少女。纏う魔力はささやかで、とても魔女とは思えません。
 大人しそうな少女が、こうして屋敷に残っているのが不思議でした。
「……ああ」
 そういえば、少女は月光花を手に入れたいようでした。今晩月光花の場所に案内すると言ったので、少女は待っているのだと白哉さんは納得しました。
 するりと寝台から下りて、身支度を整えます。
 少女の気配のある部屋の扉を開けると、緊張した面持ちの少女がいました。白哉さんの顔を見て、急いで椅子から立ち上がります。
「おはようございます、領主さま。昨夜はありがとうございました」
「いや。……待たせたな。月光花の場所へ案内しよう」
 早い方がいいだろう、と声をかけた領主さまの言葉に、緋真さんはびっくりしたようでした。「あの、でも」と困ったような顔をしています。
「どうした」
「あの、私、領主さまにお礼がしたくて」
 必死と言える目で緋真さんは領主さまに何かお役に立てることはないですか、とお願いします。
 白哉さんは困ってしまいました。特にお願いしたいことはありません。困っていると傍目にはわからない無表情で無言の白哉さんに「も、もし、あ、あの……っ」と震えながら緋真さんは言います。
「あの、わ、私、何も出来なくて、でもお礼をしたくて、ですから、その、私が出来ることと言ったら、領主さまの、お、お食事の、」
 かたかたと小さく震えながら口にする緋真さんの言いたいことがわかって、白哉さんは更に困ってしまいました。この目の前の小さな少女は「自分の血を飲んでください」と言っているのです。
 吸血鬼という種族はあまりなく、その強大な魔力故に個体数は少ないのです。ですので吸血鬼についてあまり知られていないのは仕方ありません。白哉さんは小さく溜息を吐きながら首を横に振りました。
「特に必要としておらぬ。礼など気にしなくて良い」
「で、でも、私、助けてもらったのに……!」
 何とかお礼をしようと緋真さんは必死です。その必死さに白哉さんは思わず笑ってしまいました。
「では、紅茶を淹れてもらっていいだろうか。それで暫くの間話し相手になってくれ。それで充分だ」
「はい!」
 ぱあっと緋真さんの顔に笑顔が浮かびます。純粋な笑顔に、白哉さんは目を奪われてしまいました。
 紅茶を用意するために緋真さんが部屋を出ます。ひとりになった白哉さんは考え込んでしまいました。
 自分がおかしいように思います。
 思えば昨晩から自分はおかしいように思います。今までこの屋敷に人を招き入れたことはありませんでした。人との関わりを避けていた白哉さんでしたから、まず昨晩緋真さんに声をかけたことからして自分の行動とは思えないのでした。いつもだったら声など掛けず見過ごしていることでしょう。実際、月光花を摘みに領地に入る人間は何人もいましたし、乱獲さえしなければ白哉さんはそれを黙認していたのです。
 なぜ自分は緋真さんに声をかけたのでしょうか。
 考えても答えは出ません。その間に緋真さんはティーセットをワゴンに積んで部屋に戻ってきました。
「お口に合うといいのですが」
 緊張した面持ちで白いカップに紅茶を注ぎます。ふわりと立ち上る紅茶の香りに、白哉さんは少し目を見張りました。
 優美な動きでカップを手にして口元に運びます。一口飲むと、更に驚いたように目を見張りました。
「どうでしょうか?」
「……申し分ない。驚いた」
 緋真さんの顔に嬉しそうな笑顔が浮かびます。その笑顔に目を奪われる白哉さんは、やはり自分はどこかおかしいと自覚しました。
 何故か、胸の鼓動がいつもよりも速くなったような気がしたのです。




 白哉さんと一緒に紅茶を口にしながら、緋真さんは自分の事を話します。
 両親のこと。家のこと。自分の住む森のこと。遊びに来る小さなお友達――森の動物たちのこと。魔法が苦手なこと、お掃除が好きなこと。
 話すのは緋真さんばかりで、少し恥ずかしくなって緋真さんは言葉を止めるのですが、その度に続きを促されて緋真さんは小さく首を傾げます。
「私の話なんてつまらなくないですか」
「とても興味深い」
 そう微笑まれて緋真さんの頬は赤くなりました。何故だか心臓がびっくりしたようにどきんと跳ね上がったように感じます。どくどくといつもよりも胸の鼓動が耳に響くような気がします。
 白哉さんはとてもきれいな人でした。黒い髪と黒い瞳。肌は白く声は耳に心地よく、何気ない動作すら溜息が出るほど美しいのです。
 自分を顧みて、緋真さんは恥ずかしくなってしまいました。思わず俯いてしまいます。
 自分は領主さまと平気で言葉を交わせるような立場にないのに、と緋真さんは思ってしまったのです。
 口を噤んだ緋真さんに何を思ったのか、ふ、と白哉さんが窓の外に目を向けました。窓から見える空の色はすっかり暗くなっています。星の明かりがちらちらと見えました。
 ああ、と白哉さんは頷きます。
「月光花も開いたころか。――案内しよう」
 引き止めてすまなかった、と立ち上がる白哉さんに、緋真さんは顔を上げました。
 違うのです。緋真さんは月光花のことなどすっかり忘れていました。
 この部屋を出るということは、もう白哉さんに会えなくなってしまうということです。
 同時に、白哉さんも思い出しました。緋真さんが月光花を摘みにここに来たということを。
