「次は何処だ?」
「ええと、次は……あれ?ちょっと待ってください、手帳が」
 ごそごそと物入れを探す理吉の傍ら、恋次は焦る理吉を見遣って笑うと「まあいいか、ちょっと休もうぜ」と廊下の欄干に寄りかかった。
「朝からずっと働き詰めだしな。休ませねえで悪ぃな理吉」
「何言ってるんですか、恋次さんの方が大変だっていうのに」
 ようやく探し出した手帳の今日の予定の頁を見、まだ次の予定まで多少の時間の余裕があることを確認して、理吉は恋次と同じように欄干に背を預けた。僅かの休憩時間を取ることにしたのは、勿論自分のためではなくて恋次のためだ。
「夏からずっと、休む暇もなく働き詰めじゃないですか。それも……激しい任務ばかりで」
 あの、尸魂界中を巻き込んだ、藍染の反乱。
 そしてそれに続く、尸魂界・現世・虚圏を混乱の渦に叩き込んだ騒乱。
 どの混乱、どの事態も、恋次は常に先頭に立って突き進んでいた。
 激しい戦闘、生命を落としかねない極限状態、未曾有の出来事に、常に全力で、その身を危険に晒し、幾度も死闘を越え死線を越え……
 世界を護った。
 そうして世界に秩序と平和が戻り、恋次も尸魂界へと戻り、ようやく通常勤務に戻った恋次を待ち受けていたのは……やはり護廷十三隊六番隊副隊長としての激務。
 補佐としてついた理吉が心配するほど、恋次の勤務はハードだった。朝から晩まで、ほぼ休む事無く働いている。
 六番隊隊長である朽木白哉の能力は勿論申し分ない。処理能力も判断力も、冷静な頭脳で下す結論も、全て問題は無い。
 問題は無いが……逆にその完璧さが、そして大貴族の当主というその身分が、部下達が気軽に言葉を交わせない雰囲気を作り出している。
 故に、六番隊の隊員たちの陳情や意見、質問、相談、報告、そういったすべての事柄は恋次に集中した。そして、恋次もその膨大な事務の全てを―――その外見からは想像できなかったが―――完全に処理しきる能力を持っていたがために、恋次の元へは次から次へと書類が回ってくる。その全てに目を通し、最善の策を採り、最適の部署に書類を回し、最良の助言を相手に与え―――そしてその対処に対して上からも下からも恋次に対しての評価が上がり、更に恋次の仕事は増えていく。
 また、その激務を感じさせない恋次の人柄も、仕事の増加に拍車をかけた―――隊舎内を歩けば、気軽に恋次は部下に声をかける。まだ入ったばかりの新人の顔と名前さえ、恋次は把握していた。学生時代とは比べ物にならない程の勤務、周りの、僅か一年先を行っただけの先輩たちと自分との能力の差に萎縮する新人たちが、恋次に声を掛けられ―――しかも六番隊「副隊長」である、新人達にとって見れば雲の上にいる恋次が、何の接点もない下端の「自分」の名前と顔を覚えてくれているのだ―――「がんばれよ」と肩を叩かれ、嬉しさと喜びに顔を輝かせる様を、恋次と行動をともにしている理吉は何度も眼にした。
 恋次は六番隊の隊員、全てに好かれている。
 裏表のない性格、気さくな人柄、そして高い戦闘能力。
 恋次自身に、その能力に信頼を寄せる隊員は多い。多いのはわかっているが……
「少し休んでくださいよ。このままじゃ身体を壊しちゃいますよ」
「そんなやわじゃねえって、何回言えばわかるんだよお前は」
「限度を越えてるって、何度言えばわかってくれるんですか」
 睨む理吉に、恋次は「大丈夫だって」と何処吹く風だ。
「息抜きはしてるって。家にだって帰ってるだろーが、毎日」
「それだって他の隊員たちより後じゃないですか」
「いいんだよ、家で充分休んでんだから。それよりそろそろ行くぞ。次は何処だ?」
「あ、はい、伊勢副隊長と一ヵ月後の護廷十三隊総合訓練の打ち合わせです。八番隊に行きます」
「伊勢サンか。あの人の企画立案はしっかりしてっからな、仕事速いから助かる」
 年に一度護廷十三隊は、各隊それぞれの新人が日頃の修練の成果を披露するために、主だった各十三隊の隊員たちの前で己の技を披露する。
 そこで各々が能力を見せ、そして結果他の隊に引き抜かれることもあるし、昇進のきっかけになる事もある。新人にとってこの総合訓練は重要な意味合いを持っているのだ。恋次が五番隊に入隊して後、すぐに十一番隊に異動になったのも、この総合訓練の演習を見た更木剣八の引き抜きによる。
 夏の事件で、藍染が「従いそうもないので手放した」と恋次に告げた事実を、機会があった折に剣八に尋ねた所、剣八は「俺が力のねえ奴を部下にするわけねえだろうが」と、恋次の異動が藍染の思惑ではなく、純粋に恋次の能力を認めた故の剣八の引き抜きであった事を知って、恋次は胸の中のわだかまりが晴れて気が軽くなった。
 つまりそれだけ、この総合訓練は新人にとって重要な意味を帯び、そしてその大掛かりな訓練の今年の運営全てを任されたのが、七緒と恋次だった。共にその処理能力を上に買われての決定だ。
 理吉は自分が憧れる恋次が正当に評価されるのを嬉しく思いつつ、それ故のこの恋次の多忙さに心配もしている。
 その理吉の心配をよそに、本当に僅かしか休まずに、行くぞと恋次は勢い良く歩き出した。理吉はその背中を慌てて追いかける。
 大柄な恋次の一歩は、小柄な理吉の二歩にあたる。小走りに恋次の後を付いていくと、隊舎の正面玄関を抜ける直前、背中から「阿散井副隊長!」と明るい声が掛けられた。複数の声、けれど同時に発したために一つの言葉。
「こんにちは、お久し振りです!」
「おう、片桐、岩瀬、松村。元気だったか?」
「はい!阿散井副隊長もお元気そうで!」
「心配しました、ずっと六番隊に戻られないから……」
「でも、私たち阿散井副隊長が強いの知ってますから!絶対大丈夫だって、そう思ってました!」
 一斉に恋次を取り囲むように、三人の少女達が恋次を見上げていた。三人が三人とも、上気した頬と、上擦った声と潤んだ瞳で恋次に接している。
「お帰りをお待ちしてました、私……私たち」
 真中の髪の短い少女が、恋次にそう言うと、恋次は屈託なく「そうか、待たせたな」と笑いかける。途端、少女は真赤になって俯いた。
「それよりどうだ、俺のいない間、ちゃんと鍛錬してただろうな?さぼってねーか?」
「当たり前ですよ、ばっちりです!」
「そうか、じゃあ総合訓練楽しみにしてるぞ?お前らがどれだけ上達したか最前列で見てやるからな」
 にやりと笑う恋次の周囲で、少女たちは驚きに目を丸くする。
「え!?」
「少しでも演舞間違えたら野次るぞ俺は」
「ええっ!」
「そ、そんなあ」
「あの、それじゃ……あの!一度、見ていただけませんか、演舞」
 思わず恋次の着物の袖口を掴んで、髪の短い少女は赤くなりながらも必死で言葉を続ける。
「総合訓練の前に、あの、何処がおかしいか、何処を直したらいいのか、教えていただきたいんです。阿散井副隊長のお時間のある時でいいので、夜遅くても朝早くても構わないので、10分、いいえ、あの、5分でも、3分でも……見て、いただけないでしょうか……」
 言い募る内に、流石に自分の願いがあまりにも無礼なものだと気付いたのだろう、語尾が弱くなっていく少女に、恋次は少しだけ考えた後「構わねえよ」と頷いた。
「そうだな、それなら早い方がいいな。明日にでも見てやるよ」
 え、と呆然と見上げる少女三人と理吉の前で、恋次はあっさりと「明日、お前らの仕事が終わったら俺の部屋に来てくれ。それでいいか?」と伝えた。
「恋次さん!」
「いいんですか?!」
 咎める理吉の声よりも、三人の少女の叫ぶような歓声の方が勝り、恋次は少女達に向かって頷いた。
「あんまり時間取れねーかもしれねえけど、でもまあ一人ずつ、一回は見られるようにするからよ。ただし容赦なく感想言わせてもらうからな、覚悟しとけよ」 
「はいっ!」
「明日、絶対に行きます!」
 きゃあきゃあと声を上げながら去っていく少女達を見送って、恋次は八番隊へと足を向けた。が、理吉の憮然とした表情に気付き「なんだ?」と首を傾げる。
「何怒ってんだよ、理吉」
「恋次さんは、オレの言う事聞いてます?」
 腕を組んで恋次を睨みつける理吉の姿は、普段の人の良さそうな笑顔からは想像もできないほど迫力がある。穏やかな理吉がここまで激怒する事は稀で、恋次も数度しか見たことがない―――しかもその数度全てが自分の所為で理吉が激怒しているという過去がある故に、恋次は首を竦めた。
「怒んなよ、俺何かしたか?」
「何かしたか、じゃないでしょう!」
 怒鳴りつけられ、恋次は飛び上がる。
「オレが!あれだけ!何度も何度も休んでくれと言ってるのに!!なんでそんな、どうでもいい事を引き受けちゃうんですか!!」
「どうでもいいってことないだろ、あいつらは……」
「大体何なんですかあの子たちは!総合訓練に演舞ってことはつまり新人って事でしょう!!そんな下端の為に、なんで恋次さんの貴重な、これ以上ないってくらい働き詰めの恋次さんの貴重な時間を割かなくちゃいけないんですかっ!!」
 隊舎の正門の前で部下に怒られ、恋次はその理吉の迫力に恐る恐る「わ、悪い」と頭を下げた。
「いや、あいつら、今年入った奴らなんだけどよ、なんか最初から俺に懐いてきててな、それでまあ……奴らしょっちゅう鯛焼き差し入れてくれるしよ」
「食べ物に釣られたって訳ですか」
「ち、違ぇよ!!それにな、あいつ、ほら髪の短い奴いただろ?あいつ片桐って言うんだけどよ、なかなかの奴なんだぜ?あいつは絶対席官になるぞ。それぐらい強え。お前もうかうかしてられねーぞ?」
「一年目の新人如きに抜かされるわけないでしょう。オレだってそれなりの自負はあります」
 とにかく、と理吉は恋次を睨みつける。
「これ以上しなくてもいい仕事を増やさないでください!」
「あーわかったよ悪かったってばよ。ほら、伊勢サン待ってるぞ、早く行こうぜ」
 この話を打ち切りたいという恋次の魂胆は見え見えだったが、予定の時間が間近に迫っている事も事実だったので、理吉はひとまず怒りを納めて、その場から逃げ出した恋次の後を追って八番隊隊舎へと向かったのだった。

