何気なく見遣った教室の入り口の扉に、雛森桃は普段見かけないその姿を目にしてて軽く目を見張った。
 昼休みのざわめく一組の教室の扉から、緊張した顔で教室内に視線を彷徨わせているのは、隣の級のルキアだった。小柄な身体で精一杯背伸びしながら、一組の教室中を見渡している。
 ルキアと桃は直接の接点はない。授業も今現在では合同でやる事もなく、本来ならば知り合うきっかけはない。その、交流のあまりない一組の桃と二組のルキアを結びつけたもの――それは阿散井恋次、という存在だった。
 恋次とルキアは幼馴染で、この真央霊術院に共に入学したそうだ。それまでもずっと一緒に生活していたと聞く。
 だからだろうか、彼らは級が分かれても共に居る事が多い。大抵恋次がルキアに会いに行く、という形をとっているようだが、廊下や下校時でも、とにかく恋次はよくルキアの姿を見つけては声をかけている。それは恐らく、いつも恋次がルキアの姿を無意識に探しているからだろう、と桃は微笑ましく思う。
 桃はその性格から誰にでも好かれ、級中の生徒たちと仲はいいが、特に話をするのが吉良イヅルと阿散井恋次だった。この二人はよく桃に話しかけ――実際には、吉良が桃に話しかけたいのだがそれが出来ずに恋次に話しかけてもらっている、というのが事実なのだが――桃と吉良と恋次は、一組の中では行動を共にする事が多い。そしてその恋次を通して桃はルキアと知り合い、言葉を交わすようになっている。
 言葉を交わす、と言っても、最初の内は、話すのは主に桃だけだった。桃に対してあまり話をしないルキアに、桃は自分が嫌われているのかな、と思ったこともあったが、今ではそれは単に彼女が人見知りなだけだと知っている。
 その人見知りな性格故に、あまり知らない人間の集まる場所を好まないルキアが、今、ここ真央霊術院の一組に一人で来ているということは……恋次を探しているのだろう。そう考えながらルキアに声をかけると、ルキアは見知った顔を見つけてかすかに安堵の表情を浮かべて会釈をした。
「阿散井君?」
 桃がそう尋ねるとルキアの頬はうっすらと赤く染まる。
「ちょっと奴に用があるのだが――どうやら居ないみたいだな」
「そうだね、さっきまで居たんだけど――何処に行っちゃったのかなあ」
 きょろきょろと見回して、桃は「阿散井君に用があるなら伝えておくよ?」と笑顔を受けると、ルキアは「いや、そんな大した用ではないのだ」と慌てて首を横に振った。
「その――最近、あいつの姿が見えないから――風邪でも引いているのではないかと思っただけなんだ。元気なら別にそれでかまわない」
 では、と立ち去ろうとするルキアに、桃は「ちょっと待って」と声をかけた。
「あなたの前に、姿を見せない?」
「……?ああ、そうだが」
 何故か真剣みを帯びたその声に、ルキアは戸惑いつつ頷く。桃は考え込むように視線を下に落とし、しばらくしてから顔を上げルキアを見詰めた。
「私、ここ最近、いつも阿散井君の姿が見えないのは、あなたの所へ行ってるせいだと思ってた」
「いや、もう……一週間かな、私はあいつの姿を見ていない」
「一週間……」
 不意に桃は黙り込んだ。その態度に、ルキアは不安を感じてじっと桃を見詰める。
「……最近、阿散井君、変なんだ」
 ゆっくりと、確かめるように桃は言う。
「何処が――って言ったら、そうだなあ……あまり喋らなくなったし、何か考え込んでるし、笑わなくなったし――いつも、姿が見えないんだ。今みたいに」
「……いつから?」
「一週間前」
 その答えは話の流れから予想は出来たが、その原因までは想像がつかない。
「何かあったのだろうか、一週間前に」
「……特に、思いつかないな……変わった事、何かあったっけ?」
「うん……試験の成績発表くらいではなかったか?」
「ああ、そうだったね。でも阿散井君、学年三位だったし……それで落ち込むとも思えないよね」
「ああ、あまりあいつは順位にこだわるタイプではないからな……」
 ならば、何だというのだろう。
 しかし、あの成績発表の日、朝まではいつもの恋次だった。
 クラスは分かれているが、恋次はよくルキアの元へと顔を出していた。事あるごとに……登校時、教室移動の時、休み時間の度、昼食時、放課後、下校時、恋次は暇な時間があれば必ずルキアのクラスである二組を覗き込み、ルキアを探しては「よう!」と声をかけ――時には背後から蹴りが入る事もあったが――自分の存在をアピールしていた。
 ルキアには思いもよらない事だったが、それは恋次の、二組の男たちへの牽制だったのだが。
 その恋次が、一週間、ルキアの前に姿を見せない。
 毎日毎日姿を見せていた者が突然姿を見せなくなると、やはり気になってしまう。自分のクラスに恋次が頻繁に現われ、その度に同じクラスの者から注目される事に恥ずかしさを感じて多少煩わしく思ってはいたが、ぴたりと姿を見せなくなると、いつも恋次が来るのを待っている自分に気付いて、ルキアは何となく悔しくなる。
 そう、あの成績発表の日、恋次は朝、登校するルキアを捕まえて自慢そうに言ったのだ。
「結構自信あんだぜ、俺」
「そうか、それは良かったな」
「あ?何怒ってんだよ、お前」
「別に怒ってなどいないぞ」
「ああ、お前、自信ねえんだろ!初めての試験だからって緊張したな?」
「うるさいな、私はお前と違って繊細なのだ」
 そんな会話を交わしたのだから、あの時恋次は普通だったのだ。
 それから――恋次とは会っていない。
 考えに沈んでいたルキアは、「あ」と桃が声を上げた拍子に我に返った。
「阿散井君」
 その声に、びくんと身体が反応する――見上げた視線の先に、見慣れた赤い髪が見えた。
「どこ行ってたの?」
 尋ねる桃の声を、ルキアはどこか遠くで聞いていた。
 ――何があった?
 こんな恋次の顔は、長い間共に居たが、ルキアは見た事がなかった。
 厳しく引き締まった表情、明るさの欠片もない顔。
 そして何より。
 ルキアの目を真直ぐに見ない恋次など――今まで在り得なかった。
「恋次、お前――」
 思わず呟いたルキアの声を遮るように、恋次は「丁度良かった」と声をかぶせた。
「お前に話がある」
 ちらりとルキアに視線を投げ掛け、そのまま何も言わずに、くるりと背を向けて歩き出す。
 戸惑うルキアに、桃の手がとん、とルキアの背中を押した。
「……阿散井君、どうして様子がおかしくなっちゃったのか――お願い、聞いてきて」
「ああ」
 桃の言葉が、自分を励ますためのものだと気付いて、ルキアは小さく微笑んだ。
「そうだな、くだらない事だったら、平手の一発でも見舞ってくる」
「そうだよね、あなたにこんなに心配かけたんだから」
「心配――は、してないのだが」
 ルキアのその言葉を全く信じていない顔で桃は小さく笑うと、恋次の後を追うようにと指で示す。
 頷き、「では」とルキアは桃に頭を下げて、既に大分先に行ってしまった恋次の背中を追いかけた。




