その電車に乗ったのは20:05。社長の息子という立場を隠して働いている新入りの身としては、職場にバイクで通う訳にも行かず電車で通っている訳だが、その、遅れなくホームに滑り込んだ電車の、開いた扉から一歩入った瞬間に、車内の空気が何となくいつもと違うような気がして、琥一は周囲を見渡した。
 違和感の正体はすぐにわかった。車内にいる人間の視線が同じ方向へと向いている。何だ、と琥一も同じように視線を向けた瞬間、背後で扉が閉まり、電車はゆっくりと走り出した。
「……ちど言ってみろよ、おっさん?」
 走り出した電車の車内に粗暴な声が響き渡る。どこか張り詰めた空気はこれが原因か、と琥一は納得した。伺い見れば、隣の車両で何かトラブルが発生しているらしい。
 だらしなく制服を着崩した、一見して全うな学生ではないとわかる出で立ちの男が4人、スーツを着たサラリーマンを取り囲んでいる。くちゃくちゃと音を立てて噛んでいるガムはそれ自体が威嚇行為となっているのだろう。真中の一人がサラリーマンの前に立ち、その周囲で仲間がにやにやと笑っている。周囲の人々はトラブルに巻き込まれまいと視線を逸らし、あるいは俯いて関わり合いになることを避けている。
「君たちはまだ学生だろう。法律で喫煙は認められていない。それに、電車内で煙草を吸うなど非常識にも程がある」
 正論だ。非の打ちどころのない程、誰が聞いても間違いなく正論だ。恐らくこの4人以外、この電車に乗っている人間は全員そう思っているだろう。だがその正論も、向けられた相手が正論を正論と受け取る正しい性質を持っていなければ、その効力を発しない。
「は? 何言ってんの、アンタ」
「うぜー。バカじゃねーの、コイツ」
「キツエン? 誰がしてんだ?」
「さあ? 俺たち以外のヒジョウシキなニンゲンだろ?」
 にやにやと笑いながら、他の3人もポケットから煙草を取り出して火を付ける。これ見よがしに煙草を口に加え、4人は車内に拡散するように煙を盛大に吐き出した。
 車内に煙草の臭いと白い煙が充満する。
 その煙を吸い込んだ所為だろう、シルバーシートに座っていた老齢の女性が咳き込んだ。気管の病気を持っているのかもしれない、こほこほという苦しそうなその咳を耳にして、4人はげらげらと哂いだした。
 サラリーマンの頬か紅潮する。それは紛れもなく怒りの為だろう。
「いい加減にしないか!」
 空気を震わすような一喝だった。サラリーマンの背丈はそう高くない。取り囲む4人の方が間違いなく背は高く、けれど怯むことなくサラリーマンは4人を怒鳴りつけた。
「何を考えているんだお前たちは! その年まで何を学んできたんだ、恥を知れ!」
 ぴたりと4人の馬鹿笑いが止まった。その眼つきが細められる。不穏な空気に、車内の張り詰めていた空気が凍りついた。
 その時琥一が考えていたのは、今ここに居ない少女のことだ。
 ここに花織がいなくて良かったと思う。もし花織がここに居たのならば、憤然と4人に立ち向かっただろう。サラリーマンの加勢をしに、老齢の女性を気遣いに。
 例え隣に琥一がいなくても。
 そしてその花織の、まだ二月しか経っていないとはいえ「恋人」という立場の琥一がすべきことは唯一つ。
「調子に乗ってんなよこのクソ親父が……っ!」
 一人がサラリーマンのネクタイを掴んで引き寄せ、右手を大きく振り上げた。そのまま勢いを付けて拳を振り下ろす――瞬間に、琥一は手首を掴んで引き止めた。
「調子に乗ってんのは手前らの方だろうが」
 ぐ、と手首を掴む指に軽く力を入れる。僅かに込めただけの力に、目の前の男は苦痛に顔を歪めた。
「うるせえんだよさっきから。煙草も迷惑だ、止めろ」
 突然現れた琥一に色めき立つ他の3人を睨みつける。琥一の身体付きを見て一瞬怯んだ3人は、それでも数の優位を確信したのだろう、再びその顔に凶暴な表情を漲らせる。
 本当にこの場に花織がいなくて助かった、と琥一は内心で呟いた。花織の前で、過去の荒んだ自分を彷彿させるような行動は見せたくはない。
 無言で学生たちを見据える琥一に、数に任せて殴りかかろうとした男たちの一人が、何かに気付いたように動きを止めた。そしてそのまま琥一の顔を見る――そして驚きに息を呑んだのがわかった。
「桜井だ――あの桜井兄弟の」
 その驚きは他の3人にも瞬時に伝播し、4人全員が動きを止めた。