 
 
 
 そうして七緒との打ち合わせを済ませ、自分の副隊長室に戻った恋次は黙々と積み上げられた書類に目を通し、早急に処理しなければならない書類を片付けては理吉に渡し、理吉は文書を各方面へと運び続け、今日もあっという間に一日が過ぎる。
「じゃ、そろそろ上がるか」
 勢いよく伸びをしながら理吉に声をかけたその時間は、既に九時を廻っていた。ふう、と息を吐いて理吉も同じように伸びをする。
「明日からは総合訓練だけに専念できるからな。他の仕事がなくなるから、まあちょっとは落ち着くと思うぜ。悪かったな、ずっと付き合わせてよ」
「謝る必要はないって言っているのに。オレは恋次さんの補佐なんですよ?」
 書類の束を揃えながら、理吉は帰宅の準備に取り掛かった。自分はともかくとにかく恋次を休ませなければ、と恋次大事の理吉は考える。
 幸い、この1カ月ずっと続いていたある仕事が今日で一段落付いた所為で、恋次の言った通りこの忙しさは明日から落ち着くだろうと思われた。明日からは休み時間も取れるだろうし、帰宅時間も普通通りになるだろう。
「じゃあ、お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
「ああ、お疲れ」
 本当ならば一緒に夕食を、と言いたい所だが、恋次の身体を気遣って理吉は何も言わずに恋次の背中を見送った。
 ―――これで、恋次さんの家に誰かが待っていて、食事やお風呂の用意をしてくれていたのならいいんだけど……
 溜息を吐きつつ、理吉も自分の自宅へ向かって歩き出した。
 これだけ人気があるというのに、昔から恋次の周りに浮いた話は何一つない。恋次に想いを寄せる女性は後を絶たないが、恋次が頷いた事は過去一度として理吉は見たことがなかった。そして気付いているのかいないのか、恋次は平気で自分に想いを寄せる女性に笑顔を向ける。だから女性たちは希望を抱き、そして更に女性たちの想いは燃え上がっていくのだ。
 間違いなく、今日の三人の少女は恋次に想いを寄せているだろう。気の強そうな片桐というあの少女も間違いなく恋次に好意を持っている……どころではなく恋次を激しく想っていることは傍で見ていて明らかだ。
 それなのに恋次はといえば、全く意識する事無く、ああして少女たちの無謀な願い事に頷いてしまうものだから、少女たちの行為に歯止めが掛からない。大体、あんな下位の者が、副隊長に直接鍛錬してもらうなど他の隊では有り得ないのだ。
「ったくあの人は人が良いのか鈍感なんだか、本当にもう……」
 ただ、恋次がそんな性格だから、自分もこうして「阿散井恋次」という男に惹かれているのだろうという事はわかっているから、あまり強くも怒れない理吉だった。

 
 