 恋次が向かった先は、校舎裏の人気のない暗い場所だった。
 その場所を選ぶ事からも、恋次がおかしいとルキアには解る。
 恋次から感じ取れるものはいつも、太陽に属するもの、正の属性――それなのに、今、恋次から受ける気配は負の属性だ。
「何だ、話とは」
 歩みを止めてからも、しばらく口を開こうとしない恋次に焦れて、ルキアは気のない風を装ってそう尋ねた。
「早くしないと、次の授業が始まるぞ」
 そのルキアを、恋次は上から見下ろして――ようやく口を開いた。
「もう、うちの級に顔を出すな」
 その声の冷たさに、ルキアは思わず息を呑んだ。
「な――」
「迷惑なんだよ、お前がうちに来んのがよ。話してる所も見られたくねえんだ」
 予想もしなかった恋次の言葉に、ルキアはただ呆然と冷たい恋次の顔を見上げていた。
 がんがんと恋次の言葉が頭の中を巡る。
 迷惑。
 見られたくない。
「どうして――」
 今、自分はどんな顔をしているだろう、とルキアはぼんやりと思った。
 きっと酷い顔をしているに違いない。
「俺、今貴族の奴らと付き合ってんだ」
 ルキアの顔から視線を逸らして、恋次は幾分早口でそうルキアに告げる。
「だから、戌吊の惨めな過去を忘れてえんだよ、お前と居るとそれを思い出しちまう」
「だから――だから、私に会いに来なかったのか?」
「ああ」
 きっ、とルキアは恋次を睨みつける。
 恋次は真正面からルキアの視線を受け止めた。
 逸らさない。
 逸らして欲しかったのに。
 逸らさぬその恋次の視線が、恋次は本気でそう思っているとルキアに告げていた。
「私と居る気はないと――そう言うのだな」
「ああ」
 間髪入れずに返ってきたその言葉を聞いて、ルキアは恋次の頬に勢い良く己の手を叩きつけた。




 走り去るルキアの背中を見詰めながら、恋次はそれでも一歩もその場所を動かなかった。
 これでいい――その方がいい。
 追いかけたい気持ちを必死に押さえつけて、恋次は呪文のように何度もそう呟いた。
 ルキアに叩かれた頬は、赤く熱を帯びて、痛みを恋次に伝えている。
 それでも、ルキアが受けた心の痛みよりは、比べ物にならないほど軽い。
 泣きそうな顔をして――「どうして」と見上げたルキアの表情を思い出して、恋次は拳を握り締めた。
 自分は間違っている。それは解っている。
 他に方法があるのなら教えて欲しかった。どうしたらルキアを護れるのか。
 あの卑劣な連中から、どうやってルキアを護ればいいのか――
 力も金もない自分には、奴らの言いなりになるしかなく。
 ルキアを傷つける事になっても、ルキアを護る方法はこれしか思い浮かばなかった。
「悪ぃ……」
 ぽつりと呟いた恋次の声は、誰にも届かなかった。




