無数の氷片が辺りに舞い散り、夕日を美しく反射させている。
 自分の斬魄刀が創り出した景色であるにもかかわらず、ルキアはその様子を他人事のように眺めていた。
 たった今、その氷で虚を滅し終えたところなのだ。しかも相手は破面の卵だった。
 おかげで全身に虚と自分の血が染み付いてしまっている。普段は外見などさして気にしないのだが、これには流石に参ってしまった。
「……彼奴は、無事だろうか…。」
 一護たちが現世へ帰ってまもなく、ルキアの霊力は回復した。それに伴い、現在ルキアと恋次にとある任務が与えられている。どちらも、近いうちに起こる破面戦での戦闘要員候補にその名が挙げられていたからだ。
 しかし現時点で就いている位以上の実力があるとはいえ、ルキアも恋次もともに“隊長クラス”というわけではない。そのため、個々の正確な力量を知るために、単独で破面の実験体を撃破することになった。
「ともかく報告だな…」
 だが、自分を叱咤するように伝令神機を取り出したルキアの手は、その画面を見た瞬間に止まってしまう。
「!!……すぐに帰らねば…!」


 透明な柱が、部屋の天井全体を奔る銀の鎖に、何重にも巻きつけられ宙吊りになっている――恋次はその柱に閉じ込められていた。
 床では、清浄な水が四方から流れ、八方に散っている。
 その外側から更に、まるで硝子のような結界が外と内を完全に隔てていた。
 幾重もの封印。
「兄様…これは一体どういうことなのですか……?」
 朽木家に運び込まれた画像転送機の画面を見つめながら、ルキアはか細い声でつぶやく。
 その表情からも声色からも、常人では感情を読み取ることはできないが、正座した膝の上に乗せられた両の拳はごまかしようもなく震えていた。
 故意に平静を保とうとしているのか、いかなる感情も受け付けないのか。どちらにせよ、ルキアを思いやった義兄は静かに語りだした。
「……奴もまた、虚を倒すのには成功した。…が、虚が昇華し終える瞬間、奴は油断したのだ……虚に能力の種子を打ち込まれる程にな。」
「…その“能力”とは?」
 ルキアは視線をあげ白哉を見た。その目に涙はない。
 白哉は一瞬だけ躊躇ったが、顔色を変えることなくルキアに告げる。
「魂魄寄生能力だ。この虚の場合、まず体内に侵入し、そこで記憶を奪うことにより対象を自らのものとする。記憶は、その者自身を構成するのに不可欠な要素だからな……しかしあの虚が生きていたのならば奴は虚に喰われていたのだろうが、生憎昇華済みだ。となると」
 脳裏にかつて憧れた上司の顔が浮かぶ。「死神の…虚化?」
 答える代わりに白哉は視線を画面に向ける。
「…奴の頭部に、能力の種子である『糸』が潜り込んでいるという。そして奴の記憶を徐々に奪い取り、全てが奪われたとき……虚化は、完成するそうだ。」
 まるで、腐敗が進行するように。
「記憶…。」
「現在、無理矢理記憶を引き出そうとする糸を水を用いた縛道で封じ、恋次自体を結界で抑えている。特殊な儀式ゆえ誰も近寄れぬ。よって臨時に完全禁踏区域に指定され、こうして映像で様子を見ているのだが…」
 気配を感じ窓の外に目をやると、雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
 それは次第に強くなっていく。二人を閉じ込める檻のように、容赦なく。
 雨がもたらす冷気に熱を奪われ震えるルキアを、白哉も冷えた眼差しで見つめていた。
「奴が助かるには、奴自身が虚の糸に勝つほか無いのだ。奴の記憶の大部分を占めているであろう我々が近づこうものなら…わかるな、ルキア。」



― わかっていた。
 私が近づくときっと恋次の記憶は溢れてしまう。もしその瞬間に記憶を一気に奪われてしまったら、恋次が……壊れてしまう、ということは。
 だがそれでも近づかずにはいられない。私そのものがどうしようもなく恋次を求めている…いや、恋次に縋っているのだろう。
 やっとつかめた手を、二度と放したくなかったのだ。
「どうかしているかな、私は。」
 気がつけば自分の周囲に結界を張り、夜の闇に紛れ、恋次のいる部屋に忍び込んでいて……
「……傷だらけだな、恋次…。」
 ただ、恋次を見上げていた。
 全身に傷を負っている。血や泥が体中にこびりついているが、臭いは縛道の水で清められているせいか感じられない。髪はほつれ、両目や口は固く閉ざされている。
 視線を四肢に移す。手首足首には縄で縛られた跡があった。暴れ、叫び、四番隊での治療が困難であると判断され、縛道が施されることになったのだと白哉に説明されたことを思い出す。
 だが、しかし。
 体が悲鳴を上げているはずなのに、苦しいはずなのに……恋次は微動だにしない。呼吸すら疑ってしまうほどに。

