目覚ましがなる十分前に目が覚めて、僕は時計のアラームのスイッチを切った。
 部屋の窓から外へ視線を向けると、カーテンの隙間から空がやや白く染まっているのが見えた。十一月の今の日の出時刻は六時過ぎだから、まあこんなものだろう。今日は天気もよくなるらしい。
 段々と気温が低くなってきたとはいえ、布団から出ることにはまだ痛痒を感じない。
 僕は起き上がると、とりあえずシャツとズボンに着替える。制服を着てもいいが、これから朝食と弁当を作るので、万一汚してしまうとまずい。多少面倒だが、制服を汚してしまうよりはずっといい。
 手早く身支度を整えて、部屋から出ようとドアを開けた。途端、ドアの向こうで「あ」と小さく声がする。時間は六時三十分ちょうど。そういったところは本当に彼女らしい律儀さだ。
「おはようございます、雨竜」
 僕の目の前でぺこりと頭を下げた彼女の長い黒髪が揺れた。まだ起きたばかりで、その綺麗な黒い真直ぐな髪は結わえずに背中へと流れている。
 彼女の名前は、涅ネム。事情があって、この九月から僕と一緒に生活をしている。
 僕は頭を下げた彼女の視線が元に戻る前に、さり気無く視線を逸らせて「おはよう、ネム」と返した。
「最近……起きるの、早いですね」
「そうかい?自然に目が覚めるから」
「そうですか……」
 彼女の目が、少し悲しそうに……いや、そんな筈はない。ただ、何か言いたそうにしているのはわかる。
 わかっていて、気づかない振りをした。
 僕の前で、僕を見上げるネムの横を、特別なことは何もない、とでも言うように……彼女の視線を振り切って、僕はネムの横を通り過ぎる。
 今、彼女がどんな表情をしているかは、振り返らなくてもわかる。
 けれど、僕はそれにも気づかない振りをする。
「僕は弁当を作りますので、朝食の方をお願いしていいですか?」
 ネムの物思いを遮って、さり気なく日常へと戻す僕の意図に彼女は気付かず、ネムは嬉しそうに「はい」と頷いた。



 カーテンを開け放して、朝の光を部屋の中に導く。
 窓の外を見ると、透き通るように青い空。 
 冬に近付いている秋の空気は澄んでいて、そのやや冷たい外気も清浄さの表れのようで気持ちがいい。
 手早く昨日の夕食で余った材料を使って、二人分の弁当を作っていく。その僕の横で、ネムは真剣な顔でサラダを作った後、牛乳を加えた卵をかき混ぜている。今日の朝食はサラダとオムレツ、そしてクロワッサンと紅茶らしい。
 ネムはいつも、何をやるにも真剣だ。今も、真剣に卵を混ぜ、真剣にフライパンを温め、真剣に油を引いて真剣に卵を流し込んで真剣に菜箸でかき混ぜている。その様子を見て、見慣れた状況だけれど、やはり僕は笑ってしまった。
「なんでしょう?」
 真顔で僕を見るネムに、僕は曖昧に言葉を濁して笑って見せる。
「真剣な君が可愛くて」なんて面と向かって言える筈もない。
「ほら、卵、固くなるよ」
「あ」
 オムレツはふわふわさが重要だ。ネムは慌てて意識をフライパンに集中している。その間に僕はオーブントースターにクロワッサンを放りこんだ。
 紅茶を淹れるのはネムの仕事。最初は茶葉を一缶分ポットに全部入れたりしていたネムだけど、今ではかなり上手に淹れる事が出来る。紅茶によって温度を変えたりミルクを添えたり、色々勉強しているようだ。
 僕も弁当を作り終え、二人揃ってテーブルにつく。ネムはいつも「いただきます」と両手を合わせてから食事を始めるので、僕もいつの間にかそうするようになっていた。それはネムが尸魂界から現世に来たばかりの時、朽木に貸してもらった「日本・マナーと常識」という外国人向けのハウツー本から得た知識らしい。
 今日も同時に二人手を合わせ、「いただきます」と口にしてから、朝食をとり始めた。
 こんな朝の情景は、もう二ヶ月になる。
 ネムが現世に来て、僕と一緒に暮らすようになったのは九月の始め。
 彼女が現世に来た理由というのが、彼女の父……と言っていいのか、創造主、と言っていいのか、上司と言っていいのか、あるいは全てなのかもしれないけど、とにかく十二番隊隊長である涅マユリが彼女に命じた事に起因する。
 ―――即ち。

『義骸に生殖能力があると言う事を証明して来い』

 現世の人間と義骸の間に、生殖は可能か―――それを、あの奇天烈……。いや、技術開発局二代目局長が、ネムを実験台にして証明したいらしい。
 現世に来たネムは、唯一自分の知っている人間―――つまり僕の所へとりあえずやって来て、他に行く当てがないという理由で、なし崩しに僕の部屋へとやって来て。
 そしてネムと僕との共同生活が始まった。
 何事もなく平穏無事に、という訳では勿論ないけれど、僕達はとにかく二ヶ月の間一緒に暮らしている。
 当然、生殖能力云々は試してはいない。大体ネムはそういった知識はまるでなく……本当に子供のような人なのだ。
 そんな相手にどうこう出来るはずもない。
 ……いや、それ以前に。
 僕は頭を振ってから、カップに残った紅茶を飲み干した。そろそろ学校へ行く準備をしなければ遅刻してしまう。
「洗い物は帰ってからするから、とりあえず水に漬けておこう」
「はい、わかりました」
 それぞれの使った食器を流しに持っていき、僕達は自分の部屋へと入った。制服に手早く着替えて、鞄を手に玄関へと向かう。
「雨竜、忘れ物です」
 振り向いた僕に手渡されたのは、スケッチブック。
「あ……」
「今日は美術の授業がありますよ」
 雨竜が忘れるなんて珍しいですね、と微笑むネムは、僕の微妙な表情には気付かなかったようだ。




