こんこんと小さ扉を叩く音に、恋次は無視を決め込んだ。
時刻はもう九時を過ぎている。こんな時間に自分の家に来るものは自分と親しいものに限られ、そして親しい者がよりよって今日この時間に家を訪れるということは、奇態な病に感染した自分を笑いに来たということはまず間違いないので、恋次は無視することを決め込んだ。
訪問者は暫く扉の前にいたようだ。こんこんという小さな音が、一定の間隔をあけて繰り返される。しつけーな、と耳を塞いで布団を頭からかぶる。まったく不貞寝の状況で、布団の中の暗闇の中で「俺はもう寝たってんだよ、さっさと諦めて帰るにゃ」と吐き捨てる。
それから五分ほどして、訪問者はようやく諦めたようだ。扉の前から足音が遠ざかっていく音がする。ようやく布団から這い出して、今の自分の行動の情けなさと、そうせざるを得なくなってしまった自分の境遇に深く溜息を吐く。
「居るではないか」
突然寝室の窓から掛けられた声に、恋次は布団の上で飛び上がった。反射的に窓の方へと顔を向けると、窓枠に手をかけて、一生懸命室内を覗き込んでいる影がある。小さすぎて普通に覗き込めないその影は、「んー」と唸りながら窓をよじ登ろうと試みていた。
「ルキア!?」
慌てて窓を開けると、「よいしょ」と窓枠を跨いで止まった。「受け止めろ」と命じて、小柄な影は恋次の腕の中に飛び降りる。
「窓から失礼するぞ。この家の主が扉を開けてくれなかったので仕方が無い」
「にゃ、にゃんでお前が……隊長が夜の外出を認めてくれる訳ねーから、俺はお前が来るにゃんて全く予想してにゃいから」
「兄様は感染したショックで部屋から出てこぬのだ。私と、というより誰とも顔を合わせるのがお厭らしい……」
可愛らしく首を傾げて、「兄様の猫語、もっと聞きたかったのだが。お前もそうだろう?」とルキアは無邪気に言った。
あのプライド高い白哉が、人前で猫語を話す己を許さないのはわかっていたので、恋次は曖昧に頷くだけにとどめておく。
「それで、兄様は暫く部屋から出ないので―――抜け出してきた」
「にゃ、にゃにい!?」
「滅多に無い機会だしな」
確かにルキアが夜にこの部屋に居ることは初めてだ。妹大事な義兄が背後に控えている所為で、二人で出かけたときも必ずルキアは7時には屋敷へと帰る。それを護らなければ今後一切二人で出かけることは許さんと、一番最初のデートの日に斬魄刀を突きつけられ、恋次は白哉に無理矢理宣誓させられていた。
つまり今日は。
初めての……お泊り、ということに。
「ほ、ホントか!!今日はずっと居られるのか!?」
突然だが一晩邪魔して良いか、とルキアは恋次を見つめ、言う。
「あ、当たり前だにゃ!!いや、お前が居たいだけ居るといいにゃ、にゃんだったらもうずっとこのままここで暮らすといいにゃ!!」
真剣にルキアを覗き込み、力強く肩を抱き寄せ力説する恋次を間近に見、ルキアは「……く」と喉を鳴らし、次の瞬間耐え切れずに笑い出した。
「何度聞いてもお前の猫語は面白いな……!そ、そんな悪人顔で『にゃ』とか『にゃん』なんて……っ!」
本気で笑い転げるルキアに、恋次は無言で手を放した。そのまま何も言わずに布団に潜り込み背中を見せて不貞寝をする恋次に、ようやくルキアは笑いを収める。
「恋次?」
「…………」
「怒ったのか?」
「…………」
「悪かった、もう笑わないから」
「…………」
「機嫌直してくれ、な?」
「…………」
「……そんなに怒っているなら、帰るぞ」
「…………」
「じゃあ、な。すまなかったな、恋次」
「…………」
立ち上がり、玄関まで歩いていっても恋次は布団から出てこない。ルキアは溜息を吐いて恋次の元へと戻った。
「……本当に悪かった。許してくれないか?お前と今夜は一緒にいたいんだ。だから」
畳の上で両手を付き、深々と頭を下げて「私が悪かった。許してくれ」と謝罪する。
無言で布団から起き上がる恋次に、「許してくれるか?」と尋ねれば、恋次は無言で頷いた。どうやらもう口を開く気は無いらしい。
「怒ってるのか?」
返事は無く、恋次はただ首を横に振る。
「喋らないのか?」
首を縦に振る。
「猫語が厭だから?」
もう一度首を縦に振る。
「一緒に居てもいい?」
満面の笑顔を浮かべて恋次は大きく頷いた。手招きされて、ルキアはほっと笑顔を浮かべて恋次の首に腕を回す。恋次の膝の上に腰を下ろして、恋次の手がルキアの腰を支えるいつもの位置に落ち着いた。
「そういえば聞いたぞ」
何を?と視線で問いかける恋次に、咎めるような視線を向け、ルキアは、
「お前檜佐木殿たちと一緒になって、今日の副隊長会議で他の方々を感染させたそうだな?」
ばつの悪そうな顔をして視線をそらせる恋次の頬を掴んで、ルキアは自分へと視線を戻させる。
「そんなことをしたら駄目だろう。自分が感染したから他の方にも、等という考えは私は嫌いだ」
すみません、と頭を下げる恋次に、「もうそんな事しちゃ駄目だぞ?」と念を押すと、恋次は首を縦に振る。
「……お前もずっと元気なかったから。心配してるんだぞ、私は」
するりと恋次の腕の中から抜け出して、ルキアは布団の上に身を横たえる。そのまま恋次に向かって「ほら」と手を差し伸べた。
「来い」
女の方から男を誘惑する古来からの典型的なそのポーズに、恋次は「!!」と息を呑んだ。「来て…」じゃなく「来い」という命令口調がまたなんと言うか意外で、恋次は心の尻尾を振りながら、ルキアの上へと覆い被さる。
そのままいつものように襟元を押し開こうとした恋次の頭を、ルキアは「こら」と軽く叩いた。「え?」と顔を上げる恋次に、「今、その、お前と……し、したら、また私が感染するではないか!」と頬を染めてルキアは言う。
「あと二日、我慢しろ。今日は、その、それ、は無しだ。……そんな顔をするな、仕方ないだろう」
猫の癖に、妙に犬のような哀しそうな瞳でルキアを見上げる恋次に、ルキアは「仕方ないだろう?」と繰り返す。
「……治ったら。治ったら、その、また……するから。だから今日は」
ほら、と両手を広げて、ルキアは恋次を抱き寄せる。
病気の子供に添い寝する母親のように。
「病気になってからずっと、お前の元気がなくて心配してるんだ。はやく元気になってくれ」
いつもとは逆に、ルキアが恋次を包んで、その頭を優しく撫でる。
ルキアの胸に顔を埋めながら、その暖かい体温と甘い香りに包まれて、―――とても穏やかな気持ちになる。
こんなのもたまにはいいかな、と恋次は幸せそうな笑みをこぼした。