 扉を無遠慮に叩く音に、理吉は恋次を見遣る。頼む、と視線で請われ、内心溜息を吐きながら立ち上がって扉を開いた。
「お邪魔致します!」
「あの、こんにちは」
「来ちゃいました!約束覚えてます?阿散井副隊長!!」
 途端、賑やかになる部屋の中で、理吉は苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向く。
 昨日までの激しい忙しさが一段落したとはいえ、今日の仕事量も多かった。午後にあった副隊長会議が思ったより長引いて、その潰れてしまった時間の分の仕事がまだ残っている。それが終わらなければ恐らく恋次は帰らないから、理吉の本音は今日の片桐たちの約束はまた次回にして欲しかったのだが、恋次にその気はないようだ。片桐たちの鍛錬が終わった後、また一人で仕事をする気なのだろう。
「覚えてるに決まってんだろーが!俺はそんな耄碌しちゃいねーぞ」
 きゃあ、と笑い転げる少女たちに、恋次は「さてと、第一修練場空いてっかなあ」と斬魄刀を手にして、階下の修練場入口を窓から見下ろした。
「ああ、誰も使ってねーな。じゃ、行くか」
「はあい!」
 三人が唱和し立ち上がり、恋次の後に続く。
 その恋次の手が扉に掛かる寸前、恋次の目の前で扉が横に開かれた。
「邪魔するぞ」
 突然立ち止まった恋次の背中に、片桐たちがぶつかって「きゃあ!」と声を上げた。恋次は余程その来訪者が意外だったのか、片桐たちの悲鳴には気付かずに「どうしたんだよ?」と尋ねた声には驚きの響きがある。
「うむ。お前に用があって来たのだ」
「俺に?」
「ああ、ちょっと付き合え」
 用の内容は全く言わず、恋次の都合を全く聞かず、小柄な来訪者はそれだけを一方的に言うと、背中を見せて歩き出した。「おい、ちょっと待てよ」と引き止める恋次の声に、「はやくしろ、莫迦者」と冷たい一言が投げつけられる。
「ちょっと!阿散井副隊長はこれから私たちと修練場に行くのよ!何言ってんのよあなた!」
 憤然と、怒りを隠さずに怒鳴りつける片桐を、目の前の少女はちらりと一瞥した。その冷たい視線に片桐は息を呑み、そんな自分に憤って少女を睨みつけた。少女はといえば、すぐに興味がなさそうに恋次へと向き直り、「私を待たせる気か、恋次?」と無表情に告げる。
「ちょ……っ!何様よあんた!!」
 激怒し掴みかかろうとする片桐の身体が、背後から抱えるように引き止められた。その体温と、自分に触れる逞しい腕とに片桐が陶然としていると、「悪ぃ、片桐、岩瀬、松村。鍛錬は今度にしてもらっていいか?」と申し訳なさそうな恋次の声が耳に入る。
「ええっ!?」
「だって、私たちの方が最初に……っ」
 批難の声に、「本当にすまん、必ず時間を作るから」と頭を下げると、恋次は既に姿の見えなくなった少女の後を追って走り出し、すぐにその姿も見えなくなった。
「…………何よあの女!!!」
 その、恋次が消えた暗がりを呆然と眺めた後、恋次を攫われた悔しさに、片桐が唇を噛み締めて地団駄を踏む。岩瀬と松村もそれに追従し、「そうよね」「むかつく!!」と吐き捨てるように言う。
「誰なんですか、あの人。ご存知ですか?」
 怒りの冷めやらぬきつい視線で、片桐はまるで理吉が少女その人のように睨みつけ問いかける。
「阿散井副隊長のなんですか?今まであんな人、阿散井副隊長の周りで見たことないのに!あの、阿散井副隊長を、まるで自分のものみたいに思ってる、あの、目!!何なのあの女っ!!」
「朽木ルキアさん。朽木隊長の義妹さんだよ」
「隊長の……?」
「ああ、そうか、君たち今年入ったから知らないんだ……そう、あの人が隊長の義妹さん。十三番隊の朽木ルキアさんだよ」
「隊長の妹って……阿散井副隊長が、あの事件の時、私たちを置いて助けに行った人……?」
 気の弱そうな岩瀬がそう口にして目を丸くし、松村は口に手を当てて驚きを表している。
 四月に入隊したばかりの少女達は、ほぼ時を同じくして現世に渡り行方不明になったルキアの存在を知らなかった。朽木隊長の義妹が罪を犯し牢に繋がれたことは知っていたが、その顔を見る機会はなかったし、その朽木隊長の義妹と恋次の関係も全く知らず、何故副隊長である恋次が四十六室と朽木隊長の命に背き、自分たち部下を捨てその犯罪者を助けたのか、当時彼女達には全く理解不能だった。ただ、事件が終わって後、その朽木ルキアが冤罪だったという話を聞き、「阿散井副隊長はひとり真実に気付き、罪のない者、それも隊長の妹を処刑させるに忍びなく、その女性を助け出した」と認識していたのだが。
 朽木ルキアの、突然現れ、恋次の都合を聞かず強引に連れ出したあの態度。
「阿散井副隊長、隊長の妹と付き合ってるの……?」
「そんな訳ないじゃないっ!」
 鋭いその声に、岩瀬と松村はびくんと身体を竦ませた。二人の視線の先に、片桐がその目に怒りの焔を眩めかせ、拳を握り締めて立っている。
「隊長の妹だから、だから阿散井副隊長に命令してんのよ!朽木隊長が背後にいるから、あの我儘な女の言うなりになってるのよ、阿散井副隊長は!見たでしょう、あの女のあの言い方!阿散井副隊長の話なんて聞かないで、勝手に命令してたじゃない!!隊長の妹だからって!!」
 隊長の妹だから、と片桐は何度も繰り返す。
 確かに、隊長の後ろ盾、しかも大貴族の一員であるという身分、それを持つ者に逆らえば、何らかの形で弊害があるのは明らかだ。
 大抵の我儘、横暴、それには従うのが最良の道だろう。―――否、そうするしかないのだ。
「……とにかく、また阿散井副隊長から連絡が行くと思うから、今日は……いや、本来、君たちが阿散井副隊長に直接指導を受けるなんて異例な事なんだよ?阿散井副隊長はお忙しいんだ、君たちも充分自分達の立場をわきまえて……」
 理吉の言葉を項垂れて聞く岩瀬と松村の間で、同じように俯きながら、けれど片桐の考えていた事はひとり違った事だった。
 ちらりと自分を一瞥したあの無表情な紫の瞳。
 有無を言わさずに、権力を振りかざし、阿散井副隊長を連れて行ったあの女。
 理吉の声は全く耳に入らず、片桐は何度も何度も頭の中で繰り返す。
 阿散井副隊長を自由にして差し上げる。
 あんな理不尽な状況から、私が救い出して見せる。
 目の前の理吉がルキアその人であるように、片桐はきつく強く睨み据えた。
 