 月光花はとてもきれいな花ですが、その花を必要とするものはある薬を作成するために摘みに来るのです。月光花、それは――「異性を振り向かせる薬」の作成に必要なのです。
 つまり、緋真さんには振り向いてほしい人がいるのでしょう。
 途端、胸が痛んだことに白哉さんは驚きました。目の前の少女の心が他の人間にあることに胸が痛んだのです。それと同時に苦笑します。自分の立場を忘れていたことに笑ったのです。
 白哉さんは人ではありません。人に関わってはいけないのです。
 




 さくさくと土を踏む音だけが響きます。あの後、白哉さんも緋真さんも口数が少なくなってしまいました。どちらも何もしゃべらず、昨夜二人が出会った月光花の群生地まで歩いていきます。
 やがて辿り着いたその場所に、昨夜と同じように月光花は咲いていました。月の光のように静かに淡く仄かに発光しています。夜の間、数時間しか咲かない稀有な花です。
「好きなだけ持つといい」
 促す白哉さんに緋真さんは俯きました。
 月光花は緋真さんが欲しいわけではありません。取ってきなさいと命じられたものでした。自分に必要のない花を、それも数が少ない貴重な花を、意味もなく摘んでしまうのはいけないことだと思ったのです。
 それに、と思います。
 花を手に入れてしまったら、領主さまの元から離れなくてはいけないのです。緋真さんが此処に居る理由がなくなってしまいます。
 いつまでも花を取らない緋真さんを、白哉さんは遠慮していると思ったのでしょう、自ら地面に膝を付き白い花を摘みました。
 そのまま緋真さんに渡します。
 月の光を受けた花を、月の光のような白哉さんが、緋真さんに贈ってくれたのです。
 緋真さんはおずおずと花を受け取りました。
 仄かに光る白い花。――泣きたくなるほど、その花は綺麗でした。
 そして、これでもう白哉さんの傍から離れなくてはいけません。それが哀しくて、緋真さんは花を胸に握りしめます。けれどそんなことは言えません。白哉さんに呆れられてしまいます。緋真さんはただの人間なのです。白哉さんとまた会いたいなどとどうして言えるでしょうか。口に出来ることと言えば、お礼の言葉ただ一つです。
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げる緋真さんを、白哉さんは見つめました。緋真さんの手は月光花をきゅっと握りしめています。大切なのだなと白哉さんは思いました。異性を振り向かせるために必要な月光花。それを大切に握りしめる緋真さんを見て、それだけ相手を想っているのだと白哉さんは思います。
 また、胸が痛みました。
 けれどどうすることも出来ません。
「村へはどうやって帰るつもりだ?」
 緋真さんから目をそらして白哉さんは問いました。緋真さんを見ていたいのですが、他の誰かを想う緋真さんを見るのはつらかったのです。
「はい。歩いて帰ります」
 その言葉に、白哉さんはそらしていた視線を緋真さんに向けました。その目は少しあきれています。
「箒はどうした。――飛べるのだろう」
 途端、緋真さんの顔は真赤になり俯いてしまいました。まさか、と白哉さんは思います。緋真さんは魔女なのです。魔女と言えば箒で夜空を渡るもの。それなのに歩いて帰るということは――
「違います、飛べます、私だって飛べます!」
 そうです、緋真さんは箒に乗って飛ぶことが出来ます。
 ただ、歩く方が速いだけで。
「ただ、その、今日は箒を持っていなくて、」
 必死で弁解する緋真さんに、白哉さんは笑いました。どうやら緋真さんが必死に言い募る様が、白哉さんには可愛らしくてたまらないようです。愛おしくて仕方がない――白哉さんは自覚してはいないようですけれど。
「失礼する」
 くすくすと笑う白哉さんに目を奪われていた緋真さんは、白哉さんが緋真さんを抱き上げたことに驚きました。「え? え?」と慌てている間に身体がふわりと宙に浮かびます。
「――わあ!」
 箒で空高く飛ぶことのできない――人の膝ほどの高さまでしか緋真さんは浮かばないのです――緋真さんは、空を飛んだことがありませんでした。眼下に森が広がっています。かなりの高さを、かなりの速さで飛んでいます。白哉さんが魔法で調節してくれているのでしょう、身体に受ける風は気持ちのいいものです。
「すごいです、飛んでいます領主さま!」
 目をきらきらさせて緋真さんは周囲を見ています。自分が白哉さんに抱きかかえられていることも忘れてしまったようです。子供のようにはしゃぐ緋真さんを、白哉さんは優しく見ています。
 緋真さんの村の場所は、紅茶を飲みながら聞いていました。
 白哉さんの魔力では、あっという間に村についてしまいます。はしゃいでいた緋真さんは、景色が見慣れたものだと気付くと途端に静かになってしまいました。村までもうすぐです。
 村の入り口の少し手前で白哉さんは緋真さんを下ろしました。自分と一緒に居るところを他の村人に見られてはいけないと思ったからです。
「ありがとうございました」
 緋真さんがもう一度、深々と頭を下げてそう言いました。手の中の月光花はまだ瑞々しいままです。頭上の月の光を受けて淡く光っています。
 またお伺いしてもいいですか。
 また屋敷に来るといい。
 二人はそう言いかけ、二人は何も言えずに開いた唇を閉じました。その言葉は言われた相手に迷惑になるとお互いが思ったからです。