 マンションを出ると、目の前の一軒家から出てきた、派手な赤い髪の大柄な男と黒い髪の華奢な身体つきの女性の二人連れに出くわした。
「おはようございます」
 やはり律儀に頭を下げるネムに、その二人連れは「おう」「おはよう」とそれぞれが声をかける。
 赤い髪の男は阿散井恋次、黒い髪の女性は朽木ルキアと言う。
 どちらもネムと同じ尸魂界の住人だ。現在はネムと同じ義骸に入って、僕達と同じ高校で学生生活を送っている。
 阿散井は現世へと送られた朽木と一緒にいるためにここ空座町の担当死神に立候補して、半ば無理矢理現世へとやってきたらしい。
 因みに、今僕らが生活しているマンションは、本当は阿散井の住むはずだった家だ。朽木に何かあった場合のためにと、朽木の義理の兄である朽木白哉が用意した(見つけただけだけど)朽木が住む一軒家の目の前のマンションだ。そこに何故僕とネムが住んでいるかと言うと、突然ネムと一緒に住む事になった独り暮らしの僕のアパートは、とても二人で暮らせるほどの広さはなく、それを知った阿散井は、気前良く僕達に自分の部屋を提供した―――彼にはこれを理由に朽木と一緒に住むという企みがあったのだ。
 かくして阿散井の野望―――「一緒に暮らそうぜ?」という提案は、朽木の「構わぬ、戌吊時代に戻ったようで楽しいかもな」という色気の何もない許可の言葉で実現し、僕達も副隊長の給金に見合う広いマンションにただで住まわせてもらっている。
 関係ないけど、現世での様々な事―――例えば、尸魂界のお金を現世のお金に変えたりとか、家を購入する手続きとか、学校に入学する裏工作とか、そういった事は全て浦原さんがやってくれている。
「今日もいい天気だな!」
 抜けるような青空を見上げて阿散井が言う。
 朝の阿散井は大抵機嫌がいい。それは、僕が以前吐いてしまった嘘に起因しているのは明白だ。
 僕は以前、ネムに嘘を吐いた。
 その時の僕は、殆ど寝ていなくて―――時間だと起こしに来てくれたネムに、寝惚けて―――その、キスをしてしまった。
 その行為が何かもわからないネムに、僕は「これは現世の朝の挨拶だ」と―――「一緒に住む家族同士がする朝の挨拶だ」と、動転したまま嘘を吐き、そしてそれをネムが朽木に伝達し―――阿散井は毎朝その朝の挨拶を朽木から受けてご機嫌なのだ。
「今日の授業は何だっけ?」
 阿散井は全く勉強に関心のないのをあからさまに露呈して、伸びをしながら呟くと、
「数学・生物・美術・美術、午後が英語・世界史だ」
 こちらは真面目に取り組んでいるらしい朽木からの返事があった。
「かー、救いは美術しかねえなぁ」
「今日は何を描くのだろうな、楽しみだな」
「お前、毎回熱心に美術の授業受けてるくせに、どうして画力は向上しねえんだ?」
「上達しようがないほど私の絵が素晴らしいからだろう」
「…………」
 朽木の言葉に、僕らは無言だった。ネムでさえ。
「美術は合同授業だからな、たくさんの生徒が集まると面白い」
「俺ぁあんまり好きじゃねえな……」
「なんでだ?」
 不思議そうに尋ねる朽木に、阿散井は言葉を濁した。多分、朽木が隣のクラスの男共の目に触れるのが厭なんだろう。そんな事情で阿散井ははっきりと朽木にその理由は言えず、朽木もそれ以上阿散井には何も言わず、僕の顔を見る。
 好きな授業を否定されて何となく面白くないのだろう、少し頬が膨れている。
「僕も……」
「雨竜?」
「……あまり好きじゃない」
 二週間前から、特に。
 急に黙り込んだ僕に向かって、ネムの気遣うような視線が向けられているのはわかったけれど、僕は阿散井と同じ理由で、それに答える事は出来なかった。



 教室を出て、美術室に向かう同級生達の騒がしさに、僕は苛立ちを抑えていた。
 わかっている、これは八つ当たりだ―――僕は、この先必ず不愉快になる事を知っている。
「どうしました、雨竜?」
 いつものように傍らを歩いていたネムは、僕の表情に気付いてそっと腕に触れた。
 その暖かさに、僕は呼吸を整える。
「なんでもないです」
「――そうですか?」
「ええ、心配をかけてすみません」
 僕はネムへと笑いかけ、教室に入る。
 真先にそれが目に入ったのは、恐らく相手が僕達を―――いや、ネムを待っていたからだろう。
 彼はまずネムをじっと見詰めてから、僕へと視線を移した。
 僕は気付かない振りをして、彼から一番遠い席を選んで座る。ネムも僕の隣へ座った。
「――やあ」
 そんな僕の行動を歯牙にもかけず、彼は僕達の席へとやって来る。
「こんにちは――廣瀬さん」
「こんにちは、涅さん」
 何も答えない僕には気にする様子もなく、廣瀬はネムに話しかけている。彼の目的はただネムなのだから当然の事だろう。
 廣瀬は隣のクラスだ。美術部員で、彼の描いた絵は賞を何度も取ってるらしいから、腕の方は確かなのだろう。
 その廣瀬は、ネムに何を言ったのか、黒板前に置いてある……多分今日の題材なのだろう、花瓶に生けられた花の所へネムを連れて行った。ネムは素直に付いて行く。
 ネムの律儀さ、それだけで片付かないだろう―――ネムはこの廣瀬に対して、明らかに他の人間とは違った応対をする。
 微笑む回数、動かさない視線。
 僕はそれらを黙って見ている。
 僕の視線の先、二人は楽しそうに何かを話している。さすがにこの距離では何を話しているかはわからない。
 じっと見ている無礼さに気が咎めて、僕は窓の外へと視線を逸らせた。
 窓の外は快晴。
 朝と同じ青い空が広がっている。
「―――ちょっと、甲斐性無し」
 後ろから突かれて僕はじろりと声の主を睨んだ。
「誰の事を言ってるのかわからない」
「ああごめん、朴念仁だったわね」
 僕はもう相手にせずに、使う気も無いスケッチブックを開いた。それを見て本匠は―――その失礼な言葉を発した声の主は勿論本匠だった―――「無視するな」と更に僕を鉛筆で突いてきた。
「なんだよ」
「なんだよじゃないわよ、何よアレ」
 僕を突いた鉛筆を前方に向け、本匠は片目を胡散臭そうに細めた。眼鏡がきらりと太陽の反射を受けて光る。
「……廣瀬だろ」
「それくらい知ってるわよ、美術部の廣瀬でしょ、何回も朝礼で見て知ってるわよ、賞状貰ってる度にさ。―――私が言ってるのは、なんでその廣瀬が涅さんと話してるかって事よ」
「さあ、話したいからだろ」
「あんたねえ、ちょっとは危機感持ちなさいよ!誰が見たって、廣瀬は涅さん狙いでしょう!」
「ああ、そうだな、本人がそう言ってたし」
「……はあ?」
「廣瀬はネムが好きなんだそうだ。二週間前、そう僕に言ってきた」
 淡々と言う僕の方に本匠は驚いたようだ。一瞬だけ間を置いて、僕に尋ねた。
「で?あんたはなんて言ったのよ?」
「別に?そうか、って言っただけだ」
「そうか、ってあんたねえ……」
「ほら、先生来ただろ、静かにしろよ」
「……ホント呆れたわ、この莫迦!」
 言葉通りに心の底から呆れ返った声を出して、本匠は席へと戻って行った。代わりにネムが僕の隣へと戻ってくる。
「廣瀬さんが描いた絵を見せてもらいました―――本当に素晴らしい絵を描かれる方ですね」
 微笑むネムに、僕は「そうだね」と微笑み返した。
 それ以上僕に何を言う事が出来ただろう?