「どうしたよ?」
 掛けられる声に、「いや、別に何も」と無表情に返して、ルキアは手の中の紙を握りつぶし目の前の屑篭に放り込んだ。
「あ?なんだよそれ」
「ゴミだ」
 言下にそれ以上の質問を許さず、ルキアは歩き出した。その後ろを付いて来る恋次を疑う事無く。
「今日はなんなんだよ?」
「煩い、お前は私に黙ってついてくればいいんだ」
 昂然と顔を上げて前を歩くルキアの背中に溜息で返して、恋次はゆっくりとその後をついていく。今日は恋次が十三番隊にルキアを迎えに来ていた。時刻はまだ夕刻、他の隊員たちは仕事の最中だ。今日は仕事が早く終わるというルキアは、昨日六番隊に現れ、恋次に向かって当然のように「明日四時に迎えに来い」と言い放ち唖然とする恋次と理吉を無視してさっさと姿を消した。
 そして、それに逆らう事無く恋次は今日、時間通りにルキアを迎えに十三番隊に現れたのだった。
「お前、今日の仕事はどうした」
「ああ?終わったよ、だからここに居るんだろーが」
「……お前の仕事量はこんな短時間で終わるものではないだろう」
 ちらりと背後の恋次を見上げながらルキアが言うと、恋次は事も無げに「昨日の内に片付けた」と答えた。あの仕事を全て終わらせ今ここに居るということは、恐らく昨日の帰宅は日付が今日に変わってからになっただろう。もしかしたら徹夜だったのかもしれない。その事実に勿論ルキアは気付いていたが、特に何も言わず、当然だ、とばかりに頷いた。
「時に、あの小娘共のことだが」
「小娘?」
「一週間前、私が六番隊に行ってやった時に、お前の部屋にいた小娘三人だ。あの小娘らは何なんだ」
「ああ、あいつらは今年入った新人だ。片桐、岩……」
「名前なぞどうでもいい、私には全く関わりのないことだからな。あの時、お前あの小娘共と何か約束をしていたようだが」
「ああ、演舞見てやるって約束してたんだよ。翌日平謝りだぜ、まあ詫びに三人共充分見てやったけどな。その後夕飯奢らされて大変だったんだぞ」
 口調の割に恋次の表情は憤っている様子はない。その時のことを思い出しているのか、小さく笑いながら言った恋次を冷たく見つめて、ルキアは唐突に「白梅亭に行くぞ」と告げた。
「あそこの料理が食べたくなった。勿論お前の奢りだぞ恋次」
「!?お前あそこがいくらすると思って……っ」
「何だ、小娘どもには奢って私には奢れぬというのか?」
「あのなあ、値段の桁が違うんだよ!!俺たちが行ったのは居酒屋で―――」
「お前、自分の立場がわかっているのか?お前は私に逆らうことなど出来ぬのだ、私が命じればそれに従え。いい加減理解しろ、莫迦者」
 そうしてルキアは恋次を省みずにすたすたと歩き出し、その背後を、恋次はまたも溜息を吐きつつ追いかけて行き―――二人がいなくなった十三番隊の下駄箱の壁の向こうから人影が現れた。
「―――なに、あれ」
「酷い……」
「すごい我儘女。あれじゃ阿散井副隊長が可哀相だよ」
 岩瀬と松村が顔を見合わせて興奮したように話す中、片桐だけは無言で屑篭の中を見つめている。
 屑篭の一番上に、たった今ルキアが丸めて捨てた白い紙。
「―――全然気にしてないみたいだね、あの人」
 恐る恐る岩瀬が片桐に話しかける。
 丸められた紙には、片桐が書いた文字が連なっている。それはルキアの横暴さを批難した手紙だった。阿散井副隊長を振り回すのは止めろ、という警告文。その手紙をルキアの下足箱に投げ込んだ途端現れた当の本人に慌てて身を隠したが、ルキアはどうやらそれを書いた者が誰か気付いたようだ。この場で恋次に自分たちのことを尋ねたのがその証拠だろう。
 自分たちが様子を伺っているのを承知の上で、丸められ放り投げられた手紙。「ゴミだ」と一言で片付けたルキア。
「ねえ、もう止めようよ……相手はあの、朽木家の人だよ。嫌がらせしてるのばれたら、どんな目に合うかわからないよ……」
 気の弱い岩瀬は、何とか片桐を止めようと必死だ。もしこの嫌がらせが片桐のものだと発覚した場合、いつも一緒にいる自分も罪を問われるだろうと恐れているのだ。
「大丈夫よ、あれは嫌がらせじゃないわ、ただの手紙よ。咎められる謂れはないわ。それに貴族って言ったって、あの人、出は流魂街―――それも戌吊だっていうじゃない。それなら瀞霊廷産まれの私の方が―――朽木家ほどの力はないけど、片桐家だって綿々と続いている貴族の家系よ?私の方が上の筈だわ」
「でも……やめようよ、あの人先輩なんだし……私たちは新人だよ?こんなの、普通しないよ……」
「あの人が先輩だろうが私たちが新人だろうが関係ないわ。阿散井副隊長は理不尽な目にあってるのよ、誰かがそれを救ってあげないと、永久に阿散井副隊長はあんな酷い目に合い続けるのよ?それに、あの人は無席、私たちとなんら立場は変わらないわ」
「でも……」
 不安そうな岩瀬の言葉は耳に入らず、片桐は既に姿の見えなくなったルキアの消えた方向へ目を向けている。
「無視したわね、あの女」
 無視した上、またも理不尽な行為で阿散井副隊長を引き回している。
 ぎり、と唇を咬んだ片桐の瞳の中には、憤怒の焔が揺れていた。