 もう一度緋真さんは頭を下げました。そのまま背中を向けて村へと歩いていきます。その姿が闇の中に消えるまで、白哉さんは静かに見送ってました。






 振り向きたい気持ちを緋真さんは必死にこらえて俯きながら歩きます。今ここで振りむいてしまったら、きっと自分はもう一度領主さまの元に駆け寄って、お屋敷にまた行ってもいいですかと分不相応なことを口走ってしまうでしょう。そしてきっと困った顔の領主さまを見て――もしくは呆れ顔の領主さまの顔を見て、または不愉快そうに眉を潜めた領主さまの顔を見て、お会いしたいと口にしてしまった自分お浅はかさと愚かさを一生恨んで、悔やんでこの先の人生を過ごすのでしょう。それはとてもつらく哀しいと思いました。このまま別れれば、ほんのひと時でも領主さまの記憶に残れたと、ほんの少しの時間だけでも領主さまと一緒に過ごせた幸運を、自分が淹れた紅茶を領主さまが口にしてくださった幸福を思い出して生きていけるのです。
 それだけで充分です。
 それだけで幸せです。
 けれどどうしてでしょう、緋真さんの大きな淡い紫の瞳からは、涙がこぼれて頬を伝っていきます。楽しかった時間と領主さまの名前を教えてもらったこと、それだけで充分幸せなはずなのに、緋真さんは涙を流して歩いています。
 ついさっきまで、緋真さんはとても幸せでした。領主さまの腕に抱かれて空を飛んで――まるでこわれものを扱うように、領主さまはとても丁寧に緋真さんを抱いて飛んでくれました。領主さまの腕はとても暖かくて、見上げた領主さまの目はとても優しくて、緋真さんは途中から眼下の景色よりも領主さましか見ていなかったのです。
 それはほんのついさっきのことです。10分くらい前の事でしかありません。でも今緋真さんは、一人で村へ続く暗い森の中の道を歩いています。
 泣きながら歩いていた緋真さんは、不意に足を止めました。目の前に人が立っていることにぶつかる直前で気が付いたからです。
「本当に愚図ね、緋真。こんな直前まで私に気付かないなんて馬鹿すぎるにも程があるわ」
 嘲笑と共に棘のある言葉をかけられ、緋真さんは顔を上げました。目の前の相手が誰かなんて、顔を見なくてもその声でわかってはいたのですけれども。
「何あんた、泣いてるの?」
 百合子さんが――村長の娘の、普段から緋真さんを目の敵にしている髪の長い女の子です――楽しそうに緋真さんの顔を覗き込みました。緋真さんは慌てて頬にある涙の痕と、次に零れ落ちそうになっていた涙を手で拭いました。どうしてかこの涙を――領主さまを想って流した涙を、他人に見られたくはなかったのです。
 涙を拭った手に握られている、月の光に淡く光る白い花を見て百合子さんは目を見張りました。月光花です。稀有なその花を実際に見るのは百合子さんも初めてでした。仄かに発光する可憐な花に、百合子さんは満面の笑みを浮かべます。
「月光花!」
 一声発すると、当然のように百合子さんは緋真さんの手から月光花を取り上げようとしました。それを悟って、緋真さんは取られまいと花を胸に庇います。この花は領主さまと繋がる大切な思い出です。とっさに渡すまいと身体が反応してしまったのです。
「はぁ? ちょっと信じらんない」
「何してんのあんた? 馬鹿でしょ?」
「元々それは百合子さんのじゃない。拒否ってんじゃないわよ」
 百合子さんの周りにいる取り巻きの女の子が、きつい声で緋真さんを詰ります。それでも緋真さんは首を小さく横に振って、花を渡すことを拒否しました。
 百合子さんの目が怒りに吊り上がりました。この村の村長の娘として育った百合子さんは、とても我儘に甘やかされて育っています。村長さんの、百合子さんに対する愛情は相当なもので、村長さんは百合子さんが望むのならばその願いは全て叶えてきました。
 この村に居る限り、誰も百合子さんには逆らえないのです。
 それなのに緋真さんが百合子さんに逆らったのです。百合子さんの怒りは激しいものでした。元々百合子さんは緋真さんが気に入らなかったのです。緋真さんのその愛らしい顔も、可愛らしい声も、可憐な姿も、素直な気持ちも、優しい心も、大きな瞳も、桜色の唇も、白い肌も、黒いさらさらな髪も、百合子さんは緋真さんの何もかもが、全てが気に入らないのでした。
 何も言わず、百合子さんは緋真さんの頬を平手で殴りました。突然そんな暴力をふるわれ、緋真さんは地面に倒れてしまいました。その緋真さんの手から、百合子さんの取り巻きがさっと花を取り上げます。
「返してください!」
 打たれたことよりも花を取り上げられたことに緋真さんはショックを受けました。返して、と女の子の手の中にある花に手を伸ばします。その手が届く寸前、他の女の子が緋真さんを横から突き飛ばしました。緋真さんはまた地面に倒れてしまいましたが、諦めずに立ち上がろうとする緋真さんを、今度は他の女の子が突き飛ばしました。ざっ、と洋服に土が付いて、緋真さんの服は泥まみれです。白い顔にも土が付いてしまいました。
「緋真の癖に逆らうんじゃないわよ」
 ふん、と百合子さんは笑いました。どうぞ、と取り巻きの女の子が月光花を百合子さんに渡します。月光花は折れることなく、月の光の下、淡く仄かに光っています。
「綺麗……!」
 うっとりと呟く百合子さんに向かって緋真さんは手を伸ばしました。その花は領主さまが緋真さんにくれた花です。必死に緋真さんは花を取り返そうとします。