「阿散井」
 その日、背中にぶつかったその声に、友愛の情など欠片もない事があからさまに伝わって、恋次は振り返りざまじろりとその場に居た三人に目を向けた。
「何だよ」
 自然、恋次の声もきつくなる。
 恋次は元々大抵の人間に優しいが、自分や自分の大切に思う人物に敵意を向ける者には昔から容赦はしなかった。高みから目の前の三人を見下ろして、凶悪に目を細める。
「ふん、やはり育ちが育ちだな。なんて下品な顔だ」
「手前ェも決して人様に堂々と見せられる顔じゃねえぞ」
 途端、三人の中でリーダーを気取っているらしい、茶色に染めた髪の男の顔が歪んだ。どうやら相当な自意識の持ち主らしい。
 三人の顔に、恋次は見覚えがあった。どれも同じ一組に所属している。一組にいる割にその成績は――はっきりと言えば酷いもので、何故この男たちが一組でルキアが二組なのか、最初の頃恋次はいぶかしんだ物だ。
 けれど、今ならわかる。
 この男たちは、貴族――それも、かなり力のある貴族の子息たちなのだ。
 恐らく彼らの父親が、その金の力に飽かせて彼らをエリートと言われる一組へと入れさせたのだろう。そしてその所為で、本来ならば一組に入れた筈のルキアが二組に回った。その事実だけで、恋次はこの貴族の級友に対して好意を持てない。
 加えて、彼らは正に貴族だった――即ち、同じ貴族階級以外の者を人として認めない。貴族の称号のない者を一段下等な生き物として見下している。それは、今目の前で恋次を見ている彼らの目が、明らかに全てを裏付けていた。
 彼らが教室で、声高に、恋次を悪し様に罵っているのは知っていた。エリート意識の特に強い彼らには、彼ら曰く下等な人種である流魂街出の恋次が一組に在籍している事、そして成績が彼らを差し置いて上位である事――それらは許せない悪行であるらしい。
 入学してから直ぐに、目に見えるところで、目に見えないところで、何度も恋次は彼らに嫌がらせ――嫌がらせ、というレベルを遥かに超えた行為を受けていた。けれども恋次は気にする様子もなく、彼らのすること全てを無視して全く相手にしていなかった。
 その彼らが、こうして真正面から恋次に悪意を投げつけるということは、今日が初めての事だった。余程俺の試験結果が気に入らなかったのか、と恋次は内心笑う。彼らの成績は上位百人の中にすら入ってはいなかった。
「貴様――僕に、この僕に、そんな生意気な口を利いていいと思っているのか」
 普段、あからさまに逆らう者などいないのだろう、恋次の言葉に怒りの為に蒼ざめながら、貴族の子息は恋次を睨みつける。言葉を発する口元が、傍目に解るほど震えている。ヒステリーだな、と恋次はうんざりと考えた。
「はいはい、申し訳ございませんお坊ちゃま。用がないのならこれで失礼してよろしいですか、これ以上お坊ちゃまの顔を見ていたくはないんでね」
 挑発的にそう言うと、恋次は背中を向けた。こんな不愉快な奴らを相手にしている暇はない。早く二組へ行かないと休み時間が終わってしまう。
 学年三位というこの試験の結果を、ルキアに早く知らせたかった。そして恋次はルキアの成績もチェックしてある。それは十分一組で通用する順位だった。
 この一年、一緒に勉強すれば、来年は間違いなく同じ一組になれる。
 そんな未来を夢見て足取り軽く、二組に向かう恋次の足を止めたのは、「――そういえば、二組に毛色の変わった女がいたな」という、笑みを含んだ声だった。
「――なんだと?」
「最下層に近い、戌吊出身の女だったか、それにしては妙に品がある。それに随分と気位が高そうだったな」
 なあ?とにやにやと笑みを浮かべて、茶色の髪の男は、両脇に従うようにつく男たちに同意を求めた。彼らは追従するように頷いて嗤う。
「手前ェら……」
「ああいう気位の高い女は、一度膝まづかせると後はもう簡単なんだよな。無理矢理従わせる時の表情なんて最高だぜ、お前も見てみたいと思わないか?」
 一瞬にして恋次は悟った。
 恋次の存在を疎ましく思う彼らが、今、恋次の目の前に立った訳を。
 何度痛めつけても全く気にも留めない恋次への、最大の攻撃方法を彼らが見つけたことを。
 彼らの目的が、自分を屈服させることだということを。
 彼らの意に従わなければ、ルキアに害が及ぶということを。
 ――彼らが、それを難なく実行する力があるということを。
「……下種め」
 吐き捨てるように呟く恋次に、茶色い髪の男は笑みを浮かべた。
 限りなく邪悪な笑みを。
「おいおい、下種なのはお前の方だろう!」
 既に勝利を確信して、三人は声を上げて嗤う。
「その下種を僕の下僕にしてやるよ。ありがたく思うんだな。普通なら僕と喋る事はおろか、近付く事も出来ないんだから、お前みたいな最下層の人間は」
「……ルキアには手を出すなよ」
 憤怒の目で凝視する恋次の迫力に、一瞬蒼ざめた男だったが、何とか虚勢を張って後ずさる事を免れた。
「それはお前の、僕たちへの服従次第だな」
 嗤う男の顔を睨みつけながら、握り締める恋次の拳は、何かに耐えるように……微かに、震えていた。
 