 扉を叩く音もなしに突然開かれた音に、それだけで恋次は来訪者が誰なのかわかって走らせていた筆を止め顔を上げた。
 案の定、そこには整った顔立ちの十三番隊隊員がいる。
 その十三番隊隊員は何故か右手に草履を持って現れた。呆気にとられる恋次を余所に、心なしか不機嫌な顔でつかつかと恋次の前まで歩を進めると「直せ」とその右手の草履を恋次の目の前に突き出す。
「お前、四日前も鼻緒切ってたじゃねーか。一体どんな歩き方してやがる」
「うるさい、さっさと直せ」
 不機嫌なルキアから草履を受け取ろうと、立ち上がってルキアの前にやってくると、ルキアは恋次に草履を預け、当然のように、入れ替わりに恋次の副隊長席についた。この広い瀞霊廷にたった十三人しか居ない「副隊長」の椅子だ、普通の椅子よりは豪華に出来ている。黒い革張りの重厚な椅子に、小柄なルキアの身体はすっぽりと納まって、まるで小さな子供が父親の書斎の椅子に座っているようだ。
 背中を大きな背もたれに預け、肘掛に肘をかけ、ルキアは「何をしている、早く直さぬか」と苛立った声を上げると、恋次は肩を竦めた。
「こないだお前に使ってから、補修道具、まだ補充してねえんだよ」
「使えぬな」
「仕方ねーだろうが、買いに行く暇がねーんだよ」
 大体副隊長室に草履の補修道具がある方が不思議だろうが、と恋次は呆れた声を出した。椅子はルキアに占拠された所為で、机に腰掛けている。
「理吉殿は?」
「色々廻ってもらってる。出来上がった書類を方々に届けてんだよ」
 何とか直せないか、と切れた鼻緒を摘んだ恋次の目が一瞬細くなった。じっとそれを凝視し、「おい、ルキア」と呼びかけた声はふざけた様子が見られない。
「お前、この鼻緒……」
「直せぬのなら返せ。本当に使えない奴だなお前は」
「ルキア、これは……」
「返せ、と言っているのだ私は」
 声にはっきりとした苛立ちを込めて、ルキアは恋次を睨みつけた。その厳しい瞳に逡巡しつつ、恋次はルキアに草履を渡した。
 受け取った途端、草履を机の横に置いてある塵箱に放り投げ、何か問いた気な恋次の視線を無視し、ルキアは「ところで」と冷たい声を出す。
「いつまで私に汚れた足袋を履かせておくのだ?」
 その言葉に恋次は椅子に座って宙に浮いているルキアの足を見下ろした。ここまで草履を履いてこなかった所為だろう、右の足袋の裏だけが土で汚れている。朽木家の令嬢の身に付けるものだ、足袋でさえ上等なものなのだろう、普段恋次が目にするものとは光沢が違っている。
 ルキアは椅子にもたれたまま、恋次を見上げている。
 小さく苦笑して、恋次はルキアの前に跪いた。
 芝居らしく仰々しく、視線を下げ、左手を己の胸に当て、右手をルキアに向かって差し伸べる。
「お御足を」
「ん」
 すい、と目の前に出される小さな足を、恋次は跪いたまま受け止めそっと足袋を脱がしてゆく。袴の裾から覗く素足は白く細い。壊れ物を扱うように繊細に丁寧に、恋次はルキアの足を手で包み込む。
「ところでいい加減入ってきたらどうだ、お主ら」
 恋次を足元に跪かせたまま、ルキアは扉に向かって声をかけた。その隙間から覗き込んでいた三つの気配が、狼狽したように揺れ動く。
「いつまで覗き見をしている、悪趣味な」
「……失礼します」
 ルキアの挑発に、扉がからりと開かれた。既に気配で気付いていたのだろう、予想した通りの姿にルキアは冷たい笑みを浮かべた。なまじ整った美貌だけに、そういった冷ややかな表情を浮かべると、まるでルキアは氷の彫刻のようだ。
 対して片桐はというと、まるで焔の化身のように、目の前のその情景に激怒していた。噛み締めた唇と、身体の脇で握り締めた拳が震えているのでそれが良くわかる。その片桐の後ろに続いた岩瀬と松村は、覗き見を言い当てられたことと、見てしまったその光景に恐縮している。
「どうしたお前ら」
 ひとり恋次だけが、まったく普段と変わらない態度だった。たった今見られていたその光景も、本人は全く気にする様子もなく、極々自然にルキアの前から立ち上がり、入ってきた三人を順に見つめる。
「こんな所で油売ってる暇はねえだろう。あと一週間で総合訓練だぞ?俺がこないだ直してやったところは出来てんのか?」
「その、直していただいた所が―――きちんと出来ているか、阿散井副隊長に確認していただきたくて」
 恋次の椅子に座るルキアには視線を向けず、まるでこの部屋には恋次しか居ないかのように、片桐は完全にルキアを無視していた。目の前の恋次だけを見つめ、懇願する。
「どうか、演舞を見ていただけませんか。一度で良いんです、先日のように長い時間でなくても―――」
「恋次にそんな時間はないぞ。これから私の草履代わりになるのだからな」
 頬杖を付いたまま、ルキアは足を揺らしておもしろそうに言葉を挟んだ。
「草履ってお前なぁ」
「私をひとりで、しかも裸足で帰らせる気か?」
「替えの草履くらい持ってねえのかよ?」
「その替えの草履の鼻緒が切れたのだ」
 今度は面白くなさそうに答え、足を宙に揺らしながら、ルキアは横を向いた。その態度にどうあっても朽木邸まで送らせる気なのだと悟り、恋次は、ふうと小さく溜息を付くと、「悪ぃな、片桐」と頭にぽんと手を載せた。
 途端、赤くなる片桐をルキアは冷ややかな瞳で見つめている。その氷点下の視線も、恋次は背中を向けている所為で気付かない。
「この後一週間は総合訓練の最終打ち合わせやら詰めやら何やらで、時間取れそうにねえんだ」
「……そう……ですか……」
 俯く片桐に、「お前なら大丈夫だって。こないだ見た時も充分出来てたんだからよ」と力付けるように恋次は肩を叩く。
「恋次、そろそろ行くぞ。早くしろ」
「ちょっと待てよ、理吉に出かける事伝えねぇと。ちょっと待ってろ」
「十分以内に戻らぬ時は、どうなるかわかっているだろうな?」
「わかってるよ、すぐ戻ってくっから」
 悪ぃなお前ら、と三度恋次は繰り返し、慌ただしく自室を出て行った。
 その途端、部屋中に張り詰めた空気が充満する。
 部屋の中央に立ち尽くした片桐は、きっとルキアを睨み据えている。そしてルキアは、今度はルキアがこの部屋には誰もいないかのように、片桐たち三人を無視していた。
「―――ちょっと」
 緊張する空気の中、口火を切ったのは片桐だった。ルキアの座る椅子の前の机に近付くと、その机にばんと両手を付いた。その音の大きさに岩瀬と松村はびくりと身を竦ませたが、当のルキアは平然としている。
「ほう、とうとう直接攻撃か、小娘」
 あからさまに見下したそのルキアの口調に、岩瀬と松村は萎縮したように一歩下がったが、一人片桐はきっとルキアを睨みつけた。その鋭い視線に、けれどルキアは全く気にする様子もなく、片桐たちを順に見つめている。
「毎日毎日、飽きもせず低俗な手紙を書いて寄こし、他人の鼻緒を切って回って、全くご苦労なことだな」
「何のことを言ってるのかわからないわ」
 署名はしていないのだ。勿論わざと字体は変えて手紙を書いている。ルキアが何を言おうと、あの数々の手紙は自分が書いたという証拠は何もないのだ。そして鼻緒を切った時も、周りに人が居ないか充分確認してから、小刀で、一瞬で切り裂いたのだ。目撃者は居ないと断言できる。
 その自信から、片桐は怯んだ様子もなく、堂々とルキアの前に立つ。
「何を言っているのかわからないけど。でも、その手紙とやらに書かれた内容は推察できるわ。あなたの日頃の、阿散井副隊長への横暴を見ていればね」
 その言葉にルキアは冷たい視線を向けると、「私は忙しいのだ。謝罪する気がないというのならば、お前と話す気など欠片もない」と視線を逸らした。
「ま―――待ちなさいよっ!」
 直接、ルキアへの攻撃を……恋次へのその傲慢な態度についての抗議をしようと意気込んでいた片桐にしてみれば、ルキアのこの淡白な態度は怒りに更に火を注ぐものだった。
 怒りに任せて、ルキアを掴もうと伸ばした手は、触れる寸前でかわされる。
「無礼者め」
 はっきりと込められた侮蔑の意思に、片桐の余裕は消し飛んだ。元々沸点は低い。怒りで頬を染めながら、「何なのよ!!」とルキアに怒鳴りつける。
「何なのよ―――何なのよあんたは!」
「何だと言われてもどう答えて良いかわからぬが。まあ、そうだな―――少なくとも見るに耐えない醜い言葉を羅列した手紙を他人に送る神経は持っていないし、他人の物を隠れて破壊して廻る趣味も持っていないな」
 その痛烈な皮肉に、片桐は何も答えず、ただ無言で、怒りを込めてルキアを睨みつける。
「その傲慢で横暴で―――人を人とも思わないようなその態度―――人を何だと思っているの!!」
「人?人が此処に居るのか?人と呼べる高尚な意識を持つものは今この部屋に私だけだろう」
 口元だけの酷薄な笑みを浮かべ、ルキアは事も無げにそう言い切ると、「興醒めだ」と肩を竦めた。
「お前が言いたいことはそんな事ではないだろう。聞きたいことも面と向かって聞かずに陰湿な手紙を送り続け、草履を隠し鼻緒を切り、私の誹謗中傷を同期の間に流し、私目掛けて石を投げ―――まあこれは当たる前に全部気が付いて避けたがな―――結局お前が出来るのはその程度の事だけだな。全く詰まらぬ」
「阿散井副隊長を何だと思ってるのよ!!」
 ルキアの挑発に、本当に言いたかったその言葉―――激怒のあまり震える片桐の叫び声を、ルキアはただ無表情に聞き、これ以上ない程の冷たい視線で、「恋次を何だと思っているかだと?」と片桐の言葉を繰り返した。
 そして一言。
 あまりにも簡潔に、たった一言。