 打っても蹴っても諦めない緋真さんの姿に、百合子さんは舌打ちをして「お父様!」と叫びました。「助けて、お父様!」と悲鳴を上げたのです。
 その声に、家々から村人たちが何事かと出てきました。開け放たれた扉から部屋の明かりが漏れて、暗かった外を明るくします。
 村人たちは地面に倒れている緋真さんと、その周囲を取り囲む百合子さんたちに、何が起きたかと首を傾げました。
 すると、しゅっ、と空気を切り裂く音がして、百合子さんの背後に壮年の男性が突然現れました。魔女、魔法使いにはなじみ深い空間移動の術です。誰でもが使える術ではありませんが、村長さんはこの術を得意としていました。
 その姿を見て百合子さんが「お父様!」と嬉しそうに呼びかけます。
「どうした、百合子。何があった?」
 村長さんは優しく百合子さんに問いかけました。緋真さんが地面に倒れているというのに、打たれたせいでその唇から血が出ているというのに、そちらには目も向けません。
「ひどいの、緋真が、緋真が……!」
 百合子さんは、わあっ、と泣き崩れて村長さんの胸に飛び込みました。突然泣き出した娘の姿に、村長さんは驚いて娘を抱きしめます。
「酷いんです、緋真が!」
「百合子さんが取って来た月光花を、」
「緋真が百合子さんが手に入れた月光花をよこせって、」
「勝手に盗ろうとして!」
「百合子さんに殴りかかって、」
「酷いんです、緋真が百合子さんを打って、月光花を」
 我先にと取り巻きの女の子が村長さんに言い立てます。口々に言い募るのは「緋真が」「百合子さんの」「月光花を」「盗もうと」「突然殴りかかって来た」ということです。
 全く真逆の事を言い募る女の子たちの声を耳に、緋真さんは呆然と百合子さんを見上げました。百合子さんは村長さんの胸に顔を埋めていましたが、斜めにちらりと見えるその顔は笑っています。緋真さんを哂っているのです。
「違います、その花は私の……!」
「いい加減にしないか!」
 村長さんが大きな声を上げました。大人の男の人に怒鳴られたことの無い緋真さんは恐怖で硬直してしまいます。震える緋真さんを見下ろして、村長さんは「大体、」と冷たく言いました。
「出来そこないの魔女が、月光花を取りに行くことなどできるはずがない。百合子ほどの力がなければ不可能だろう。それをしゃあしゃあと嘘を吐いて」
「嘘じゃありません! その花は私が領主さまから、」
「嘘を吐くなと言っている!」
 先程よりも大きな声で怒鳴りつけられて、緋真さんはびくっと竦んでしまいました。
「緋真ちゃんは嘘を吐く子じゃない!」
 突然割って入った声に、緋真さんは驚いてそちらを見ました。村長さんも村人達も、百合子さんも百合子さんの取り巻きもそちらを見ます。
「緋真ちゃんは嘘を吐くような子じゃないです、村長さん!」
 それは村の男の子でした。緋真さん、百合子さんと同じくらいのその男の子は、誰かに――恐らく男の子の父親と母親に――止められながらも、必死に叫びます。
「とてもいい子なんです。人の物を盗むとか、誰かに暴力ふるうとか、そんな最低なことは絶対にしません!」
 それを聞いた百合子さんの顔が赤くなっていきました。それは羞恥ではなく怒りです。
 叫ぶ男の子の事を、百合子さんは心憎からず思っていたのです。月光花はその男の子の為に、その男の子を振り向かせるために必要だったのです。
 その男の子が公然と緋真さんを庇い、いい子だと言い、「人の物を盗み暴力を振るうのは最低」と百合子を非難しているのです。勿論男の子は百合子さんがそんなことをしているとは知らないのですが、事実を知る百合子さんにはそう男の子に言われているも同然なのでした。
 男の子が緋真さんの家に行っていることは百合子さんも知っていました。村外れに住む緋真さんの家に、雑貨屋さんの息子である男の子が月に一度生活用品を届ける際、その優しく可愛い緋真さんに淡い想いを抱いているということも、配達の日以外にも緋真さんの家の近くに行っては遠くから緋真さんを見つめ、緋真さんの声を聴いて心を暖めていることを知っていました。
「お父様、それが緋真の手なんです!」
 悔しさに地団太を踏みながら、百合子さんは緋真さんを指さしました。罪人を糾弾する役人のように、鋭く百合子さんは緋真さんに言葉を投げつけます。
「この女は、緋真は、魔女が出来ることは何も出来ないくせに、魅了の術だけは悪魔的に上手いんです。男相手に媚びを売って、魅了の術で相手に好意を抱かせて、自分がやった悪事をああして庇わせて! いつだって自分は被害者ですって顔をして! それで私を哂っているんです! いつも、いつだって、この女は……!」
 悔しさに泣き喚きながら、百合子さんは村長さんに訴えました。取り巻きの女の子たちも口々に賛同しています。周囲の村人たちは、緋真さんと交流のない人や村長さんに縁が深い人たちは百合子さんを信じているようで、緋真さんを醜悪なものを見るような蔑んだ冷たい瞳で見ています。緋真さんをよく知っている人たちは、男の子の言葉に心の中で賛同しつつも、表立って緋真さんを庇えば、百合子さん――すなわち村長さんに嫌われ、そうすると村で生きていけなくなってしまうので、不憫そうな目を緋真さんに向けるだけでした。
 百合子さんは、一人緋真さんを庇う男の子に涙に濡れた目を向けました。その男の子に向かって説くように言い含めます。
