「あー、あれ……」
俺の部屋の窓から外を見ていたコンは、何かに気付いたように身を乗り出した。ぬいぐるみの身体なのであまり身を乗り出すと風にあおられて落ちそうだが、まあぬいぐるみなので怪我も何もないだろう。俺はそのままベッドの上で雑誌を読み続ける。
改造魂魄のコイツが俺の身体を使って街中を走りまわったあの一件の後、コイツの普段の常駐先としてルキアと一緒に道端に落ちていたぬいぐるみに入れてみたところ、コイツはこうしてぬいぐるみのまま動きまわれるようになった。元は遊子好みの可愛らしいライオンのぬいぐるみだが、中にこいつが入った途端憎ったらしくなるのは全てコイツの根性の所為だろう。
「ああ、そうだ間違いねえ、あれは確か」
更に身を乗り出し、コンはふんふんと鼻を鳴らした。声が微妙に色気づいている。
「ほら、一護、あれお前のクラスメイトだろ。有沢たつき」
その最後の一言に、おれはがばっと身を起こした。ぐわっと窓際のコンを見る。
「いやー、いいねあの足。ミニスカート万歳。いやはやお前んとこのクラスメイトは上玉揃ってるよなー、超レベル高ぇって、うわ何だよ一護!」
ふんふんと頷きながら身を乗り出しているコンは、背後にいる俺に身を反り返らせた。落ちそうになるコンの胸倉を掴んで落下を阻止する。
「お前、たつきを知ってんのか」
「あ? ああ、知ってるぜ? お前のクラスメイトだろ」
一瞬戸惑ったようだったが、すぐにコンはデレた顔を取り戻してくふふ、と笑った。
「知ってるか一護? あの有沢っての、良く見るとすっげえ美人なんだぜ?」
最初は井上さんの特盛に目を奪われて気付かなかったけどなー、とコンはへらへらと笑った。
「俺を後ろから羽交い絞めにしやがるからよ、最初はむかついてぶん殴ってやろうかと思って後ろ振り向いたらよ? 何と意外や意外、美人じゃねえか! で、俺ぁ思わず」
ぐふ、とにやけてコンは。
「キスしてやったんだぜー」
一気に血の気が引いた。
頭の中が真っ白になる。
そんな俺の様子に気付くことなく、コンはその時を思い出したのか、唇を尖らせたままうっとりと眼を細めて「いやー、やわらかかったなあ」とちゅぱちゅぱ音を立てている。
「そしたらよお、すっげえ照れてんのか取り乱してさあ、真赤になりながら机ばんばん放り投げてくるんだぜ? どんだけ純情なんだっつーの、小学生か」
俺の前でコンはへらへらと笑っている。
「そういやあ羽交い絞めにされた時に背中に当たってたモノも結構いいモノ持ってたしなー、井上さんまでは行かねえけどいいモノだったぜ? いやあ、ああいう男っぽさを前面に出してるけど実は純情って女、いいよなー。こう、じわじわと調教してえよなー、俺の言うこと素直に聞くようにさ、ゆっくりじっくり慣らしていく訳だよ? じゃじゃ馬ならしっての? いいねえ男の浪漫だよなあ」
そこでコンの言葉は止まった。
何故か?