「下僕だ」

 呆然と立ち竦む片桐たちを氷の視線で射抜いてから、ルキアは話はもうない、とばかりに目を閉じる。
 大きな椅子に身体を預けるルキアのその姿は昂然としていて、あまりにも支配者、貴族の雰囲気を発していた。その気配に圧倒され、「待たせたな」と背後で扉が開くまで、片桐たちは言葉もなく硬直していた。
「あ?どうしたお前ら」
 その場の妙な雰囲気に訝しげな顔で皆を見回す恋次に、「理吉殿には会えたのか」とルキアは何事もなかったように話しかける。
「ああ、ちょっと抜ける事は伝えたが……お前、一体」
「そうか、では行くぞ」
 そう言いつつルキアは立ち上がらない。恋次も当然のようにルキアの前に歩を進め、その華奢な身体を抱き上げた。
 軽々と胸にルキアを抱き、恋次は片桐たちに「いいか、しっかり鍛錬しとけよ。お前らなら大丈夫だ」と頷き、そのまま扉に向かって歩き出す。
 すれ違う瞬間、ルキアと片桐の視線が交差する。
 ふ、と小さく笑ったルキアを片桐は怒りを込めて睨みつけ、目の前で閉まる扉を、煮えくり返る思いを抱えて凝視し、無言で立ち尽くしていた。





「よう、頑張ってるか下僕」
「何ですかいきなり」
 中央霊術院からの付き合いの、つまりは同じ身分となった今でも頭の上がらない檜佐木修兵に出会い頭にそう言われ、恋次は脱力したように修兵を見遣った。
「見ての通り頑張ってますよ、今日が本番ですからね。この日のために1カ月飛び回ってたんですから。……で、何なんですかその呼称は」
「いや、お前新人共の間で噂になってんだぜ?」
「は?」
「『六番隊副隊長の阿散井恋次は、仕事に私情を持ち込み勤務を疎かにしている。その原因は十三番隊の朽木ルキアにあり、阿散井副隊長はこの朽木ルキアの下僕と成り果て、全て彼女の言い成りである』」
「はあ?」
「って噂が新人達の間に広がってるぞ」
「はあ、まあ勝手に言わせときますよ」
 肩を竦める恋次に、修兵は「いや、俺が気になるのは、随分悪意のこもったやり方だなと思ってよ」と腕を組む。
「お前、誰かに恨まれるような事してねえか?こんなやり方すんのは間違いなく女だぞ、それも色恋絡みだ。どっかの女を弄んでポイしたんだろうお前」
「先輩じゃないんですよ俺は」
「俺はそんな下手な別れ方はしねえよ」
「大体俺にそんな暇ないですよ……あ?」
 修兵の向こうに視線を止めて声を上げる恋次に、修兵も振り返ってその理由を探り―――すぐに解った。
 総合訓練に参加する新人達が集う中、ルキアが歩いている。
 歩くと言うよりも殆ど走るといった速さで、人の波をすり抜けていく。その目は真直ぐ前を見ていて、何か目的があるのか迷いもせずに走っていく。
「―――何で嬢ちゃんが此処にいるんだよ」
「―――さあ?」
「十三番隊の今日の列席者は……」
「体調が良ければ浮竹隊長、それと第三席の小椿と虎徹」
 顔を見合わせる恋次と修兵に、七緒の「阿散井くん!山本総隊長がもうすぐお見えになるわよ!」との声が耳に入り、慌てて二人は出迎えるために立ち上がった。