 廣瀬が僕に声をかけたのは丁度二週間前の同じ美術の時間、四時間目が終わって教室へと帰るときだった。
「ちょっといいかな?」
 それまで僕は一度も廣瀬と言葉を交わした事はなかった。ただ、廣瀬が朝礼で賞状を貰うのを見ていたので、名前と顔は知っていた。
 立ち止まった僕と一緒に歩を止めたネムに向かって、「先に戻ってていいよ」と促して、僕は誰もいなくなった美術室で廣瀬と対峙した。
 廣瀬は普通の――芸術家にありがちな気難しさなどは微塵もない、ごく普通の男だった。平均よりやや長身、体重は平均よりやや少ないだろう。けれど姿勢がいいから、貧相というイメージは無い。纏う空気は穏やかで、けれどはっきりとした意思を感じさせた。男にしてはやや長めの髪、けれど見苦しいと言うわけでもなく。そういえばうちのクラスの女子がかっこいいとか言って騒いでたな、と思い出した。
 その廣瀬が僕に何の用だと言うのだろう。彼と僕に接点などまるで無い。
「突然呼び止めて悪いね……君に聞きたい事があって」
「聞きたい事?」
「涅さんの事なんだけれど」
 その瞬間、僕はあまり感情が表情として出ない自分に感謝した。
 黙って見詰める僕に、先を促されていると思ったのか、廣瀬は言葉を続ける。
「君は涅さんと付き合っているのかい?」
「ずいぶん不躾だね、君は。――初めて言葉を交わす相手に聞くことか?」
 直ぐに質問に答えなかったのは、僕がその答えを持っていないからだ。
 僕とネム。
 僕は彼女との関係を表す言葉を持っていない。
「本当にそうだね、でもそれだけ僕には大切な事なんだ」
 廣瀬が、もし居丈高だったり、挑発的だったりしたのなら、僕はさっさと彼を置いて教室を出ていただろう。
 むしろそうだったら良かったのに、と今僕は思う。
 けれど、彼は真摯だったから。
 僕はその場に留まって、彼の、気負いも無く口にした、その言葉を聞く羽目になった。
「僕は、涅さんが好きなんだ」
 学園祭で初めて彼女を見たときから――続けられる廣瀬の言葉にも、僕は無表情を通していた。
 好き、とどうしてそんなにさらりと口に出来るんだろう。
 僕には言えない。
「――それで?」
 我ながら詰まらない返事しか返せなくて、内心少し笑ってしまった。
 無愛想と言える僕の返事に気を悪くした様子も無く、
「だから、君の存在が気になるんだ。君と涅さんは付き合ってるのかい?もしそうなら、僕は彼女に想いを告げる事はないから、君もこの事は忘れて欲しい」
 僕には、ネムと僕の関係を表す言葉を持っていない。
 そして何より―――ネムのあの言葉。
 それは、何かの折に告げられた、彼女の言葉。
 微笑みながら彼女は僕に言った。
『雨竜は、初めて私をヒトとして見てくださった方です』
 微笑みながら―――僕に。
「―――別に付き合ってはいないよ、君が言う言葉の意味ではね。だから、君がどうしようと君の自由だし、ネムがどうしようとネムの自由だ」
 廣瀬から視線を逸らしている僕は、その時点で敗北しているのかもしれない。
 話は終わったと見て僕は美術で使ったスケッチブックを手に歩き出した。その僕の背に、「引き止めて悪かったね―――ありがとう」と廣瀬の言葉がぶつかった。
 ありがとうってなんだよ。
 胸の中のどろどろした感情を奥歯で噛んで、僕は必死にその想いを押し殺した。




 それから廣瀬は迅速に行動を開始したようだ。
 ネムと僕の会話の中で、度々その名前が出るようになったのがその証拠。
 僕たちはいつも一緒にいる訳じゃない。僕には部活があるし、その時はネムは一人で行動している。ネムも段々と現世に慣れて、時々同じクラスの女子と学校帰りに出かけたり、一人で興味のあるものを調べたりしているようだ。よく図書室に通っているのは知っている。
 その、ネムの一人のときを選んで、廣瀬は行動しているのだろう。少なくとも僕のネムが一緒にいるときに廣瀬の姿は見ない。
「今日、廣瀬さんと言う方と知り合いました」
「絵を描く、というのはすごいですね……写真のようだったり、全く見えているものと違ったりして面白いです」
「廣瀬さんはとても絵が上手な方で……今日、廣瀬さんが描かれた絵を見せていただきましたが、私が見ても解るほど、あの人の絵は素晴らしかったです……驚きました」
「廣瀬さんに、美術部に誘われたのですが―――私にも描けるでしょうか?」
 日を追う毎に増えていく「廣瀬」という言葉。
 僕はそれらに、頷きながら言葉を返す。
「君の思う通りにしたらいいよ」
 君は君の思うままにすればいい。
 何かに縛られる事なく、心のままに。
 ネムに笑顔を向ける度、僕の胸には痛みが走る。
 はやく君が、君自身の気持ちに気付いて欲しい。
 僕の感情が溢れてしまう前に。



