閑職、というか東仙ほどきりきりと働かないタチの市丸は(元来そうだったと言われればそれまでだが)そうしようと思えば誰とも会話することなく終わる日さえ、あった。
それが虚しくもあったのだが。
その日ばかりはそんな状態に感謝した。
仕掛けカメラの映像で遠くにいるたった一人の至高の相手を見ていた。それはほぼ日課となっていた。
勿論彼女の『夢の中』で彼女に言った以上に色んなものを仕掛けているため彼女を目で捉え耳で捉えることだけは、出来る。
それがとても悲しいものだと理解したのは設置して数日後。
彼女の存在を『感じ』られていた日々は至福の時間だったのだ。
しかし目と耳での情報さえもなくなるのには恐怖を感じて暇さえあれば彼女を見つめる。
仕掛けたマイクも高性能で、まるで同じ部屋にいるように声が聞こえる。
『松本……てめぇは休みだっつったよな俺』
『でも仕事があるニャン♪』
呻く少年に、ワザと猫語になるよう言葉を選んでる節のある美女。
しかも少年しかいないからといって何やらポーズを取っている。
普通の男ならばクラクラする猫語と猫ポーズに少年は渋面になる。
遊ばれていると分かっているから。
『隊長にも移してあげましょーか?大人気違いにゃいですよぉ』
『いらねぇ!!!!!』
少年は血管が切れそうなほど真っ赤になって叫ぶ。
普通自分がそんな言葉使いになることを喜ぶ男などいない。
『桃も驚いて起きちゃうかもしれにゃいですよ』
『………それイヤだろ。普通に』
うつ、す?
市丸が首を傾げた。
病気、3日もすれば、とか言っていたけれど。
そうだウイルスと言っていたのだから、酔っぱらいと言えどきちんと聞いておけば良かった。
『3日にゃあんてあっという間ですよぉ♪』
画面の向こうでは美女がけらけらと楽しそうに上司を苛めている。
『ちゅーひとつで隊長も猫語にゃのにぃ♪』
ちゅう?
つまりそれはキスのことか?
市丸は素で椅子から転げ落ちそうになる。
『…………ヤな移り方だなそれ』
『にゃんですか!隊長だけですよぉ!私がちゅーしてあげようって言ってるにょに嫌がるにゃんて!!』
『いらねぇもんはいらねぇ!!つってるだろーが!!』
なんだか苛々するやりとりだ、と市丸は小さな殺意を覚えた。
いつかあのチビぶっ殺ス。
『…………隊長貧乳好きですもんにゃ♪』
『か、関係ねぇだろそこは!!!!!!』
いや。
市丸は憐憫の表情で小さく首を振る。
あの神の創った二つと無いであろう芸術品を前に何とも思わないのは幾ら子供であるとしても健全である以上、おかしい。
ただ、少年にはもうあの子がいたから何も思わない、それだけなのだ。
あの子の全てが基準なのだから、どんな芸術品にさえ目がいかない。
「貧乳好きて言われてもしゃあにゃいわにゃあ」
己の呟きに、背筋が凍り付いたのは言い終わった瞬間。
「………ボク、にゃんて言った……?」
にゃ。
にゃ、って。
再び出た言葉に戦慄を覚える。
ふるふると震える指先を画面の向こうで笑う猫語の美女に向ける。
彼女は明らかに上司を苛めているが、そこかしこに、
そう、この病のようなものの説明をしている節が、ある。
彼女の上司がこの病のようなもののことを知らぬはず無いのに、である。
もっと効率の良い苛め方もあろうはずであるのに、である。
『キスで感染にゃんて恋次だけですにゃん♪』
実に楽しそうに、後輩が聞いたら泣きそうな、しかし事実を言う。
「………キスで………感染………?」
『他の副隊長はお茶が感染原因でしたしにゃ』
『………暫く俺は何処の副隊長とも話したくねぇ』
『あら。私がいるじゃないですかぁたいちょー!』
『………………だから休めつっただろぉが!!!』
「………乱菊は、茶で、感染……、阿散井が、キスで……?」
誰と、とまで考える必要はなかった。
ただ、そこで問題なのは。
「………………………昨日、乱菊、」
酒瓶の山の中、妖艶にそして無邪気に酔っぱらってたたあの人は。
そう。
そもそもおかしいと思ったのだ。
乱菊は酔っぱらっていても市丸がいるということを夢の幻影と見間違うはずはない。
例え前後不覚に酔っていようと市丸の存在だけは分かっている、そういう人だった。
だから。
夢だと判断してキスをする、訳がない。
しかもあんな、キスを。
夢ならば、あの人は。
そう、本当に夢ならば…………あの子はきっと丸くなって泣くのだ。
寂しいのを堪えて泣けないでいる感情が決壊したように泣くのだ。
だから。
この一連の会話もきっと。
あぁそうか。
「………………あにょ悪女め、意識ちゃんとあったんやにゃ……?そんでこの細工にょコトも覚えとって、コレボクにあてつけっつーか嫌がらせつーか……」
あぁもう。
それならば画面から目が離せないではないか。
しかも。
この口調がばれたら大変だ。
ばれないよう言葉を選ぶことは出来るだろうが相手が相手だ。
困難を極めるだろう。
何せ
「にゃ行全滅やし………」
目の前が暗くなった。
口調がばれれば何故かと言うことになる。
尸魂界で流行っていると知られれば向こうへ行ったとばれる。
そうなれば感染経由もばれるだろう。
感染経由がばれたら…………何のために、あの柔らかい手を離したのか意味が無くなる。
はう。
吉良が見たら感動するくらい珍しく大きく切ない溜息をついた市丸は、当座3日を凌ぐ必要に迫られ苦悶した。
「尸魂界やにゃいから3日かかってもにゃおらにゃい、にゃんてことはにゃい……にゃん?」
それは何とも言えなかったから、怖かったが。
乱菊は3日と言った。
そこまで嘘はつかないと、信じたい。
「…………………おんにゃの武器、あんにゃふうに使うようにゃ育て方しとらんよボク!!!」
それから見事に3日間。
市丸は誰が呼ぼうとあてがわれた自室から出てくることはなかったと、言う。
その間、一言も彼の口から言葉を聞く者すらいなかったらしい。
勿論乱菊は、知るよしもないことだ。
「ad lib」の越後屋さんから頂きました!
私の書いたギン乱の猫ウィルスの話の設定を使って書いていただきました。
ありがとうございます!
明るく楽しい話の中乱菊さんが泣く時の描写、「寂しいのを堪えて泣けないでいる感情が決壊したように泣くのだ」という描写が切ないです…。
越後屋さん、ありがとうございました!