しんと静まり返った部屋の、窓際に置いた椅子に一人腰掛けて、ルキアは静かに瞼を閉じた。
周囲に人の気配はない。遠く微かにざわめく人々の気配があるばかりで、その幽かな気配が逆にルキアの孤立感を深めさせる。
この孤立感、寂寥感は、ルキアには馴染み深いものだった。
 朽木家に引き取られ、慣れぬ貴族の慣習に戸惑い、消えぬ劣等感に苛まれ……独り自室で眠れぬ夜を過ごしたのは一度二度の話ではない。
馴染み深いとは言え、この静けさから感じる孤独感は久しぶりで―――今ルキアの胸に去来する過去の記憶の断片は、当時眠れぬ夜に何度も思い返した自分の条件反射のようなものなのだろう、とルキアは閉じた瞳のまま苦笑する。
眠れぬ夜に思い返した記憶の断片。
 ……幸せだった、昔。


 生きて行くのはあまりにも辛く苦しい、流魂街の最下層に程近い戌吊、それでも幸せだった日々。……そこには、あの男がいたから。
 路地裏で独り通りを眺めていたその時、偶然目にしたその姿も、初めて耳にしたその声も、何故かルキアには不思議と懐かしかった。
気付いた時には自然に身体が動き、路地から通りへと飛び出した。同じ年頃の子供たちを怒鳴りながら追う男の足に自分の足を引掛けて転ばし、「こっちだ!」と叫んで先頭を走り出す―――突然のことに驚く少年たちの顔に、見ず知らずの自分に付いてくることはないかと落胆した次の瞬間、自分の後を追う少年たちにルキアは安堵し―――微笑んだ。
そうして始まった、子供たちだけの生活。
生きていくのは厳しいその生活、それでもルキアは幸せだった。
 そこには、仲間が―――あの男がいたから。
初めて知った、家族というもの。
初めて知った、仲間というもの。
そう、あの男はいつも……様々なことを教えてくれた、とルキアは椅子に腰掛け、過去の想いに、記憶に微睡む。
―――何も知らなかった自分に、あらゆることを教えてくれた。
中央霊術院で初めて離れた時に教えられたのは、淋しさという感情。
朽木家への養子の話、その時に教えられたのは―――自分の感情を抑え相手の幸せを願う想いがあるということ。
そして、逢えない時の流れの中で知った……自分のその感情の名前。
 ただ遠く見つめることしか出来ない日々で知った、逢えない苦しみ。
 言葉を交わすことの出来ない日々の、身を切るような寂しさ。
 逢えない日々の、切なさという感情。
 逢いたくて、逢いたくて―――心が叫ぶ、激情。
 届かない想いの絶望、世界に独りきりという孤独。
 そして偶然目にした、自分以外の者に微笑みかけるその姿を見たときの理不尽な怒り―――それが嫉妬なのだということも、ルキアは恋次から間接的に教えられた。
 恋次を自分だけのものにしたいという激しい想い、誰にも渡したくないという独占欲。
 自分の中に巣食う、知りたくなかったどろどろとした醜い感情。
 淋しさと切なさと苦しみと絶望と―――それでも捨てることの出来ない想い。


 記憶の泡は、あとからあとからルキアの瞼に浮かんでは消えていく。
 今はもう、遠い昔となったそれらの出来事。
 その日々は既に遠く、時は流れ―――
 誰も近づく筈のないこの場所に人の気配があることに気付き、ルキアは瞼を開けた。小さく息を呑みその身を緊張に強張らせる。その時が来たのかと、震えるルキアの背後の窓が―――開いた。
「よ」
「―――――――」
「何で無言なんだよ?」
「何故お前が此処にいるのだ、莫迦者!」
 窓の外に立つ、紅い髪。
 たった今、思い描いていたその人。
 否―――いつも、いつでも心から離れることのない、その紅。
 正も負も、あらゆる感情、想いを自分に教えた唯一の存在。


 ―――咎人として捕まり、明日を知れぬ日々の中で想う、過去の郷愁の中で……全てを諦めたその中で。
 自分のために―――仲間を捨て、命令を無視し、あらゆるすべての中から自分だけを選び差し伸べられた手と、その腕に抱きとめられた時の驚きと―――嬉しさ。
 ―――双極の丘、私を護るために朱に染まっていった身体、いたる所を傷付けられ流れ溢れる血、それでも私を抱きとめる左腕の力は緩まず、決して離すことはなく。
 放さねえぞ、と挑むように告げられたその一言が―――泣けるほど、嬉しかった。