 僕は、ネムに悟られないように、ゆっくりと―――けれど確実に、距離を置き始めた。






「よう、鉛筆メガネ」
「なんだい刺青眉毛」
 間髪いれずに返した言葉に、阿散井はその刺青ごと眉を跳ね上げた。
「……随分な事言ってくれるじゃねーかお前ェ」
「君が最初に言ってきたんだろ」
「俺は客観的事実を言ったまでだ」
「僕だってそうだ」
 ここでお互いが黙り込んで、普段ならばそのまま右と左だ。
 けれど今日は、阿散井は僕に話があったらしい。僕の前の席の椅子にどかっと腰を下ろして、長い足を投げ出して座っている。
「……なんだよ」
「いや、ちょっとな、さっき涅がルキアんとこに来てだな」
 ……それだけで、大体の話の内容は想像できた。
 黙りこむ僕を気にせずに、阿散井は身を乗り出して僕の顔に自分の顔を寄せる。
「最近のお前が以前と違うとよ。自分は何か嫌われるようなことをしたのでしょうか、だと」
「…………」
「朝の家族の挨拶もしてくれない、雨竜は私と一緒に暮らしたくないのでしょうか……ってな、結構悩んでたぜ」
「…………」
「なんだよ、何でやめちまったんだよ」
 阿散井はじろりと僕を睨んだ。
 付き合い始めて三ヶ月、僕は阿散井が、その一見強面な外見から想像も出来ないほど、人が良いのを知っている。
 面倒見がとてもいいのだ。困っている者や悩んでいる者を見ると、阿散井は放って置けない。勿論誰彼構わず手を貸すのではなく……無差別に手を貸していたらそれはただの親切の押し売りだ。阿散井はたださり気なく困っている者のフォローをしている、そうと相手に悟らせず。
「……別に。嘘を吐いてるのが我慢できなくなっただけだ」
 だから僕は、正直に告げるしかない。
 勿論全てを言う気はない。
 その僕の言葉に、阿散井は少し考え込んだようだった。僕の表情を、ただじっと見極めている。その阿散井の検分を、僕は無表情を保ってやり過ごした。
 どう答えを出したのか、しばらくしてから阿散井は口を開いた。
「じゃあ何か適当な理由を言ってやれよ、何も言わずにいたら涅だって不安になるだろーが」
「……わかったよ」
「まあ、お前ら二人の事だから、俺があまり嘴を突っ込むわけにもいかねえけどよ……あんまり涅を邪険にするなよ。あんなにお前になついてんじゃねえか」
 がた、と机を鳴らして立ち上がった阿散井は、とりあえず今日はこの程度で、と思ったのだろう。席を立って僕の前から離れていった。
 何とはなしにその姿を目で追うと、阿散井は朽木に呼び止められていた。何かを言っている朽木の頭に手を乗せ、それが気に入らなかったのか朽木は阿散井に向かって抗議している。それを笑って流して、阿散井は朽木の髪を更にくしゃくしゃにした。
「やめろと言っている、莫迦恋次!」 
 今度ははっきりと朽木の言葉が聞こえる。そしていつものように、口論……いや、主として怒っているのは朽木の方で、阿散井は笑いながら受け流している。
 阿散井と朽木は、いつも対等だ。
 二人はよく同じことで笑う。些細な事で喧嘩する。阿散井が朽木をからかう、朽木が怒る。
 その二人の姿は、恐らく何よりも二人の絆を強く周りに示している事だろう。
 そんな二人を眺めながら、僕は先程の、最後の阿散井の言葉に、聞こえないのを承知で言葉を返した。
「そう、なついてるんだよ……ネムは」
 懐く。
 子が親にするように。
 捨てられた仔猫が、拾ってくれた人間にするように。
 それは感謝、恩、そういったもので。
 ……決して「愛情」では、ないんだ。
 


「雨竜は、初めて私を『ヒト』として見てくださった方です」



 はにかむ様に微笑んだネムは、とても可愛らしく、
 僕はそんなネムを見ながら、恐らくネムがして欲しいだろう嬉しそうな笑顔を彼女へと向けながら、
 ――絶望していた。
 彼女の「好き」は僕の「好き」とは違う。
 彼女の「愛」は、家族に向けるものと同じ。
 初めて自分をヒトとして扱った者に対する感謝の念。
 だから彼女は――僕の言い成りだ。
 僕の意見をいつも尋ねる。
 決して物事を自分では決めない。
 まず僕の意向を聞き、それに沿うように行動する。
 そんなのは――不健全だ。
 何より、僕は――そんな関係に耐えられない。
 ネムの身体を自由にしようとすれば、恐らくそれは容易い。逆らわずにネムは僕の事を受け入れるだろう。
 僕が、望むから。
 自分が望むから、ではなく。
 それは絶対に愛じゃない。
 一方だけの献身なんて、そんなのは――「好き」というのとは違う。
 それは従属だ。
 そして僕は、そんな関係は望んでいない。
 だから。
 だから、僕は――。  