 その顔に浮かぶのは、恐怖。
 怯え、畏怖――琥一が「あの」桜井だと知った瞬間から、4人の男たちに覇気はなくなった。丁度次の駅に到着し開いた扉から逃げるように降りていく。琥一が手首を掴んでいた学生も逃げる素振りを見せたので、琥一もそれ以上何もせずに掴んでいた手を離した。
 電車から降りていく男たちをちらりと見やり、琥一は「大丈夫ですか」とサラリーマンに視線を向けた。40半ばくらいだろうか。自分の父親と同じ位の年齢だろう。
 電車の扉が閉まり、ゆっくりと動き始める。既に車内の人々は平穏を装っている。琥一のように助けに入らなかった己を恥じている者、あの学生たちが顔を見ただけで逃げ出した琥一を内心で恐れる者、様々だがそれらを琥一が気にする義理もない。
 勤めて琥一を意識から追い出している車内の人々の中で、唯一人琥一に視線を向けているサラリーマンは、「ああ、ありがとう。助かったよ」と苦笑した。
「ああいったのが許せなくてね。つい口を出してしまったが、結果があれでは情けない。君がいなかったらと思うと」
 やや恥じ入るように溜息を吐くサラリーマンに、琥一は「こんなこと言うのも何なんスけど」と多少迷いながら言葉を発する。
「ああいったのにあんまり関わらない方がいいんじゃないですか。怪我でもしたら、家族が悲しむでしょう」
「まあ、そうなんだが――ただ私は、家族が誇れる自分でありたい。妻と娘にいつでも胸を張れる自分でありたい。そう思うとね――」
 苦笑しつつも誇らしげにそう口にした男の言葉に、琥一は共感する。その想いは常に自分も持っている。
 あいつに相応しく。
 あいつが誇れるような自分に。
「――ああ、わかります」
 琥一の口調に――もしくは表情に、琥一がどんな立場の相手を想って同意したのか、サラリーマンにもわかったのだろう。ふ、と口元に笑みを浮かべる。
「――それでは、私はこれで。本当にありがとう」
「いえ」
 次の駅で開いた扉からサラリーマンは出て行った。律儀に、電車が発車し琥一の姿が見えなくなるまでホームに立ち見送ってくれる。最後に目礼で応え、琥一は扉に寄りかかった。
 自分の荒んだ過去、それを全て知った上で受け入れてくれた花織と、次に会えるのは土曜日――あと4日。
 大学生と社会人。
 毎日学校で顔を合わせていた高校時代、それを卒業して2ヶ月――逢える時間は減った。
 環境の違いに不安がないと言えば嘘になる。
 ただそれは、花織の愛情を疑うという事ではなくて――花織に好意を寄せる男がいないかという不安だ。いや、いるだろう。それは間違いなく。
 なんせ花織は己の持つ魅力に全くの無自覚なのだ。その笑顔を向けられれば誰もが好意を持つというのに。
 だからなるべく早く。
 花織を迎える為の、社会的地位と、貯蓄と、生活力を――
 その為にする苦労ならば、琥一はさして苦労と思わなかった。




 



 ――花織の唇は甘い。
 二人で会った日の最後の締め括りは、花織の自宅近くの小さな公園でのキスだ。卒業後、まだ数回しかかわしていないキスは、いまだ軽く触れ合うだけのもの。
 それでも花織の身体は、緊張の所為かいつも硬直したように固まっている。けれどその硬直の原因は、琥一とのキスが嫌だということではないことは、その真赤に染まった頬と、潤んだ瞳が如実に物語っている。
 目を閉じて仰向く花織に、背の高い琥一は腰を折り覆い被さるように唇を重ねる。ぴくん、と花織の身体が震えた。そのやわらかな唇に触れながら、琥一は本能に従おうとする己の慾を理性で強引に抑え付ける。
 ブレーキの制御は危うい。
 ほんの少し、花織が唇を開いただけで壊れてしまいそうなブレーキだ。
 舌を差し入れる隙を見付けてしまえば、琥一は自分の理性が弾け飛ぶことを予想している。そしてその予想は間違いなく、もしその事態になった時には自分のブレーキが壊れることは確定している。
 キスに慣れない花織の、口付けに関する知識がないことが、唯一の防御壁であることもわかっている。
 恋人同士なのだから、何も遠慮はいらないだろうと言う者もいるだろう。世間一般的に、この歳の男が2ヶ月も経ちながら、好きな女を――恋人を抱くこともせずにいることが普通じゃないこともわかっている。
 それでも、やはり躊躇してしまう。
