いつものように一人で開店前の準備を始めていると、店のドアが開く音がした。からん、と小さな鐘の音に、「すみません、まだ準備中なんです―――」とにこやかに断りの言葉を口にした視線の先に、見覚えのある少女が佇んでいるのに気が付いて「あれ?」と声を上げた。
「君は―――確か零一のとこの」
「すみません、まだ準備中なんですね」
 慌てたようにぺこりとお辞儀をして出て行きかける少女に、「あ、いいよ、入って入って」と声をかける。
 けれど少女は、遠慮をしてか中々入ってこない。
 おいで、と手招きしてようやく少女は一歩店内に足を踏み入れてドアを閉めた。もう一度ぺこりとお辞儀をする。肩までのセミロングの髪がさらりと揺れた。
「今日は一人?零一は?」
「あの……一人、です」
 この店は酒をメインに扱っている店だ。未成年者を一人で店に入れるのは色々不味い―――が、今は開店前だから勿論気にしない。
「なに飲む?ジュース?紅茶?」
「あ、そんな、いいです」
「遠慮しない。何がいい?」
「……じゃあ、オレンジジュースを」
 座るように促したカウンター席に落ち着かない様子で腰掛けた少女に、オレンジジュースのグラスを置くと「ありがとうございます」と礼を言われた。今時珍しいほどの礼儀正しさだ。この年頃の少女にありがちな、浮ついた雰囲気がまるでない。
 この少女は2回ほどこの店に来た事がある。どちらも零一が連れて来た。零一曰く、現在高校三年生で零一のクラスの生徒らしい。
 華奢な身体つきの、はっとするほどの愛らしい美少女なのだが、それを鼻にかける様子もなく―――溜息混じりに零一が呟いた独り言を聞いたところによると、彼女は自分の容姿がどれだけ他の少女たちと比べて抜きん出ているか全く意識がないらしい。
 目の前のジュースのストローで、ジュースを掻き混ぜたり、中に入った氷をつついたりしている少女につい笑ってしまう。
 何か聞きたい事があるのだろう、でもそれを口に出来ずに悩んでいる心の内が手に取るようにわかる。
 その「何か」については直ぐに見当が付いたが、何も気付かない振りで、少女が自分から一歩を踏み出すのを待ってみる。
「あの……」
 意を決したのか、思い切ったように顔を上げた少女に、「何だい?」と笑顔を向ける。この笑顔は滅多な客には見せない、取って置きの笑顔だ。
「マスターと氷室先生は、昔からのお友達なんですよね?」
「そうだね。学生の頃からずっと」
 少女が話しやすいように、自分も椅子に座って少女と目線を合わせる。自分用の珈琲をカップに注いで、視線で先を促した。
「じゃあ、あの、……ご存知でしょうか」
 ここで少女は微かに頬を染めて俯いた。そのまま、視線を下に向けて小さな声で囁くように言う。
「……氷室先生とお付き合いしていた女性のこと……」
 消え入りそうな声で呟いて、耳まで赤くして俯いている。そんな少女が微笑ましくて、つい笑ってしまった。
「それを聞いてどうするんだい?確かに零一の過去に付き合っていた女性は知っているけど、それはもう過去の話だよ。今の零一には何の関係もないだろう?」
 相手の過去の異性の話など、聞いて楽しいものはひとつもない。比べても仕方ないことで見知らぬ誰かと自分を比べて、傷付くのは自分自身だ。
 そうやんわりと釘をさすと、「じゃあ」と少女は縋るように言葉を続ける。
「あの……先生の好きなタイプの女性とか……」
 あまりにも直球のその言葉に、そこまではっきり言うつもりはなかったのだろう、少女は「あ」と声を上げて口を押さえた。
「君は零一が好きなんだ?」
 こちらもストレートに聞き返すと、少女は完全に真赤になりながら「は……はい」と頷いた。
「先生だ、って何遍も自分に言い聞かせても……だめなんです。先生は私を生徒としか見てないっていうのもわかってます。でも……」
「零一に言ったの?自分の気持ち」
「まさか!」
 ぶんぶんと首を横に勢いよく振りながら少女は言った。綺麗な細い髪が光と一緒に揺れる。
「だって、先生と生徒です……それだけでしかないから」
 ストローを口に含んで、少女は勢いよくジュースを流し込んだ。まるで、それだけの関係に哀しむように。
「それに……自分の気持ちを伝えちゃったら、今みたいに話せなくなっちゃうかもしれないし……課外授業だって、もう呼んでくれないかもしれない……」
 けれども心は伝えようか伝えまいか悩んでいる。
 その心の揺れが、自分の元に来た理由だろう。
 零一の付き合っていた女性はどんな人か。
 自分とかけ離れていれば諦められる。
 自分とかけ離れていれば、それに近付くように努力する。
 どちらを取るかわからないけれど、とにかく知りたい。
 揺れる心そのままに、途方にくれたように少女は自分を見つめていた。
「―――相手を想う気持ちが大きければ大きいほど、深ければ深いほど、一歩進むことに臆病になるのはわかるよ。けれど、そのままじゃ何も変わらない事はわかるね?」
「ええ、でも……悪く変わる事は望んでいないんです。それなら、苦しいけど今のままの方が……」
 自分から見れば、零一は明らかにこの少女に特別な想いを抱いているようだが、少女は全くそれを自覚していないようだ。
