簡単に言えば、これだけの話。
―――を好きだというだけの話。
『lipstick』
春の気配が漂う麗らかな午後。
太陽に向かって背を伸ばす菜の花も、風にその身を任せて寛ぎ、その上では蝶がゆったりと羽を休める―――そんな柔らかな空気の中でもキッチリと小さな背を伸ばして歩く後ろ姿。その背を土手の上に見つけ、予想通りの時間だ・と、体重を預けていた草から身を起こしてから俺は声をかけた。
「ルキア!」
大きな空気の振動は歩みを止め。小さな背を持つ華奢な女は、ゆっくりと振り返り俺の姿を認めると、殊更ピンと背を伸ばしてみせた。席官でもない平の死神のくせして、副隊長に向かってお辞儀をしようともしない。そのままの姿勢で、そんなに大きな声を出して恥ずかしくなのか・と呆れたような表情を作った後に、小首を傾げてくる。
何のようだ?と。
親しげな様子そののままに。
肩までの黒髪が風にフワリと誘われて踊り、その様子に一瞬目を細める。少女の周りでウロウロする少年達がいないのが不思議なような気がして、その妄執を頭から閉め出す。それはもう終わってしまったことだ。時は経ち、少年達はもういない。
「団子!食うだろ?」
腕に抱えていた紙袋を掲げ、俺が腰を下ろしている川原の近くに来いと手招きをする。ルキアは僅かに逡巡するが、すぐに「みたらし団子はあるのだろうな?」と笑顔を寄越した。「当然」と答える代わりに袋からみたらし団子を一本取り出し口の中に入れる。甘い風味が広がるのとルキアがこちらに駆け出してくるのは同時で、俺は思わず笑ってしまう。
「私のみたらし団子に何をするっ!?」
「何でおめぇのになるんだよ。買ったのは俺だぞ」
「お前が買ったみたらし団子は私のみたらし団子だ。食べる権利は私にあるぞ」
「無茶苦茶な理屈だな。おい」
「お。何だ、まだあるではないか」
まだ差し出してもいないのに。ルキアが勝手に袋をごそごそと漁ると団子を一本取り出し、隣に座った。
この位置に長い間、こいつがいなかったなんて信じられないくらい当たり前に。何の違和感もなく、すっぽりと。まるで何もない空間にルキア専用の椅子でもあるかのように収まる感じ。時間なんて関係ない。見えないけれど、確かにあるルキアと俺の何かを実感した気がして、妙に嬉しい。
「ん。美味い」
「ほら、茶」
「おお。気が利くな」
「仕事帰りか?」
「ああ、今日は早番だ」
何気ない会話が続く。昼飯は何を食べただとか、こんな仕事は大変だとか、あの人は優秀だとか。少し前まで、こんな会話すら無かったのが嘘のような時。そんな時がもっと欲しくて、俺は繰り替えし繰り返しルキアの姿を探しては話しかけ、ルキアは笑顔で返してきた。懐かしい今という時。何より大切にしたい。
「で?副隊長殿は死覇装も着ずに何をしているのだ?」
「休みだ、休み。休暇中。いい天気だから散歩に出た先に団子屋を見つけたんだよ」
「ふぅん」
興味なさげにルキアは返事を寄越し、再び袋を漁り二本目に食いついた。
俺はそんな様子に心中で舌打ちをする。もう少しくらいは興味をみせてくれてもいいと思うのだが、それは贅沢な話だろうか。せっかく待っていたというのに。そんな事は口に出せないが団子で用意してやったのに。ルキアがこんなに淡白だと昔のように話せることが出来るようになった事を喜んでいるのが、自分だけなのではないかと疑ってしまう。その考えはあまりにも寂しい。
面白くなく、バクリと二つまとめて口に団子を送り込んだ所でルキアが口を開く。
「なんだ。偶然か、つまらん。私を待っていてくれたのかと思ったのに」
「っ!?」
「………ベタだな」
「〜〜〜っ!!!」
「ほら、茶だ」
「―――――――――――――ぷはっ」
危うく団子を咽に詰まらせて死ぬところだった…。まったく、冗談じゃねぇ。それにしても、いきなり何て核心を突きやがるんだ。コイツ。
それでなくても本当の事を言えやしないのに、今更なんて当然無理で、俺はあっさりと真実を胸の奥にしまいこんだ。変わりに引っ張り出しすのは天邪鬼と不機嫌面。団子の櫛をポンっと袋に放り込みつつ、視線をルキアから外す。
「…なんで、俺がてめぇの帰りを待ってなきゃいけねぇんだよ?」
「何でって。そのほうが嬉しいからに決まっているだろう」
「誰が」
「私が」
「何でだよ?」
「好きだからだ」
「あーはいはい。てめぇは団子とか白玉とか、もちもちしたもん好物だもんなー」
「………」
?
何だ、今。盛大にため息とかつかれなかったか?
「違うぞ」
「ん?違ったか、好物」
「団子や白玉は今でも好きだ。だが、さっき言った好きはそれではなくて…」
「何だよ?とりあえず、団子はまだあるぜ。食うか?」
「っ!団子から離れろっ」
差し出した袋を奪い取るとルキアは乱暴に横に置く。それから、わざわざ俺の正面に座りなおして、一度だけ左右に瞳を泳がせた後にハッキリと唇を開き、俺に告げた。
「私は恋次が好きだ。家族という意味ではなく、一人の男性として」
真摯な眼差し。そこに冗談やからかいは含まれていない。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳が輝いて、知らない女のように綺麗だ。壊れてしまいそうで触れられなかった。ぐるんと思考がゆっくりと働く。心音も妙にゆったり打っている。
好き?
