名前を呼ばれたような気がして顔を上げた視線の先に、自分を見つめる黒々とした静かな瞳がぶつかって、恋次は慌てて「何ですか」と姿勢を正した。
 しばらく無言の後、黒い瞳の持ち主―――朽木白哉は「随分上の空のようだな」と、いつもと同じように、表情を変えずに言う。
「あ、いや……その、すみません」
 頭を下げる恋次に白哉はひとつ溜息をつき、「もう良い」と視線を窓の外へと向けた。
 綜合救護詰所の白哉の病室は最上階にある。開け放した窓からは、爽やかな風が吹き込んでいた。
 天は蒼天……数日前空に飲み込まれ、藍に染めあげられた蒼い空と同じように。
「隊の方はそのままで構わぬ。お前の方針に問題は無い。異論もない故、指揮を続行せよ」
 報告ご苦労、と寝台の上の白哉は恋次へ視線を戻し、言った。
「それともうひとつ、お前に頼みたいことがある。私的なものだが」
 白哉のその申し出に、恋次は一瞬驚いたような顔をした。白哉の下、副隊長になってからそれ程長い時を過ごしたとは言えないが、それでも白哉が恋次に私用に物を頼むことなど今までなかったのだ。
「はい、構わないスよ」
 驚きの表情をすぐに消し、恋次は先を促した。それに頷き返し、白哉は静かに言葉を続ける。
「ルキアを見つけてほしい」
「…………は」
 虚を突かれたように息を呑み、恋次は僅かの間を置いて許諾の返答をする。その間を気にする様子もなく、白哉は言葉を続ける。
「あれもまだ霊圧は完全に戻ってはおらぬ。卯ノ花に安静にするように言われている。何処にいるかは知らぬが、見つけ出して家へと送り届けてくれぬか」
「わかりました」
 頷く恋次の表情に、白哉は微かに笑みを浮かべる。目の前の部下が上の空になったのは、先程、黒崎一護がこの部屋に現れてからだと気付いていたのだ。
 何を考えているのか、何に気を取られているのか、この場にもし複数の者がいたとしてもその全ての者がわかるだろう。
「黒崎一護はルキアが何処にいるかとお前に聞いていたが……お前に見当はつくのか」
 試すようなその白哉の問いに、恋次はひとつ溜息を吐く。
 誰にも何も告げずに、何処かへと向かったルキア。
「はい、恐らく。……いや、あそこしかないと思います」
 その場所を口にした恋次の答えに白哉は頷き、恋次は退室のために椅子から立ち上がった。




 誰にも何も告げずにルキアが向かった場所。
 恐らく、長年深く重くルキアの心に在ったその場所―――流魂街の、一区画。
 向かう足取りが心なしか重いのは、足に絡みつく草の所為に違いないと自分に言い訳し、恋次はその場所へと向う。
 人気のない、街から離れたその場所へと、草叢をかき分けるように歩く。
 ―――目的のその場所は、一度隊舎に戻って調べていた。
 何処にいるかわからない夜一を捜すためにまず二番隊へ行き、砕蜂隊長を見つけ出すと、幸運なことにその場所に夜一は居た。事情を話しその場所の詳しい位置を訪ねると、瞬神夜一は「直接対決かの」と人が悪そうに笑う。
「そんなんじゃないっスよ。大体―――」
 苦笑しながら恋次は言葉を切った。その口にしなかった言葉を夜一は正確に汲み取って肩を竦める。
「死者には勝てぬというのか」
 その言葉にも曖昧な笑みを返す。「煮えきらぬ男じゃの」と、夜一は呆れたように首を横に振った。
 ともあれその場所の詳細な位置を知った恋次は、こうして夕暮れの流魂街を歩いている。空は蒼から橙へと色を変え、涼しい風が何も無い草原を通り過ぎる。
 その何もない草原の向こうに、影が見えた。
「恋次?」
 その場所―――志波空鶴の住居へと至る前に、三つの影の内一番小さな影の位置から驚いたような声が聞こえた。その声に恋次は立ち止まり、三つの影の到着を待つ。程なく小さな影だけが走り寄ってきて、恋次の元へと辿り着いた。
「どうしたのだ、こんな所で」