 言いたいことがたくさんあった。聞きたいこともいっぱいあった。
 やっと話せると思ったのに。
 朽木家に拾われ、私の世界にお前がいなくなったことが、ただ寂しくて辛くて悲しくて苦しくて。
 やっとその心の痛みから解放されると思ったのに……お前は、まだ遠くにいる。 ―



 手を伸ばしてみても、縛道に閉ざされている恋次に届くはずもなく、ただ空を掴むだけ。
 何もできはしないのだ、やはり帰ろう――とふらつく足を動かしたときだった。
「そうだ」
 まるで波紋のように、声が部屋に響き渡った。
 ルキアが反射的に振り返る。その視界に恋次の目の色が飛び込んできた。
 心が、全身が求めていたその声。渇望していたものが与えられた、ただそれだけでルキアの心は震えてしまう。
「そうだ、………が帰ってきたら、副隊長になったって……テメーと面と向かって話せるように、なった…って、……」
 ルキアは縋るように恋次を見た。虚に打ち勝ったのかと、希望さえ持って。
 だが、恋次は――笑っていなかった。
 声は穏やかなものだが、その表情は険しく、今にも暴れ出しそうなほどだった。
 やがて再び恋次は意識をさらわれてゆき、その目は固く閉ざされた。
 戦っている。記憶を喰らおうと糸が蠢くたびに縛道は記憶をかき乱し、恋次は記憶を離すまいと全力で握り締めている。
 そこに確かな恋次の意志を感じ、思わずルキアは叫んでしまった。
「恋次!―――」
 その想いの強さのあまり、集中が乱れ自身の結界が崩れてしまうのも忘れて。

 恋次がルキアの霊圧を探さないはずは無い。ルキアの霊圧を見失うはずが無い。
 不運にも、ルキアの霊圧は恋次に届いてしまった。


 ばきり、と柱が鈍い音を立てて崩れていく。
 その音にルキアが我に返ったときには、柱の縛道は消え去っており、恋次はルキアの目の前でゆらりと佇んでいた。
 その目を、限りなく深い黒に染めて。
「ぁあああぁぁあぁああっ!」
 虚に近い声で恋次が叫んだ。
 霊圧が荒れていく。虚の臭いが満ちていく。直に全ての縛道も解けてしまう。――そうなれば、恋次は。
 自分の浅はかさを呪ったが、後悔している間にも恋次はみるみる虚に飲み込まれていく。

『恋次!――記憶を手放してはならぬ、たとえ苦しくとも放棄してはならぬのだ!!それは自分を見放すこと、お前自身を捨てることだ!お前がお前でなくなってしまう!!』

 ルキアは、闇に溺れゆく恋次に向かって必死に叫んでいた。
 それは、今までのルキアだったのだ。苦しくて記憶から目を逸らし、結果的に心を殺してしまっていた、かつての自分。
 そんな自分を救ってくれたのは――分けろ、と言ってくれたのは。
「奪われてたまるか…!」
 恋次に仮面が形成される際の隙を狙って、ルキアは恋次を抱きしめた。驚いた恋次は抵抗したが、その巨大な霊圧で体中の皮膚が弾けてもルキアは決して離そうとしなかった。
「恋次、私を見ろ!!私がお前の記憶だ、私がいる限りお前の記憶は決して無くなることはない!」
 ――今度は私が恋次を助ける番だ。
 ルキアは全力で恋次を抱いていた。霊圧も全て開放し、恋次を包み込み、その存在を訴えた――だから恋次の体から力が抜けても、気づくのに少し時間がかかった。
 はらり、と透明な何かが落ちてきてようやくルキアは恋次を見る。
「……恋、次…?」
 ――恋次は、泣いていた。

 ルキアからゆっくり体を離し、自分の足で立ち上がった恋次は、少しずつ焦点がルキアに合うとほっとしたように微笑んだ。
「ルキア……戻ってきてくれたのか。俺が手を離しちまったから…俺が突き放したから。こんなこと言う資格もねぇ、って思ってた。」
 縛道や虚の糸のために記憶が散乱している。どうやら“あの時”の記憶が揺り動かされているようだ。
 ルキアは何も言えず、ただ黙って恋次の言葉を待つしかなかった。
「ルキア、俺は……」

 恋次は続けて唇を震わせたがそれらが音になることはなく、力が抜け上体が大きく揺れた後、そのまま意識を手放してしまった。
「……本音を言いたがらないのは相変わらずなのだな。」
 規則正しい呼吸音を聴きながら呆れたように呟くと、ルキアは伝令神機を取り出し、確かな手つきで番号を押していった。