俺がその首を絞めたからだ。
「な゛っ……ぐ、ぐるじい……な゛にじやがるいぢご……っ」
「黙れ」
一言で切り捨てるオレの無表情な顔を見てコンはひいっと声を上げた。何かを察したのだろう、必死でぶんぶんと首を横に振る。
「ぢがっ……、ぐぢびるじゃな゛……っ、ほ、ほっべだだがら! ずぎんじっぶだがら!」
「うるせえ、地獄に堕ちろ」
ぎりぎりと首を絞めるとコンの顔は紫色になった。既に声を出す余裕もないようだ。よろよろと腕を上げて俺の腕をぽすぽすと叩く。
「一護? 何してんだ」
はっと外へと目を向けると、たつきがこっちを見上げている。その視線がオレではなく手の中のコンに向いていると知って、俺は慌てて廊下に向かってコンを放り投げた。廊下で咳き込んでいるコンを無視して何食わぬ顔でたつきに向かい「よお」と手を上げる。
「たつきこそどうしたんだよ」
「ちょっと数学のノート見せて」
部活帰りなのか空手の道着を手にした制服姿のまま、たつきは俺の返事をきかずに玄関に消えた。俺は慌てて廊下でへばっているコンを拾い上げ遊子の部屋へとぶん投げる。
「……さっきから何してんのアンタ」
「いや、遊子が俺の部屋にぬいぐるみ置きっぱなしにしてて」
「? まあいいや、数学のノート。明日授業で当たっちゃうから」
ずかずかと俺の部屋に上がり込むたつきに、鞄の中から数学のノートを取り出して投げると、あっさりと空中でキャッチしてたつきは俺の机に座ってノートを写し始めた。
「お前は授業中何してんだ……」
真白なノートに呆れると、たつきは「寝てた」とあっさり言った。五時間目にこんな眠くなる授業持ってくる方がおかしいのよ、とぶつぶつ呟いている。
「ってか何これ全然わかんない!」
ばんと机を拳で叩き、ぎっとたつきは俺を睨みつけた。まるで俺自身が数学の権化のように怨みを込めて睨みつけ「教えろ」と唸る。
「知るか、手前でやれ」
「教えなきゃ明日織姫にアンタがぬいぐるみで遊んでいた事実をばらす」
「事実じゃねえっ!」
井上にばらされる事よりたつきが変な誤解をしている方に焦って慌てると、たつきは小さく笑って「嘘よ」と肩を竦めた。
「織姫には言わないわよ、安心しな」
「おい待て井上がどうこうじゃなくってな」
「はいはいわかってるわよ、ったく」
あーやってられないわ―とわざとらしく顔をノートで扇いでたつきはふふんと笑った。こんな誤解ならぬいぐるみで遊んでると誤解された方がましだ。
「だからたつき、お前変な誤解すんな」
「だからわかったってば、しつこいなあもう!」
いいから数学! と机を叩くたつきに、俺は渋々とたつきの横に立つ。絶対誤解してるだろう、これ。
「数学ってのは公式さえ頭に入れときゃ簡単だっての。この単元で暗記しなくちゃいけないのはここだろ、あとここ。あとは応用だ」
「だからその応用が難しいんじゃん」
「簡単だって。まずここだ。ここで求められてるのはAの……」
ふと横を見ると。たつきの横顔が目の下にある。
コンに言われるまでもない、たつきは美人だ。普段の言動がそれを周囲に悟らせないが、たつきの顔は整っている。女らしい弱々しさ、かよわさ、たおやかさとは真逆の、溢れる生気、強い生命エネルギー、「生」の象徴のような、強くて眩しい――まるで夏の太陽のようだ。
部活の後に学校のシャワーでも浴びたのか、髪が少し濡れている。柑橘系のシャンプーの香りが、開け放した窓から入る風に乗ってふわりと俺の鼻をくすぐった。
良く日に焼けた小麦色の肌。でも肌理は細かくて滑らかだ。
この頬にコンはキスしたというのか。あの野郎、首ひっこ抜いてやりゃあ良かった。あ、でも何だ、それはあいつが俺の身体に入ってる時の話なら、たつきの頬に触れたのは俺の唇であって……
がっと頭に血が上った。自分の唇に思わず触れてみる。けれどそこにはたつきの頬の感触などまるで残っていない。
――ふらふらする。目はたつきの顔に吸い寄せられて動けない。
無言の俺にたつきがいぶかしんだのか、教科書に向けていた目を横に立つ俺へと移した。俺の顔を見てぎょっとなる。
「どうした、一護」
「たつき……」
「な、何だよ」
両肩に手を置いて俺の方へと向き直らせる。何が何だか分からずきょとんとしているたつきはあまりにも無防備だ。というか俺の様子に心配しているようだ。
「大丈夫か? なんかおかしいぞ一護……っておい! ちょっと何、何する気だ馬鹿!!」