 
 その日、僕は部活があったので、ネムはいつものように一人で行動していたようだ。
 いつものように――いや、いつもと少し違うのは、帰宅時間がいつもよりは遅かった。
 そのネムが誰といたのか――それは、帰宅したネムの言葉で容易に知れた。
「廣瀬さんに、今度絵の『もでる』をやってくれないかと言われたのですが……」
 もでるとは何ですか、と言われて、僕は答えを返すまでに、一瞬間を置かなくてはならなかった。
 その言葉を聞いた時に胸の奥に感じた熱を、放出しなければならなかったから。
「……モデルっていうのは、絵の対象になる事だよ」
「ということは、廣瀬さんが私の絵を描いてくださるという事ですか」
「そうなるね」
 嬉しそうなネムの顔を見ていられなくて、僕は壁に掛けられた時計を見る振りをして視線をはずした。
 胸の熱が消えない。
「私、廣瀬さんの絵のもでるをしてもいいですか?」
「……何で僕に聞くんだい?」
 胸の痛みが消えない。
 自分の制御が出来ない。
「君は君の好きなようにしたらいい。一々僕に聞かないでくれ」
 その突き放したような――いや、突き放した言葉に、ネムが小さく息を吸い込んだのがわかった。
 次いで――泣きそうな顔。
 僕を怒らせたと思っているのだろう、伏せられた睫毛が震えている。
 ほら――これが。
 君のその姿が。
 何より僕を絶望させる。
 君は僕を好きなのではない、と、その現実を僕に突きつける。
 隷属、従属――僕に従うだけの君。
 僕の考えを優先し、自分を主張する事がない君は、涅マユリの下にいた君と何処が違うと言うのだろう。
 君は従う対象を涅マユリから僕へと変えただけだ。
 僕は君にとって、涅マユリの代用品でしかない。
 けれど、廣瀬は。
 君が初めて興味を持った人間――自ら進んで、相手を知ろうと君が思った初めての男。
 僕とは違う。
「ごめんなさい、私――」
「謝らないでくれ!」
 びくん、とネムの身体が竦むのがわかった。
 けれど、止まらない。
 一度迸ってしまった感情は、もう僕の手には負えない……暴走を止める事は僕には出来なかった。
「僕の機嫌を伺うような事はやめてくれ!君は君の思うままに動けばいいんだ、僕の事なんか気にせずに、君は君のしたいことをすればいい!ここにだって居たくなければ居なくていいんだ、いつだって出て行けばいい!」
「雨竜……」
「もう止めようよ、君は僕に従う理由なんて無いんだ。君が廣瀬と居たいなら廣瀬の所に行けばいい。なんだったら僕がここを出ていくから、ここで二人で暮らせばいい、そうすれば涅の命令にだって叶うじゃないか?とにかく僕はもう――」
 これ以上、君を見ていたくない。
 これ以上、変わる君を見られない。
 これ以上、こんな絶望を味わいたくない。
「これ以上、君と一緒に暮らす事は出来ない」
 ネムは何も言わなかった。
 ただ、僕の言葉を黙って聞いて、最後に僕に向かって頭を下げた。
 そのまま、ネムは俯きながら部屋を出て行き――玄関の扉が音を立て、ネムが家から出て行ったことを僕に告げた。
  