「いや、他の誰かに見られるより先に俺が見たくてよ―――お前の、その姿」
 軽々と窓を乗り越え、部屋に降り立つその姿に、ルキアの胸が熱くなる。
 死覇装に良く似た、けれど違うその黒い礼服は―――今日この日、ルキアと並ぶためだけに誂えたもの。
 そしてルキアの純白の着物も―――今日この日、恋次の為に身に着けたもの。
 間近でまじまじと見下ろされ、ルキアの頬が上気する。自分に対してのみ毒舌家になるこの幼馴染が、何か皮肉を言うだろうことは着付けの段階からわかっていた。似合わないとか馬子にも衣装だとか七五三みたいだとか―――恋次の言いそうなそんな言葉の数々を想像し身構えるルキアの耳に入った恋次の声は、
「―――綺麗だな」
 素直な賛辞を告げられるとは思いもよらなかったルキアの頬は、更に紅くなった。皮肉には皮肉で返せるが、こんな言葉にはどう返していいかわからない。
 狼狽して俯くルキアの顔に影が差し、顔を上げたルキアの目の前には愛しい―――いつも心から離れない、愛しい男の顔。
 目を閉じて受け入れる恋次の唇から、想いが伝わる。
 唇で愛を伝えることも、恋次に教えてもらったこと。
 逢い足りない淋しさも、信じることも、誰か一人を此処まで愛することが出来るということも。
 頬を伝う一粒の透明な雫に恋次が気付き、指でそっと掬い取る。「如何した?」と尋ねる甘やかすような優しい声に、ルキアは恋次の胸に顔を寄せた。恋次はルキアの意図を正確に汲み取って、ルキアの身体を抱きしめる。
「幸せすぎて……怖いんだ」
 目が覚めたら、またあの豪奢で孤独な部屋の寝台の上に独り、夢の名残の涙をこぼしているようで。
「夢みたいだから。だから、怖い」
「大丈夫だ。これは夢じゃねえし」
 腕の中に包み込んでいたルキアの身体を離すと、恋次はルキアの顔を覗き込む。
「これが幸せだっていうんなら、毎日続くこの『幸せ』は、直ぐに平凡な当たり前の日常になるんだぜ」
 幸せを幸せと認識できないほど、毎日繰り返される日常。
 それはとても、とても―――幸せなこと。
「うん。―――ずっと、幸せでいさせて」
「当たり前ぇだ。俺を誰だと思ってやがる」
 くすくす笑うルキアの唇に、もう一度―――先程の触れるだけの口付けではなく、情熱的な口付けを恋次に施され、ルキアは甘い声を上げる。頭の中が蕩けそうなほど官能的な刺激。思考が停止してしまうほど熱くなる身体と、心。
「ルキアさま、式典の準備が整いました。移動をお願い致しま……」
案内係の声が止まったのは、抱き合い唇を重ねる本日の主役たちの姿を目の当たりにしてしまったせいだろう。狼狽える案内係の少女と同じように、慌てて恋次から離れたルキアも恥ずかしさに狼狽え、平然としているのはひとり、事の元凶の紅い髪の男だけだった。
「あの、お邪魔してしまい大変申し訳ございません……え、でも、あの、何故阿散井さまがこちらに?その、しきたりでは、用意が整うまでは、各々ひとりで式の前に瞑想に耽り、心静かに儀式受ける準備をすると……」
「そうだぞ莫迦恋次!儀式はきちんとしきたりに則って……」
「どうせこの後一緒に式場に入るんだから構わねえだろうが。ほら、もう用意が整ってんだろ?皆を待たせていいのか?」
少女の控えめな苦情とルキアの追求をあっさりと交わし、逆に案内の少女にこの後の儀式を思い出させると、少女は慌てたように「あ」と呟いた。
「はい、もう皆様お二方をお待ちです。どうぞお急ぎください」
どきんと高鳴る胸と共に、ルキアに緊張が走る。
 いよいよ始まる……婚礼の儀式。
 式場に集まるのは数々の名士、貴族、護廷十三隊の隊長・副隊長・席官たち―――そして、義兄の白哉。
緊張に震えるルキアの目の前に手が差し伸べられる。
「ほら」
いつも―――幼い頃から、自分に差し伸べられていた、手。
いつでも見守っていてくれた存在。
 そしてこれからは―――ずっと傍にいてくれる、愛しい人。
 強張った身体が解れていく。
 大丈夫―――恋次がいる。恋次が傍にいてくれる。
 差し出されたその手に自らの手を委ね、ルキアは立ち上がった。
そして一歩を踏み出し歩き出す。
 仲間から家族へ、幼馴染みから恋人へ、そして―――夫婦へと。
 関係は変わっても想いは変わらない。
そしてこれからも恋次はルキアに教えていくのだろう―――変わらない想いがあるということ。
 そして。
 永久に続く幸せを。 










某場所「恋ルキコミュ2周年企画」に投稿しました、お題「ジューンブラインド」。
いや、裏テイストにいきそうで自制するのが大変でしたー、あとがきにも「このあとしんこんしょやでルキアは恋次に色々教えてもらう予定ですー」などと書きそうになって苦笑。健全な場所でそんな事かいちゃいけねえな、いけねえよ。
しんこんしょやー…ああ、乙女の妄想がうずきます(笑)式の後高級旅館の和室、畳の上で布団希望。布団は一つで枕が二つー。

2007.6.9 (シックスナイン!)  司城さくら