「六番隊の隊員が何人か、時空の狭間に落ち込んだらしい。」
その知らせは、すぐに護廷十三隊内を駆けめぐった。
異常な霊的磁場が発生している場所で、時間や空間に歪みが生じ、時空の裂け目ができることはままあるが、そのような裂け目に吸い込まれて時空の狭間の異空間に放り出されてしまうと、まず無事に尸魂界に戻ることはできない。
これまでに戻ってきた者はいないから、そこに落ちたらその後どうなるのかはわかっていない。過去に調査のため、十二番隊の者が命綱をつけて時空の狭間に入ったことがあるが、激しい苦痛を訴えてあっという間に戻ってきたので、調査にもならなかったという。
そこに落ち込んだ者が、すぐに意識を手放すことができるのか、それとも鮮明な意識のまま永遠の苦痛を感じつつ異空間の闇の中を漂い続けることになるのか、それすらもわかっていない。
虚に命を奪われるよりもなお悲惨とされているその事態が生じたことに、どこの隊員達も一様に悲痛な顔をして、続報を待っていた。
「時空の狭間に落ち込んだのは、結局、阿散井副隊長一人とのことだ。他の隊員が吸い込まれそうになったのを助け出したが、その時に自分が身代わりになってしまったらしい。」
その続報を聞いた瞬間、六番隊の事故と聞いて十三番隊の隊舎に控えていたルキアは、隊舎を飛び出して問題の場所に向かった。
「兄様。本当に恋次が?」
「・・・聞いたか。」
時空の裂け目の前に設置された仮の柵の近くに、白哉と六番隊の上位席官、それに他隊の隊長格も数名集まっていた。
「助けられないのですか。」
「・・・対処法がない。あればとうに助けている。」
白哉が吐き捨てるように言った。
「これまで、時空の狭間に落ちて戻って来られた者はいないんだよ、ルキアちゃん。僕たちができたのは、阿散井くんがここに落ちたという事実を確認したことだけなんだ。それを確認したから、みんなもう帰るところなんだよ。明日には鬼道衆を集めて、この時空の裂け目には厳重な結界を張って塞ぐことになっている。」
京楽隊長が静かな声音で優しくルキアに語りかけ、それが合図であったかのように、集まっていた者達は立ち去っていった。白哉だけは何か言いたげに暫く佇んでいたが、掛けるべき言葉が見つからなかったのか、やがて無言のままいなくなった。
ルキアは時空の裂け目を前に、一人呆然と立ちつくす。
馬鹿な。あの男が、斬り合いで散るならともかく、異空間に迷い込んで二度と戻ってこないなどということがあっていいものか。あいつは子供の頃、よく迷子になったけれど。いつも最後はちゃんと私のところに帰ってきたのだから。
帰ってこい。
ルキアは柵を押しのけ、吸い込まれないように慎重に間合いを取りながら、時空の裂け目の前にすくと立った。
「舞え、袖白雪。」
袖白雪を目の前に広がる時空の裂け目の前に翳した。刀身が冴え冴えと白く輝き始め、ひとつの灯火となる。
暗闇がお前を飲み込んだというなら、私はその暗闇を切り裂いて見せよう。
恋次。帰ってこい。この光を目印として。私のところへ。
自分が上を向いているのか下を向いているのか、自分の体がどんな体勢になっているのかすらわからない。闇雲に体を動かそうとしても、手足に力が伝わらない。次第に暗闇と自分の体の境界さえ曖昧になって、己が暗闇に蝕まれていく恐怖に、恋次は思わず叫びを上げようとしたが、掠れ声さえ出すことはできなかった。いっそ意識を失うことができれば楽になるだろうに、意識はますます鮮明になり、痛みとも痺れともつかない苦痛と恐怖は増していくばかりだ。
ここに来てからどれくらいの時間が経ったのだろう。短い気もする。随分長い気もする。まだ狂うこともできず、体全体で、意識全部で、形容しがたい苦しみを味わい続けている。
この時間が、永遠に、続くのか?