 彼ら――中心にいるのは祖父江、そしてその取り巻きは相笠、長友といった――は元から、貴族である自分たちと同じ教室に、流魂街出身の者がいる事にかなりの不満を持っていた。そしてその、彼らが言うところの自分たちとは違う下等な人種である恋次が、学年でも上位に位置している事、その裏表のない性格故にクラスの殆ど全員に受け入れられ好意を持たれている事、それらが彼らには許し難い事だったのは間違いない。
 そして、彼らが恋次を攻撃するために選んだのがルキアだった。
 恋次がルキアを大切にしている事は、少し彼に注意を向ければ誰もがすぐに解る事だった。恋次がルキアを見る目、ルキアにかける軽口や悪態の裏に込められた想い。それは、祖父江たちにとって格好の恋次の弱点だった。恋次は身体も大きく、喧嘩も強い。自分に対する攻撃ならば、恐らく恋次は全く意に介さないだろう。実際恋次は全く意に介さなかった。鼻で笑って、それで終わりだ。
 けれど、その攻撃が、己以外に向けられたとしたら。
 まず間違いなく膝を折るだろう。
 そう思い、僅かにそれをちらつかせただけで、恋次は容易く彼らの言うなりになった。多少、実際にあの二組の女を攻撃して脅しをかける必要があると思っていた祖父江にとって、拍子抜けするほどあっさりと。
「阿散井、これを教員室に持って行け」
 一昨日中に提出しなければならなかった課題のノートを、祖父江は恋次の机の上にばさっと放り投げた。その課題も、昨日恋次が祖父江に代わって書いたものだ。それを写して、今日持ってきたのだろう。
「俺が提出遅れた理由も適当に言っとけ。……いや、お前が俺からノートを借りてて、俺の代わりに提出する筈だったのに持ってくるのを忘れてたって言っとけよ」
 恋次を見下ろしながら、祖父江は尊大にそう言い放つ。
「お前の所為で提出が遅れたんだからな、わかってるよな?」
「ああ」
 無表情に恋次は席を立つ。祖父江のノートを手に、教員室へ向かい、休み時間でざわめく教室を後にした。
 こうして、恋次は彼らの下僕のような扱いを受けている。理不尽な、ただ恋次の自尊心を傷つける為だけに命じられる彼らの要求にも、恋次は黙って従った。黙って従う故に、彼らの行動はエスカレートしていく。それでも恋次は何も言わずに彼らに従った。
 悔しくないといえば嘘になる。腸は煮えくり返っている。幾度目の前の奴らを殴り倒そうとしたか解らない。それでも、最後にその行動を踏みとどまらせたのは、ルキアに累が及んだら、というただその一点だけだった。
 恋次の目に怒りの色が浮かぶ度……彼らはちらつかせる。
「あの女がどうなってもいいのか?」
 哂いながら、嗤いながら。
 ルキアが同じクラスだったのなら、恋次は同じ状況になったとしても決して従わなかっただろう。常にルキアの傍にあって、ルキアを護っていただろう。けれど、実際には恋次とルキアは離れていた。常に見守る事など出来ない。そして、祖父江たちには金と力がある。その貴族の中でも格段に上の身分である祖父江に追従する者は多かった。祖父江自身が何もしなくても、たとえば二組の人間に「あの女が怪我したら楽しいよな」と呟いて笑って見せれば、祖父江に借りを作りたいと思っている者ならばそれを実行するだろう。
 男が女を傷つける手段など数限りなくあるのだ。肉体的にも精神的にも。そして、同時にそれを最大限与える事の出来る、卑劣な手段も。
 だから恋次は逆らえない。
 ルキアを護る手段が他に思い浮かばない。
 出来る事は、奴らに従うこと。
 そしてルキアに会わないことだ。
 一緒にいる所為で、ルキアに危険が及ぶかもしれない――いや既に危険になっているのだ。
 一緒にいる所は見られない方がいい。
 そう考えて、恋次はルキアの前に姿を見せることをやめた。
 会えないことは辛かったが、自分の想いより何よりも優先させるのはルキアだと、恋次は子供の頃から決めていた。
 それなのに、教員室へノートを提出して教室に戻った恋次の目に映ったのは、その見知らぬ人間が多くいる教室にはルキアの性格上来ないだろう、と信じていたルキアの姿だった。




 ――拙い……
 咄嗟に教室内の祖父江の席に視線を走らせると、案の定こちらを見て嗤っている。隣の相笠と長友に何事かを耳打ちして、どっと笑っていた。
「恋次、お前――」
 その恋次に何を見たのか、ルキアの声が心配そうに揺れていた。子供の頃からの付き合い故に、恋次の状態が普通でないと、一瞬で悟ったのだろう。浮かぶ表情は愕然としたものだった。
 これ以上、祖父江たちの目の前で話すことに耐えられず、恋次は早口で「丁度良かった、お前に話がある」と一方的に告げて背中を見せた。その自分の背中に、彼らの視線が向いているのが、感覚として伝わってきた。くそ、と口の中で呟いて恋次は自分のルキアへの態度が殊更冷たく見えるよう、ルキアを置いて歩き出す。
 向かう先は、人気のない場所――ルキアと二人でいる所を、誰にも見られたくはなかった。そう考えて選んだ、日の当たらない暗い校舎裏に辿り着いて、恋次はようやく足を止める。いつもなら小柄なルキアを気遣ってゆっくり歩くが、今日はワザと無視して歩いた。それでもルキアは一生懸命追ってきたようだ。息が荒くなっている。
 一週間ぶりに見るルキア。
 たかが一週間だ、それでも恋次は、自分がどれだけルキアに餓えていたのかを実感する。どれだけ自分がルキアを必要としているかという事も。
 だから、それだからこそ。
 離れていたほうがいい。
 そう解ってはいるが、突き放す言葉が出てこない。
 しばらく口を開かない恋次に、ルキアは「何だ、話とは」と切り出した。何気なさを装って――恋次にも解ってしまうのだ、ルキアの想いが。気のない様子を見せながら、ルキアは恋次を、心から心配している。この恋次の変化に、心を痛めているということが。
 それで、心が決まった。
「もう、うちの級に顔を出すな」
 ルキアに気付かれぬよう、勤めて無表情に恋次は言葉を投げつける。
 ルキアが息を呑むのが解った。
 目を見開いて、呆然と恋次を見上げるルキアに、恋次は更に言葉を投げ続ける。ルキアを傷つける言葉を。
「迷惑なんだよ、お前がうちに来んのがよ。話してる所も見られたくねえんだ」
 それは、言葉の凶器。
 そのナイフは確実にルキアの心を傷つけた。
 呆然と立ち尽くし、恋次を見上げるその姿は、無防備で――幼い子供のように、無防備で。
「俺、今貴族の奴らと付き合ってんだ。だから、戌吊の惨めな過去を忘れてえんだよ。お前といるとそれを思い出しちまう」
 この言葉は、お前を要らないと言っているようなもの。
 お前との過去、全てを捨てたい、と。
「だから――だから、私に会いに来なかったのか?」
「ああ」
 本心を図るように、ルキアは恋次の目を見詰める。恋次の言葉は嘘だと見抜くために恋次の瞳を凝視する。
 だから恋次も、真直ぐにルキアを見詰め返す。
 逸らさない。
 逸らすと全てが伝わってしまう。
 その恋次の目に、ルキアは大きく息を吸い込んだ。
 小さく、搾り出すように、ルキアはこれが最後だ、との思いを込めて問いかける。
「私と居る気はないと――そう言うのだな」
 間髪いれずに頷いた恋次の頬が、甲高い音を立て、次の瞬間鋭い痛みを恋次は感じ取った。
 ルキアの心の痛みを。





