南流魂街78区――戌吊。
最下層に近いその場所は、力が総て――弱い者は強い者の餌食になる。
生きる為ならば何をしても許される。
咎める者は誰もいない。
明日を夢見る余裕など、ここ戌吊に生きる者たちに有りはしないのだ――今日この日を生きていく為に総ての力を使う。
それが、戌吊における規定――法律。
生き延びる為に、生命を賭ける。
背後から追って来る足音にルキアは唇を噛み締めた。
なるべく遠くまで引き付けてから相手を撒こうと思っていたが、ここ数日ろくな物を口にしていない所為で持久力が落ちている。先程から、気を抜けば足が縺れてしまいそうになるのはその所為なのだろう。
背後の男の、怒声を上げながら追いかけるその速さは落ちることがない。
身体の小ささ、身軽さを武器とするルキアは、元々その敏捷性や速さは群を抜いていたが、それは持久力とは反比例するものだ。小さな身体は瞬発力に優れていても、長い時間体力を使うことには向いてない。それを知りながらこの役――追手を引き寄せる囮役を自ら申し出たのは、それしか道がなかったからだ。
恋次が反対することはわかっていた。追手が迫るその短い間、猶予がない時間の中で怒鳴りあうように交わした短い言葉。俺が行く、と怒るように言った恋次の言葉を、そんな訳にはいかないだろうと叱りつけるように封じ込めた。
この場に居る三人が揃って無事に小さな家まで辿り着く為には、一番確率の高い役割分担が必要だ。
五人の仲間――五人の家族。身を寄せ合うように生きている自分たち。
二人が待つ家まで、自分たち――恋次と裕太、誰ひとり欠けることなく辿り着かなければならない。
食料調達は、二手に分かれるのが効率が良かった。家の周囲の森や川で探す二人と、町に出て大人たちの隙を突き露店からくすねる三人と。
運が悪かったのだろう――普段ならば何の問題もなく運ぶその手筈は、その直前に他の子供たちに大量に商品を奪われた店主が警戒していた所為もあったのかもしれない――店に入ったほぼ瞬間に思いがけず気付かれた。
そして、最初に見抜かれた裕太が――切り付けられた。
子供だとか、まだ小さいから、という言葉は通じない。そんな甘い言葉が通る世界ではない――ここは南流魂街78区、戌吊。
生きる為ならば何をしても許される。咎める者は誰も居ない。
生きる為に物を盗むことも許される。そして、生きる為に人を殺すことも許される。
それは総て自分たちの強さに掛かること――強い者が正義。
裕太が切り付けられたのは、逃がす意図がない所為だろう、右の太腿だった。大きく切り裂かれた傷から血が流れ、倒れこむように蹲る裕太、同時に恋次と二人で店主の男に襲いかかり――昏倒した男の元から、二人で裕太を抱きかかえて逃げ出した。
裕太の傷を診る為に隠れた空き家の隅で、ルキアは恋次と短く素早く言葉を交わした。
この場から無事に逃れる為には、誰かが囮となって男を引き付けなければならない。裕太は歩くことが出来ず、その裕太から追手の目を誤魔化す為には、男を撹乱するしか非力なルキアたちには方法がない。
囮役――一番危険なその役割。
一人で、誰の助けも期待できない中、大人を相手にするのだ。しかも相手は、「子供だから」という考えはまるでない……自身の為にならば、それが大人だろうが子供だろうが、男だろうが女だろうが全く躊躇しない、平和な世界では異質の、戌吊ではごく普通の考えを持つ男なのだ。
だから恋次は俺が行く、と言ったのだろう。それはわかっていたが、その恋次の言葉を否定し、自分が行くと立ち上がった。
引き止める恋次もわかっていた筈だ。自分では裕太を支えて逃げることはできない。小さな自分の身体では、裕太の、少年の身体を支えながら走ることなど出来はしないのだ。
恋次が裕太を支え、自分が囮になる。
それが、三人が生き残る一番確率の高い役割分担だ。
それでも何かを言おうとする恋次の言葉を振り切って、ルキアは一人外へと飛び出した。
近くにいるはずの男の気配を探り、その方向へ走る。直ぐに見つけた男の背後でルキアはわざと大きな音を立てた。男が振り返る――獲物を見つけた興奮に何かを叫びだす男に背を向けて、ルキアは走り出した。
必死に走り、恋次たちから出来るだけ離れた。家の間の狭い路地を走り抜け、崩れた壁を潜り移動する。何とか撒こうと複雑に動いてみるが、男は怒り心頭に達しているのか、諦めようとはせずに追いかけ続ける。
逃げるスピードが落ち始めたのを自覚した瞬間、足が縺れた。転ぶのはどうにか避けられたが更に距離が縮まっていく。絶望的な状況に、それでもルキアは必死で走る。
捕まれば生命がないとわかっていた。ここは戌吊なのだ――人の生命の重さなど、たった一つの林檎よりも軽い。