 日はとっくに地平線の彼方に沈んで、夜の黒が辺りを包み込んでいる。
 ――あれから三時間経ったが、ネムは帰って来なかった。
 制服のまま、急に下がった気温の中、外を歩いているのだとしたら――。
 胸が締め付けられるように痛む。
 結局何も言わず、ネムはこの家から出て行った。
 考えるのはよそうと思っても、ネムの事が気がかりで、夕食も作る気になれずに僕は自室で教科書を開いた。
 勿論、頭の中に記憶される事など何も無い。
 俯くネムの姿だけが頭に浮かんで、とても集中できない。僕は勉強する事も諦めて教科書を放り投げた。
「随分と情緒不安定なようだな、お主」
 突然、僕以外誰もいないはずのこの部屋で聞こえたその声に、その来訪の手段がいつもの事とはいえ、今の僕はとても寛大に流す事など出来る状態じゃない。
「……玄関はあちらなのですが」
 僕の不機嫌な声をあっさりと無視して、夜一さんは窓に腰掛けている。いつものように勝手に入ってくる気はないようだ。
 その夜一さんは、僕に普段向ける、からかうような笑顔は微塵もない。
 猫科を思わせる切れ長の瞳に浮かんでいるのは紛れもない怒り。
 僕はその視線に怯むことなく真正面から見返した。
「ネムは儂が預かっている。まあお主は心配してはおらんかも知れぬが、一応言うだけは言っておこうと思ってな」
 夜一さんの声はやはり棘がある。事情はネムに聞いたか……聞いていなくてもあのネムの状態を見たら、感の良いこの人のことだ、きっと何があったのか推測して解っているのだろう。
「そうですか、その方がネムにもいいんじゃないかと思います」
 出来るだけ淡々とそう告げて、僕はもうこの件に関して何の関心もない振りをした。
 一緒には住めない以上、浦原さんの所で生活した方が安心だ。あそこだったらネムも気兼ねなく生活していけるだろう。
「直ぐに尸魂界へ戻ると思うがな。まあ、最後はこんな形になったが、二ヶ月の間ネムが世話になった。礼を言うぞ。ネムもそれを伝えてくれと言っていたのでな、儂が来た」
「……え?」
「ではな、確かに伝えたぞ」
「ちょっと待ってください!」
 窓から飛び降りようとする夜一さんの腕を慌てて掴んだ。その無礼さに、夜一さんはぎろりと僕を睨みつける。それだけで普段の僕ならば手を離していただろうが、今はとても手を離すことは出来なかった。
「戻る?尸魂界へ?ネムが?」
「当たり前だろう、マユリがネムに指示したこと、それが叶わぬとなれば現世に居る必要がない」
「…………」
「いや、直ぐ戻ってくるかもしれんな、お前が相手にならなくても、他に適当な人間で試せばよい事。元々マユリは相手などどうでも良かったのだからな、義骸に子が生せる
事さえ証明できれば良いのだから。まあ見知らぬ誰かとて、ネムの器量だ、相手に困る事はないだろう。むしろその方がマユリには丁度良いだろう、相手に囚われず回数をこなせば子を生す可能性は上がる」 
 その、夜一さんの、ネムをモノの様に例えているその態度に、一瞬にして頭に血が上った。
「……何を言ってるんですか、貴女は!」
「なんじゃ?何処かおかしいか?」
「そんな事させられる訳がないでしょう!そんな、ネムの気持ちを無視したような事……!」
 掴んでいた腕を放して、僕は激昂のままに夜一さんの胸倉を掴んで詰め寄った。ぎっ、と睨みつける僕に、夜一さんは氷のような視線を向け、それと同じ温度の声音で僕に言った。
「いいではないか、どうせ人形じゃ」
 聞いたこともないほど、それは冷たい声だった。
 感情なんて欠片もない、ネムに対して、何の感情もなく――まるでネムが、物のように、機械のように。
 人形のように。
「……ネムは人形じゃない!」
「人形じゃよ、意思がない唯の人形。そう思ったからお前はネムを手放したのだろう?誰よりもお前がネムを人形扱いしてるくせに、何を今更」
「そんな事、思ってなんか……っ」
「思ってるのじゃよ、誰より一番お前が。ネムの気持ちなど何も考えておらぬではないか。ネムがお前を好きだという気持ちも全く信じなかったではないか。そうだな、義骸に魂魄、マユリに創られた人形は、誰かに隷属するが運命。人形に人を好きになる心などある筈はないからな」
 夜一さんの言葉が、一つ一つ、僕の胸に突き刺さる。
 ネムを信じなかった僕。
 ネムが僕の元に来たのは、ただ僕を知っていたから、ただそれだけだと思った。
 ネムの気持ちを、否定した僕。
 ネムの言う「好きです」という言葉を、その気持ちは僕の気持ちと――人間の持つ想いとは違うと、信じなかった。
 ……誰より、彼女を人形扱いしていた、僕。
 どうせ僕の事など直ぐに忘れるだろうと、僕の変わりはいくらでも居るだろうと、酷い言葉を投げつけて、ネムを傷つけた。
 泣かせた。
 ――僕が。
「……ネムに会わせてください」
「会ってどうするのじゃ?」
 突き刺すような視線を受けて、僕は目を伏せた。
 ずっと夜一さんを掴んでいた手を下ろして、僕は項垂れる。
「謝りたいんです……僕は酷い事をし続けていた」
 時々、ネムは寂しそうに呟いていた。
『私は――ただの人形ですから』
 その度に僕は、そんな事はないよ、と言ってきたけれど。
 君は人形じゃないよ、と。
 けれど、もしかしたら――僕の態度がネムにそう――「私は人形です」と言わせていたのではないだろうか。
 ネムは僕を見ていたから。
 本当に、僕を見詰めていてくれたから。
 僕はそれを、そのネムの想いを信じなかったけれど――。
「それにもう、そろそろ尸魂界に戻った頃じゃろう。先程浦原が、一度尸魂界にネムを戻すと言っておったからな」
「僕も行きます、尸魂界に。まだ浦原さんの家の地下から行けるでしょう?」
「行けるが、生命の保証はないぞ?前回は一護達が居た。今回はお前一人、無事に済むかわからんが?」
「行きます」
 僕はきっぱりと言い切った。
 ネム。
 もう一度会いたい。
 謝りたい。
 もう、君の信頼を取り戻せないかもしれないけれど。
 君を信じなかった僕を、許してくれないかもしれないけれど。
「行ってどうするのじゃ、ネムはもうお前には愛想が尽きていると思うけどな」
「それでも……いいんです。僕はまだネムに、僕の気持ちを何も伝えていない」
「ほう、会ったらお前の気持ちをきちんと告げるというのじゃな」
 不意に、夜一さんの声が変わった。刺々しさが消えて、いつもの、からかうような、楽しそうな声に。
 え、と顔を上げた僕を見ずに、夜一さんは奥の扉に向かって言った。
「どうやら石田は反省しておるようじゃぞ、ネム。このままだと尸魂界に乗り込む勢いだからな、平手打ち一発で許してやったらどうじゃ」
 呆然と夜一さんの視線を追うと、かちりとドアのノブが回った。
 開かれたドアの向こう、肩を震わせて立つ、細い身体が見えた。
「ネム!」
 僕の声に、ネムは顔を上げた。その瞳に浮かぶ透明な雫を見て、僕は胸が痛くなる。
 何か考える前に、身体が自然に動いた。
 ネムに駆け寄って抱きしめる。
 ネムの身体は暖かい。
 決して人形なんかじゃない。
 血の通った、僕と同じ身体だ。
「ごめん、ネム」
「……雨竜」
「ごめん」
「雨竜……」
 僕の腕の中で、ネムは僕の名前を呼んで、ただ泣いていた。雨竜、雨竜、と何度も何度も僕の名を呼んで、子供のように泣いていた。
 この人はこんなに無垢で、純粋で、優しくて、……僕はそんな彼女を傷つけた。
 自信がなかったんだ、僕は。
 君が僕を好きで居てくれる理由が解らなくて。
 君がいつか、本当に君の好きになった人の所へ行ってしまいそうで。
 君の僕への気持ちは、異性に対するものじゃなくて、子が親に対して抱く愛情と同じだと思って。
 僕だけが君を好きなんだと思って。