 目を丸くするルキアに、「隊長が心配してるぞ」と頭に手を乗せる。やや乱暴に置いた手はルキアの頭で大きな音を立て、ルキアは「痛!」と悲鳴を上げた。
「な、何をする貴様!」
 ルキアの頭に手を置いたまま身長差を有効に活用して、ぐるぐる手を回すというルキアの攻撃を避けていると、一護と織姫が追いついた。「よう恋次」と掛けられた声に、顔だけ一護へと向ける。首から下はルキアとの攻防の真っ只中だ。
「よくここがわかったな」
「お前がわかる程度のこと、俺にわからないわけねーだろうが」
「まあな」
 会話に気を取られていた恋次の手の下から、押さえつけていたルキアの頭の感覚が消えた。やべ、と思った瞬間、右足に蹴りを入れられて恋次は思わず声を上げた。
「ってえな!」
「ふん、最初に喧嘩を売ったのはお前だろう」
 ぎっと睨み合う恋次とルキアを前に、一護は「いい所で会った」と平然と会話を進めている。例の事件後の短い期間でさえ、この二人は会えばいつもこんな状態になるので、二人の諍いは既に一護にも見慣れた風景となっていた。
「お前にも言っておかなくちゃいけねーよな。ってか、お前には早く言っといた方がいいよな、うん」
 何かを含んだような一護の言葉に、恋次はルキアから視線を外して一護を見た。
「俺たち明日、現世に帰るからよ」
 その言葉を一護が口にした途端、恋次は反射的にルキアへ視線を戻した。ルキアもその瞬間、顔を上げて恋次を見つめる。
 ルキアと恋次の視線が交差する。
「そんで、ルキアは―――」
 一護の言葉の途中で、ルキアの手が一護の腕を掴んで引き止めた。
 あまりにも自然な、それは動き。
 触れること、触れられることが自然なことになっている二人の空気に、瞬間、微かに恋次は息を呑む。
「ルキア?」
「私から話す。―――その方が良いだろう」
「―――ああ」
 何かに気付いたように一護は頷き、「そうだな」と苦笑する。
 それじゃ先帰ってるぜ、と手を上げ去っていく一護と織姫に、同じように手を挙げ応え、恋次とルキアは何とはなしに黙って見送っていた。
 いつか、―――近い内に、と言い換えた方がいいか―――一護たちが現世に帰るということは承知していた。
 ただ、その時。
 ルキアが共に現世へと戻るか―――尸魂界へと残るか。
 白哉が病室でルキアに向かい「お前の思う通りにするように」と告げたのを恋次は聞いていた。
 現世へ戻るか、尸魂界へ残るか。
 ―――一護と帰るか、自分の元へ残るのか。
 自分の元へ、と考えるのは随分と自意識過剰だと、恋次は自分に呆れて笑う。
 二人の間に生じたぎこちない雰囲気、それを吹き払うように言葉を発したのは恋次だった。
「―――終わったんだな」
 何が、という主語はあえて外した。その意味がルキアにもわかったのだろう、小さく微笑んで「そうだな」と頷いた。
 一連の事件。
 そして―――ルキアの心の整理。
 ずっと心を痛めていたこと―――志波海燕を手にかけてしまったことへの償い、謝罪。
 それが全て昇華されたわけではない―――それでも、志波空鶴に会って謝罪をし、受け入れられたことによって、ルキアの心の中でひとつの区切りがついたことは間違いなかった。
「よくここがわかったな」
「まあな―――そんな気がした」
 土手の草の上に腰を下ろして、恋次は眼下の川の流れを見つめた。夜の闇に溶け込んで、川の流れは茫洋としか映らない。さらさらと水の流れる音だけが耳に聞こえる。
 恋次の隣、離れすぎず近すぎない位置に腰を下ろすルキアを視界の隅に収めて、恋次はまさに自分たちの距離だなと思う。
 曖昧な距離。
 友人というには近すぎる。
 恋人というには遠過ぎる。
 再び訪れる沈黙に、今度はルキアが「すごい星だな!」とやや大げさに声を上げる。
「何だか―――手が、届きそうだ」
 空に輝く星。
 その光は遥か―――遠い。
 触れたくて手にしたくて、もう何十年も手を伸ばし続けている、遥かな星。
「―――届かねえだろう」
