大切なもの。
 本当に大切なものは、いつだってそばにあって。
 あまりにも近すぎて、そのかけがえのないものの希少さに、儚さに、気付く事ができなかった。
 そう、気付いた時は既に遅すぎて。
 大切なものは、手の届かない場所へ行ってしまった。
 護れなかった。
 自分の所為で、失ってしまった。






 
「 君を 護る 。 」














「……いい加減にしときなさいよ、あんた」
 背中から掛けられる呆れたようなその声に、俺は振り向かないまま「うるせーな」と応えた。
 唇が切れていたのを思い出して慌てて手でこする。ところがそれが逆に乾きかけていた傷口を開く結果になってしまい、途端に血の味が口の中に広がって俺は顔を顰めた。
「ほら」
 差し出された白いハンカチに、「いらねーよ」と突っ撥ねたが、有無を言わせず押し付けられて、渋々受け取って唇に当てた。白いハンカチが赤く染まっていく。その侵食する赤の範囲の広さに俺は舌打ちした。
「喧嘩ばっかりしてんじゃないわよ。ガキじゃないんだから」
「ガキじゃねーからするんだろ」
「ガキだからすんのよ」
 怒ったような、いや、これは完全に怒った顔で、たつきはわざと俺の方を見ようとせずに、川の対岸を見つめている。
「馬鹿みたい」
「うるせーな。仕方ねえだろ、向こうが勝手に絡んでくるんだよ」
 この髪の色の所為で、こういったトラブルは日常茶飯事だ。歳を経るのと比例してその件数は多くなる。掛かる火の粉は自分で振り払うのは当然のことだろう。更に再び火の粉を被らないように、元の火種をきちんと消しておくのも当然の事。
「とにかく、もう少し大人しくしなさいよね。あんたそんなに強くないんだから」
「おい、聞き捨てならねーこと言ってんな?」
「何よ、あたしに蹴られてビービー泣いてたくせに」
「いつの話をしてんだよ」
「ついこないだじゃない。たった5年前」
 ほら帰るわよ、と先に立ち上がったたつきが俺の背中を蹴飛ばした。危うく前のめりに倒れそうになるのを何とか堪えると、たつきは既に歩き出している。
「っぶねーな!」
「その程度の運動神経しかないんだから、喧嘩なんて止めときな」
「だから仕方ねーだろうが、向こうから売ってくるんだからよ!」
 前を歩いているたつきを追いかけて横から怒鳴ったが、もうたつきは聞く耳を持たずに相変わらず怒った顔のまま真直ぐ前を見ている。運ぶ足捌きは、さすがにずっと空手を続けているだけあって律動的で躍動感が溢れている。疲れなんて感じなさそうな。
 その足が、不意に止まった。駅の繁華街近くの道で突然止まったたつきは、奥の制服姿の一団に目を向けている。
「……ったくあいつら」
「あぁ?」
「ちょっと行ってくる」
 そう言うが早いか、たつきはその一群に向かって一直線に走っていった。あのスカートの短さでどうしてあいつは平気で走ることができるのかわからない。少しは気を使えと思いながら俺はたつきを追いかけた。
「こら、お前ら!」
 突然の怒鳴り声に、その一団は一斉に振り返った。どの顔も驚きに引き攣っていたが、その声が女の声だとわかった所為かすぐに元のふてぶてしい顔に変わる。
 そいつら4人の真中に、小さくなっている一年坊主がいた。鞄を胸に抱きしめて、震えているのがここからでも良くわかる。
「有沢かよ」
「何だよ、うるせえな邪魔すんな。向こう行けよ」
「何してるんだ、お前ら!」
「関係ねえだろ」
 低い声で凄む男たちに怯む様子も見せず、たつきは真中で震えている一年坊主に近付くと、腕を掴んで引っ張り出した。そのままとんと背中を押す。
「行っていいよ。後はあたしが話しとくから」
「でも……」
「いいってば。早く帰りな」
 笑いかけるたつきに、一年坊主は何度も頭を下げながら走って行った。余程恐ろしかったのだろう、この場を離れるその速さは相当なものだ。
「……何しやがる!」
「煩い、後輩にたかってるんじゃないわよ」
 周りを取り囲む不穏な空気に、たつきは動じた様子を見せない。
 ―――昔から、こいつはこうだ。
 弱い者が虐げられている事が許せない。曲がったことが許せない。なまじ自分が空手をやっているという自信、同年代の男にも負けないという自負がある所為で、こうして平気でトラブルに突っ込んでいくのだ。
「弱い者を脅すなんて最低。少しは自分の行いを反省しなさいよ」
「うるせえ男女。手前はいつも目障りなんだよ」
「ふん、あんたたちみたいに男の腐ったのから見れば、あたしだって男に見えるでしょうね。弱い立場の者に、集団で脅す事しか出来ない卑怯者!」
「……何だとコラ」
「やる気?いいわよ、その腐った性根叩きなおしてやる」
 す、と重心を落としたたつきの纏う空気が鋭く透明なものに変わる。目を細め、眼前の男達を睨みつけた。
「おいおい、喧嘩はガキがするもんじゃねーのかよ」
「これは喧嘩じゃないわよ。あんたのしてるものとは違う」
「同じじゃねーか」
「煩い、一護!邪魔すんなバカ!!」
 肩を竦める俺の前で、金色の、俺と違って頭を染めているリーダーらしき男が不意ににやりと笑った。その笑顔にたつきの眉が顰められる。
「いいのかよ、有沢?お前、来月空手部の県大会があるだろ」
 は、とたつきが息を呑むのが判った。その顔が微かに動揺する。
「今、ここで騒ぎ起こしたら大会出られないんじゃねーの?連覇狙ってんだろ?ん?」
 金髪男の意図が伝わったのだろう、たつきの力を承知していて腰が引けていた他の男達の顔にも笑みが浮かんだ。
「……ホントに最低な野郎ね、あんた達」
「最低で結構。お前、生意気なんだよ。一々一々口出しやがって……そろそろ堪忍袋の尾ってのが切れそうだったんだよ、なあ?」
 悔しそうなたつきに向かって、男は一歩踏み出した。その後ろから、他の三人もたつきを囲むように幅を狭める。
 俺は唇を拭った。血は付かない。OK。
「さっきから俺を無視して話進めてんじゃねーよ」
「黒崎、お前は引っ込んでろよ」
「一護は引っ込んでな」
 同時に同じ事を言われて、さすがに温厚な俺も目付きが悪くなる。
「うるせえ、引っ込んでんのはおめーだたつき」
 ぱきぱきと指を鳴らして相手を威嚇する。既にさっきの喧嘩の余韻はない。痛みもなく筋肉の動きも快調。問題なし。
「あんたには関係ない―――」
「お前がここで手ぇ出してみろ、あいつら絶対空手部の県大会参加を邪魔するぞ」
「だからって―――」
「お前だけの問題じゃねーだろーが。お前が騒ぎ起こしたら、空手部の他の奴らだって参加できねーんだぞ?」
「あ……」
 顔を歪ませるたつきを俺の背後に押しやって、俺は金髪男の正面に向かい合った。
「と、ゆー訳でかかって来い、卑怯者共」
 人差し指で挑発した俺に向かって、金髪男とその一団は怒りの声を上げ一斉に向かって来―――……