「それに、聞いたでしょう? 緋真はさっき、この花を領主さまからもらったって言ったわ。領主さまから、よ? 領主さまに会って、生きて帰れると思う?」
「そ、……れは」
 男の子は黙り込んでしまいました。領主さまの恐ろしさはこの村全員、いえこの村だけではありません、この国に住む全員が知っています。その姿を見ただけで殺されてしまう、恐ろしい吸血鬼。人を嫌い、決して姿を見せない絶対君主。
 領主さまに会って生きて帰れるわけはないのです。それなのに緋真さんは領主さまに会って花をもらったと言い張ります。それはつまり、緋真さんが嘘を吐いているということなのです。
「ほら、ね? あなたは騙されてるの、その女に。目を覚まして。その女のかけた術から抜け出して」
 勢いがなくなってしまった男の子に、百合子さんはここぞとばかり訴えます。騙されてる、魅了の術に掛けられてる、そう言葉を重ねられ、男の子は緋真さんを見ました。その目はもう、緋真さんを疑っている目でした。
「君は僕に術をかけたの?」
「そんなことしていません!」
「でも君は嘘を吐いたよね? 領主さまに会ったとか花をもらったとか」
「嘘じゃありません! それに領主さまは怖い方ではありません! とても優しくて親切で、皆さんが思っているような」
「君が嘘を吐くような人だなんて……そんな最低な奴だったなんて」
 緋真さんが必死に口にしている言葉を遮るように、男の子は冷たく言いました。既に男の子の目に緋真さんに対する淡い想いは見えませんでした。その目には百合子さんと同じように蔑んだ色があります。緋真さんは唇を噛み締めました。嘘は吐いていません。領主さまはとても優しい方なのに、誰も信じてもらえないのがとても悔しいのです。
 緋真さんを蔑むように見る男の子を見て、百合子さんはゆっくりと微笑みました。思わぬ形で、自分が望む方向へ話が進んでいるのです。
「お父様、この女を村から追放してください。元々村の厄介者だったんですもの、いい機会だと思いませんか?」
 誰も緋真さんを信じてくれません。不憫そうに見ていた村の人たちも、「領主さまに会った」という緋真さんの言葉が嘘だと突いた百合子さんの言葉を信じているようでした。今まで緋真さんに持っていた好意ですら、緋真さんの術に掛けられていたせいだと誰もが信じてしまったのです。
「孤児で何の役にも立たないお前をお情けで置いてやったというのに、我が娘に暴力を振るなど。その上己に都合のいいように我が村民を誑かしていたとは、何という淫婦だ。可愛らしい顔をして無垢な振りで、夜な夜なあの外れの家で男を咥えこんでいたんだろう、売女め」
 酷い言われようでしたが、緋真さんはもう何も言えずに俯くだけでした。誰も緋真さんを信じてくれないのです。
 自分が嘘を吐いている、と思われるよりも、領主さまを誤解されていることが何より緋真さんは哀しかったのです。領主さまはそんな酷い人ではないのに。
 けがをした緋真さんを介抱してくれました。食事の用意もしてくださいました。緋真さんが淹れた紅茶を美味しいと言ってくださいました。緋真さんの話を微笑みながら聞いてくださいました。緋真さんの為に、高貴な方だというのに地面に膝を付いて月光花を摘んでくださいました。移動手段を持たない緋真さんの為に、優しく抱きしめて空を飛んでくださいました。とても優しい方でした。
 それなのに、村の人々は領主さまは恐ろしい人だと信じて疑いません。
 でもそれは仕方のないことかもしれません。緋真さんも領主さまに会うまでは、領主さまは怖い人だと信じていたのですから。だから皆が領主さまを恐ろしい人だというのは、偏に緋真さんが皆に信用してもらえないせいなのだと思いました。自分が皆に信用されていれば、自分が皆に一目置かれる力があれば、きっと皆は緋真さんの言う言葉に耳を傾けてくれたでしょう。自分の信用と力がないせいで領主さまの誤解をとけないことが、領主さまが怖い人だと思われているのが、緋真さんには悔しくて哀しいのです。
「今すぐに村から出ていけ、淫売め!」
 村から出て行けと言われて、緋真さんの顔は青ざめました。両親のいない緋真さんには頼る人はなく、村外れの家には緋真さんのご両親の思い出の品が……というよりも、あの家全てが緋真さんとご両親を繋ぐ大切な思い出なのです。家を置いて出ていくなどできません。家の全てを持ち運べるほど、緋真さんの魔力は高くないのです。
「それは……許してください、お願いです。あの家には両親の思い出が」
「そんなことは知らん。今夜中に出ていけ。出て行かねば力尽くで放り出すぞ」
 村長さんは取り付く島もありません。その隣で百合子さんは高い声で笑いました。これから先、大嫌いな緋真さんの顔を見なくて済むのです。
「嘘吐きには相応しい罰でしょう。さっさと出ていきなさい、二度と戻ってくるんじゃないわよ!」
「緋真は嘘などついてはいないが」
 突然、誰も聞いたことの無い声が聞こえました。決して大きな声ではないというのに、その場にいた全員の耳にはっきりと聞こえたのです。
 それはとても静かで美しい声でした。声だけで心を奪われてしまうほど。その場にいた全員が、緋真さんを睨み付けていた村長も、その隣で高笑いをしていた百合子さんも、その前で項垂れていた緋真さんも、一斉に声の方向へ顔を向けました。