―――答えをくれる人など、いるはずもない。
不意に何かの気配を感じ、恋次は重い瞼を開けた。
清らかな白い光が、暗黒の向こうに幻想の如く浮かんでいる。何にも染まらぬ孤独で高貴な輝きでありながら、どこか懐かしい優しさを感じる。
・・・・・・ああ、ルキアが呼んでる。
あいつが呼んでるなら、俺は行かねえと。あいつが俺を待ってるなら。どうしたって帰らねえと。あいつのところへ。
ルキアそのもののような純白の輝きを見つめながら、恋次は力を振り絞り、光の指す方向へと手を伸べた。
ふいに、緩やかにたわんでいた袖白雪の飾り帯が勢いよく伸びて、ある目的を持っているかのように時空の裂け目の中に吸い込まれていった。暫くして、ルキアは確信を持って静かに飾り帯を引く。やがて、白い飾り帯が幾重にも巻き付いた手首が、がっしりとした腕が、赤い髪が、そして恋次の体全体が、這うようにしてそこから出てきた。
「・・・・・・恋次。」
「・・・・・・ルキア。」
二人は目を合わせ、絞り出すように互いの名を呼んだ。
地面にぺたりと膝をついたままの恋次はルキアの胸に顔を埋め、縋るように、甘えるように、救いを求めるように、その細い身体をきつく抱きしめた。
「恋次。よく帰ってきてくれた。」
ルキアは恋次の頭を胸に抱き、その髪を撫でながら、労るように囁く。頬を伝う涙をぬぐうことも忘れて。
二人は互いの存在を確かめるように、影をぴたりと一つに重ねたまま、固く抱き合っていた。
「・・・えーと、再会のご挨拶中、邪魔して悪いんだけどね。そろそろいいかな、ルキアちゃん。」
背後から突然声を掛けられて、文字通りルキアは飛び上がった。
慌てて振り向くと、いつの間にか、白哉を始め先ほど立ち去ったはずの隊長格や六番隊の席官達が揃って立っている。声を掛けてきた京楽隊長は、横を向いて申し訳なさそうに頭をかいていた。
「ど、どうなさいましたっ。」
ルキアと恋次は真っ赤になり、互いに飛び跳ねるように距離を置いた。
「いやなに、さっきから阿散井くんの霊圧が感じられるようになったものだから。万一、と思ってみんなで戻ってきたのさ。いやあ良かった、良かった。」
京楽隊長は横を向いたままさらりと告げ、二人にも帰還を促した。
二人はそのまま一番隊の隊舎に連れて行かれた。そして恋次は時空の狭間に長時間落ち込みながら戻ってくることのできた唯一の死神として、またルキアはその帰還を助けた者として、数名の隊長格から、それぞれ事情聴取を受けた。
「袖白雪を解放して霊力を込め、光を放ちました。その霊光が目印になって帰還の方向がわかったのでしょう。」
でもこれは恋次限定の方法ですよ、と内心で思いつつ、ルキアは無難に話をまとめる。
恋次はそれほど器用ではない。大体、覚えているのはルキアの傍に行ってやりたくて必死だったということだけで、どうやって帰ることができたのか、具体的なことは自分でもわからない。
「・・・好きな女の傍に行くためだったら何だってできた。それだけっすよ。」
大真面目に長考した挙げ句、正直且つ不機嫌にこう答えて、直接事情聴取に当たっていた山本総隊長を絶句させた上、立ち会っていた白哉を凍り付かせた。
事情聴取が終わると恋次は自宅に帰りたいと申し出たが、明日は念のため身体検査もするからと、強制的に四番隊に入院させられた。
暗闇の中で一人目を閉じると、異空間にいたときの恐怖や苦痛が蘇るような錯覚がして、柄にもなく眠りにつくことができない。
ベッドの上で何度目かの寝返りを打った頃、窓にかかったカーテンがはらりと揺れた。
「・・・ルキア。」
「眠れぬようだな、恋次。珍しいこともあるものだ。」
窓枠から身を乗り出したまま、ルキアはからかうように笑った。
「夜中に窓から病室に侵入なんて、とんでもないお姫様だな。」
「わざわざお前の顔を見に来てやったのだ、ありがたく思え。」
ルキアの顔を見、その声を聞くだけで、恋次の心からは闇が取り払われていく。
ルキアはベッドの傍の椅子に腰を下ろすと、手を伸ばして恋次の髪を細い指で梳いた。
「お前がどんな目にあったかわかっている癖に。事細かにそのことを思い出させて話をさせるなど、酷い奴らだ。」
「さっきの事情聴取か。仕方ねえよ。俺は貴重なモルモットってところだろ。」
余裕ぶった口がきけるのも、今は近くにルキアがいるからだ。
「ふん、こんな柄が悪くて刺青だらけのモルモットがいるものか。モルモットに失礼だぞ。」
「てめぇ。言いやがったな。」
他愛ない軽口の応酬すらも、もう二度とできなかったかも知れないと思うと言葉が震えそうになる。
そんな恋次の頬にルキアは白い手をそっと寄せて、額に口付けした。
「今夜は私がここに付いているから。安心して眠れ。」
その微かな温もりが愛しくて。
恋次はルキアの細い手を取って布団の中に引っ張り込んだ。もがく小さな身体をそっと抱きしめる。
「こ、こら。何をする。」
「もっと近くにいてくれ。そうじゃなきゃ今夜は眠れそうにねえ。」
恋次はルキアの黒髪に唇を寄せた。
「てめえに呼ばれてはるばる帰ってきたんだからな。それくらいのご褒美はいいだろ。」
ルキアは微笑んだ。
「帰って来ないと、許してやらぬところだった。」
「てめえのいるところに、俺は必ず帰るから。いつだって、今日みたいに呼んでてくれよ。」
互いの温もりにこの上ない安らぎを感じ、間もなく二人は穏やかな眠りの世界に沈んでいった。
後日。朽木邸にて。
「兄様、これは何の工事ですか。」
「十二番隊に特注した、特殊霊圧監視カメラの設置作業だ。」
「そんなカメラを、どうして塀や庭先に、これほど大量に設置するのですか。」
「野良犬の帰巣本能というものは想像以上に逞しいことが、先般明らかになったからな。」
「・・・・・・はい?」
何のことでしょうか。ルキアは可愛らしく小首を傾げた。
一方。
「恋次。お前、山本総隊長に向かって、朽木ルキアのためなら何だってやるって啖呵を切ったんだってな。」
「そんなこと言ってねえ! 何ですかそれ、一角さん。」
「もう有名になってるぞ。お前の下僕宣言。」
「どういう宣言だよ、それ。」
「まあ、相手があの綺麗な朽木のお姫様じゃ仕方ないかって、みんな納得してるけどよ。」
「納得するな!」
「ちなみに俺も納得した。ある意味カッコいいじゃねえか。」
ああそうですか。恋次はがっくりと肩を落とした。
二人が最後に帰るべきところが、お互いの元であればいいと思います。
読んでいただいてありがとうございました。
なまぴょん