 怒りのままに手を上げて、後はもう後ろを振り返らずにルキアは走った。
 一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。逃げ出したかった。
 恋次の言葉がぐるぐると頭の中を回って、何度も何度も繰り返しルキアに同じ言葉を聞かせ続ける。
『迷惑なんだよ』
 何度も何度も。
『お前は要らない』
 繰り返し繰り返し。
 足が何かに躓いて、ルキアの身体は勢いのままに地面へと倒れこんだ。
 そのままもう起き上がれない。
 地に顔を押し付けて、身体を震わせる。
 嗚咽が零れて、一度堰を切った感情は、あとはもう止める事が出来ずに奔流する。
「…………っ」
 ルキアは声を殺して泣き続けた。




 恋次の居ない生活が始まる。
 そしてようやく気付くのだ、自分がいかに恋次に包まれていたかということに。
 毎日現れる恋次に、毎日掛けられる恋次の声に、憎まれ口に、空気に、笑顔に、存在に。
 自分がいかにそれらを大事に思っていたかを、ルキアは恋次を失ってからようやく気付いた。
 空気のように当たり前にあると思っていたものがなくなってしまった。
 そしてそれは空気がなくなってしまったのと同じように、ルキアに苦しみを与える。
 声が聞けない。
 姿が見えない。
 恋次が居ない。
 姿を見せなくなった恋次を、今度はルキアが無意識に探している。
 恋次は貴族になりたいのだろうか、とルキアは今も窓の外を眺めながらぼんやりと考える。
 
 ――貴族、それはそんなに素晴らしいものだろうか?
 約束された未来、生活に困らない金、安全、衣食住。
 そんなものは要らない。
 本当に大事なものは何か、解ったから。
 
「!」
 ぼんやりと向けていた視線の先。
 窓の外、ここから校舎の出口に、見慣れた紅い髪が太陽の光を反射している。
 恋次はそのまま、ルキアに気付かずに早足で歩いて直ぐに視界から消えていった。
 この十日間、恋次の姿を探し続け、遠くから見詰めて、そしてルキアは気付いた事がある。
 貴族たちと一緒に居る、という恋次の言葉に反して、恋次は大抵一人なのだ。
 授業中のことはわからないが、比較的長い休み時間や放課後になると、恋次は必ず校舎を出て一人裏の方へと向かって行く。
 ここ、真央霊術院の敷地は広い。校舎の裏手に広がるのは生い茂った木々の森、泉や丘、自然がそのまま残っている場所だ。広い故に滅多に人に会うこともない。大体自然以外に何もないその場所へ行く生徒は殆どと言っていい程いないだろう。
 その場所へ、恋次は一人で向かう。
 厳しい顔をしながら。楽しそうな顔など見た事がない。
 そして校舎に戻ってくる恋次の顔は、必ず表情がないのだ。
 能面のように、強張って動かない顔。
 何が恋次の身に起こっているのか。
 何を恋次は思っているのか。
 恐らく問いただしても何も答えはしないだろう。
「昔から強情だからな、お前は」
 溜息を吐きつつルキアは決意する。
 ――話したくなければ、自分で答えを見つけるまでだ。