 君が僕の下から去る前に、僕が君を遠ざけようと思った。
 そうすれば僕は傷つかないから。
 君を誰かに取られたくないから。
 君が他の誰かを好きになるのを見たくなかったから。
 そんな自分勝手な理由で、僕は君を傷つけた。
「私、まだ雨竜と一緒に居てもいいんですか?雨竜に嫌われたから、私、もう、雨竜に会えないと思っ……」
 その先はまた嗚咽に変わった。
 雨に濡れた仔猫のように、ネムは心細そうに震えて泣く。
 ネムをこんなにも悲しませたのは紛れもなく僕だ。
 こんなにも君を不安にさせたのは僕だから――だから、僕は。
 ネムに、僕の気持ちを伝えなくてはいけない。
「君が好きだよ」
 生まれて初めて、誰かに対して抱いた想い。
 心から、君が好きだ。
 君を護りたい。
 傍に居たい。
 傍に居て欲しい。
 抱きしめたい。
 ……キスしたい。
 好きだ、という気持ちがもう止められない。
 僕の胸に顔を埋めているネムの頬を両手で挟んで、仰向かせた。
 ――泣いてる君もどうしようもなく愛しい。
 君を泣かせた僕がそう思うのは不謹慎なのかもしれないけど。
「誰よりも君が好きだよ」
 思えば、あの尸魂界で出逢った時から、君に心を奪われていたんだ。
 長い髪に指を絡ませ、くちづける。
 それは、僕が君を好きだという証。
 もう逃げない。
 もう躊躇わない。
 僕は自分で認める。
 君を誰にも渡したくない。
 廣瀬にも、涅マユリにも、他の誰にも。
 僕は君が……好きなんだ。
 そっと触れた唇を離してネムを見れば、白い陶器のような肌が、今は薔薇色に染まっていた。
 息を呑むほど、ネムは明らかに変化していた。
 ……一瞬にして、「女性」に。
「あの、これは、朝の挨拶ではないですよね?」
 ぎゅ、と僕の服の裾を掴んでネムは言う。
 そのネムに目を奪われながら、僕は半ば呆然と「……好きな人とするものだね」と、そう言ってから気が付いた。
 ネムはもう僕の事を嫌いになっているかもしれないということに。
 これだけ泣かせたんだから、その可能性も十分あることに今更ながら僕は気付く。
「あ、ごめ……」
 ネムの背中に回していた腕を慌てて解いて、僕はネムの身体を開放した。
 けれどネムは僕から離れずに、僕の胸に額をつけて呟いた。
「私、雨竜のことを考えるととても胸が暖かくなります。雨竜に嫌われるのが一番怖い。いつも雨竜の傍に居たいです。雨竜が傍に居て欲しいです。雨竜の腕の中に居ると安心します。雨竜に触れると幸せな気分になります。今も……とても嬉しかったです」
 唇にその白い指で触れて、ネムは僕を見上げた。
 薔薇色の頬は変わらない。
「私はこの気持ちが、『好き』という気持ちだと思います。違っていますか?」
「……違いません」
 本当に信じられないけど。
 君が、こんな僕を選んでくれた事が、本当に信じられないけど。
 君の事を信じているから、この奇跡のような事実さえ、僕は信じる事にする。
「私の全てが、『雨竜が好き』と言っています」
 生真面目な顔で、少しだけ恥ずかしそうにネムは言う。
「雨竜が好きです」
 白い手が、す、と僕の首に回されて、ネムが僕の頭を抱き寄せた。
 そのネムの動きに逆らわず、僕はやわらかい唇を受け入れる。
 それは、今までネムと交わしたキスとは、全く違う―――朝の挨拶として重ねた唇とはまるで違う、相手が好きで、その気持ちが高まって、そっと触れる本当のキス。
 初めて交わす、本当のキス。
 見詰め合って、触れて。
 唇だけじゃなくて、僕はネムの頬に、額に、髪に、指に、瞼に触れる。
 僕の唇が触れるたびに、ネムの身体は小さく震える。その手が縋るように僕の背中に回った。
 珊瑚色の唇から漏れる僕を呼ぶ小さな声が愛しくて、僕はその華奢な身体を抱きしめた。
「……では、一件落着という事で儂は帰るからの」
「うわああっ!」
 突然割り込まれた声に、僕は絶叫してずざあっ、とネムから飛び退った。
 窓を見る。
 そこに、やや身を乗り出してこちらを見てる夜一さんの姿を見て、僕は一気に蒼ざめた。
 忘れてた。
 いや、まさかまだ居るとは思わなかった。
 それに普通なら気を使って帰るだろう!……と考えて脱力した。
 この人は普通じゃないんだった。
「ふむ、石田もやるときはやるんじゃな。今後が楽しみじゃ」
 楽しそうにそう呟いて、「ではな」と一声、瞬神夜一は、次の瞬間にはもう姿が見えなくなっていた。
 呆然と、既に影も形もない夜一さんの姿を見送って、僕は窓際に立ち尽くす。
 ……これから当分、この件で夜一さんにからかわれるのは間違いない。
 彼女に弱味を握られた事になるけど……それもしょうがない。
 それが僕の、ネムを泣かせた罰だと思うことにしよう……当のネムはといえば、夜一さんが言った「平手打ち一発で許してやれ」という条件を、行使する気は全くないようだから。
「雨竜?」
 ネムにとっては、誰に見られても別に構わないのだろう、突然離れた僕に、不思議そうな視線を向けて首を傾げている。それから、ととと、と近付くと僕の胸に飛び込んだ。
「廣瀬さんの事ですけれど」
「ん?」
 その件に関しては、解決していなかった。
 ネムの廣瀬に対する態度は、明らかに他の奴らとは違っていた。
 また胸にちりりと嫉妬の炎が燃え上がる。
 ああ、本当に僕はただ廣瀬に嫉妬していただけなんだ、と自覚して溜息を吐いた。
「廣瀬さんは雨竜に少し似ているんですよ……気付いてましたか?」
「廣瀬と僕が?……何処が?」
 厭そうに声を上げる僕に、ネムは生真面目に「雰囲気や声が、雨竜に似ているんです」と言って、「例えば廣瀬さんが絵を描いている姿は、雨竜が服を作っている時の雰囲気に……」と延々と比較を始めたので僕は慌ててストップをかけた。
「じゃあ、君は廣瀬の事は何とも?」
「絵が上手な方だなと思います」
「……そうだね」
「今度、私の絵を描いてくださるそうですが、私は雨竜の絵を描いていただこうと思ってます」
「え?」
「そうしたら私の部屋に飾るのです。廣瀬さんの絵なら、雨竜の絵もきっと素敵です」
 つまり、ネムは……廣瀬が僕に似てるから、他の人間よりも違った態度をとっていた、と。
 モデルを、と言われて喜んでいたのは、僕の絵を描いてもらおうとしていただけだと。
「……どうして笑っているのですか?」
「いや、なんでもないよ」
 自分の見境いなさに呆れかえる。
 全く僕は、本当にしょうのない……。
 笑い続ける僕に、ネムは僕の胸に寄り添いながら、
「『好き』な相手とならば、子供を作ることは自然なんですよね?」
 と、爆弾発言をした。
「え?」
「マユリ様に言われたからではありません、『好き』な人とするのが普通なのですから、私はそうしたいと思います」
 高らかな宣言と共に、ネムは僕を押し倒した。それはもうあっさりと。
 多分僕より力はあるんだろう、……なんて分析している場合じゃない。
「ちょっ……」
「大丈夫です、千鶴に聞いています。衣服を脱いで共に布団に入ればいいと……」
「うわあ!やめ、やめてくださいっ!」
 ネムの手が僕の服を脱がしにかかる。本当に彼女は力があった、僕よりも。
 必死に抵抗しても、僕は見る見る脱がされていく。
「ま、待って、ちょっ……!」
「自分のしたいようにすれば良いと、雨竜も仰ったことですし」
「違う、使い場所が違うって!大体、そんな事したら僕と君は離れ離れになるぞ!」
 僕の、口からでまかせの必死の説得―――簡単にそうなってしまったら、マユリの呈した目標を達成してしまったら、ネムは尸魂界に帰らなければならないだろうと、咄嗟に考え出したそれらしい理由―――に納得してネムが僕の上からどいたのは、押し倒されてから二十分を軽く過ぎた頃の事だった。
