 触れたい。それは衝動だ。好きだからこそ、愛しているからこそ、身体を重ねたいと思う。花織の全てが欲しいと思う。けれどそれをしたならば、傷付けてしまいそうなのが怖い。想いが強すぎて、壊してしまいそうだ。
 触れるだけのキスを終えゆっくりと唇を離すと、花織はぽすんと琥一の胸に顔を埋めた。そのまま細い腕を琥一の背中に回しぎゅっと抱きしめる。
「どうした?」
「時間が経つのが速すぎるよね」
「……おう」
 それは紛れもない事実だ。花織といると時間の経過が速い。逢えない日の時間の流れは驚くほど遅いと言うのに。
「もう少し遅くまで……」
「それは駄目だ」
 即答されて花織は頬を膨らませた。だってまだ8時なのに、もう大学生なのに、と琥一に訴える。
「親御さんが心配すんだろ」
「お母さんはしないよ。琥一くんのことお気に入りだもん」
「親父さんは心配すんだろーが。嫁入り前の娘が遅くまで男とふらふらして嬉しい父親は居ねえよ。……ただでさえ俺はこんなだしな」
 途中までは大人しく聞いていた花織だったが、最後の琥一の一言が癇に障ったようだ。きっと上げた顔には珍しく怒りの色がある。
「琥一くんは自分を卑下しすぎ!」
 そう言った後に琥一の腕を引張り歩き出そうとする。力を込めて琥一の腕を引いているが、勿論花織の力では琥一を動かせる筈はない。んー、と顔を赤くして渾身の力で琥一を歩かせようとする花織の為に、引張られるままに歩きながら「何だよ?」ととりあえず聞いてみる。
「家に行くの! お父さんに挨拶して! 今日休みだから!」
「はあっ!?」
「それで遅くまで琥一くんといていいって許可貰う! そうしたらもっと一緒に居られるでしょう!?」
「いやまて、お前、俺見て親父さんがそんな許可すると思ってんのか?」
「するよ!」
 きっぱりと、はっきりと花織は断言した。睨むように琥一を見上げて――言う。
「私が大好きな人だよ?」
 皆に自慢したい。私の好きな人、私の大切な人。皆に誇りたい。
「だからちゃんとお父さんに会って、それでもっと遅くまで一緒に居られるようにするのっ」
「いや、ちょっとお前冷静に考えてみろ。普通心配すんだろ、俺みたいのを娘が連れてきたら」
「それとも琥一くん、私とのこと――これから先のこと、いい加減に考えてるの?」
 挑むように、試すように――それともけしかけるように、だろうか。恐らくそうなのだろう、花織は琥一の気性をよくわかっている。花織がこう口にすれば、琥一が返す言葉は何かとわかっているはずだ。それはつまり、
「――上等だ、コラ」
 歩幅が大きくなる。花織に引張られていた腕は、逆に琥一が引張る形になっていた。足の長い琥一の歩く速度に合わせる為に、花織の足取りは小走りになる。傍から見ればならず者に無理矢理連れて行かれる少女の図だろう。
 程なく着いた花織の家の、インターフォンの前で一度大きく深呼吸する。やはり男親に会うのは緊張する。花織は先程ああ言ったが、やはり自慢の娘が、人相の悪い大男を連れて現れたとなれば男親の衝撃は計り知れないだろう。外見はもうどうしようもないが、せめて誠実を心がけようと決め、琥一はインターフォンを押した。
『はい』
 聞き慣れた花織の母の応答に、「桜井です」と返す。『あ、はーい、ちょっと待っててね』と通話が切れた。
「緊張してる?」
「当たり前だろーが」
 小さく笑って、花織はきゅっと琥一の手を握った。その花織に苦笑で返す。
「あら、琥一くん。久しぶりね」
「こんばんは、お久しぶりです。――あの」
「はい?」
「――お父さん、いや、『花織の』お父さん、いますか」
 何と呼んでいいかわからず、苦し紛れにそう言った琥一に、一瞬驚いたような表情を浮かべ花織の母は何かを察したようににこりと笑った。「ええ、いますよ。あがって?」とスリッパを出す。
「いえ、もう遅いですし――ご挨拶だけ」
 さすがに家に上がって相対しては間が持たない。今日は花織の言う通り遅くまで逢う許可を得るためではなく、花織と付き合っているという報告をする為に会うのだ。まだ当分は帰宅8時を変えるつもりはない。
 それは父親を心配させない、という理由も勿論あるが――
「自分を制御する為」という理由が実は一番大きい。
 花織を早く家に帰すというルールも、琥一の中のブレーキの一つだ。
「お父さん」と奥に向かって声をかける花織の母親の声に、「何だ?」と答えが返り――足音が近づくのを、琥一は緊張しながら聞いている。