「……バカ」
「あのなあ」
「バカ。バカじゃないのあんた。何であんたが怪我してんのよ、バカ」
「バカバカうるせーよ」
 人目を避けて、路地裏に移動した俺は、背中を壁に預けて座り込んでいた。
 さすがに一日で二連戦は疲れた。
 あいつらの姿はもうここにはない。それぞれがそれぞれの痛む箇所を押さえて逃げ帰った背中を見て、俺はこの場に座り込んだのだから。
「ま、これで何の問題もないだろ。何処も丸く収まってめでたしめでたしだ」
「何処がめでたいんだ、バカ!!」
 耳元で怒鳴られて、顔を張り飛ばされた。
 今日一番の大ダメージだ。
「何しやが……っ!」
 怒鳴り返そうとした言葉が、途中で切れたのは、たつきの顔を見たからだ。
 今にも泣きそうな、顔。
 普段の顔とは違う、今まで見たことのないたつきの顔。
「たつき……」
「……バカ野郎……」
 泣きそうな、その、顔……。





 半端な優しさは相手の負担になるだけだ。
 あの時俺がしたことは、たつきに負担をかける行為だった。
 『自分の所為で一護に怪我をさせた』
 そうたつきは自分を責めた。
 半端な行為は、ただ、たつきを傷つけるだけだと、俺はその時ようやく知った。