 
 放課後、やはり恋次は一人で裏へと向かっている。
 その後をルキアは一定の距離をとってついて行った。
 誰も通らぬ道を歩き続け、恋次が辿り着いた場所は緑の絨毯の広がった丘。
 校舎から離れた、広い、自然のままのその場所に、恋次は足を踏み入れた。
「……」
 見守るルキアの視線の先に、三人の男たちが居る。恋次はその男たちに向かって行く。
 すると、中央に座っていた茶色い髪の男が「遅いぞ」と恋次に向かって声をかけた。
 それに対する恋次の答えはない。
 真ん中の男の顔が歪んだのが、ルキアの隠れている茂みの中から見てもよくわかる。
 男の足が上がった。
 そのまま恋次の身体を蹴りつける。
「!」
 息を呑むルキアの前で、恋次は何事もなかったかのように、やはり表情は能面のように動かない。
「すみません、だろ」
「……すみません」
 声も、機械的なものだった。
 ……これが、こいつらが、恋次が一緒に居たいと言った貴族たちなのか。
 恋次を見る、目の前の男たちの視線。
 まるで家畜を見るような、蔑んだその視線。
 動けず見守るルキアの前で、男たちと恋次の会話は続く―――否、会話というよりも一方的な命令が、男から恋次へと投げつけられる。
 授業中に質問に答えるときは、間違った答えを言え。
 級で目立ったことはするな。
 今日の鬼道の授業で出た課題を、明日の夜までに仕上げてこい。
 聞くだけで腹の立つ、身勝手なその命令にも、恋次は黙って頷いている。
 こんな勝手な男の言う事を、何故黙って聞いているのか、それが解らなくてルキアは唇を噛み締める。
 もう、ルキアは恋次の言葉――「貴族達と付き合っている」という言葉は信じていない。
 この男達は、恋次が一番嫌う種類の男達だ、こんな奴らと一緒に居る行為が、恋次の自発的な物とはとても思えない。
 草叢に身を潜め、恋次たちを凝視するルキアのその耳に、「ああ、それと」と男の言葉が響いた。
「次の試験、お前白紙で出せよ」
「……何だと?」
 初めて恋次の表情が動いた。
 眉が上がり、目が細められる。
 その怒りの表情に臆することなく、男は言った。
「お前みたいな屑が上位だとな、学院の秩序が乱れるんだよ。屑は屑らしく隅で転がってろ」
 一斉に声を上げて笑う男達の姿に、ルキアは吐き気を覚える。気持ち悪さに思わず口元を手で覆い、声を出さないように唇をかみ締めた。
 こんな理不尽な事を言われて、恋次はなぜそれでもこいつらに従うのか。
「何だよ、不服か?あ?」
 俯き、拳を握り締める恋次の前に立つと、祖父江は恋次の胸倉を掴んだ。見下ろす恋次の瞳に、激怒の炎がくるめいている。
「何だ、その目?文句あんのか?あぁ?」
 心底楽しそうに、祖父江は言う。
 力尽くで他人を思う通りに操る事、それこそが貴族に与えられた特権だ。それを行使するたびに、祖父江は楽しくて仕方がない。自分が選ばれた人間だと、その度に認識できる。目の前のこの男は、最高の玩具だった。決して他者に膝を付かないだろうこの男を、力で捻じ伏せる。その度に興奮する。今も、目の前の男の目に浮かぶ激怒の色に、そしてそれを一瞬にして消す事の出来る力と言葉を持つ自分にぞくぞくする。
「別に構わないぞ、逆らおうとどうしようと。そうしたら栄えある次の玩具は、二組の、お前の幼馴染だなあ」
 途端、恋次の瞳から感情が消え、握り締めた拳も解かれた。
「……わかった」
 淡々と答える恋次に、祖父江は甲高い嘲笑を浴びせた。身体を仰け反らせて、病的な迄に身を捩って嗤う。
「足りないよ、僕の言う事にすぐ従わなかったんだから。土下座しろよ、這い蹲って許しを請え。それぐらい言われる前にして見せろ、屑」
 その言葉に、躊躇なく膝をつく恋次を目にしてルキアはその場所から飛び出した。




