風邪は心配してもらうためにひくものだ

そう言ったのは誰だったかと、阿散井恋次はぼんやりとした頭で考える。
普段よりも随分情けない自分の思考を自覚し、本日何度目かの舌打ちをした。この状況は誰のせいでもなく、全て自分の責任だということは重々分かっているだけに、苛立ちをどう処理してよいのか分からない。
頭痛、悪寒、食欲減退。
いわゆる、「風邪の諸症状」である。いや、今思えば、これらの軽い症状が出た段階で摂生していればよかったのだ。
恋次はかなり体力に自信がある。最後に風邪などひいたのはもう半世紀以上昔、まだ手足の細い子供だったころの話で、死神になってからは、怪我以外で床に臥せった経験など一度もなかった。それ故、少々の体調不良など気にも留めずに連日残業を続けていたところ、今日になって起き上がることさえままならないほどの高熱に見舞われてしまった。
自己管理は、上に立つものとして必要最低限の義務である。副隊長である自分が一日仕事を抜けるだけでどれ程の支障がでるのかを考えれば、家で眠っていることは酷く苦痛だった。しかし無理をして仕事に出ても、これでは使い物にならない。ならば一日ゆっくり休み、すっかり完治させるというのが当然の選択であった。たかだか風邪で、四番隊の手を煩わせるわけにもいかない。

枕元の伝令神機が鳴った。無機質な電子音が頭に響く。着信音というのはこんなに大きいものだったかと、恋次は思わず眉をひそめた。普段は聞き逃すこともある程なのに、今日に限っては暴力的なまでに耳障りである。
枕元に手を伸ばし、通話ボタンを押し、他人と会話をする―――そのプロセスを想像するだけで疲労が溜まり、恋次は耳を塞ぐように布団を被った。
数十秒で、音は止んだ。自分は眠っていたのだ、だから電話に出られなかったのだ、と恋次は誰に対してか分からない言い訳をした。

暫くそうしていると、自身の呼気が熱かった。目も乾燥し、潤んでいるのが分かる。先ほどから頭痛も治まらず正直どうしてよいのか分からない。
こういう場合は普通氷枕だろうが、そんなものが自分の家にあっただろうか、と恋次は考える。少なくとも自分は買った覚えがない。
伝令紳機に手を伸ばし額に当てると、僅かにひんやりと心地良かった。その感触に、ある女の小枝のように冷たい指を連想し、思わず苦笑いをした。全く、自分はどんなものでも彼女に結び付けてしまうように出来ているらしい。昔から、ずっとそうだった。
しかし、この状態を彼女に知られるわけにはいかない、と思う。
それは、弱った姿を好きな女に見られたくないという、ある意味幼稚で、また彼の考える「男らしさ」に適った感情であった。
幸い、今日は何も約束などしていなかった。朽木隊長が知らせるとも思えないし(いやあの人は絶対に知らせない。今わの際にさえ呼んでもらえるかどうか怪しい)、彼女に自分の欠勤が伝わる可能性はほとんどない、と恋次は判断した。

少し眠ろうか、と考える。頭痛は酷いが、目を瞑っていれば少しは眠れるだろう。そうして恋次は目を閉じ、努めて何も考えないようにしていると、少しずつ、意識が落ちてゆくのを感じた。
ゆるり、ゆるりと。









カタリ、と僅かに響いたその音で、恋次は再び意識を取り戻した。玄関だ。舌打ち。こんな時に、誰だろうか。鍵をかけておくべきだった。上手く霊圧も探れない。
その間にも人の気配がどんどん近付き、寝室の前で止まった。
スルリ、と襖が開く。

