恋次を起こさないように静かに扉を開けると、ルキアは素早く中に滑り込んだ。電気は消えていたが、夕日の名残りが、病室の中を赤く彩っている。
眠っている恋次の顔は穏やかだった。昔、まだ戌吊にいた頃によく見た恋次の寝顔と一緒だ。
―――いや、少しやつれたか……
それは恐らく自分のせいだろう、とルキアは目を伏せた。
昼間の一角の言葉がよみがえる。自分の生命も省みない闘い方―――そんな風に恋次を変えてしまったのは、間違いなく自分の態度のせいだろう、とルキアの胸は痛む。全ては自分の誤解が起こした事だ。
『真央霊術院で、あんたに早く会うためにっつって勉強してたぜ、似合いもしねぇのによ―――』
―――私が弱かったのだ。
独りがつらくて、朽木の家に馴染めなくて、淋しさからルキアは全てを恋次のせいにした。恋次が私を棄てたから、恋次が私を必要としなかったから―――そう思い込んで、ルキアは恋次を恨んだ。
変わったのは私。裏切ったのは私。
恋次を信じなかったのは、私だ―――。
ルキアの見守る中で、恋次の身体が僅かに動いた。同時に、恋次の眉がきつく顰められる。動いた拍子に傷が引き攣れたのだろう、腕が上がって胸の傷を掴もうとする。
その手を押さえて、恋次の手が傷に触れるのを防いだ。その右腕に微かに残る刀傷が目に入って、ルキアはそっとその傷跡をなぞる。
幼い頃、ルキアを庇って受けた刃の傷。―――あの日から何と遠くに来てしまったのだろう。
ルキアは首を振ると、胸の内の感傷を振り切った。会えるのは恐らく今日だけだ。再び朽木の家を抜け出してここに来る事は不可能だろう。
ルキアは恋次の手を握り締めたまま、目を閉じて意識を集中させた。そのまま小さく呪言を呟く。―――四番隊員以外の者も、治癒の鬼道を使えるものは稀にいる。ルキアは数少ないその内の一人だった。
固く結ばれていた恋次の眉が解ける。ルキアは自分の体力のギリギリまで治癒の呪文を唱え続けた。恋次の横にひざまづき、目を閉じ、恋次の手を握った両手を額に当て、その姿はまるで祈りを捧げているかのように。
「……ルキア」
「あ……」
不意に名前を呼ばれ、ルキアはびくりと身を竦ませる。恐る恐る目を開けたルキアの目の前に、真直ぐにルキアを見つめる恋次の顔があった。
「恋……」
「また泣いてんのか。……仕方ねえなあ」
昔のままの、乱暴な言葉の中に優しさが込められた声。
言葉もないルキアに、恋次の声だけが続く。
「大丈夫だって言ってんだろ。俺は死なねーって今言ったばかりじゃねーか」
薬のせいで記憶が混乱しているのだ、とルキアは気が付いた。
恋次が―――今の恋次が、こんなに優しい目を自分に向ける筈は無いと自嘲気味に笑う。
「そうだったな。―――すまない。もう泣かないから」
「はやく治して―――また出かけようぜ。お前が前言ってた、白い花の咲いてる場所、見つけたんだ。俺が連れてってやるからな」
「ああ、待っている。だからはやく治せ」
「それともまた一緒に甘味屋に行くか。俺、甘いの実は嫌いじゃないんだぜ」
「気付いていた。鯛焼きを食べているお前は嬉しそうだったからな」
「その前に試験があるじゃねーか。俺、鬼道の単位がやべえんだよな」
「私が教えてやるから心配するな。鬼道ではお前に負けた事はないからな」
恋次の記憶の泡は、様々な時代を無秩序に浮かび上がらせているようだ。戌吊、真央霊術院、二つの時代の記憶が溶け合って恋次の口に上る。全てがルキアと共にいた頃の記憶だ。二人が一番幸せだった頃の記憶。
「―――何だか眠いな。何でこんなに眠いんだ?」
「いいから眠れ。お前が起きるまで側にいよう」
「そうか?じゃ、起きたら飯でも食いに行こうぜ。なんだか久しぶりにお前と―――」
すう、と眠りに落ちていく恋次の手を握り締めながら、ルキアはじっと俯いていた。
完全に眠り込んだ恋次の手をそっと置いて、ルキアは立ち上がった。
次に目覚めたとき、恋次は今のことを覚えてはいないだろう。その方がいい、とルキアは思った。
病室をそっと出る。受付に向かう途中、聞き覚えのある女の声が響いているのに気が付いた。
「―――何で行っちゃいけないのよッ!」
「だから今、別の来客中で―――」
「そいつを追い出しなさいよ、私は恋次の恋人よ!?」
「―――斑目殿、綾瀬川殿。大変世話になった。私はこれで―――」
女を無視してルキアは一角と弓親に頭を下げる。顔を上げたルキアの目に、呆然とした女の顔が映っていた。
「―――あんた……何であんたがここにいるのよッ!?」
女を無視してルキアは総合救護詰所から出て行く。女が誰かは覚えていた。名前は知らないが、恋次と腕を組んで歩いていた女。同じ十三番隊だという、長い黒髪の―――美しい女。今、恋次の恋人だと名乗っていた。
胸が熱くなる。身を焦がす、焼け付くような痛み。
それは、初めて知る感情だ。
「ちょっと―――待ちなさいよッ!」
後ろから腕を掴まれ、ルキアは振り向いて女を見上げた。こうして真正面から顔を合わせる事は初めてだ。二人の間に、見えない火花が飛び散った。
「―――他人の身体に突然触れるのは無礼だろう。離せ」
冷たく言い放つと、流佳はじろりと睨みつけた。
「あんたがちゃんと質問に答えたらね。―――あんた、恋次を知ってるの?」
「答える必要を認めないな」
「ふざけんじゃないわよッ!」
「ふざけてなどいないが」
ルキアは腕を振り払うと、もう流佳等存在しないかのように無視をして真直ぐ前を見据え歩き出す。流佳は唇を噛み締め、その後姿を見送った。
その目には憤怒の赤い炎が揺らめいていた。
「―――流佳さん?」
弱々しいその声に、苛立ったままの胸は反射的に怒鳴りつけそうになったが、流佳はそれを抑えて微笑んだ。
「久しぶり、元気だった?」
「はい、流佳さんも―――相変わらず綺麗ですね」
男には似合わない世辞に、表面では笑顔を保ったまま、流佳の不機嫌さは更に深くなる。さっさと用件を済ませて、もう一度恋次の元へ行こう、と心に決めて口を切る。
「今日はね、あなたにお願いがあるの」
「はい?」
この男は、流佳が過去に役立つと思い寝た男だった。全く好みではなかったが、情報庁に勤めている一点だけは流佳の眼鏡に叶う。つまりは流佳の手持ちの札の一つだった。
「調べて欲しい奴がいるの―――そいつの過去からずっと、解る事は全部調べて頂戴。お願いできるかしら?」
艶然と微笑む流佳に目を奪われながら、男は大きく首を縦に振った。
「ええ、やります。―――流佳さんのためなら」
男の崇拝する眼つき、そしてその奥にちらちらと揺れている欲望の影に内心舌打ちしながら、流佳は男の唇に自らの唇を合わせてやった。
「続きは―――全部調べてからね。頼んだわよ」
「任せて下さい。―――で、誰を調べればいいんですか?」
「朽木ルキア―――この女の全てを調べて頂戴」