 突然現れた人影に、その場に居た全員が、驚きの表情を浮かべて一瞬固まった。
 しかしそれがルキアだと知って、祖父江は途端に、満面の笑みを浮かべる。
「いい所に来たよ、最高の見世物だ!」
 傍らの相笠と長友にそう笑いかけ、祖父江はルキアに視線を戻した。
 厭らしいその笑顔に、ルキアは身体が震えるのを自覚した。
 恐怖ではない。
 怯えではない。
 それは、純粋な怒り。
 自分を使って、恋次を脅すこの下劣な男達に、ルキアは身体が震えるほど激怒していた。
「お前の幼馴染が、この僕に服従するところを見ていくといい。ほら阿散井、さっさと続けろ……っ!」
 言葉はくぐもった悲鳴で中座された。
「貴様、何をする……!」
「うるさい、下種共!」
 相笠の怒声よりも激しく、ルキアは言葉を叩きつけた。自らの足を容赦なく祖父江の鳩尾に叩き込んで、その結果呼吸が出来ずにうずくまる祖父江も、その横でおろおろと祖父江の身体を支える長友も、ルキアを呆然と見詰める相笠も全て無視して、ルキアは膝まづいたままの恋次の目の前に歩を進めると、腕を取って立ち上がらせた。
「帰るぞ、莫迦者」
 その瞳に煌く怒りの深さに、恋次は息を呑む。
「愚図愚図するな、こんな奴らと同じ空気は吸いたくない。はやくしろ!」
「……女!」
 恋次が立ち上がるよりはやく、祖父江がルキアに向かって襲い掛かった。女に、しかも流魂街出の、二組の女に虚仮にされたその事実が、祖父江から取り澄ました貴族の面を取り外させていた。その本性のまま、下劣な心を剥き出しにした醜悪な顔で、ルキアに掴みかかる。
 小柄なルキアと比べれば、恋次より背の低い祖父江でも、十分力の優位があっただろう。
 ルキアの身体が、す、と横に移動した。頭に血の上っていた祖父江は、反応が一瞬遅れ――次の瞬間、祖父江の身体は地面に叩きつけられていた。
「貴様のような自分の力では何も出来ない屑にこの私がやられるか、戯け!」 
「貴様……っ!」
 相笠と長友が一斉にルキアに向かって手を伸ばした。ルキアはその場から逃げ出すことなく、怯むことなく睨みつける。
 その時には、恋次も動き出していた。
 ルキアと男たちの間に立ちふさがり、容赦なく拳を振るう。長友の顔に叩きつけられたそれは、ぐしゃ、と大きな、何かが潰れる音を奏でる。間髪入れずに相笠の鳩尾に拳を叩き込んで、相笠は地に跪き、蹴られた衝撃で胃の中のものを吐き出した。
 呻き声を上げる三人を見下ろしてから、恋次はルキアを振り返った。
「お前、何でこんな所に……」
 途端、頬を張り飛ばされた。
 先日よりも容赦なく。
「私を嘗めるな!」
 怒りのままに、ルキアは恋次の胸元を掴んだ。子供の頃とは違う、今では遥か上にある恋次の顔を、ぎっと睨みつけてルキアは叫ぶ。
「私を護るためだと?ふざけるな!私はお前の何だ、愛玩動物か?ただ庇護されるだけの無力な子供か?違うだろう!私が望んでいるのはそんなものじゃない、私が望む事は、いつだってお前と対等にいる事だ!それなのに、お前は全部一人で背負い込んで、私の為に自分を曲げて、私の為にこんな莫迦共の言うなりになって……っ!」
 いつしかルキアの瞳から涙が零れていた。
 ぽろぽろと、とめどなく、絶え間なく。
「いいか、自分だけ犠牲になるな、自分一人だけつらい思いをするな!お前と私は何のために出逢ったと思っている、何のために私がいる……っ!」
 あとはもう言葉にならずに、ルキアは恋次の胸に顔を埋めて泣き出した。
 小さな身体が震えている。
 こんなに手放しで自分の感情を見せるルキアは初めてで、恋次はどうしたら良いのかわからない。
 ただ、激しく泣きじゃくるルキアを見るのがつらくて、恋次はその華奢な身体を強く抱きしめた。
「悪い、ルキア」
 抱きしめると一層強く、ルキアの身体の震えが恋次に伝わる。
 胸元を濡らすルキアの涙も伝わってくる。
「悪かった、ルキア……」
「……莫迦者」
「……ああ、俺が莫迦だった」
「本当に本当に大莫迦者だ。この莫迦」
「……ああ」
「学院一の大莫迦者だ、お前は」
「……そこまで言わなくたっていいだろうが」
「瀞霊廷一の大莫迦者め」
「…………」
「尸魂界一の……」
「もういいっつーの」
 いつもの恋次の声の調子に、ルキアは埋めていた顔を上げてじろりと睨んだ。
 その目が恋次の背後を見て見開かれる。
「貴様等、貴様等……」
 壊れた再生機のように、同じ言葉しか発しない祖父江が、ルキアに蹴られた腹を押さえて立ち上がっていた。その目に揺れる憤怒の炎に、恋次は背後にルキアを庇って睨みつける。
「貴様等、貴様等……」
 よろよろとふらつきながら、祖父江は二人に近付く。相笠と長友も、揃って立ち上がっていた。三人共に、恋次とルキアを腕力ではどうする事も出来ないと悟ったのだろう。攻撃する様子はない、近付くだけだ。
 ただ、彼らにはもう一つ力があった。
「……お父様に言って、貴様等を追い出してやるっ!」
 口から泡を飛ばしながら、祖父江は叫んだ。
「今更後悔しても遅いぞ、貴様等は絶対に許さない!」
「……いい加減にしとけ、みっともねえ」
 突如掛けられた第三者の声に、祖父江だけでなく恋次とルキアも驚いてその声の方向へと視線を向けた。
 斜め前―――三メートルほど先にある、大きな木の枝に寝そべって、こちらを見下ろす男。
 その男を見て、恋次と祖父江は同時に呟いた。
「檜佐木先輩……!」
 その顔に、先日出来たばかりの真新しい傷がある。その傷がかえって精悍さを引き立たせているその男は、面倒くさそうに枝から飛び降りた。
「昼寝も出来ねえじゃねえか、煩くて仕方ねえ」
 不機嫌そうにそう吐き捨てると、修兵は「手前ェら」と低い声で祖父江たち三人を睨みつける。
「くだらねえ事言ってんじゃねえぞ?なーにがお父様だ、悔しかったら手前ェの力で何とかしろ。親と金の力に頼るな、情けねえ」
 じろり、と見渡す瞳の温度は低温だ。不機嫌さをそのままに、修兵は一人一人の顔を記憶するように目を細めて眺めやる。
「いいか、今後こいつらに何かあった時は、俺が相応の対応をさせて貰うぞ?俺には家柄ってのはないけどな、手前ェで作り上げた力ってもんがあるからな……結構侮れねえと思うけどよ?どう思う、坊ちゃん」
 学院中の者が知る、檜佐木の実力。
 卒業後直ぐに護廷十三隊の入隊が決まっている稀有な存在。
 教師たちも一目置くその力と存在。
 結局何も言えずに、祖父江たちは痛む身体を引き摺ってこの場から立ち去るしかなかった。捨て台詞さえ言えず、悔しさを滲ませながら、三人は校舎へ向かって消える。
 修兵は祖父江たちの姿が完全に消えるまで凝視していた。その視線は圧力となって、祖父江たちも感じている筈だ。
 その不快な姿が見えなくなって、ルキアはようやくほっと息をついた。目の前に、恋次とルキアを護るように立つ、上級生の姿を頼もしげに見詰め、「……ありがとうございました」と、ぺこりと頭を下げた。
「あ?大した事はしてねえよ」
「いえ、助かりました……本当にありがとうございます」
 じっと修兵の顔を見詰めるルキアに、恋次の中で危険信号が鳴り始めた。ルキアの視線は修兵の顔から全く動かない。
 先日知り合って名前を知ってからというもの、恋次はこの「檜佐木修兵」という上級生の噂を以前から耳にしていた事に気がついた。
 その力の賛美と同じ程に。
 女性関係の噂も多いのだ。
 何とかルキアの視線を修兵からはずしたくて、恋次は「ああ?」と声を上げる。
「何にもしてねえじゃねえか、先輩は」
「莫迦者、私たちが今後あやつらに嫌がらせをされぬよう、檜佐木先輩が釘を刺してくれたのがお前にはわからぬのか!」
 これだから莫迦は困る、と溜息と共に首を横に振られて、恋次は「何だとコラ!」と詰め寄ったが、ルキアは「ふん」と冷たく突き放しただけだった。
 再び、修兵の顔をじっと見詰めている。
 そのルキアの視線に気にした様子もなく、修兵は己の顔の右側を走る傷に手を触れて、「まあ、こないだの借りはこれで返せたな」とにやりと笑った。
「俺は来年には卒業だからな、あいつらに刺した俺の釘も来年までしか効果がないって事だ。それまでに力を付けるんだな、自分の大事なものを攻撃されない実力を、誰からも護りきる力を」