 そうして、僕達は元の生活に戻る。
 ―――いや。
 厳密には―――元には戻らなかった。
 今は美術の時間―――写生大会、という小学生のようなイベントがうちの高校には毎年行われている。だから今日の午前中一杯は外に出て、風景画を描かされるのだ。
 僕の学年の課題場所は学校近くの大きな公園。
 僕らは公園に直接集合して、今は教師の来るのを待っている。
 そんな手持ち無沙汰なはずの時間。
 僕にそんな余裕は無く。
「雨竜?」
 ……級友たちの視線が痛い。
「……ネム、少し離れて……くれないか、な……」
「だめです。私がしたいようにすればいいと、雨竜は仰ったじゃないですか」
「いや、でも、さすがにこれは……」
「私はいつも雨竜の傍に居たいんです」
「………はい」
 僕は諦めてネムの為すがままになる。
 ネムは僕の腕に自分の腕を絡めて、ぴったりと寄り添って僕の横に座っている。
 あれ以来、ネムは僕の傍から離れない。
 家の中ならまだしも、学校でもそれは変わらずに。
 おかげでクラスどころか、学校中が僕らのことを知っている。
 馬鹿な奴らと思われてるんだろうな、と僕は溜息と共に考える。
 阿散井は何処か羨ましそうにしているけど、あいつだってこんな状況に陥ったら、羨ましいなんて言ってる場合じゃないと思い知るだろう。
 ……いたたまれない。
 恥ずかしい。
 けれどネムは幸せそうだ。
 視線を上げれば、いつもそこに微笑むネムの顔がある。
 だから、まあ……こんな状況もいいかな、と思ってしまう僕は、恋という病気の末期症状なのだろう。
「……ほら、始まるからもう行ったほうがいいよ?」
 担任の越智が姿を見せた事にほっとしながら、僕は女子集合場所へとネムを行かせるため、意識をそちらに向けさせる。ネムは残念そうに小首を傾げて、そうですね、と呟いた。
「では、また後程」
 ひんやりとした手が僕の頬に触れる。何?と顔を上げた僕の膝の上に、ネムはちょこんと腰を下ろした。
 周りからどよめきの声が聞こえる。
「な……何してるんですか君は」
 急接近するネムの顔に目を奪われながら、僕はネムの意図を悟って身体を遠ざける。
 けれど膝の上に座ると言う行為で、僕は逃げ道をネムに塞がれていた。逃げようとした身体はただ仰け反るだけになり、ネムはそのまま僕に覆い被さるようにして。
 頬にネムのひんやりした手の感触。
 少し遅れて、唇にやわらかな感触。
 硬直する僕とは対照的に、極自然な態度でネムは僕の膝から降りると、手を振って集合場所へと歩いて行った。
 僕の顔は―――赤い、だろうな。
 得意の無表情は、ネムといるとその効力は無効になる。
 ―――もしかしてこれがネムの、平手打ちの代わりの僕への仕返しなんだろうか……。
 その方が良いと切実に思う。素だったら、と考えるだけで恐ろしい。
 この先、ずっとネムの行動がこうなるのかと思うと―――
 その時、目の前が急に暗くなった。
 何だ、と顔に落ちてきた薄い紙を手にして、そこに描かれた鉛筆描きのスケッチに僕は飛び上がった。
「な、何……」
「失恋男の嫌がらせだよ」
 見上げると、廣瀬が僕から離れていく背中だけが見えた。
「何だよコレ?」
 興味津々で覗き込む阿散井の目に入らないよう、慌ててその紙をスケッチブックに挟みこむ。
「何だよ隠すなよ」
「うるさい」
「なんだとこの」
 ぎゃーぎゃー言う阿散井を冷淡に無視して、僕は今見た廣瀬のスケッチ―――そこには、ネムに圧し掛かられてうろたえている情けない僕の姿が、見事に描かれていた。
 あの短時間でここまで書き上げる廣瀬はやはりすごいと思う。
 スケッチの僕は焦っていながら何処か嬉しそうで、幸せそうで……僕はネムといる時、世間にこんな顔を晒しているのか。
 そして多分、これからずっと、僕はこの表情をし続けるのだろう。
 ネムが傍に居る限り。
 
 

 何となく笑みがこぼれて、僕は空を見上げた。
 そこに在るのは、雲ひとつ無い青い青い空。
 君の心を写した様な、透き通った空の色。







初めて作ったオフ本の「群青日和」です。
いやあ、昔作ったものだし、発行部数は少なかったし、見事に売れなかったので(笑)ホントに売れなかった…ので、読んでる方も少ないと思います。
黒恋次アップまでのつなぎということでお茶を濁す私。

2008.8.2 サイトアップ  司城さくら