「バーンビ! おっはよう!」
 教室で鞄から教科書を出していると、背後から突然抱き付かれた。それはいつものことなので私は慌てず「おはよう、カレンさん」と後ろを振り返って笑う。
 途端、カレンさんの笑顔が僅かに曇った。
「どうしたの? 元気ないよバンビ」
「え?」
 何故こんな一瞬で解ってしまうんだろう、と私は驚く。いつもと同じように挨拶したと思うのだけど。
「そんな風に見える?」
「明らかに元気ないじゃん。何? 何かあったの?」
 明らかに、というのは言い過ぎだと思う。教室に入るまで色んな人と挨拶したけど、誰もそんなこと言わなかった。私も皆もいつも通りに笑顔で挨拶して。
 カレンさんだけ、何故わかったのだろう。そんな疑問が顔に出たのか、カレンさんは「ふふん、私はバンビを愛してるからね!」と胸を張って言った。
「バンビ」
 教室の前の扉から顔を覗かせて、宇賀神さんがとことこと教室に入って来た。カレンさんも宇賀神さんも違うクラスだけれど、こうして毎朝私と話に来てくれる。
「バンビ、今日何か元気ない。どうしたの?」
「見ただけでっ!?」
 仰け反るカレンさんに不思議そうな顔を向け、宇賀神さんは「バンビ、どうしたの?」と重ねて聞いてきた。
「おかしい、愛の深さは誰にも負けていない筈なのに……っ!」
「カレン、黙って。バンビの話を聞いてるの」
 宇賀神さんの前で嘘を吐くなんて出来る筈はない。嘘を吐いた所で全てばれてしまうのだから。そして悲しそうな顔で「バンビ」と名前を呼ばれたら、宇賀神さんの優しさを裏切ったようで、罪悪感で居たたまれなくなる。
「うん、大したことじゃないんだけど。ちょっとね、自信がなくなったっていうか。……自信を持ってること自体が傲慢だったんだなあ、って思って」
 はっきり口にすると胸が痛む。だからぼかしてそう言った。
 琥一君にとって私が特別じゃないなんて。
 最初はそれで落ち込んだ。けれど、そこで自分の浅はかさに気が付いて更に落ち込んだ。
 琥一君にとって私が特別なんだと思っていた自分の思い上がりが恥ずかしい。
 私の曖昧な言葉に、何を汲み取ったのかカレンさんは「自信を持っていいと思うけどなあ。バンビは可愛いし愛されてるしね!」と首を傾げ、宇賀神さんは私の目を見て「バンビは傲慢なんかじゃない。それを傲慢と思うならそれは相手を信じないことと一緒」と言った。
「え?」
 宇賀神さんの言葉の意味を尋ねようとしたその瞬間、チャイムと共に大迫先生が教室に入って来た。「HRやるぞー、席に付けー。花椿、宇賀神、自分の教室に戻れー」と出席簿をひらひらさせている。
「あ、じゃあまた昼休みにね!」
「あとで、バンビ」
 二人が教室から出て行くのを私も手を振って見送って、すとんと自分の席に腰を下ろした。
 昨日の祝日。琥一君のお部屋に招かれて、レコードを聴いて、琥一君のコレクションを見せてもらって、たくさん話をしてすごく楽しかった。
 帰り際、琥一君にあのお願いを私がするまでは。
「帰り、琥一君のバイクに乗ってみたい」
 琥一君のバイクはすごく大きくて、綺麗に磨かれていて、とても大事にされているのがわかった。以前、登校中に琥一君と琉夏君が二人で乗っていたのを見た時、琉夏君に「乗る?」と聞かれて断ったけれど、本当は乗ってみたかった。琥一君があんなに大事にしているバイク、琥一君があんなに大好きなバイクに乗る事を、私も琥一君と同じように体感してみたかった。
 けれど琥一君は即答で「駄目だ」と断った。本当に即答だった。問題外、みたいに。
 突き放されたような気がした。
 幼馴染だから、仲が良いから、そんな事に私は自信を持っていたのかもしれない。増長していたのかもしれない。
 琥一君の大切なものに触れていいなんて、勝手に思い上がっていた。
 けれど落ち込みながら、
 ――琉夏君は乗せるのに、如何して私は駄目なの。
 そんな風に考えてしまう自分の醜さに、更に落ち込んだ。
 琉夏君は家族。その琉夏君と並ぼうとする自分が図々しい。
 重い気持ちを引き摺ったまま一時間目と二時間目を終えて、三時間目の体育で更衣室に行く為に教室を出た。