 じゃあな、と二人に背を向け去っていく修兵の後ろ姿を、ルキアはただじっと目で追っている。
 そのルキアの姿に、恋次は考えたくない事――ルキアが先輩に惚れた、という事態を想像して目の前が暗くなった。
「恋次、あの人――檜佐木修兵殿、あの人の事だが、お前は仲が良いのか?」
「……こないだ実習ん時に知り合って、まあ、結構気が合って話したりはしてるけどよ」
 だからなんだよ?と牽制する恋次に向かい、ルキアは至極真面目な顔で「教えてくれないか」と尋ねた。
「何をだよ?」
 修兵に付き合ってる女はいるか、修兵の好みは、修兵の事なら何でもいいから教えてくれ――そんな質問を予想して恋次は気分が暗くなった。
「あの人の――」
 ごく、と息を呑む恋次を見上げてルキアは言う。

「――顔の『69』には、一体何の意味があるのだ?」

「知るかっ!」
 身構えた分、拍子抜けして思わず怒鳴る恋次に、ルキアは驚いたような顔をして見せ、次いで烈火の如く怒り出した。
「そんな言い方しなくてもいいだろう、莫迦恋次!」
「うるせえ、人を散々心配させやがって!」
「何だと、散々心配させたのはお前の方だろう、この莫迦阿呆間抜け!」
 ルキアの怒鳴り声に、恋次はぴたりと動きを止める。
「……悪ぃ」
「そうだ、全面的にお前が悪いぞ、阿呆」
 勝ち誇るルキアと、バツが悪そうに佇む恋次の耳に、遠くのどかな鐘の音が響く。
「――五時間目!」
 二人同時に叫んで顔を見合わせた。
 昼休みはもう終わり、午後の授業が始まる。
 ここは校舎から遠く離れた場所――今から教室に向かっても、確実に授業に間に合わない。
「……お前のせいだぞ」
「……スミマセン」
「誠意が感じられん、全くお前という奴は……」
「まあ、今度勉強見てやるからよ、『学年三位』のこの俺が」
「……うるさいな、お前は」
「どうすんだ?授業、途中からでも出るか?」
「いや……もういい。この時間は休む事にする。授業中の教室に入っていく強心臓は持ってないよ、私は」
「じゃあ俺も」
「お前は授業に出た方がいいぞ、学年三位」
「うるせえ」
 ただでさえ校舎から遠く離れたこの場所で、授業が始まった今となっては、周りに聞こえる音は風の音だけだ。
 久しぶりに心の鬱屈がとれた恋次とルキアは、並んで緑の絨毯の上に寝そべりながら、青い空を見上げる。 
「――大体私があんな奴らにやられる訳ないだろう。あんな苦労も何もしていない金持ちのぐうたら男共に、この私が負けると思うのか?戌吊で生き抜いたこの私が!」
「いや、お前が乱暴者だっつー事は先刻承知だったけどよ……」
「何だ?今言った言葉は私の耳が聞く事を拒否したぞ?」
「……お前が強いって事は解ってたけどよ」
「そうだろう?私は強いぞ。だからお前は心配するな、今後もな」
「万一あいつらがなんかお前にしてきた時は、俺に……」
「どうしてお前はそんな後ろ向きな考えをするのだ莫迦者」
 草の上に寝転がりながら、ルキアは傍らの恋次を見ずに呟いた。
「私はあいつら等怖くないぞ。でもお前がそんなに心配ならば」
 ほんの一瞬だけ、ルキアは言葉が途切れた。
 その、途切れた間を隠すように、やや早口で言葉を続ける。
「私が一緒に居ればいいだけのことだろう、ずっと一緒に居れば―――いいだけの話だ」
 恋次もルキアを見ずに、目の前に広がる青い空を見詰めていた。
 ルキアの顔は、きっと赤い。
 自分には見られたくないのだろう、顔を背けて言ったその言葉に、恋次は「ああ」と何気なく返す。
「そうだな、それだけの話だ」
 これからもずっと、一緒に居る―――ただそれだけの。
 けれど、最高に幸せな言葉。
「ずっと一緒にいような」
「お前が厭だといっても離れぬからな」
 照れ隠しに、わざと憎まれ口のように言うルキアに思わず恋次は笑い出す。
 次の瞬間、その恋次の顔にルキアの裏拳が炸裂した。












 一歩足を踏み出すたび、完全に治癒しきっていない傷は、痛みを身体全体に伝えていく。
 傷は辛うじて塞がっている状態だ。無理をすればまたすぐに多量の血が溢れ出す。
 それでも恋次は走り続けた。
 目指すは、双極。
 

 ―――自分だけが犠牲になるな。
 ―――自分一人だけつらい思いをするな。
 そう言ったのは手前ェだろうが。



 あの白い牢獄の中で、ルキアが小さな窓から見ていた空は、あの時と同じ色に映っていただろうか。
 何もかもを一人で背負い、哀しみも辛さも苦しみも、決して恋次に明かす事はなかった。
 何事も無かったように、ただ微笑んで。
 独り、死に往く事に想いを馳せる。 



「……何のために俺がいると思ってんだ、莫迦野郎」
 

 
 何故ふたりは出逢ったのか。
 そんな事はずっと昔に解っていた事だったのに。
 傍に居て、お前を護るため。
 傍に居て、お前に護られるため。
 ずっと一緒に居る為に。
 『死』などにお前との繋がりを断ち切らせる気など欠片もない。
 だから、必ず。
 お前を助け出す、絶対に。
 



 二人の軌跡は途切れることなく、この先も永遠に続いていく―――。