 懐から取り出した手紙をもう一度眺めて、片桐は満足げに一人頷いた。
 昨日、思い立って書き上げた長い長い手紙。
 その表には「山本元柳斎 重国総隊長殿」と書かれている。
「見てなさいよ、これでお仕舞いだわ」
「何がお仕舞いなのだ?」
 突然背後から聞こえた低い声に息を呑み振り返る前に、白い手が伸びて片桐の手から手紙を奪い取った。
「あ―――!」
 慌てて奪い返そうとした片桐の手を逃れ、ルキアは飛び退った。充分な距離を取った上で、手の中の手紙の文字を読み下す。
「―――卑怯此処に極めり、だな」
 無表情にそう呟くルキアに、片桐の顔色が青から赤へと変わる。
「あんたの所為でしょう!あんたが阿散井副隊長を―――」
「何故恋次を貶める?お前の攻撃の矛先が私ならば解る、何故恋次なのだ?」
 山本総隊長に宛てた手紙の内容は―――恋次の糾弾、事実無根の羅列。あまりにも酷いその内容に、ルキアは眉を顰めた。
「新人たちの間で、恋次が私の下僕だという噂が流れている―――仕事をせずに私の言い成りだと。仕事さえも私の言い成りで動くと。この噂の出所はお前だな?」
「あんたが言ったことじゃない」
 燃えるような瞳をルキアに向け、片桐は哂う。
「この手紙を山本総隊長殿に渡したらどうなるか―――この噂も、山本総隊長殿の耳に入ったらどうなるか。解っているだろう、恋次は審問を受けるぞ。調べれば事実と違うのははっきりするだろうが、誹謗中傷を受ける者に昇進は遠のく―――奴の隊長就任が遅れるのだぞ」
「何よ、別に遅れるくらい構わないじゃない。それとも何?はやく隊長になってもらわないと困る理由があるの?」
「――――――」
「あるんだ?何?阿散井副隊長が隊長になれば権力も増えるから?そうしたらあんたの権力も増えるから?阿散井副隊長はあんたの言い成りですもんね!」
「お前に言う必要は無い」
 無表情だったルキアの顔に、微かに怒りの色が浮かぶ。手の中の手紙に視線を向け、そして再び目の前の片桐に視線を戻した。
「私はお前が恋次に想いを寄せていると思っていた。が、この手紙は……恋次を貶めるものだ。これが人の手に渡れば、人の目に触れれば、恋次は謂われない中傷に曝される―――悪くすれば降格だ。何故だ?お前は恋次が好きなのではなかったのか?」 
「好きよ?でもあんたの言い成りな阿散井副隊長は大っ嫌い」
 歪んだ笑みを浮かべて片桐は言う。
「副隊長の職にいるから、あんたに利用されてるって言うのなら。それなら、副隊長を辞めさせてあげるのが阿散井副隊長の為でしょう?ねえ?好きだから、大好きだから、私はこうやって阿散井副隊長を」
「私はそんな勝手な想いを『好き』などとは認めぬぞ」
 紙を引き裂く音―――二度、三度、繰り返し響くその音に、片桐は「何すんのよ!」と怒声を浴びせた。
「お前が恋次を好きだなんて認めない。そんな自分勝手な想いは」
「あんたに認めてもらわなくたっていいわよ!ホント何様よあんた!」
 ギリギリと唇を咬んで、風に舞う白い紙吹雪の中に立つルキアを片桐は睨みつける。
「阿散井副隊長も阿散井副隊長だわ、あんたみたいな悪趣味な女の言い成りで……!」
「奴の着物を見る限り、趣味は確かに悪趣味だと思うが、女を見る目はまああるといって良いだろう、お前に欠片も心を動かしていないのだからな」
 その嘲笑にかっと頭に血を上らせ、片桐は背後を振り返った。
 視線の先に、恋次と七緒に案内され、会場に向かう山本総隊長の姿がある。その後ろに一番隊副隊長・雀部長次郎、そして七番隊隊長狛村左陣、副隊長射場鉄左衛門、九番隊副隊長檜佐木修兵の姿を見つけ、今度は片桐の顔に笑みが浮かんだ。
 突然ルキアに背を向け走り出した片桐を、ルキアは形のいい眉を跳ね上げ見送り、そして意図に気付き舌打ちする。数瞬遅れて走り出したルキアの耳に、「山本総隊長!」と叫ぶ片桐の声に「あの莫迦」と呟いた。
 突然路地から現れた片桐に、瞬時に雀部と狛村が動き山本の前に立ち防御を取った。しかし目に入ったのが新人の娘だと気付き、まだ未熟なその霊圧に斬魄刀の柄にかけていた右手を手放した。
「片桐?」
 驚きの声を上げる恋次を見ずに、片桐は山本の前に跪く。そのままその姿勢で山本を見上げ、身体に感じる圧倒的な霊圧に緊張する自分を励まし「恐れながら!」と声を上げた。 
「山本総隊長に申し上げます!この、十三番隊所属の朽木ルキアは、自らの兄が六番隊隊長である事実を背景に、六番隊副隊長である阿散井恋次殿に無体な言動・指図をし、阿散井副隊長をまるで召使のように扱っております!兄の権力をちらつかせ、阿散井副隊長に逆らうことを許さずに、横暴な命令をし続けている事に私は抗議いたします!どうか、何卒、この卑劣な行為を収めるよう、山本総隊長から直々にご命令を!!」
 大きく響き渡ったその声に、周囲の、総隊長を一目見ようと集まっていた数十人の新人たちは騒然となった。ざわざわと漣のように広がっていく様を確認して、片桐はにやりと笑う。
 背後に立ったルキアの気配に気付き、跪いた姿勢のまま首を捻りルキアを見遣る。
「これであんたの侍従ごっこはお仕舞いよ。阿散井副隊長もやっと自由な身になれるんだわ」
 片桐は笑う。その目に浮かんだ「ざまあみろ!」という嘲りの色は、次の瞬間、ルキアの呆れたような瞳にぶつかって勢いを弱めた。
「……莫迦か、お前は」
 その、心底呆れたような、初めて自分の身を案じるようなルキアの同情に満ちた声に動揺する片桐の耳に、山本総隊長の「阿散井副隊長、今の件についてじゃが」という重々しい声が入った。
 はっと身を正し膝を付く片桐の耳に、
「お主の部下が誤解をしているようじゃ。誤解はきちんと解くように」
 ただそれだけを告げて、山本総隊長は七緒の案内で何事もなかったように会場へ入っていく。
「え……?」
 唖然とする片桐の目の前に、恋次が立った。跪いている片桐を見下ろすように立つ恋次の背後に光があり、その顔は逆光で見えない。
 恋次の両手が、差し伸べられる。
 抱きしめられる、と感じた腕は片桐の頭上を通過し、背後に「うわっ!」と小さな悲鳴が上がった。
「こ、こら莫迦者!何を突然っ」
「心配してくれてありがとな、片桐。でもな、俺は別にこいつに強制されてる訳じゃねえんだ」
 片桐の頭上を、ルキアの身体が恋次の腕に引き寄せられていく。呆然と見上げる片桐の視線には、ルキアを腕の中に抱きしめた恋次の顔がある。
 いつもと同じ、見惚れる程の精悍な笑顔。
「俺が望んでこいつの我儘に付き合ってんだ。惚れた弱味ってやつ。こいつの言う事は何でも叶えてやりたくってな。でもそれがお前には強制に見えちまったんだな。悪かったな……片桐」
 まるで子供が気に入りの大きなぬいぐるみを抱きかかえるように、恋次はルキアを抱きかかえている。その腕の中で、いつぞやは片桐の前で平気な顔で恋次に抱きかかえられていたルキアが、今は何故か顔を真赤にして「こら莫迦放せ放さぬか莫迦者っ!」と暴れている。それを無視して、恋次はルキアを胸に抱えて解放する様子はない。
 固まる片桐の耳に入った九番隊副隊長檜佐木修兵の声は、先程のルキアの声と同様、やはり同情に満ちていた。
「あいつが望んで嬢ちゃんの下僕をやってるってのは、あいつの周囲の誰もが、山本総隊長さえご存知の周知の事実なんだけどな……」
 完全無欠のルキアの下僕。
 恋次の周囲の者達は、それはもう、空が青い、夜の次には朝が来るのと同じくらい当然の、普通の、当たり前の事だった。
 それを誤解した片桐は、こうして周囲の注目を浴び、見当違いの告発をした妙な女として周りの視線に晒されている。
 その視線の中、かかかなくていい恥をかいた片桐は、その事実よりも、目の前の心底愛し気にルキアを見つめる恋次の姿に打ちのめされ、よろよろと立ち上がり肩を落としその場を後にした。


 ―――その後行われた総合訓練本番で、片桐の演舞は全くいい所がなく、精彩を欠き、実力の半分も発揮する事ができず―――恋次は先程の一件が原因かと胸を痛めたが、この一か月間片桐に嫌がらせを受け続けたルキアは、内心溜飲を下げた事は言うまでもなかった。
 