 それは当然だが、とルキアは詰まらなそうに頬を膨らませた。
「お前は風情というものがわからんのか」
「生憎そういった感性は持ち合わせてねーんだよ」
「朴念仁め」
「大体俺にそんな風雅が似合うと思うか」
「―――まあそうだな」
 くすりとルキアは笑った。
 中央霊術院でよく見たように。
「お前は風雅の対極にいるな。風雅の位置からは誰よりも遠い」
「……そこまでは行かねえだろう」
「いや、お前の私服を見たが、お前の悪趣味は戌吊の頃よりも随分磨きがかかったようだ。誰にも真似できない世界だな。突き抜けてるぞ」
「そこまで言うか!」
「尸魂界一の悪趣味だ。着物もそうだがその眉毛は一体何だ。中央霊術院の時より増殖してるではないか」
「増殖……人のこだわりを細菌よばわりしやがったな……」
「しかもお前、眉毛だけでは事足らず身体の方まで感染してるではないか!」
「だから感染言うな!」
「しかもそれ、他人に感染るようだな……お前の部下の理吉という少年、あの少年に感染させただろう」
「あいつは俺に憧れて自分から彫ったんだよ!ほらみろ俺の趣味は悪くねえ!」
「……あんまり近付くな、悪趣味が感染る」
「趣味は感染しねえよ!ってか俺の趣味は悪くねえ!認めろ!」
「真実と向き合う事は誰でも辛いものだ。しかし、それを認めてこそ人として大きく成長するのだぞ?」
「真顔で諭すな畜生……段々自信がなくなってくるじゃねえか……」
 額に手を当て心のダメージを回復させるべく、恋次は防御から攻撃へと方向を変えた。にやりと笑う恋次の笑顔に、ルキアははっと緊張に身を強張らせる。
「言わせてもらうがな、お前もその着物の着方はいただけねえぞ?裾が短すぎるぞ、それは何か、現世に行く前と比べてこんなに背が伸びましたというアピールか。そんなせこい真似すんな、見てるこっちが哀しくなるからよ」
「な、何を言う貴様!この裾は流魂街に来る故仕方なく……草叢を歩くのに裾が長ければ邪魔だろう!大体私はそんなお前が哀しむほどの背丈ではない!人に比べたらほんのちょっとだけ小さいというくらいだ!貴様が無駄にでかすぎるのだ!」
「真実と向き合うことは誰でも辛いことだけどよ、けどそれを認めてこそ人として大きく成長するものらしいぜ?」
「私はきちんと真実に向き合っている!」
「そうだな、ちょっとだけ他人に比べて小さいだけだな……その『ちょっと』が表す長さの受け取り方が、人とお前とは『ちょと』違うのかもしれねえけどな……」
 その言葉を言い終わった途端、ルキアの拳が恋次の鳩尾に叩き込まれた。並んで座っているため、まさに絶妙の位置にルキアの拳はめり込んでいる。
「ち、力技で来やがった!」
「煩い口はこうして塞ぐのが一番だ」
「女が拳で殴るかフツー?」
「ほう、ちゃんと私を女と見てくれているとは光栄だぞ。しかしそれならばもっと言葉に気をつけてほしいものだ」
 この場の勝ちを収めたルキアは楽しそうに声を上げて笑い、再び頭上を仰ぎ見る。既に星はその姿を全て現し、暗闇の中それぞれが美しく煌めいている。
「死んだら人は星になると現世では言うらしいが―――そうなるとこの頭上の星々は全て亡くなった方というわけか」
「―――それは風情とはいわねーだろ」
 確かに、と再びルキアは笑った。
 その笑顔に、僅かに映り込んだ淋しさに気がついて、恋次は一瞬躊躇した後、「どんな人だったんだ」と視線を落としたままルキアに尋ねる。
「どんな人だったんだ、その……志波海燕、って人は」
「そうか、恋次は知らないのか」
「直接には、な……人から聞いた話だけだ」
 言葉を交わす前に、志波海燕はその生命を落とした。
 ただ、遠く―――その姿を見かけては、いた。
 ルキアの前を歩く志波海燕を。
 目の前を歩く志波海燕を、信頼を込めた瞳で見つめるルキアの姿を。
「海燕殿は―――誰からも好かれていたよ」
 何処か遠くを見るように、ルキアは星空へと視線を向けた。懐かしむような、心の痛みを耐えるような、そんな複雑な表情で―――ルキアは語る。