 百合子さんの目が驚きに見開かれました。かくん、と口が開いて、呆然と現れたその人を見ています。村長さんも驚きに微動だにせず、他の誰一人――緋真さんを除いて――身動きもせずにただその場に現れた人の美しさに目を奪われていました。
「りょ、」
 うしゅさま、と呼びかけようとして緋真さんは口を閉じました。ここで領主さまが領主さまだと皆に知らせていいのかわからなかったからです。
 何故この場に領主さまがいるのか、その意図が分からず、わからないままに勝手な行動をしては領主さまのご迷惑になるのではと緋真さんは思ったのです。
「どちらの方でしょうか?」
 男の人でさえ白哉さんに目を奪われてしまったようです。先程までの怒りの様子は消えて、村長さんは丁寧に白哉さんに問いかけました。隣の百合子さんも白哉さんに目を奪われています。その頬が赤く染まっていくのが緋真さんにも見えました。
 そして緋真さんは気付きました。領主さまは魔力を完全に消していらっしゃると。まるでただの人間と変わりなく――ただの、というには美しすぎましたが、とにかく普通の人としてそこに立っていました。
 村長さんの問いかけを無視して白哉さんは歩いてきます。ただ歩くだけの動きが、ため息が出るほど美しいものでした。そこかしこで、特に女性の方々の唇から、感嘆したような、堪えきれないような、そんな熱い溜息が漏れ聞こえてきます。
 白哉さんは地面に倒れたままの緋真さんを抱き上げて立たせました。顔に付いた土を細い指でなぞって落とします。それから服に付いた土を叩いて払っていきます。その動きはとても優しいものでした。
「あ、あの、大丈夫です、私……」
 領主さまにこんな風にしてもらう立場ではないと、慌てて緋真さんは言いました。けれど、固辞する緋真さんを目で制して白哉さんは丁寧に緋真さんの服に付いた汚れを払っていきます。
「――貴方もそこの女に騙された可哀想なお方なのですね」
 むっとした顔をして百合子さんがそう言いました。緋真さんの身体がびくっと震えたのが白哉さんに伝わります。
 百合子さんを見もせずに、白哉さんは緋真さんの土を払っています。ふと見た緋真さんの髪の毛にも土が絡んでいることに気が付いて、白哉さんは指で緋真さんの髪を梳きました。まるで恋人同士の甘い戯れのようで、緋真さんの顔は真赤になりました。対して百合子さんの顔も怒りで赤くなります。
 どうして百合子さんが好きになる男性は緋真さんを見るのでしょう。そうです、百合子さんは一目でこの目の前の美しい男性に心を奪われてしまいました。今までこんなに美しい人は見たことがありません。顔、声、身のこなし、全てが美しく溜息が出てしまうほどです。
 それなのに、こんなに美しい人なのに、明らかに高貴な生まれの方だとわかるのに、緋真さんの為に地面に膝を付き、緋真さんに付いた土を払っているのです。それもまるでこわれものを扱うように優しく、恋人に触れるように愛おしく。
 どうして緋真が。
 どうして緋真ばかり。
 一体どんな魅了の術を使っているのだろう、と百合子さんは思いました。恐ろしいほどの力です。何も出来ない落ちこぼれと思っていたのに、魅了の術だけは超一級だなんて。
 既にその頭の中に、先程まで恋していた村の男の子の姿はありません。まるで強力な魅了の術に百合子さん自身がかかってしまったように、その目はただひたすら白哉さんを追っています。
 そうすると、白哉さんが緋真さんを優しく見つめている姿を見ることになってしまうのです。百合子さんは嫉妬に気が狂いそうでした。
「気を付けてください」
 嫉妬に狂った声のまま、百合子さんはそう言いました。続く声は緋真さんに対する嫌悪の感情が溢れているのが、耳にしたものすべてがわかりました。
「その女は平気で嘘を吐きます。それに魅了の術を――」
「緋真は嘘を吐いていないが」
 やはり百合子さんを見もせずに、白哉さんは目の前の緋真さんを見詰めながらそう言いました。大丈夫です、と必死に止める緋真さんの手を抑えて、先程村人たちの前で流した涙の痕を白い指で拭っています。
 羨ましくて悔しくて、百合子さんは唇を噛み締めました。緋真さんが百合子さんを見て哂っていると、百合子さんは思いました。もちろん緋真さんはそんなことをする女の子ではありません。
「でもその子は、領主さまにあったなどと平気で嘘を吐くんです。この場に居る皆が聞いています!」
「だから、それは嘘ではないと言っている」
 初めて白哉さんは百合子さんを見ました。
「――え?」
 黒い瞳です。見つめていると吸い込まれそうなほど、夜の闇のような瞳。その目が百合子さんを見ています。冷たい目でした。血の気が引いてしまうほどの。
 次の瞬間、空気が爆発しました。
 いえ、本当に爆発したわけではありません。まるで空気が爆発したかのように、圧倒的な圧力がその場を飲み込んだのです。村の人たちは何が起こったのかわかりませんでした。恐ろしいまでの圧迫感が身体を押し潰します。事実、その場に立っているのは白哉さんと白哉さんに護られている緋真さんだけでした。他の人々は一人残らず地面に押し付けられるように倒れ伏していたのです。
 重力が突然100倍にもなったようです。立っていることが出来ません。人よりも多少魔力のある者は顔を上げることが出来ましたが、殆どの人々は瞬きすることさえできません。声を出すことも出来ませんでした。
