六番隊の廊下で、普段見ない珍しい顔を見つけて歩を止めた理吉は、不思議そうに「花太郎？」と声をかけた。
「六番隊に来るなんて珍しい。誰に用？」
やはり他隊の隊舎を一人歩くのは内気な花太郎には緊張するのだろう、花太郎は親友の姿を見つけてほっと顔を綻ばせる。
「朽木さんがここにいるって聞いたから」
「…………あー」
一瞬の間の後、理吉は微妙な表情を浮かべた。それからまた暫く黙り込み、「それって急ぐ用事？」と花太郎を見つめる。
「急ぐ……って言えば急ぐけど……浮竹隊長にお渡しする薬だから。明日には切れちゃうから、今日明日中に渡さないといけないんだけど……？」
「出来たら明日にしたほうがいいと思うけど」
「何で？」
「……別にいいけど。朽木さんなら阿散井副隊長の部屋にいるよ」
咎める表情でもなく、困った表情でもなく、面白がる表情でもなく、理吉は曰く言い難い表情を浮かべている。
その理由が分からずに頭の中を「？」マークで埋めて、それでも花太郎が扉に手をかけたのは、ルキアに会いたかったからだ。
淡い憧れの想いをずっとルキアに抱いている花太郎には、こうして会える機会を逃す訳には行かない。今ルキアに会わなければ、薬は浮竹隊長に直接届けなくてはいけない。そうするとまた来月までルキアと話す機会がなくなるわけで……それは花太郎には耐え難い。
「朽木さ……」
呼びかけと共に執務室に入った花太郎の足が止まった。
硬直。
次いで、１８０度の方向転換。
扉を閉める。
「…………薬、預かろうか？」
「…………お願いします」
打ちのめされた花太郎から理吉は薬を受け取る。ふらふらと廊下を歩いていく親友の心中を思い遣り、理吉はほうと溜息を吐いた。
誰が悪い訳ではないのだけれど。
強いて言えば―――無理矢理強いて言えば、３月１４日という今日この日に、この隊舎にいない朽木隊長の所為なのかもしれないけれど。
その朽木隊長も自分の不在がどう出るか、心配をしていたのを理吉は知っている。けれど、朽木隊長には猫可愛がりに可愛がっている義妹のルキアよりも優先させるたった一人の人がいて、そのたった一人である奥方様に関係した用事があるのだから仕方がない。
もう一度溜息を吐いて理吉は歩き出す。
この扉の向こうにある景色は、一人身の自分にはあまりに目の毒なのだから。
「……今、誰か来なかったか？」
手元の書類に落としていた視線を上げ、背後の……「背後」の恋次を振り返ってルキアは首を傾げた。
「んー？誰も来てねえよ」
ルキアが見上げた恋次の視線は、ルキアを見ずにルキアの頭を超えて、机の上の書類を目で追っている。
「そうか」
ルキアもそれ以上気にすることなく、再び元の位置へと身体を落ち着かせる。
元の位置、即ち―――
恋次の膝の上に。
大きな机に備え付けられた大きな椅子、その椅子に座った恋次の膝の上にルキアはちょこんと座っている。
恋次の膝の上に座り、恋次を背もたれにして、ルキアは明日中に提出する書類の資料を読み耽っている。対して恋次は、膝の上にルキアを乗せ、遣りにくいことこの上ないだろうに、何も文句は言わずにルキアの頭越しに机の上に広げられた書類を目で追い、器用に筆を走らせている。
今日の朝から、この調子。
おかげで誰もこの部屋に入って来ようとはしない。
事の原因は、朽木本家のお嬢様である朽木ルキアが、朝一番で六番隊副隊長の執務室に乗り込んだことから始まる。
「今日は何の日か判っているだろうな下僕！！」
勢い良くそう乗り込んできた貴族のご令嬢は、本日隊長休暇という事由の所為で朝から大忙しの阿散井副隊長の溜息で迎えられらた。
「あのなあルキア」
「倍返しだぞ！！」
両手を腰にあて仁王立ちしたルキアにもう一度溜息を吐き、恋次は懐から小さな箱を取り出した。その包み紙は瀞霊廷で美味しいと評判の菓子屋の包み紙だ。３月１４日までの限定１００個の商品を、忙しい中どうやってか恋次は手に入れたらしい。
「先月はありがとうございました」
深々と頭を下げ箱を差し出す恋次の背後の棚にルキアはさり気なく目を向けた。先月そこに入っていた色とりどりの小さな箱の代わりに、今日は同じ柄の包装紙の、ルキアが手にした箱よりも小さな箱がいくつも並んでいる。
間違いなく、他の少女たちへのお返しの品だろう。