「傍にいる者に力を与えてくれる人だったよ。暖かい人だった。大きな声で、言葉使いは少し乱暴で。自分の信じたものは、周囲の状況がどうであれ最後まで信じた通した。仲間を大切にして、明るい人だったけど厳しい人でもあった。でも、その厳しさの中に優しさがある方だったよ」
 大切なものを取り出すように、ルキアの声は密やかにやわらかく、夜の空気に溶けていく。この場に志波海燕がいるかのように、切なそうな笑みを浮かべてルキアは言った。
「どうして良いかわからないとき、どうすればいいか迷った時に、振り向くと必ず傍にいてくれた。私がいつも幸せであるように見守っていてくれた。傍にいると安心できる―――そんな、人だ」
 それはまるで―――告白。
 志波海燕に対する想いの告白。
 胸が締め付けられるような痛みの中、恋次は視線を下へと向けながら、ルキアの想いを聞いていた。
 そして、それは―――その想いは。
 一護に受け継がれているのだろうか。
 志波海燕を知る皆が口を揃えて言う言葉―――『志波海燕と黒崎一護はとても似ている』。
 その外見、その意思、その行動。
 まるで鏡に映したように。
 志波海燕と―――黒崎一護。
「そんなに……似てる、のか?」
 その言葉にルキアははっと目を見開いた。その事実にたった今気付いたように小さく息を呑み―――そして。
 緩やかに―――穏やかに微笑んだ。
「そう、か……似ている……似ているのだな」
 やわらかく、面映そうに―――幸せそうに、ルキアは微笑んだ。
「似ているから、だから私は……こうも惹かれたのか」
 夜空を見上げるルキアはとても美しく―――自分の想いを自覚したルキアの表情は晴れやかで、月と星の明りだけの中でも、ルキアの蕾が花開いたような美しさが恋次にはよくわかった。
 その美しさに胸が痛み、恋次はルキアが不審に思わぬよう、慎重に視線を逸らす。
 志波海燕に似ているから―――一護に魅かれたのか。
 そしてその事実に気付かないほど、ルキアの中で一護の存在は志波海燕よりも大きく強くなっている。
「そう、か……」
 ―――この想いは、封じてしまおう。
 ルキアを愛しいという想い、ルキアに焦がれ、ルキアを欲するこの想いは―――欠片も見せずに。
 最初から手が届かないということはわかっていた。
 あまりにも美しく輝く夜空の星。
 遥か彼方の、遠い星。
 ただ―――見つめることしか出来ない。
「恋次」
 ルキアの声が恋次を呼ぶ。絶えて久しかった、その呼び掛け―――たったそれだけのことすらも出来なかった、数日前。
『死神になろう、恋次』
 仲間達の墓の前で告げた時と同じように、真直ぐな瞳で、ルキアは恋次の心を魅入らせる。
「明日、一護たちは現世に帰るという。だから私は―――」
「ああ、何も言うな。わかったよ―――お前のことだ。考えた末の結論だろう」
 自分が微笑んでいる事に安堵しながら、恋次は言った。
 そのくらいの見栄を張ることは許してもらえるだろう。
 仲間の、幼馴染の―――家族の一人として。
「でもな、たまにはこっちに帰って来いよ?時々は顔を見せに―――隊長だって淋しがるだろうしな」
 恋次の目の前で、ルキアの瞳が再び見開かれた。先程とは違う、甘い揺らぎなど感じられない―――見る間にルキアの表情が険しくなっていくのを、呆気にとられながら見つめるしか出来ず。
 ルキアが勢いよく立ち上がった。
 そのまま一歩足を踏み出す。何を怒り出したのか皆目見当のつかない恋次が「おい―――」とルキアを追って腰を浮かせたその時。
 ルキアの足が思い切り恋次を蹴り飛ばした。
「な―――!」
 不意を突かれ、しかもルキアを追うために立ち上がる途中だった恋次の身体は、見事にバランスを崩し草の斜面を転がり落ちていく。二度三度と回転してようやく草を掴み落下を阻止すると、土手の上にたつルキアに向かって「何しやがる手前ぇ!」と怒鳴り声を上げた。