ふらふらと吸い寄せられる。たつきの肌に触れたい。一度触れた筈のたつきの頬の感触を確認したい。
「こら馬鹿一護! 何してんのよ、ちょっと!」
たつきは椅子に座ったままの姿勢なので、俺の抑え込みに抵抗するには姿勢が不安定すぎた。それでも俺の両手を抑え付けてこれ以上俺を近付けまいとする。
「たつき……!」
「ちょ……っ!」
「一護見ろ、おにゅーのぱじゃまだ! 今日はこれで寝るぞ、存分に私を褒め称えよ!」
その場にいた全員が一瞬で固まった。
俺と。
たつきと。
ルキアと。
「あら……お邪魔でしたかしら?」
ほほほ、と笑うルキアを見て呆然とする俺の下で、ぐぐぐ、とたつきの力がこもる。さっきまで拮抗していた力はどこへやら、俺の腕を力で押し退けるとたつきはぎろりと俺を睨みつけた。
「……何で朽木さんがここにいるの」
「いや、ええと、それは」
「なんで朽木さんのパジャマ姿をお前が見るんだ?」
「違う、誤解だ誤解! な、ルキア!?」
「……ふーん、名前で呼び合う仲なのか」
たつきの声が地を這うように低くなった。全身から怒りのオーラが立ち込めている。ゆらりと机から立ち上がった。
「最ッ低!!!!!!」
「うおっ!?」
容赦ない肘打ちが俺の顔めがけて繰り出された。それを寸での所でかわす。風圧で肌が切れるんじゃないかという程の威力に俺の顔は蒼褪める。
「……ルキア、記憶置換」
「白玉餡蜜一週間」
「乗った」
「ちょっと無視してんじゃないわよ一護……っ!?」
すいとたつきの前に身を滑り込ませ、ルキアはたつきに向かって記憶置換を作動させた。煙と共にぼよんとヒヨコが二匹飛び出す。途端、たつきは物も言わずに床へ倒れ込んだ。慌てて床と激突する寸前にたつきの身体を受け止めた。
「白玉餡蜜は明日からだぞ?」
「元はといえばテメーがいきなり入って来るからじゃねーか!」
「む? 奢らないつもりならこの娘を襲っていた事を学校中に言いふらす」
「この鬼! 悪魔!!」
「死神だ」
ふふんと笑ってルキアは定位置の押し入れへと潜り込んだ。そのまま襖を閉めて俺の視界から消える。
さてどうしようと腕の中のたつきを見る。くったりとしているたつきの顔は、いつもの気の強さが消えている所為か、その整った顔だけが際立っている。こいつこんなに睫毛長かったっけか。倒れた拍子だろうが髪が乱れて頬に張り付いている。それを直してやると小さくたつきが呻いた。唇が小さく開いて吐息が漏れる。
一瞬で理性が吹っ飛んだ。
抱いていた肩を持ち上げて、たつきの身体を近付ける。小さく開いた無防備な唇に吸い寄せられるように……
「…………………手前ら」
襖の隙間から。
部屋の扉の隙間から。
紫色の瞳と、プラスティックの瞳とが。
「勝手に覗いてんじゃね―――っっっ!!!!」
怒鳴ると同時にぴしゃんと襖と扉が閉まった。更に怒鳴りつけようとすると腕の中で「うう」と呻き声がする。慌ててたつきの身体を遠ざけると、「ん?」とたつきが目を開けた。
「あれ……何? 私? あれ? 何で?」
「……何か覚えてるか?」
「ん……ええと、勉強してたらでっかいぬいぐるみが部屋に飛び込んで、私を襲って来たから肘打ちで応戦……そしたら朽木さんがあんたのぬいぐるみ持って首締めてて」
「夢だ!」
「ん……そうだな、変な夢……」
ぶんぶんと頭を振って、たつきは目が覚めたようだ。頭の中には疑問符だらけだろうが、それよりも「何で私寝てるんだ?」と質問した。当然だろう。
「何かいきなり寝落ちしたぞ? 疲れてんじゃねえのか? ノートは貸してやるからもう家に帰れ」
「んー、そうする」
「送る」
「平気。もう眠くないから」
一度大きく伸びをして、たつきは「じゃあな」と来た時同様さっさと部屋から出て行った。はあ、と溜息を吐くと、襖と扉の隙間から。
「甲斐性なし」
「ヘタレ一護」
「うるせえ出てけ!!」
八つ当たりで怒鳴ると再びぴしゃりと襖と扉が閉まった。
たつきの身体、やわらかかったな。
吐息が俺の顔にかかる程近くに。
腕にはたつきが床に倒れ込む寸前に抱き止めた時の胸の感触が。
あーまずい思い出したら色々と。
それでもこの部屋にいる限りプライバシーはねえんだよな。
「……風呂入って来る」
言い訳のように呟くと、襖の中と部屋の外から「イってこい性少年」と声がかかり、俺は「ほんともう手前ら出て行け!!」と絶叫した。