 白哉さんは地面に倒れている百合子さんに向かって指をさし、くるりと半円を描きました。それと同時に、百合子さんの身体も回転します。仰向けに地面に横たわり、声も出せず驚愕に目を見開いている百合子さんを、まるで虫でも見るような目で白哉さんは見降ろしました。
「私が領主だ」
 見開いていた百合子さんの目が、更に限界まで見開かれました。何かを叫びそうでしたが、百合子さんの魔力ではほんの僅かも動かすことが出来ません。あまりにも桁の違う魔力の大きさに、百合子さんは目の前の美しい人が領主さまなのだと信じるしかありませんでした。こんな魔力を持つ人を百合子さんは知りません。いえ、こんな魔力を持つものが人であるはずがないのです。
 しかも、領主さまは全部の力を出しているようには見えません。ほんの僅かな力で、この村の人々すべてを無力化しているのです。
 その領主さまが、百合子さんを見下ろしています。心底冷たい目で。百合子さんは領主さまが怒っているのだと気が付きました。領主さまは百合子さんが緋真さんにしたことを知っているのです。
 殺される。
 そう思った百合子さんの耳に、「領主さま、領主さま」と懇願する緋真さんの声が聞こえました。
 百合子さんを見下ろしていた凍るような目が、緋真さんへと向けられた途端、やわらかな黒に変わります。
「どうかお許しください。お怒りを収めてください、お願いいたします」
 泣きそうになりながら必死にお願いする緋真さんを見て、白哉さんは「だが」と問いかける。
「これらは緋真を傷付けた。私は許せない」
「誤解していただけです。私がきちんと話せなかったから、だから皆さんが誤解してしまっただけなんです。皆さん、とてもいい方ばかりなんです。ですから、どうか、どうかお許しください」
 泣きそうな、から、泣きながらに変わって、頭を下げる緋真さんに白哉さんは魔力を抑えました。
 次の瞬間、身体を押し潰していた圧力は綺麗に消え去りました。それでも誰一人立ち上がることが出来ません。皆、呆然と地面に横たわったままです。
 ちらりと周囲を一瞥し、最後に仰向けに横たわる百合子さんに向かって冷たい視線を向け、白哉さんはもう一度指で百合子さん指し、す、と上に向けました。すると、百合子さんが手にしていた月光花は一瞬で消えてしまいました。
それを見届けると、白哉さんは緋真さんを抱き上げました。動揺する緋真さんを無視して、白哉さんはとんと地面を蹴ります。するとその姿は夜の空に消えてしまったのです。
 あとには、呆然と地面に横たわる村の人々が残っただけなのでした。




 
 そんなつもりではなかったのです。
 白哉さんは抱き抱えている緋真さんを見下ろして思いました。
 本当は、緋真さんが無事に家まで辿り着くことを確認して、それからここから離れるつもりでした。
 もう二度と緋真さんに会うつもりはなかったのです。
 自分は人ではありません。見た目は同じであっても、人とは根本的に全く違う存在です。
 自分と一緒に居れば、緋真さんに迷惑が掛かってしまいます。
 だから白哉さんは二度と会うつもりはありませんでした。
 けれど、離れた場所で緋真さんを見守っていた白哉さんは、緋真さんが暴力を受けている場面を「見て」しまいました。白哉さんほどの力があれば、遠視など魔女のように水晶玉がなくても簡単に出来てしまいます。
 咄嗟に救けに行こうと思いました。けれど、自分が出ていけば今後村の中で緋真さんが孤立してしまうと思いました。吸血鬼と通じている緋真さんを、村の人々は許さないでしょう。緋真さんは異端とみなされ、孤立どころか殺されてしまう可能性もあったのです。
 緋真さんの人としての生活を守るのならば、自分が出て行ってはいけないと、白哉さんは唇を噛み締めました。それは相当の忍耐を白哉さんに要求したのです。緋真さんが数人の村人に囲まれ暴力を受けているのを、見ていることしかできないのです。自分には一瞬にしてあの少女たちを殺せる力があるというのに。
 必死に耐えて、けれど限界を超え、思わず緋真さんを助けようとした瞬間、緋真さんを庇う声が聞こえました。その少年の声に、白哉さんは安堵すると同時に胸が苦しくなりました。ああ、この少年が緋真さんの想い人なのかと思ったのです。
 それでも、緋真さんがつらい目に合わなければそれでいいのです。出て行かずに済んだ状況に安堵し、心落ち着かせていた白哉さんは、次の瞬間目を細めました。
 聞こえてきた少年の声は、緋真さんを問い詰め、詰っているではありませんか。
 もう誰も緋真さんを信じていません。緋真さんは嘘など吐いてはいないというのに。これも、自分が関わった故の災禍に間違いないと白哉さんは思いました。
 出て行ってはいけないと思いました。緋真さんの前に姿を現してはいけないと縛めました。それは緋真さんの平穏な生活を奪ってしまうことになります。
 けれど、緋真さんを侮辱する言葉を聞き、村から出て行けと言われ泣いている緋真さんの声を聴き――気付いた時には空間を移動していました。
 白哉さんは生まれて初めて激怒していました。何かに対して執着を持つこと、何かを特別に思うことは、頂点に立つものとして忌むべきことだったのです。吸血鬼として存在してきたこの永い時間の中で、感情というものを封印してきた白哉さんは、今日初めて怒りを表に出しました。