そうと気付いて、ルキアの表情が見る見る険しくなっていく。その不機嫌な表情を、頭を下げた恋次は気付かない。
「―――貴様は主人への服従心を値段に変えることが出来るというのか」
「あ？」
「お前の私への忠誠心は、この程度の値段なのかと聞いている！！！！！」
顔を真赤にしながら怒るルキアの顔を眺め、恋次は「いや」と真顔で答える。
「お前への気持ちは、金に換算する事は出来ねえな」
思いがけずに恋次のそんな返答を聞いたルキアは、数秒前とは違う理由で顔を紅く染めた。それを悟られないようにルキアは「うむ、よい返事だ。それでこそ下僕」と高飛車に言葉を口にする。
「つまりお前が私にしなくてはいけない倍返しは、品物であってはいけない」
ルキアはルキアで必死なのだ。
恋次を誰にも渡してはいけない。
恋次が誰かに微笑みかけることすら厭なのに、恋次が誰かに贈り物をするなんて。
バレンタインのお返しを受け取っていいのは私だけ。
だって、恋次は私だけ見てればいいんだから。
「品物以外で私への感謝の気持ちを表すのが下僕のお前の務め、つまり―――」
恋次をこの部屋から出してはいけない。
ルキアはルキアで必死なのだった。故に、口にした言葉が―――
「普段している奉仕の倍、私に奉仕せよ！」
そして、ルキアは恋次の膝の上にいる。
「―――よっしゃ、終わった」
思い切り伸びをする恋次の膝の上で、ルキアは内心快哉を上げる。
窓の外は既に夜の帳が下りている。
どの隊舎にも人の姿はない。
他の少女たちへの、恋次のお返しを阻止したルキアは、意気揚々と恋次の膝から降り―――ようとした。
背後からルキアの腰にしっかり回された恋次の腕が、ルキアの動きを封じている。
「な、何だ？」
今日一日ずっとくっついていた筈なのに、途端にルキアの顔は真赤になる。自分からくっついているのと、恋次から接してくるのでは、ルキアにとっては全く違うことなのだ。
「こら、放せ莫迦者」
「折角仕事が終わったのに？」
ルキアの肩に恋次は顎を乗せる。吐き出す恋次の吐息が耳にかかる―――それは恋次がわざとしているなどと、純真なルキアに判るはずもない。
「し、仕事が終われば、帰宅するのが当たり前だ」
恋次の、ルキアを抱きしめる腕が強くなっていくのに、ルキアは硬直しながら、声だけは必死で平静を保とうと努力する。
「でもまだお前にお返ししてねーし」
恋次の腕が、腰から上へとゆっくりと這い上がってくる。耳元で笑う低い声。かっと熱くなる身体の理由を自分でもわからないまま、ルキアは「お返しならもう充分……」と辛うじて笑いながら恋次を振り返った。
一瞬で、ルキアの身体が回転する。
恋次の手で向き合う態勢にされたルキアは、そのまま引き寄せられ、逃げる暇もなく恋次の唇に自分の唇を塞がれる―――驚きに小さく叫び声をあげようと開いた唇に、するりと入り込む暖かいもの―――恋次の、舌。
「―――んっ」
咄嗟に身体を引いたルキアの身体は恋次に阻まれ、ルキアの身体は恋次の胸に密着する。
離れ、再び絡み、何度も何度も繰り返される熱い熱い口付け。
ん、と声を上げても構わずに、恋次は口付けを続け舌を絡ませ―――その刺激にルキアの頭はぼうっと霞がかかったようにぼんやりとしてしまう。
故に、恋次の手がルキアの腰を撫で、やがてルキアの胸に触れたことなど―――全くルキアは気付いていなかった。
それは、時間にすれば一分ほど。
２０秒の倍以上。
ルキアへの想いは、時間に換算すれば一晩中でも足りないけれど―――そうしたのならば、きっとルキアは大混乱だろうから。
「―――倍返し、終了」
唇を離しそう言った恋次の声も、初めての感覚に魂を飛ばしてしまったルキアの耳には入らない。
身体中の力が抜け、ぽて、と恋次の胸に顔を埋めるルキアを抱きしめながら、次に来るイベント、自分の誕生日にはどんなお返しが来るのかと考える。
それまでにもう少し成長しているように、さり気なく誘導しなくてはならないが、そうする自信は勿論恋次にはある訳で―――
「帰るぞ、ルキア」
くたりとしたルキアの身体を抱き上げて、恋次は今日も下僕に相応しくルキアの家まで送り届ける。
主は従者の思うまま。
従者は主に疑いを抱かせないほど狡猾に、我儘で傲慢。
そして従者は主が考える以上に―――主を心底愛している。