最近、の様子がおかしい。
 そう気付いたのは先週の始めで、最初は気のせいかと思っていた。付き合い始めてから今まで、が自分に隠し事をしたことはなかったし、第一隠し事が出来るような、器用な性格をは持っていない。
 そう思っていたのだが―――
 最近富に忙しくなったモデルの仕事が、久し振りに入っていなかった今日の午後。一緒に帰ろうと昼休みに声をかけた珪に、は困ったように一瞬目を泳がせた。
 の嘘をつく時の癖、その1。
「あ、あの、今日ね……えっと、尽と約束があってね……はやく帰らなくちゃいけないの」
 少しつっかえながら、普段よりもやや速くなる口調。
 の嘘をつく時の嘘、その2。
「……そうか」
「ごめんね。せっかく誘ってくれたのに……」
 しょんぼりとうなだれるを前に、珪は何故が嘘をついたのだろうか考える。
 自分よりも優先する用事とは何だろう?
 自分に言えない誰かとの約束。
 それが家族や女友達ならば自分に秘密にする必要はない。確かにといつも一緒にいたいと思ってはいる。けれどすべてを束縛するつもりはない。……本音は誰の目にも触れさせたくはないと思ってはいるけれど。
 は自分が他人の、特に男たちの目にどう映っているかをまるで意識していない。自分は普通の少女となんら変わりはないと思っている節がある……誰よりも魅力的だというのに、それを鼻にかける様子もなく明るく誰にでも優しく話しかけるものだから―――しかも相当のおせっかいときている―――少しでもと言葉を交わした男たちはまず殆どがに好意を持つ。
 その男たちの中の誰かとの約束だったとしたら。
 が自分を裏切るとは考えていないが、強引に誘われて断れなくなるという事態は容易に想像できる。
 同じクラスメイトの顔を思い浮かべながら珪は考えた。思い浮かべる顔が一人ではないのが溜息ものだが、特に要注意の顔が2つほど。
 もしそうならばが珪に言い辛いのもわかる。
「……葉月くん?」
 じっと考え込む珪を窺うように見上げるに気付いて、珪は「……ああ」とを見つめた。のその心配そうな瞳に安心させるように「わかった、気にするな」と笑う。
「本当にごめんね?」
「ああ」
 申し訳なさそうにもう一度言って、は教室を出て行った。
 が自分に言えない事情があるのならば、自ら知ればいい事。
 例えば強引に他の男につき合わされているのなら、偶然会った振りをして相手の男から攫えばそれで済むこと。
 当たり前のようにそう考えながら珪はの後を追う。
 普段は何事にも執着のない珪にも、譲れないものはあるのだ。
 



 は急いでいるのか、普段の歩調に比べたら随分と早足で歩いている。
 すれ違う友人たちと明るく挨拶を交わし、目的地のある確かな足取りで大通りまで出ると、何かを探すようにきょろきょろと周りを見回し―――安堵したようににっこりと微笑んで、停車している1台の車に近寄った。
 見覚えのある高級車。
 それを裏付けるように、運転席から降りた長身の男。
 片手では持てないほどの大きな薔薇の花束を差し出し、へと渡し―――は驚いたように目を見張り、嬉しそうに微笑んで何かを言う。
 そのに大人の笑顔で返し、スマートに助手席のドアを開け、の右手を取り車内へ導いたその男を、勿論珪は知っている―――自分の所属する学院の理事長なのだから。
 驚きに一瞬動きの止まった珪の前で、ドアが閉まりの姿が見えなくなる。
 滑らかに動き出したその車を追うべく、珪は通りかかったタクシーを右手を上げて止めた。



 何故理事長とが一緒に居るのかがわからない。
 学校で待ち合わせることなく離れた場所で待ち合わせ、共に出かけるのは一体どんな理由があるからなのだろう。
 あふれる様な薔薇の紅い色が鮮やかに目に焼きついている。
 それが嫉妬だと―――身体が燃えるように熱いのは、相手の男に対する悔しさだと自覚しながら珪は唇を噛む。
 自分にはない、級友たちにはない大人の余裕、洗練された動き。
 まだ学生という、社会に一人の男として認められない自分と、社会人として確かな地位を持ち、周囲の信認も厚い理事長。
 どう足掻いても年齢による経験差は埋めることが出来ない。
 どう焦っても、年齢による周囲の人々の信頼感では年長者に劣ってしまう。
 先ほどまでの自信―――「は裏切らない」という自信はとうになく―――いや、は裏切ることはないだろう。もし自分への好意よりも誰か他の男への愛情が優った場合、は必ずそれを伝えるだろう。隠して二人の男と付き合うことなどない筈だ。
 そう、自信がないのは自分自身に。
 の愛情を独占できるほどの器量が自分にあるかどうかだ。
 あの、春の陽射しのような微笑を独占できるほどの男であるかどうかだ。
 考え込む珪の前で、の乗った車は止まった。ふと周囲を見れば、見覚えのある景色……ショッピングモールの中だ。
 顔を上げれば、これも見覚えのある店の前。
「……ブティック・ジェス?」
 呟く珪の前で、理事長にエスコートされるようには店内へ入っていく。
 暫く時間を置いて、珪はタクシーを降りた。
 はこの店の服を着る事は殆どない。の好みは公園通りのソフィアで、ジェスの服は大人すぎて自分には似合わないと笑っていた。
「大人」……そのキーワードに珪は唇を噛む。
 理事長の隣に立つとしたら……この店の服はあまりにもぴったりと来るのではないだろうか。
 洗練された大人の服……エレガントと評されるこの店の服は、理事長の好みなのではないだろうか?
 男が女性に服を贈るという行為は、それだけで相手の女性への好意の証だ。
 それを受け取る女性も、その好意を受け取るという意思表示になる。
 胸に熱く燃える嫉妬心に、珪は殆ど何も考えずにジェスのドアに手を置いた。感情が先走る珪の目には、ドアにかけられた「CLOSE」の文字も映らない。
 ドアを開け中に入る珪の目に、大勢の人の姿が目に入った。同時に見慣れた機材の数々。
「申し訳ございません、本日は臨時休業で……あら?」
 スタッフなのだろう、女性が遮るように前へと進み出、珪の顔を見た途端に言葉を途切れさせた。
「葉月……珪?」
「珪クン?」
 珪の名前に顔を覗かせた、その男の顔は珪も知っていた。
「どうしたの?」
「高杉さんこそ……」
「俺?俺は仕事」
 手にした大きなカメラを珪に見せ、「今日はここで写真撮るんだよ」と奥に出来たスペースを指差した。
 広い店内の一角を整理したのだろう、アンティークな椅子や机が一つずつ置いてある。その周りには撮影に使うのか、数々の洋服と服飾小物が所狭しと置いてあった。
「撮影……?」
「葉月くん!?」
 何処にいても絶対に聴き間違えない、いつも聞いていたいと願うその声が自分の名前を呼んで、珪は振り返った。スタッフ用の扉から顔を出しているのは―――