 緋真さんの生活にとうとう干渉してしまったことを白哉さんは悔やみましたが、今はそんなことを言っている場合ではありません。何故なら腕の中で緋真さんが泣いているからです。打たれたときに歯で切ったのでしょう、唇の端から血も出ています。その赤い血を見て、白哉さんは更に怒りの感情が湧き上がるのを感じました。今からでも遅くはないと、村の入り口に戻って村人たちを消してしまおうと思ったほどです。
 見下ろす緋真さんは、白哉さんの胸に顔を埋めて泣いています。華奢な身体が小さく震えているのがわかります。零れる嗚咽に胸を痛めながら、白哉さんは緋真さんの家を探し当てて家の中へと移動しました。
 女性の寝室に立ち入るのは気が咎めましたが、白哉さんは一刻も早く緋真さんを休ませたかったので、緋真さんに寝室へ入っていいか尋ねました。緋真さんはまだ動揺しているのか、あまり考えることなく腕の中で小さく頷きます。
 暗い部屋の中に入って、白哉さんは緋真さんを寝台に横たえました。
 横になった緋真さんの頬を撫でます。白い細い指が緋真さんの唇をなぞると、唇の傷は瞬く間に消えていきました。白哉さんはそのまま指を滑らせて、緋真さんの涙をぬぐいます。
「領主さま」
 そこでようやく緋真さんは我に返ったようでした。無理もありません、ついさっきまで緋真さんにとってとてもつらいことの連続だったのですから。村の人たちに言われない中傷と暴力を受け、優しい緋真さんの心はどんなに傷付いたことでしょう。
「あ、申し訳ございません、すぐに」
 混乱したまま、それでも領主さまをお迎えする用意を――恐らくお茶の準備をしようとしたのでしょうか、寝台から起き上がろうとする緋真さんを白哉さんは押し留めました。
「でも、」
「良い」
 言葉は短いですが、白哉さんの声には緋真さんへのいたわりの想いが溢れていました。じっと見下ろす白哉さんの優しい視線に、緋真さんの瞳からみるみる涙が零れていきます。
「わ、わたし、怖くて」
「ああ」
「だれもわたしのいうことをしんじてくれなくて、」
「ああ」
「ぶたれたのも、いたくて、こわくて、」
「ああ」
「このむらからでていけって、わたしっ、」
 感情の制御ができないのでしょう、子供のようにたどたどしく言葉を発していた緋真さんは堪えきれずに声を上げて泣き出してしまいました。
 白哉さんの腕が上がります。一瞬、その腕が止まりましたが、止められずに白哉さんは緋真さんを抱きしめました。
「お父さんもお母さんも誰もいないのに、私は一人で、これからもずっと一人で、この家だけが私を待っててくれたのに、ここも出て行かなくちゃいけないなんて、ひとりで、私ずっとひとりでさびしくて、だれもいなくて、不安でっ」
 泣きじゃくる緋真さんは、今自分が誰の腕の中に居て、誰の胸に顔を押し当てて、誰の腕に抱きしめられて、誰に頭を優しく撫でてもらっているのかわかりませんでした。ずっと一人で、胸に抱えていた不安や寂しさを、決して誰にも悟られまいと封印していた哀しさを、緋真さんは堰を切ったように吐き出します。
「だれもいなくてっ、だれも、わたしはずっとひとりで……っ」
「私がお前と居よう」
 緋真さんを抱きしめながら、白哉さんはそう言いました。びくっと緋真さんの身体が震えます。
「ずっとそばにいる。だから泣くな」
「……ほんとう?」
 緋真さんは子供に戻ってしまったようでした。しゃくりあげながら「ほんとうに? ずっといっしょにいてくれる?」と繰り返します。
「約束しよう。ずっと緋真の傍にいる」
 だから、と白哉さんは優しく囁きます。
「安心して眠れ」
 こくん、と緋真さんは頷きました。白哉さんのシャツを握り締めて、その胸に顔を埋めたまま――子供が母親の胸に抱かれて眠りに落ちるように、緋真さんは眠りに落ちていきました。
 その様子を、白哉さんは痛ましげに見つめます。
 緋真さんは不安や孤独を胸に、ずっと一人で耐えてきたのでしょう。本来ならばまだ両親の庇護のもと、魔法学校の成績と少女らしい恋の悩みだけに胸を痛めている年頃だというのに。
 眠ってしまった緋真さんを寝台に横たえようとしましたが、身体を離そうとすると緋真さんがむずがりました。無意識なのでしょう、白哉さんにしがみついてきます。手を放したら、いなくなってしまうと恐れているかのように。
 自分は此処にいていいのでしょうか。
 白哉さんは自分に問いかけます。一緒に居ると誓いました。そばにいると約束しました。けれどそれは、緋真さんにとって良い事なのでしょうか。
 いいえ、良い事ではありません。それは白哉さんも解っています。
 けれど、
「――少しの間だけだ。緋真が」
 他の誰かを見つけるまで。緋真が誰かを愛するその時まで。
 その間だけ、自分が側で見守っていようと白哉さんは思いました。
 白哉さんはずっと長い年月、一人で過ごしてきました。その永遠とも思える永い永い時の流れの中で、いつしか感情を失くしてしまったのです。
 だから白哉さんは知りません。
 自分が昨夜――あの月の夜に、一目で少女に心を奪われてしまったことを。
 緋真さんが他の誰かを想う、そう考えただけで胸がざわめくのも、緋真さんを傷付ける者を許せないのも、緋真さんの涙を見て動揺するのも、緋真さんの笑顔が見たいのも、緋真さんは幸せでいてほしいと願うことも。
 全て恋という名の魔法なのだと。
 気付かないまま、知らないまま――白哉さんは緋真さんの髪を優しく撫でているのでした。



 窓の外にはまるい月。
 これは、吸血鬼と人の、甘い恋の始まりのお話。