 ―――だから。





 何も知らせない。
 何も悟らせない。
 何も気付かせない。
 何も話さない。
 




 あんな泣きそうな顔を、もうこいつにさせたくない。





『―――あんた、あたしが何も知らないと思ってんの……?』

 



 何も知らせない。





『見えてんのよ、黒い着物のあんたも……ソレ着て妙な連中と戦ってるあんたも……!」





 何も悟らせない。





『もういいだろ……隠してること全部』





 何も気付かせない、そのつもりだったのに。





『……あたしに話せよ』




 
 あんな泣きそうな顔を、もうこいつにさせたくない。





『あたしはあんたの何なんだよ!!友達じゃねえのか!!』





 その顔を見たくなくて、だから俺は……
 




『仲間じゃねえのかよ!!!』
 

 


「……お前には関係無えよ」
 校舎裏の壁に背中を預けて、もう一度同じ言葉を呟く。
「俺に関わるな」
 ……口の中の傷が痛んだ。






 
















 現世へ戻る道は無い。
 背後でこの黒腔に入るためにあけられた穴が閉じる気配を感じ、俺は渦巻く乱気流の中に足場を作り、虚圏を目指す。
 この先何が待っているのか。
 平穏な事象でない事は確かだろう。 
 現世とは違う風、霊子の渦に巻かれながら、俺はさっきチャドに言われた言葉を反芻する。

『俺達を信じろ』
『一人で背負うな』
『その為の、仲間だ』

 その為の、仲間。
 一人で背負わない為の、仲間。



『……仲間じゃねえのかよ!!』



 泣きそうな顔でそう叫んだたつき。





 ああ、お前は仲間じゃない。
 お前だけは仲間だなんて認めない。
 こんな重さを、こんな重圧感を、こんな苦しみをこんな絶望感を、お前に、お前だけには背負わせる訳にはいかない。
 それが俺の勝手な想いだとわかっている、たつきの望みとは違うことも。
 けれど譲れない。
 お前に、この事実を背負わせない。
 



 “何か一つのものを護り通せるように”つけられた俺の名前。
 最初に護りたいと思ったのはおふくろだった。
 結局それは果たせずに、俺は自分の名前を裏切った。
 ―――消えたお袋の姿を探して、一日中川原をうろつき回った。
 きっとあの時俺は、何処かおかしくなっていたんだろう。一日中、学校も行かずに朝から晩まで、ただ川原を歩き回っていた。俺の所為でおふくろが死んだ。俺の所為で。それを認識できなくて、俺はただおふくろを探して歩き回っていた。何も見えなかった、何も聞こえなかった、何も出来なかった、ただ歩き回る事しかできなかった。
 そうして何日も過ぎたある日、ようやくぼんやりと周りが見えたその時、ずっと傍らに気配があったのに気が付いた。
 何も言わずにただ黙ってそばにいたその気配。
 慰めの言葉もなく、諭す言葉もなく、ただ黙ってそばにいたその気配に、俺はどれだけ救われただろう。
 おふくろを護り通すことはできなかった。
 だから、俺は今度こそ護り通す。
 一つのもの、それを護り通す。 
 この世界を。
 お前のいる、この世界を。








「 君を 護る。 」   2007.1.6 up










目覚めました、一たつです。
今後司城は、一護にはたつきで参ります。
どうぞよろしくですv

WJでのあの一護のたつきを突き離した台詞、切ないけど勝手にこんな感想抱きました。
チャドの「一人で背負わないための仲間」という台詞。
「あたし達は仲間じゃないのかよ?」と詰め寄ったたつきに「お前は関係ない」と振り切った一護。
ということは、一護はたつきに、重荷を背負って欲しくなかったのだろう、と解釈。
たつきは一護の重荷を一緒に背負う事を望んでいると思うのですが、これは一護の我侭。


わたしを一たつに転ばせてくださったまっちょKingさんに感謝!
これからは一たつの師匠と呼ばせていただきます。勝手に。でへへ。
師匠の一たつ更新待ってます!(ラブコール)

師匠のサイトはうちのリンクから飛べますのでぜひvサイト名「みちくさ」さまです。いえーい!