「―――私がお前の噂を消そうとしていたと言うのに、自ら広めるような真似をして、莫迦かお前は」
 総合訓練も無事終了した翌日、今まで返上していた休暇をようやくとって、恋次は自宅で寛いでいる。その同じ部屋に、ルキアは頬杖を付いて恋次を見つめていた。
「まあいいじゃねえか、本当のことだしよ。檜佐木さんも言ってただろ、みんな知ってることだろーが」
「皆、とは私とお前を知ってる方々だけだ。新人たちや付き合いのない者は鵜呑みにするだろうが―――それに」
 僅かに躊躇う様子を見せて、ルキアは言う。
「変な噂が立ったらお前の昇進に影響するかも知れぬだろう」
 隊長―――その身分があれば、流魂街出の者も貴族の者を娶る事ができる。
 その暗黙の掟があるから、だからはやく恋次に隊長になって欲しい―――その本音は口にせず、ルキアは恋次に対峙する。
「その程度じゃ何も変わらねえよ」
 平然としている恋次の態度に腹が立ったのだろう、ルキアは立ち上がり、人差し指を恋次の胸へと突きつけた。
「大体、お前が悪いのだ。誰にでもいい顔をしおって。その所為で今回の騒動が起きたのだぞ、反省しろ莫迦者」
 きつい視線で咎められ、恋次は肩を竦めて「わかったよ」と頷く。そんな恋次にまだ言い足りないのか、ルキアの言葉は棘を持ち更に続く。
「いいか、お前は私にだけ優しくすればいいのだ。他の女に優しくする必要はない。今後一切他の女に笑いかけることなど許さぬからな。いいか、これは命令だぞ」
 端正な顔に怒りを浮かべて、ルキアは恋次に言い募る。
 その、怒っても美しい顔を見つめながら、恋次は自分だけが知る、ルキアすら知らない事実を思い笑う。
 ルキアも周囲の者達も皆、ルキアの我儘を恋次が聞いていると思っている。
 けれど、恋次だけは知っている―――ルキアの我儘は、本当は別の場所から生まれている。
 ルキアは甘えたがりなのだ。―――そして、意地っ張りで自尊心が強く、独占欲が強い。
 いつも恋次のそばにいたい、恋次に甘えていたい、けれどそれを人前でするには恥ずかしくて出来ない。
 そしてルキアは恋次の周りに女の影があるのが許せない。恋次を自分だけのものにしたい、けれどそれを素直に口に出来ない。
 それ故の、我儘。
 此処一ヶ月、やたらと六番隊に顔を出していたのは、あの片桐たちを牽制していたのだと恋次だけは知っている。片桐たちの前で自分を見下すような態度をとったことも、いつも以上に傍若無人に振舞ったのも、ただ片桐たちに恋次は自分のものだ、という事を見せ付けたかったのだろう。
 そんなルキアは、他人に、そこまで恋次に惚れている自分を知られたくないという自尊心から、人前では殊更恋次に上から物を言う。いや、恋次にも自分がそこまで恋次に夢中な事を知られたくないのだろう、人前だけではなく恋次と二人きりの時でも命令口調だ。
 そう、今のように。
「桔梗屋の白玉餡蜜買ってあるからよ、それ食って機嫌直せよ。クリームも入れてやるから。現世で食っただろ、クリームあんみつってやつ」
「……食べ物で誤魔化されぬぞ」
「いらないのか?」
「いるに決まってる。早く用意しろ」
「はいはいお姫さま」
 こうして命令口調で物を言った後、ルキア自身は気付いていないが、ほんの少し不安そうな表情を浮かべる事に恋次は気付いている。
 居丈高に命じてばかりの自分を恋次は嫌いになったのではないかという不安と、照れからそういう態度をとってしまう自分への自己嫌悪。
 そんなルキアの心の動きなど、幼い時からルキアを見つめ続けている恋次には手に取るようにわかる。わかるから、こうして下僕の真似事ができるのだ。
「ほら」
「ん」
 餡蜜の皿を机に置いて、恋次はルキアを抱き上げる。そのまま膝の上に乗せて、いつものようにルキアの椅子代わりとなる。これも、以前恋次とくっついていたいと思ったルキアが、そう素直に口にする事が出来ずに思い余って恋次に命じた事。以来、大喜びで恋次がそうしているとは気付かず、ただ恋次は自分が命じたからそうしているのだとルキアは哀しく思っている。
 結局、手玉に取っているのは恋次。
 誰も知らない、二人の関係。
「何がいい?」
「まずはクリームだろう」
「はいはい」
 匙で白いクリームをすくってルキアの口へ。あーん、と小さな口を開けたルキアは口の中の甘いクリームに、満足そうに笑みを浮かべる。
 そうして皿の中の餡蜜を全て同じようにルキアへと運び、「美味しかった」と素直な心で満面の笑みを浮かべるお姫さまの仮面が一瞬はずれたルキアの唇に、不意打ちのキス。
 途端、真赤になりつつも、冷静さを装おうと必死に無表情を保とうとしているルキアが可愛くて、恋次も必死に笑いを堪える。
「な、なに、何を」
「いや、して欲しいんじゃないかと思って」
「そ、そんな、そんなこと」
「違いましたか、お姫さま」
「……ち、違わない」
 声を無表情に、冷たく発するルキアの顔は紛れもなく赤く、けれど恋次はそれに全く気付いていない振りをする。
「―――もう一回、だ。言わなければわからぬのか、お前は。気の利かぬ」
「申し訳ございません」
 膝の上に乗せたまま、背後から覆い被さるように唇を重ねる。先程の触れるだけのキスとは違う、濃厚な口付け。
 その刺激に、腕の中のルキアが縋るように恋次の腕を掴み、そのルキアを押さえつけるように存分にルキアの舌と蜜を味わった後に唇を離せば、そこにあるのは居丈高なお姫さまの仮面はとうに外れた、潤んだ瞳に上気した頬のただの少女。
「……満足したかよ?」
「―――うん」
 小さく頷くルキアは、恥ずかしいのか、隠しようのない真赤な顔を見られたくないのか、ぽすんと恋次の胸に顔を埋める。
 その、胸に顔を埋めたルキアに自分の顔が見えないことをいい事に、恋次は人の悪い笑みを浮かべる。
 さて、この純情な恋人の方から、もっともっと自分を求めさせるにはどうしたらいいだろうか。
「どうした、恋次?」
「いや、何でも。―――なんでもお前の望みは叶えてやるからな」
 そう望むように仕向けていくのは俺だけどな―――そう内心呟いて、恋次は愛しげにもう一度ルキアの唇に唇を重ねた。
  
 



 




長ッ!(汗)
ここを読んでくださってるということは、最後まで読んでくださったんですよ……ね?ありがとうございます!
という訳で、ルキ恋です。お嬢様と下僕です。
この祭りを開催することになり、ルキ恋を書くに当たって、さてどんな話を書こうと考えてですね。
下僕。
下僕といえば。
跪き。
素足に口づけ。
下僕万歳!(何)
まず書こうと思ったのが、ルキアの前に跪いて足を取る恋次。
そして女王様なルキア。
で、悪党な恋次。
でした(笑)
結局ルキアは恋次の思うが侭、という訳でした。
女王様だけど下僕に手玉に取られてます、みたいな。
そんな話を書きたかったのです。

……後書き壊れててすみません。

では、最後まで読んでくださってありがとうございましたああああ!!!



MOON AND THE MEMORIES   司城さくら