「どうした。――?」
「初めまして、俺は――」
「おや? 君は」
 挨拶の途中で、驚いたように上がった花織の父親の声に、琥一は顔を上げた。父親と視線が合う。その顔に琥一は見覚えがあった。どこかで見た――仕事先か? と必死に頭の中でここ最近顔を見た人物のファイルをめくっていると「やっぱりそうだ」と父親が頷いた。
「先日、電車で――」
「あ」
 そうだ、電車で学生に叱責していたサラリーマンだ、と思い出したと同時に、前後で「え、あの時助けてくれた人って」「ええっ、じゃあお父さん助けてくれたのって」と母子の声が重なり合う。
「琥一くんだったの?」
 予想外の展開に呆然としていると、花織がぎゅっと琥一の腕に自分の腕を絡ませた。「お父さん、あのね、私たち――」と言いかける花織の言葉で我に返り、琥一は目線で花織を黙らせる。
 やはりこういったことは自分の口から報告したい。
「初めまして、桜井琥一です。花織さんとお付き合いさせていただいてます」
「え」
 娘に恋人がいるという事が青天の霹靂だったのだろうか。呆然と立ち尽くす父親に、花織は満面の笑みで「でね、」と言葉を続ける。
「琥一くん、お父さんが心配するからっていつも私を8時に送ってくれるの。だから私、お父さんに許可して欲しいんだ。……んー、帰り、10時くらいになっても大丈夫だよね?」
「え?」
「おい」
 驚きが持続して話について行けていない父親と、話の展開に呆気にとられている琥一を無視して、笑顔で花織は話を纏め上げていく。
「大丈夫、帰りは琥一くんが家まで送ってくれるから! いいよねお父さん、だって琥一くんがどんな人かもう知ってるでしょ? 言ってたじゃない、『近頃では稀に見る誠実な若者だった』って!」
 それとこれとは話が違うと親父さんは思ってんだろ、と内心突っ込んでみるも、花織は邪気なくにこにこと嬉しそうに微笑んでいる。
 普通、男が女と一緒に夜遅くまで居た場合、そこに「誠実」はないだろうと思うのだが。
「ねえ? お父さん、いいよね?」
 明るい無邪気な笑顔。その笑顔の前に、硬直する男が二人――。







『よかった、今度からもっと一緒にいられるね!』
 無事に家に帰りついたコール(花織に義務付けられている)をした琥一に、受話器の向こうから花織の満足気な声が聞こえる。
 あの後花織は、「10時までの外出」を父親だけでなく琥一にも許可させた。笑顔で、無邪気に、楽しそうに、嬉しそうに。その笑顔にどう太刀打ちすればいいというのだろう。男二人は、どちらも花織の身の安全のために早期帰宅を願っていたというのに。
 ルールの一つは潰された。それも、当の花織にだ。
 襲うぞ畜生。知らねえぞ、こちとらそろそろ限界だ。
 胸の内で呟く琥一の気持ちを余所に、『だからね、来週』と無邪気に続ける花織に対し「おう」と、結局は花織に甘い琥一は花織の望む健全なデートを志す。
「どっか行きたい所あるか?」
『うん。――琥一くんの部屋』
「あ? んなもん今までだって」
『遅くまで一緒に居られるよ?』
「―――――――」
 絶句する。これをどう受け取っていいのか。言葉もなく黙りこむ琥一の耳の向こうで、くすりと小さく笑う声がした。耳をくすぐるような、愛らしい花織の。
『私の挑戦状だよ。どうする?』
「――上等だ、コラ」
 琥一のその返答に、くすくすと笑う花織の声がする。どうやら花織の思うままに話が進んでいるようだ。
 それでも琥一にはわかっている。今、自室で、花織の顔が赤いこと、強く携帯電話を握りしめていることを。
 今、花織がここに居たら、その細い身体を強く強く抱きしめているだろう。
 愛しくてたまらない。
 溢れだす想いを止められない。
「――来週、迎えに行く」
『うん。――早く来週になればいいのにね』
 さっき別れたばかりだけど、もう逢いたいよ。
 甘い甘い花織の声と言葉に、この一週間はいつにも増して時が経つのが遅く感じるだろうと琥一は思った。
 










私の書く不良はとても昭和の香りが致します。

…この後を書くとすると本番なのですが、どうでしょう、私書けますか。
意外なことにコウバンではあまり裏描写って書いてないんですよね。自分で吃驚。
BLEACHはあんなにあんなにあんなに(3回言った)書いてるのにね。

2012.3.24