ルキアが俺を?
一人の男として?
………でも。
「俺とお前は家族だろ?」
真珠の涙というものを始めてみた。瞳から大きな雫がつうと零れ落ちる。―――ルキアは泣く。俺から見ればもっと泣けばいいのにと思うほどの回数だが涙を零す。泣いている姿は知ってる。泣き顔も見た。幾度。
だけどこんなに無防備な涙は知らない。
何も隠す事無く。表情を歪める事無く。俺を真正面に見たまま。俺の顔がルキアの瞳にはっきり映ったまま。そこから二連の涙が零れ落ちて伏せられた。
「すまぬ。妙な事を言った。忘れてくれ」
そういい捨てルキアが逃げだし、あっという間に小さな背が遠ざかる。さっき自分の声で近くに留めた背が…。
零れた涙を救おうとして制された左手が冷たい。
何が起きたかすらまだよく分かっていなかった。だから、何を言えばいいとか、何をすればいいとか、そんな事は考えずに駆けだしていた。だが、誓いの言葉だけを胸に思い出し、何も考えずに追う。力の差を考えれば、当然の結果が現実となり、逃げるルキアの腕を掴む。細くて、妙に柔らかい腕だ。双極の丘から逃げるときにも掴んでいた筈の腕に戸惑う。俺はどうやってこの腕を掴んでいたのか思い出せない。だけど必死に腕を掴み続ける。
悲痛な声が空を裂いた。
「離せ!」
「っ!」
「忘れろ!」
「!?」
「忘れれば戻れる。私とお前は家族に戻れる。だから、この手を離して、今日の事は忘れてくれっ。恋次!」
あれ。と心の中に疑問符が浮かぶ。
どうして俺は腕を離さないんだろう。どうして俺は今、心を痛めた?ルキアと家族でいる事をさっき望んだのは俺だったのではないのだろうか?それを告げたのは俺だったのに。と言うか、そもそも何でこういう事になっているんだろう。俺はルキアに会いたかったんじゃないのか?会って、話をしたくて。話をして、声を聞きたくて。声を聞いて、笑顔を見たくて。それだけのために。こんな大切な事のために団子を買って待ってたんだ。それなのに、何でルキアは泣いてるんだろう。泣いてなんて欲しくないのに。コイツにはずっとずっと笑っていて欲しかったのに。見たかったのは笑顔で、幸せそうな笑顔で。あんな下を向いて涙を堪えるような曇った顔を見たかったのでは決してなかったのに。そんな顔のために手を離したんじゃない。だから、もう一度届く場所に登ろうと。戻ろうと決めて。鍛錬して。死ぬ気で鍛錬して…なんでだ?俺が傍にいればルキアは笑っていてくれるのか?そうだ、ルキアに笑っていて欲しいなら強くなる必要なんかない。こっそり会いに行って励まして、いつかルキアを笑わせてくれる奴が現れるのを願ってればいい。でも、そうしなかった。正面だって傍にいられないと意味が無いのか?なら、何であの時手を離した?分かってただろう。貴族との差は。どんだけ吠えようと。どんだけそんな物関係ないと吠えようと。差を一番、感じていたのは俺自身だった。だから、ルキアが貴族になれるのならいいと考えたんだ。笑顔になれると…。そうか。俺が見たいのは、俺が守ったルキアの笑顔だ。
そのルキアは?
良かった。左手の先にいる。
ああ。こいつ、こんなに小さかったっけ?こんなに脆かったっけ?こんなに細かったっけ?こんなに柔らかかったっけ?こんなにいい匂いしたっけ?こんなに声が綺麗だったっけ?こんなに大切だったっけ?こんなに可愛かったっけ?俺、ルキアを女として見てるか?話せる?触れられる?抱きしめられる?口付けられる?抱ける?………俺だけのものにしたい?
答えは全てYES。
俺はルキアが好きだ。
昔からずっと。
明確に自覚した途端、混乱が訪れる。どうしよう、抱きしめたい。震えている肩を抱き寄せて。項垂れている頭に触れて。濡れているだろう瞳を見て。この両腕にルキアを閉じ込めてしまいたい。
だけど、許されないだろう。さっきルキアを酷く傷つけた。
「ルキア」
名前を呼んでから、腕を掴んでいた力を弱める。離す事はできない。膝を付き、ルキアの手の甲に額を当てた。頼むから―――
「ルキア」 ――― どうか逃げないで。
「ルキア」 ――― どうか顔を見せて。
「ルキア」 ――― どうか泣かないで。
「好きだ」 ――― 俺の一番大切な女性。
額の先の。力を入れたままだった拳がとかれる。
「…莫迦者」
「ああ」
「傷ついたぞ」
「悪ぃ」
「泣いてしまったではないか」
「ん」
「責任とれ」
「全身全霊をかけて」
「足りぬな」
「一生もつける」
「キスさせろ」
「………………………普通はしてって言うんじゃねぇの?」
ここで振り返るのも普通じゃないだろ。知ってたけどよ。
だけど、振り返ったその表情が挑発的な笑顔だったりするから。
「責任とってくれるのだろう?」
「…どうぞ」
クスクスと笑い声が耳を擽る。唇と唇が触れ合う前に、ルキアの瞳から落ちた雫が一粒。俺の唇を「ただいま」を言うように撫でた。
ルキ恋祭ということで、ルキアが引っ張る形にしてみました。上手くいってるでしょうか?
ルキアの誕生日期間だというのにルキアが苦労してます…
相も変わらず拙い文ですが、恋ルキ祭に続きルキ恋祭にも参加させて頂き幸福ですvありがとうございました!
かぞえ唄 ぜろわん