前へ前へと運んでいた身体が、強い力で後ろへと引き戻された。掴まれた髪が激痛を与える。思わず悲鳴を上げるルキアを、男は容赦なく地面へと引き摺り倒した。土埃が舞う――その埃の中、ルキアは男に組み敷かれていた。
「捉まえたぞ――薄汚ねぇ鼠め」
体重を掛けられたルキアには、男を跳ね飛ばす力はない。それでも必死に逃げ出そうと身体を動かした。そのルキアの頬に、容赦なく男の平手が飛ぶ。
その衝撃に気を失いそうになったルキアの胸倉を掴み、男はルキアを揺さぶった。がくがくと首が揺れる。その振動でルキアは意識を失うことはなく、朦朧とした目で男を見上げた。
「お前の仲間は何処に居る。何処に住んでやがる」
「――――」
「鼠は完全に駆除しないとキリがねえ。――ほら、言いやがれ。そうしたらお前は助けてやるよ――生命だけは」
女の子供は金になるからな、と男はルキアの顔を覗きこんだ。土で汚れてはいるが、よくよく見れば整った顔をしている。売れば金になると、今後の算段をし男は笑う。
「言え。――他の奴らは何処にいる?」
乱暴に襟元を締め上げられ、ルキアは霞む目を開いて男を睨みつけた。
自分の生命と引き換えに、仲間を売れという。大切な家族――ずっと一人だった自分に初めて出来た家族。
「――下衆が」
「あ? 何処だって?」
小さく呟いたルキアの声が聞き取れなかったのだろう、顔を寄せた男の醜い顔に向かい、ルキアは唾を吐きかけた。
男の顔が、憤怒に歪む。
「この糞餓鬼があっ!」
知性や分別、思慮等という言葉は男の頭の中にはないのだろう。一瞬で激怒し、汚い言葉でルキアを罵りながらその細い首に両手を回した。ぐっと締め付けられた首は空気を通すことが出来ず、殺す気で締め上げるその力に恐怖を覚え――空気が途絶え思考は止まり、ただ死にたくないという本能で必死でもがくルキアの手に、何かが触れた。
考える暇もなくそれを掴み、何も考えられずにそれを男に突き立てる。
獣のような悲鳴が聞こえた後、一気に咽喉に空気が流れ込んだ。不意に軽くなった身体を丸め、苦しさに咳き込むルキアがようやく事態を把握したのは――地面にのた打ち回る男の脇腹から、赤い血が溢れているのを見た時だった。
息を呑み、自分の右手を見る。――そこに、意識せずにずっと握り締めていた小さな刀と、赤く濡れた右手があるのを見、ルキアは悲鳴を上げた。
手に触れたのは、男の腰にさしてあった小さな刀――それを掴み、ルキアは男に突き立てたのだ。
事態を把握すれば、記憶も戻る――夢中だった時のその時の記憶……刺した時の、突き立てた小刀から手に伝わる衝撃、赤い血の温度、ぬめる液体の感触。
――人を、刺した。
苦痛の声をあげ地面を転げまわる男を茫然と見詰めながら、やがてルキアは震え出した。強張ってしまった手を必死で開き、悲鳴を上げながら小刀を放り投げる。それでも手は赤い血に濡れ、人を刺した感触は手から消えない。恐怖に身を縮めるルキアを、脇腹を抑えた男が目を血走らせて睨みつけた。着物が血に染まっている――その出血量にルキアはまた小さく悲鳴を上げた。
男の手が、ルキアが放り投げた小刀を拾う――ずるずると身体を引き摺りながら男が近付くのを、ルキアはただ震えながら見ていた。
もう、抵抗する気力もなかった。
初めて人を傷付けた――その現実にルキアは怯えていた。自分の手が人に刃物を突き立てた。自分の手が他人の血に濡れている。自分の所為で人が死ぬかもしれない――あと数分もすれば男は死ぬだろう。地面は男の血を吸い取って黒く変色している。地面の色が変わる度に、男の顔の色は土気色になっていく――はっきりと現れている死相に、ルキアは怯えた。自分の所為で男は死ぬ――人の未来をこの手が断ち切ったのだ。あまりにも重いその事実に、ルキアは自分に近付く男から逃れることも出来ずにただ震えて蹲る。
血が流れる。
生命の火が消えていく。
それは自分が起こした罪、犯した罪。
自分が生きる為に人の生命を奪った、そお現実が――目の前に。
自分の死を悟っているのだろう、凄まじい形相を浮かべ、男は何事かを吐き捨てながらずるずるとルキアに近付く。死相の浮かんだ男より、自分が傷付けたというその事実に恐怖し怯え、ルキアはその場から動けない。恐怖に凍りついた紫色の瞳を見開いて、自分を掴む男の手を凝視した。
圧し掛かる男の重さも意識できない。血の気の失せた男の顔を、声もなく見詰めた。
自分ひとりでは死なないと、自分を傷付けたルキアを道連れにしようと、その右手に自分の血に染まった小刀を構え、男はルキア目掛け渾身の力を込めて振り上げた。