「いきなり何を―――」
「お前がふざけたことを言うからだ、莫迦者」
 腕を組み、恋次を冷たく見下ろしながらルキアは氷のような声で言う。冷たく燃え上がるルキアの怒りの焔に、恋次は怒声を飲み込んだ。
「言っておくがな―――私が似ていると言ったのは、『一護が海燕殿に』ではない」
 睨み付けながらルキアは言う―――挑むように、悔しそうに。
「私が似ていると言ったのは―――海燕殿がお前に、だ」
 

 傍にいる者に力を与えてくれる、暖かい人。
 大きな声で、言葉使いは少し乱暴で。
 自分の信じたものは、周囲の状況がどうであれ最後まで信じ通した。
 仲間を大切にする、明るい人、たけどとても厳しい人。
 その厳しさの中に優しさのある人―――。
『どうして良いかわからないとき、どうすればいいか迷った時に、振り向くと必ず傍にいてくれた。私がいつも幸せであるように見守っていてくれた。傍にいると安心できる―――そんな、人だ』
『似ているから、だから私は―――』
『こうも、惹かれたのか』


「それが何だ?『たまには帰って来い』?そうかお前は私に一護と一緒に現世へ行って欲しいという訳か!私が此処にいると都合が悪いというのか変態眉毛!」
「ルキ―――」
「黙れ嘘吐き。あの言葉はその場凌ぎで言ったという訳か?その場の乗りで適当に言ったのか、そうなんだなこの莫迦っ!」
「ちょっと待てって―――」
「―――放さないのだろう?」
 胸の前で組まれていた腕が解かれ、ルキアの白い手が恋次に向かって差し伸べられる―――その目に浮かぶのは、今はもう怒りの焔ではなく、親とはぐれた迷子のような、不安げな―――縋るような、色。
 ―――お願い。
 ―――放さないで―――離れないで。
 差し伸べられた手が、微かに震えている。 
「放さないのだろう?私、を」
 怯えるように、恐れるように、懇願するように―――願う、ルキアの瞳。
 その手を掴み、恋次は勢いよくルキアを引き寄せた。あ、と小さくルキアの唇から声が洩れる。突然手を引かれてバランスを崩すルキアの身体を、恋次は両腕に抱えて包みこむ。
「―――誰が放すかよ」
 腕の中のルキアを強く抱きしめながら、恋次は呟いた。一度、驚きから僅かに強張ったルキアの身体は、すぐに全てを恋次へと委ねて身を任せる。
「誰が放すかよ……!」
「放そうと……したくせに」
 恋次の胸に顔を埋め、ルキアは小さく呟いた。その声は震え、涙に揺らいでいる。
「私の幸せ―――お前はいつも自分の気持ちよりも私の幸せを優先する。あの時も―――今も」
 駄々を捏ねる子供のように、ルキアは恋次の腕の中で泣きじゃくった。堰を切った感情は止まることを知らず、小さな拳で恋次の胸を叩きながら、ルキアは恋次に感情をぶつける。
「私が本当は何を望んでいるか聞こうとしないで―――あの時も、今も!どうして私が現世に行くなんて考えるんだ―――私が現世へ行くと考えた上で、どうしてお前は笑っていられるんだ!放さないって言ったのに―――放さないって言ったのに!」
「ルキア―――」
「嘘吐き―――あんな風に言っておいて!また、私から離れるというのか―――お前の本当の気持ちを私には何も言わないで―――私の本当の気持ちをお前は何も聞かないで!どうして―――どうして!」
「ルキア」
「お前がそんなに私と離れたいのなら、お望み通り明日現世に行ってやる!もう二度と帰ってこないから安心しろ、莫迦恋次!」
「俺が悪かった」
「…………」
「離れたい訳ねえだろ―――あの時も、今も」
 恋次の死覇装を涙で濡らしながら、ルキアはしゃくりあげていた。恋次の胸を叩きつけていたその拳は、今は離れないようにきゅっと恋次の襟元を握り締めている。
「放さねえよ……ずっと」
「…………っ」
「離れねえよ、ずっと」