「な、何でここに……!?」
 慌てるの背後から、この業界に居るものならば知らぬ者は居ないという有名な男の顔が覗いた。
「あら、葉月珪じゃない!」
「葉月君?」
 花椿吾郎の後ろから、今度は理事長の顔が覗く。
 並んだ三つの顔を見ながら、この状態は良くわからないが、ただ自分の不安は杞憂らしいと内心ほっとしている珪に向かい、が地に着くほどの勢いで頭を下げ、「ごめんなさあああああい!!」と絶叫した。




「……怒ってる?」
「ん?」
 撮影の合間の休憩時間に、口紅が落ちないようにストローでアイスティを口にしながらは上目遣いで珪を見ている。悪戯を見つかった仔猫のようで可愛いと思いながら、珪は「……少し」とを苛める為だけに言った。
「お、怒ってるんだ?」
が秘密にしてたから」
 話を聞けば―――理事長と花椿吾郎は旧知の間柄、かなり親しい友人同士らしい。
 はばたき学園に理事長を尋ねに来た花椿がを見かけ、それ以来猛烈にモデルの依頼をしていたらしい。
 自分の魅力に全く無自覚なは「モデルなんてとんでもない」とひたすら断り続けていたのだが、今回、花椿のデザインする今までの大人の女性向けとは違う、少女の為に新たに設立されたブランド……「ほんの少し背伸びした少女の為のエレガンス」がコンセプトらしいその新ブランドの、企業用の宣伝冊子のモデルにと懇願され、はとうとう首を縦に振ったらしい。
 今まで頑なに固辞していたモデルの仕事を引き受けた理由。
「企業用だから、みんなの目には触れないって花椿さんは言うし」
「……それと?」
 撮影の合間に、花椿から今回の件の経緯を聞いていた珪は、その言葉を口にさせたくて先を促す。
「……それだけだよ」
 の目が一瞬泳ぐ。
 の嘘を吐く時の癖、その1再び。
「嘘……吐くんだ?」
「う、嘘じゃないもん」
 薄く化粧をしたの顔が、大人びた顔からいつもの珪だけのの顔に戻る。
「ふうん……じゃあ、いらないんだ」
「いらないって、何を?」
「俺の写真」
 が今回頷いた最大の理由……それは。
 今までの珪の写真をあげるから、という条件だった。
「アナタの写真をたくさんあげるって言ったらね、もう飛びつくような勢いで『やります』って即答よ?」
 花椿の楽しそうな笑顔は、今後もこの手でを釣ることが出来ると踏んでいるからだろう。
「じゃあ、花椿さんに言ってくる」
「だめっ!」
 ぎゅっと腕を掴まれ振り返ると、が必死に首を横に振っている。
「だって……いらないんだろ?」
「……知ってて言うんだから……葉月くんの、」
 いじわる、と言おうとした言葉は、珪の唇に塞がれて消える。
「……本物の俺より写真がいい?」
「……どっちも欲しいんだよ」
 制服の珪の胸に顔を埋めて、普段なら口にしないの我儘を耳にしながら、珪は幸福そうにの髪を撫で―――耳朶をそっと甘く噛む。
 あ、と小さく声を上げ顔を上げたの唇に、もう一度唇を重ね―――少々濃厚すぎるその口付けの余韻を必死で隠して撮影現場に戻ったに、目敏く花椿が「口紅落ちてるわよ?―――何をしたらそんなに色が落ちるのかしらね?」とからかい口調で耳打ちされ、は耳まで紅く染めてうろたえた。




 企業に配られたがモデルを勤めた小冊子は評判になり、その所為もあって花椿の新ブランドは売り上げを伸ばしているらしい。
 モデルの少女について問い合わせが花椿の元へ何本も来ているらしいが、「続けるつもりはないんです、ごめんなさい」というの言葉に花椿は残念そうに「気が変わったら絶対言ってね」と念を押し―――とりあえずのモデル起用は諦めたようだ。
 勿論珪の手元にはその冊子がある。
 それとは別に、高杉に頼んで撮ってもらった二人の写真……撮影を終えた後のいつものと二人、制服姿で撮った写真は、珪の部屋に大切に飾ってある。