「いつも言っておるだろう、鍵くらいかけておけ」

耳に馴染んだ声。よく知った幼馴染が、部屋の入り口に立っていた。
数刻前の恋次の見立てはあっけなく外れたことになる。
「お前……何で」
「酷い声だな。もう喋るな」
そう言って朽木ルキアは恋次の側に腰掛けた。彼女は何故か無言で、恋次の顔をじっと見詰めている。こんなときの彼女は、何を考えているのか分からない。
「ルキア?」
一度短い溜め息をつき、全く――とルキアは言った。
「お前のような体力馬鹿が風邪をひいてどうする。お前が電話に出ないと理吉殿から連絡を頂いた。随分心配しておったぞ。風邪なら風邪で、周囲に心配を掛けない臥せり方をしたらどうだ」
そう一気にまくし立てると、ルキアは白い袋を抱えて台所へ向かった。
恋次は混乱した頭を整理した。成程、先ほどの電話は理吉からであったらしい。悪いことをした、と思うが、何もルキアに知らせることはないだろうと、恋次は内心毒突いた。しかし正直なところ、彼女の顔を見た瞬間まず浮かんだ感情を考えれば、理吉の人選と判断には感謝しなくてはならない。
ルキアが台所から戻ってきた。今度は小豆色の袋を抱えている。
「ほら、頭を上げろ」
そう言われるがままに頭を浮かすと、枕の替わりに冷たいものが据えられた。
氷枕だ。
すうっと、熱が引くのを感じる。
気持ち良い。
「これ、お前が持ってきたのか?」
「どうせここにはそんなもの無いだろうと思ってな。予想通りだ」
「悪ぃ……」
「そう思うならさっさと寝ろ。言っておくが、私は粥など作れぬからな」
構わねえよ――と呟いて、恋次は再び目を閉じた。
酷く心地良い。
このまま、朝まで眠ってしまえればいい。
きっと、起きた時には治っている。
ひやりと、頬を冷たい感触がなぞる。
何度も、何度も。
ルキアの、細い指。
本物の。

恋次は今度こそ、深い眠りに落ちた。









次に恋次が目を覚ました時、最初に目に入ったのは、幼馴染の寝顔であった。
一瞬、状況が把握できずに混乱する。どうやら、随分長い間眠っていたらしい。白かったはずの光が、今は既に紫がかっている。
気付けば、体はずっと軽くなり、頭痛も大分治まっている。額の上には濡れた手ぬぐいが載せられていた。
布団の隣では、ルキアが座布団を枕代わりにすっかり寝入っている。自分の顔の真横に、ルキアの小さな顔がある。
白いな、と恋次は思う。
全く、コイツはいつだって呆れるほど色が白い。
先程までの威圧的な態度とは異なり、今はまるで少女のような寝顔をしている。全く、こちらの気持ちを知ってか知らずか、こんな無防備な姿を晒すのだからたまらない。
肩肘だけで上体を起こし、右手でルキアの肩をそっと揺すった。
「おい、ルキア、起きろって」
しかし彼女は小さく身動きしただけで、目覚める気配はない。
すっと、頬に手を伸ばした。掌で撫ぜる。滑らかな頬。柔らかな。
ゆっくりと、顔を寄せる。
今目覚めたらどう言い訳しようか、と考える。
言い訳が、必要だろうか。
彼女の黒髪を指で梳く。
あと、ほんの僅かな距離。

「―――餓鬼か、俺は」

恋次は手を引くと、ぱたり、と再び布団に横たわった。目を瞑る。見舞いに来た幼馴染の寝込みを襲うような真似、どうかしている。恋次とて、女を知らないわけではない。しかしルキアは既に恋次にとってただの女ではない。どちらかといえば、ルキアという存在が先にあり、「女」という概念は後から付いてきたものであった。

全く、どうかしている、と恋次が内心で嘆息をもらしたのと、胸の上に柔らかい重みを感じたのはほぼ同時だった。
唇に微かな圧力を感じる。
目を開けると、ルキアの大きな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「……これ位、したらどうだ」
「ル……」
再び、ルキアの顔が近付き、接触する。熱のため乾燥して荒れた唇のせいか、感覚が鈍い。ルキアの柔らかな唇を傷つけてはしまわないかと、恋次は妙な心配をする。
長い口付け。ルキアは両手で恋次の頬を支えている。今はもう、唇はすっかり潤み、感覚を取り戻している。
ルキアがゆっくりと唇を離すと、細く光る糸が引いた。
矢っ張り熱いな、と吐息交じりに呟かれた言葉が頬をくすぐり、恋次は目眩さえ覚えた。
いいか、とルキアは囁いた。
「今度からは、私にきちんと連絡しろ」
そう言ってルキアは少し哀しそうな顔をした。
分かった、と言おうとしたが、声が掠れて上手く音にならず、役に立たない口は三度塞がれた。
徐々に、二人の温度は均質になる。

風邪をうつしてしまう、と危惧しながら、ルキアを制する腕にまるで力が入らないのは、多分、熱のせいだ。











ここまで読んでくださった方は、どうもありがとうございます!
無駄に長くてすみません。
恋次が少女漫画ですみません。
普段病気しない人が風邪をひくととても不安になる、というお話です。



あつこ