死ぬんだ――そう、痺れた心でぼんやりと振り上げられる切先を見上げていたルキアは、その切先が突然消えたのを、その意味を考えることもなくただ見ていた。
男の手から小さな刀は消えた。
残った僅かの力で振り向こうとした男は、永遠にその背後を見る事は出来なかった。――首の後ろから前へ、一気に貫通した刃に瞬時に生命を落とし、だらりと腕が垂れ下がる。
引き抜かれた刃は男の身体から支えを奪い、物体と化した男の身体をゆっくりと地面に倒れこませる。
「――ルキア」
茫然と、呆然と――手を差し伸べる恋次を、ルキアは見上げた。恋次の顔も手も着物も血に濡れている。――自分と同じように。
その右手に、血濡れの刀。
「大丈夫か。怪我はないか」
言葉はただルキアの耳を通り抜けていく。言葉は言葉としての意味を持たず、ただ音としてしかルキアの耳に聞こえない。目を見開き、放心したように恋次を見詰めるルキアの肩を、恋次は乱暴に掴んだ。
恋次が揺さぶるままに、ルキアの身体が無抵抗に揺れる。
その視点の定まらない紫の瞳を、怒りと悔しさと焦燥を込めて恋次は見下ろした。
「戻って来い。此処に帰れ。向こうへ行くな――帰って来い、ルキア」
恋次のその名前の呼び掛けに、ルキアの身体がびくっと震えた。瞳の焦点が合っていく――同時に、その瞳に浮き上がる恐怖、恐慌に恋次はぎりっと唇を噛み締める。
「あ……――あ」
己の両手――他人の血に染まった両手を目の前に翳し、ルキアは全身を震わせた。食い入るようにその両手を見詰め、「私が」と小さく呟いた声は、やがて大きな悲鳴へと変わっていく。
「私――私が、殺した! 私の手で、私が刺して――私が、この手で!」
人を刺してしまった、その恐怖にパニックを起こすルキアの両手首を恋次は掴み、力尽くでルキアの身体を押さえ込む。
「お前は殺してない!」
怒鳴るように恋次はルキアに言う――両手首を掴み、小さな身体を引き寄せ。
「見ていただろう、こいつを殺したのは俺だ――俺が、殺した。いいか? 俺が殺したんだ!」
小さな子供がいやいやをするように、ルキアは手首を掴まれたまま首を振った。その目からぽろぽろと涙が落ちる。
「私が――人を、この手で――血が、私が、刺して……殺して」
「俺が殺した!」
違う、と首を振ったその拍子に、ルキアの視界に動かなくなった男の身体が飛び込んだ。先程まで動いていたあの身体はもう動くことはない。再び放心したように身体の力が抜けていくルキアの頬を両手で挟み、恋次は正気を引き止めるように大声で怒鳴りつけた。
「俺を見ろ、ルキア!」
のろのろとルキアの視線が動く。恋次を涙に濡れた目で見上げたルキアの額に恋次は自分の額を付けた。視線の距離を近付け、ルキアに話しかける。
「俺だけ見ろ。俺の言葉を信じろ。俺の言葉だけ聞け」
呪文のように、その言葉はルキアの中に沁み込んでいく。
「――お前は、殺していない。俺が殺した。俺があいつの首に刀を突き刺したからあいつは死んだ。お前の所為じゃない」
恋次の手がルキアの頬を撫でる――優しく、そっと――まるで僅かな力でルキアが壊れてしまうと考えているような、そんな繊細な動き。
「お前は何も背負わなくていい」
その一言で――ルキアは恋次の意図を、知った。
自分に罪を背負わせない為に――人を殺したという罪、それを背負わせない為に、恋次は。
その胸に顔を埋め、襟元を掴んでルキアは号泣する。小さな子供のように、大きな声を上げてルキアは泣いた。
そのルキアの頭を撫でながら、恋次は小さな声で囁き続ける。ルキアの嗚咽に紛れて聞こえないほどの小さな声で――何度も何度も繰り返す。
護ってやる。どんな事からも。お前を苦しめるもの総てからお前を護るから。
いつだってこの背はお前の前に――いつだってこの身はお前の楯に。
それは遠い昔――出逢った頃の、遥かな昔。
そしてその誓いは永遠に変わることはなく――
背景画像にカランコエという花を置いたのですが、いまいちしっくりこなかったので止めました…こんな地味なページで申し訳ございません。
ちなみにカランコエの花言葉は「あなたを守る」です。
戌吊という過酷な世界で、恋次はどんな事をしてもルキアを護っていたのではないかと。
ルキアを苦しめるもの総てを引き受けるのではないかなー、と思ったりして。
ルキアに背負わせるくらいなら全部自分が罪を背負うという、自分だけが汚れればいい、みたいな。
そして内輪話ですが、裕太くんはオフ本に続いてまたもこんな目に…(笑)
読んでくださってありがとうございました!
「お前は俺だけ見てりゃいいんだよ…他の何も見るな。俺だけ見ろ」
「恋…次…」
という甘い話を想像していた方、期待に沿えず申し訳ございません(笑)
司城さくら