 ルキアの手が、握り締めていた死覇装を離れ、おずおずと恋次の背中に回された。躊躇うように背中に触れた手は、ルキアを抱きしめる恋次の腕に勇気を得てルキアも強く恋次を抱きしめる。
「―――本当に?」
「ああ」
「ずっと―――ずっとって言うことは、ずっとなんだぞ」
「何だそりゃ」
「ずっとは―――永遠、ってことなんだぞ」
「ずっとだ」
 ルキアの肩に両手を置き、そっと身体を引き離す。埋めていた顔を自分に向けさせ、恋次はルキアの紫の瞳を見つめ、誓う。
「永遠に離れねえよ。―――永遠に、放さねえ」
 ルキアの肩に置いた両手に力を込め、恋次はルキアの身体を引き寄せた。仰向いたルキアへ、想いを伝えようと近づけた唇を―――
「ぶ」
 阻止された。
 ルキアの手で。
「お前、私のことを星だとか思ってるらしいな」
 甘い雰囲気を片手だけで粉砕したルキアは、その右手で恋次の顔の下半分を覆い隠し、まだ涙に濡れた瞳で恋次を睨みつけている。
「手の届かない星だとか、そんなこと言ったそうだな」
 その、質問というよりも念押しをするルキアに、恋次は言葉もない。
「誰が言ったかという顔だな。一護だ、一護に聞いた」
 あの野郎、と険悪な顔をする恋次を全く無視して、ルキアは「私はそんなのはお断りだ」と高慢に言い放つ。
「私のことを、星だとか手が届かないだとかふざけたことをお前が言ってる間は―――」
 言葉の途中で恋次の口を塞いでいたルキアの右手首が、恋次の大きな手に掴まれて、恋次の口から引き離された。
 発言権を力で取り戻した恋次は、挑むように睨み付けるルキアににやりと笑いかけ、「お前は星だよ、その思いは変わらねえ」と言ってルキアを絶句させる。
「貴様、まだそんなことを……」
「手が届かないと知っていてもずっと欲しかった。欲しくて欲しくてただ空に向かって咆えてただけだ。―――でも」
 掴んだルキアの右手を唇に寄せ、その白い手首に口付ける。
「一度手にしたら―――放す気はねえよ。覚悟しとけ」
「覚悟?」
「俺は独占欲が強えんだ」
「私だって嫉妬心は相当だからな。覚悟しろ」
 ルキアの宣戦布告に、上等だ、と恋次は笑う。
 もう一度、引き寄せられる身体―――今度はルキアも拒まなかった。
「ところでルキア」
「な、何だ」
 恋次の次に起こす行動を予測して緊張していたルキアは、引き寄せられ密着した身体のまま、至近距離で見詰め合っているその状態で突然動きを止められて狼狽した。
「さっきお前、『私が本当は何を望んでいるか聞こうとしないで』って言ってたよな?」
「…………ええと、まあ、言ったような」
「聞いた方が良いのか?今、お前が何を望んでいるのか」
 意地悪そうなその笑みに、今後の恋次の出方が思いやられ、ルキアは軽い眩暈を覚えた。
 つい数分前のあの謙虚さ、自分を抑えていたあの阿散井恋次は何処へ行ったのか。
 覚悟しろと念押しした恋次に対して、自分は何処まで優位に立てるか―――既に翻弄されている自分を自覚して、ルキアは先行き不安になる。
 もしかして、とてもとてもこの男は―――強引で意地悪なのかもしれない。
 今、この瞬間のように。
「キスをしてもいいですか、ルキアさん?」
「……………………聞くな、莫迦」





 見上げるルキアの瞳には、恋次の肩越しに星が映る。
 一面に広がる、宝石のような幾千幾万の星の光。
 降りしきるような満天の星。
 その星が消えていく―――近付く吐息に、閉じた瞼のその所為で。
 吐息が重なる。
 甘く、蕩けるような、やわらかな―――その行為は想いの証。
 時の流れの感覚は消え―――離した唇のその後、ルキアは頬を染めて恋次の胸に顔を埋め、今までとは違う甘く潤んだ響きを持って―――ルキアが恋次の名前を呼んだ。
 届かないと―――諦めた星が。遥か遠くに在った星が、今、恋次の腕の中にある。
 輝きを失わず、一層の美しさで輝いて―――。
 
 
 





初出:「阿散井恋次×朽木ルキアアンソロジー 星と野良犬」 2007年12月22日 発行