 縛道の副作用か、恋次には今回の任務に関する一切の記憶が無くなっていた。
 しかも白哉が手回ししていたためにルキアと恋次の傷は即座に治療され、またこの件は機密扱いになり、ごく一部の者のみが知ることとなった。
 当然、ルキアにも恋次にもお咎めはない。それどころか、ルキアが破面戦の戦闘要員に決定し、彼女に近しいとして恋次も選ばれた。
 当事者なのにおいてけぼりの恋次は、大量の冷や汗をかくばかりである。
「虚討伐からの記憶が一切無いんですが。いつの間にか日付が変わってるし今日休暇扱いになってるし破面戦の戦闘要員に決定してるし。朽木隊長、なんでか知りませんか?誰も何も教えてくれな」
「お前のその休暇は朽木家に使ってもらう。」
「俺の質問は却下ですかそうですか…」
 ため息をつく恋次に、白哉はさらに追い討ちをかける。
「私とルキアに償ってもらわねばならぬからな。」
 相変わらず“白哉”と“ルキア”の二つの単語に弱い恋次であった。
「…と、いいますと?」
 恐る恐る、といった様子で白哉の顔色を伺う。
「お前の意識が飛んでいる間の後始末及び滞っていた書類業務は、全て私がしたのだ……その分を埋め合わせろ、と言っている。」
「げ。」
「分かったのならさっさと行け。」
 話はここまでだ、と言わんばかりに背を向け隊首室に入る白哉に、慌てて恋次は話を続けた。
「俺、ルキアにも何か迷惑掛けたんスか!?」
 白哉は振り返って恋次を見、その表情がどこか泣きそうなのを確認して、静かに嘆息した。
「……今回のルキアの行動で、お前は命を救われた。それだけ知っておけばよい、お前も思い詰める質だからな。」
 一瞬だけ恋次に向き合い、諭すように白哉は告げた。
「その命、無駄にせぬことだ。」
 そして今度こそ隊首室へこもってしまった。
 恋次はしばらく息を呑み佇んでいたが、閉ざされた隊首室に向かって一礼した後、朽木家へと真っ直ぐ走っていった。

 恋次の気配が消えるのを感じてから、白哉は机の引き出しから小さな箱を取り出した。その中には、半分に切れた虚の糸が納められている。
 厳密に言うと、恋次が虚の糸に勝ったわけではない。恋次に入り込んだ糸も結局は霊体であり、虚化の際に恋次の霊圧に溶け、外部へ出てきたと同時にルキアの霊圧が恋次に入り込んだため、ぶつかり合う振り子のように弾き出され切れてしまったのだ。
 山本総隊長がルキアと恋次を破面戦の戦闘要員に選んだ理由も、ここにある。
「糸を半ばにするは絆、か……」
 ふと何かを思いつき、白哉は仕立て屋を呼んだ。
「外套を二着頼む。その生地にある物を織り込んでほしいのだが…」
 仕立て屋に細かな注文をしながらも、遠い景色に想いを馳せる白哉の眼差しは――温かいものだった。


「剣の相手になってほしくてな。」
 朽木家の道場で準備体操をしていたルキアは、家老に案内されてやって来た恋次に木刀を放り投げた。
「そんなんでいいのか?っつーか現世任務の準備しなくていいのか?」
「もちろんお前が整えてくれるのだろう?副隊長殿。」
「…やっぱりな。」
 恋次は大きく肩を落とした。この様子じゃ今日一日はよくて下僕だな……、とうなだれる。
 だがそんな気持ちも、目の前の勇ましいお嬢様を見ると、たまにはいいかと思えてしまうから不思議である。
 うだうだ考えていることを心の隅に追いやり、やる気満々のルキアと向かい合った。
「ほら、早く構えろ恋次!」
「てめーこそ木刀はどうした?」
「無い!」
「あ?準備できなかったのか?…しょうがねぇな、俺は素手でやってや」
「いや、私は始解状態で始めるからそのまま木刀を構えてくれ。」
「何サラッと殺戮宣言してんだよ!!」
「舞え、袖白雪。」
「ちょっと待てこらあぁぁあっ!!」
 …だけどやっぱりろくなもんじゃねえ、と思い直す恋次であった。



― 問答無用で始めた稽古を楽しみながら、私は心の中で舌を出す。
 想いを言葉にできないのはお互い様だな。
 これはお前と肩を並べて戦えるようになるための稽古なんだぞ。私の知らぬ間に、お前が危険にさらされることなど無くしたいからな。

 …決して言わぬからな。
 死にそうなほど心配した、とは。
 私を忘れないでいてくれて嬉しかった、とは。
 ――お前がいてくれて本当に良かった、とは。

 なあ恋次。
 記憶でも、命でも、自分でも――形の無いものを守るのは何より難しい。
 私は今回それがよくわかったけれど、それでもそれが“お前”ならば……私は必ず守ってみせるよ。 ―



 半泣きしている恋次の髪を若干凍らせながら、ルキアは静かに笑っていた。











初陣です。いかがでしょうか?
“確実にそこにあるけれど見えないもの”ということで、文中に“形の無いもの”や“透明なもの”を散りばめてみました。
ここまでお読みくださりありがとうございました!