「花織」
 背後からかけられた声に、一緒に更衣室に向かっていた友達は「先に行ってるね」と手を振った。私もそれに手を振り返して振り返る。
 思い上がっちゃいけない。声をかけてくれたのは、ただ幼馴染だから。
 笑顔で振り返る。どこもおかしくない筈だ。ちゃんと笑えてる。
「琥一君」
 私が抱きしめるように持った巾着袋に目を向け、琥一君は「体育か」と聞いてきた。
「うん。バレーボールだよ」
「顔面で受けねえようにしろよ」
「そんなドジじゃありません」
「まあ、お前は運動神経もいいからな……」
 そこで琥一君は言葉を切って私を見た。ふ、と表情が少し険しくなる。
 驚く私の目を見据えながら、琥一君は「何かあったか」と低く言った。
「え?」
「元気がねえ。何かあったか。誰かに何かされたか」
「そ、そんなことないよ? 元気だよ? 何もないよ?」
「嘘吐くな。明らかに元気がねえ。何があった? 言ってみろ」
「本当に何もないよ!」
 本当のことなど言える筈ない。何もないよ、と言い切る私に琥一君は何故か少し淋しそうな顔をして「そうか」とそれ以上追及するのをやめてくれた。
「……明後日の日曜日だけどよ。空いてるか?」
「うん」
「ショッピングモール行かねえか?」
「うん、いいよ。じゃあ駅前広場に10時でいい?」
「ああ、遅れんなよ?」
「琥一君もね?」
 いつも通りに笑って約束して、私は「じゃあね」と更衣室に向かって走る。誤解しない、思い上がらないと呪文のように唱えながら。






 10時5分前に駅前広場に行くと、もう琥一君は待っていてくれた。慌てて駆け寄ると、太陽が目に入ったのか眩しそうに目を細めて私を見る。
「待たせちゃった? ごめんね」
「待ち合わせ時間には遅れてねえだろ。俺が早く着きすぎた」
 変なのに絡まれても困るからな、と呟く琥一君の言葉に私は反応する。
「まだ、余多校の人に絡まれちゃうの?」
 最近はそんなことも少なくなってきたと思ったのに。琥一君には喧嘩はしてほしくない。怪我なんてしてほしくない。
 思わず琥一君の袖を掴んでしまった私に、琥一君は驚いたように私を見る。
「は? 絡まれるのは俺じゃねえだろ」
「え、じゃあ誰?」
 きょとんとする私に溜息を吐いて、琥一君は何も答えずに「行くぞ」と歩き出した。

  




 ショッピングモールに行く時は必ず行く中古レコード屋さんとは逆方向に歩き出した琥一君に、私は「あれ? レコード屋さんじゃないの?」と首を傾げた。いつもはあまり行かない方向。
「ああ。すぐ着く――ほら、あそこだ」
 琥一君が指差した方向には、大型カー用品店があった。バイク、その単語が今の私にとっては鬼門なので、心なしか足取りが重くなる。
 そのまま何も話さずに歩く私を連れて、琥一君は店内に入った。独特のゴムの匂いがする店内の中を、買う物はもう決まっているのか、琥一君は周囲の棚を見ることなくどんどん奥へと私を連れて歩いていく。
「どれにする」
 その言葉に顔を上げた私の目の前には、たくさんの――
「え?」
 ずらりと並んでいるのは、ヘルメット。
 それを一個ずつ確認するように琥一君が見ているのは、どう考えても女性用の。
「――私の?」
「俺がこんなピンクのヘルメットするか」
「でも、バイク駄目だって……」
 乗せられないって、はっきり断られた。なのに、何で。
「メットもねえのに乗せられるか。何かあったらどうすんだ」
「……乗って、いいの? 琥一君のバイク」
「だからメット買いに来たんだろうが。さっさと選べ」
 照れているのか、いつもよりぶっきら棒な琥一君の言葉に、私は――
「うぉっ!?」
「嬉しい! すっごく嬉しい!! どうしようすごく嬉しい!!」
「こら手前離れろ! お前、だからそんなにくっつくなっていつも言ってんだろうが……!」
 嬉しくて嬉しくて嬉しくて、思わずぎゅうぎゅう抱きつく私に、琥一君が珍しく焦ったような声を出した。
  

 




 私が選んだのは、女の子っぽい色の可愛いヘルメットじゃなくて、黒くてファイヤーパターンのプリントされた、琥一君っぽいヘルメット。
 嬉しそうにヘルメットを抱える私の頭をくしゃっとかき混ぜて、琥一君は「うち寄ってバイク拾うか」と聞いた。
「乗るか?」
 その問い掛けに私は満面の笑顔で「うん!」と頷く。
 また太陽が目に入ったのか、琥一君は眩しそうに目を細めていた。











そしてバイクに乗って背中にバンビの胸を感じさらに自分を追い詰めてしまったコウ兄(笑)

2010.8.8