 零一は零一で、教師と生徒という立場に悩んでいるようだし、全く歯痒い二人で、でもまあそこが微笑ましいと言えばそうなのだが。
 ここはひとつ、自信と自覚をつけさせてあげよう。双方に。
「じゃあ、ひとつ実験をしてみよう。その結果を良く考えて、君の答えを導く材料にするといい」
「え?」
 きょとんとする少女にウィンクすると、机の上においてあった携帯電話を手に取った。アドレス帳から零一の番号を呼び出して通話ボタンを押す。
「……あ、俺。今平気か?……ああ、実はさっき、買出しに行った時に、駅前でお前んとこの生徒が変なのに絡まれてるのを見つけてな……とりあえず俺んとこに居るんだ、今。ちょっとショック受けてるみたいなんで、お前来られるか?……ああ。前、お前と一緒に来たコだけど」
 唐突に電話が切られて苦笑する。彼女だとわかった途端の慌てようだ。
 成り行きが飲み込めずにこちらを困惑したように見つめている少女に、「さて」と向き直った。
「今、零一に君がワルイヤツに絡まれてショックを受けている、という嘘の電話をした。零一の家からここまで車で30分。零一が何分でここに来るか、それであいつの気持ちのヒントになると思わないか?」
「そう……でしょうか?」
「あいつは規則の鬼だからね、余程のことがない限りルールは破らない。その零一がここまで来るのに何分かかるかな?」
 少女は無言で首を横に振る。
「俺の予想じゃ、そう待たないと思うけどね」
 少女のグラスにジュースを注ぎ足して、腕の時計に目をやった。電話を切ってから5分。
「少なくとも20分で来ると思うけど」
「そんなことないと思いますけど……それに、先生が来てくださるのは、私が特別という訳ではなくて……先生なら皆に」
「誰にでも?あいつが誰でも血相かえると思う?あの零一が?」
 畳み掛けるようにそう言うと、「そうですね……いつでも冷静な気がします」とやっと小さく笑った。
「だから、今日も冷静なままいらっしゃると思いますけど」
 そう自分に言い聞かせているのか、少女はテーブルに視線を落としながらそう言った。グラスに手を伸ばしてストローを口にくわえる様は、期待をしてはいけない、と自分を戒めているようだ。
 しばらく少女は何も言わずに自分の考えに沈んでいた。
 再び腕時計を見る。
 電話を切って14分。
「……じゃあ、もしここに来た零一が普段と違う零一だったら、君は自信を持てるね?あいつの中で君は特別な存在だと」
「そう……ですね。そう思うように努力……」
 します、と言い切るよりも早く、入口のドアが勢い良く開いた。壊れるかという勢いで。ドアの上に取り付けた小さな鐘が、その乱暴な開け方に抗議するように激しく音を立てる。
「先生!?」
 少女が驚いて立ち上がる。
 時計を見ると、電話を切って15分経過。
「おいおい、全てのルールを無視してきたんじゃないだろうな?」
 呆れて呟いた言葉も、零一の耳には届かなかったようだ。真直ぐに少女の元へ駆け寄って「大丈夫か」と少女の手を取った。
「は、はい」
 その勢いに押されるように、少女はこくこくと頷いた。同じ勢いで少女に怪我はないか、少女の言葉に嘘はないか(全くの嘘なのだが)情報を収集しやがてようやく安心したのか、大きく息をついた。
「一人で外出するからこんな事になるんだ。よく気をつけないと駄目だろう」
 真顔でそんなことを言う零一に見られないように、横を向いて笑いを堪えた。まるでお父さんだ。
 少女もどう返答したらいいのかわからないのだろう、何も言わずに目の前の零一を見上げている。
「あ、いや、しかし男子生徒と二人で行動するのも……」
 真剣に悩み出す零一のどこまでも生真面目な顔に、堪えきれずに俺は噴き出した。
「じゃあこれから彼女が出かけるときにはお前が付いて行ったらどうだ?」
 笑いながらそう言うと、どこまでも真面目に零一は「そうか」と頷き、
「これからは一人で出かけなくてはならない時は、必ず私を呼ぶように。いいな?」
 少女の両肩に手を置き、諭すように語り掛けた零一に、「は、はい」と茫然と頷く少女を、零一は少女の受けたショックがそれほど大きいのかと心配げな視線を送る。
「とりあえず今日は自宅へ戻りなさい。送っていこう」
 少女の手を取り歩き出した零一は、思い出したように振り返り「今日は悪かったな。彼女を送った後、また来る」と言った。
「それより彼女の気が落ち着くように、二人でどっかドライブにでも行ったらどうだ」
 そう言ってやると、「そうか、そうだな」と零一は頷く。
「出かけよう。どこでも好きな場所を言いなさい」
「気をつけてな、交通ルールを無視するなよ?」
 茶化すような俺へじろりと冷たい視線を向け、零一は少女の手を引き歩き出す。恐らく手を繋いでるという意識はないのだろう、心配のあまり少女の手を取ってからずっと握っていることすら気付いていないのが可笑しい。
 成り行きに目を丸くしている少女に向かって「がんばれ」と声を出さずに口だけ動かしてそういうと、少女は小さく頷いて「ありがとうございました」と頭を下げた。



 少女の卒業まであと2ヶ月。
 この先どうなるかは二人次第。
 開店準備に戻りながら、見守る恋というのは中々良いものだと、やわらかな気分で一人呟いた。