†   CANDY CLOUDS




オルゴールが調子外れな音を奏でた。
台座の上ではピエロがゆっくりと廻り、半永久の笑いを続ける寂しさを、
描かれた赤い唇に湛えて艶々と今日も光っている。
道化の笑顔にルキアは赤い男の作り笑いを思い出す。
笑えないから描くんだよ。
ピエロがルキアに語りかけたように思えた。

「このオルゴールも随分古い。出なくなった音が幾つかあるな」

螺子を回し、何度も音を鳴らして外れた音階を確かめる。

「お前まで、歯車が廻らなくなったのか?」

言ってからルキアは、自分の発した言葉の、意味の不明さに首を傾げた。

「お嬢、時間ですよ」

檜佐木がノックもせずにルキアの部屋のドアを開ける。
ノックが無いのは常の事だが、ルキアは今日は少しばかり慌てて、オルゴールを手から滑らせた。
落下したピエロはルキアの足下で粉々に砕けてしまった。

「…あ」

檜佐木が落ちた破片を拾って

「同じものを用意させておきます」

と当然のように言って、使用人を呼び残骸を片付けさせた。
ルキアは首から上、砕けずに残ったピエロの顔を見つめて
唇に描かれた染料の光を眼に焼き付けた。

「いらぬ」

と一言零して、ルキアは檜佐木と部屋を出た。
あれは焼物だから燃やせばちゃんと自然に還る、灰に還って、
風に乗って好きな処へ行けばいいのだ、と少し残る未練を鎮めながら。









「檜佐木。前々から思っていたが、
大学への送迎くらいは通常の運転手でもいいのではないか? 何もお前が…」

「白哉様の指示ですから」

「その兄様の第一の側近が、兄様のお傍にいなくてどうするのだ」

「白哉様の周りにはSPやら重役やら使用人が大勢いますから。
俺一人いなくても平気です…と言うより、お嬢こそが白哉様の命綱みたいなもんでしょう」

それを言われることで、ルキアの抗議は絶対的に勢いを欠いてしまう。

「今日の授業は14時で終わりでしたね。じゃ、また、その頃に迎えに来ます」

「…ああ」

車から降りる際に、ルキアは秘かにニヤと笑った。檜佐木に見られないように。

「檜佐木」

「はい?」

「今日は17時まではかかる。
急遽カリキュラムが変更になったのを忘れていたが、今思い出した。すまないな」

「…そうっすか」

いつもより軽やかに構内に入るルキアの後姿を見送ってから、檜佐木はサイドギアを下ろした。











ルキアは大きく息を吸い込み、今日の天気が青く澄み渡っていることに感謝した。
3時間の自由! 3時間あったら、何が出来るだろう?
いや、いっそ今日のカリキュラムを全て放って、街へ出てみようか。
とにかく裏門から目立たないように出て…
などと考えて、すぐに重い現実につまづいた。

「…バレないわけがない」

朽木ルキアが出席するにしても欠席にしても、
とにかく一挙一動が人々の注視の的なのだ。
ともすれば大学側から朽木家に連絡が入りかねない。

「何がバレちゃうの、お嬢さん」

水色の髪の青年がいつのまにか隣にいて、
自分と歩を並べている事にルキアはギョッとして立ち止まった。
驚いたのは見知らぬ青年が隣に並んでいた事や、その妙な髪の色のせいだけではない。
青年はウサギの顔を象ったアンティックな仮面をつけ、首から大きな金の懐中時計をぶらさげている。
どう見ても尋常ではない。

「こんにちは。遊びませんか?」

「は?」

水色のウサギは金時計の蓋を片手でカチンと開けて、ルキアに時間を示してみせた。

「急がないとお茶会に遅刻だ」

言いながらルキアをひょいと抱えて、大学の裏門に向かって一目散に走り出した。
そのあまりの素早さに、構内の者達も唖然と見送るしかなく、名家の令嬢の窮状に、誰も何も出来なかった。
ルキア自身も何が起きているのか把握出来ずに、

「き…貴様」

と零すだけで精一杯。
大学裏手側には高級車が一台、裏門の中央を陣取っている。
誘拐されるのかと体を強張らせた瞬間、

「お嬢!!」

少し離れた処に、見慣れた車があると思えば
ルキアのエスケープを察した檜佐木が待ち伏せしていたらしく、
血相を変えて、こちらへ走ってくる。

「檜佐木!」

間に合わない。
そう判断した檜佐木の手がスーツの内ポケットへ入り銃身を捕える。

「むやみに裏の顔さらすなよ。大体、お嬢様にあたるぜ」

水色ウサギが仮面の下で笑った。
檜佐木が諦めざるを得なかったのは、ウサギの言のせいだけではない。
いつのまにか彼の周りには奇怪な仮面をつけた者達が取り囲み、
皆それぞれ銃を所持して、檜佐木とルキアに銃口を向けていた。

「そうそう。おとなしくね」

ルキアと水色ウサギが車内に消えると、車は静かに発進した。
檜佐木はナンバーを記憶したものの、虚しさと悔しさに歯軋りした。
ナンバーは偽物に違いなく、自分がルキアを守れなかったのも違いなかった。

「じゃ、朽木の番犬さん。おやすみ」

「ぁあ?」

チェシャ猫の仮面をつけた男が、檜佐木の顔に銃口をよせて引き金をひく。
シュウと音を立てて噴出したのは、催眠ガスの濃霧だった。









「檜佐木に何かしたら、舌を噛み切って今すぐ死んでやる」

「心配すんな、ちょっと眠ってもらっただけだから。おっと、黒崎くん、次の角を左ね」

「本宅ではなく?」

「そ、別宅に頼む。病床とはいえ、あの爺さんにバレたら色々面倒だろ」

「それはもう…」

ウサギと運転手の会話から、ルキアは妙だなと思った。

「…貴様ら、単独で動いているのか? 組織ぐるみかと思ったが…」

ウサギはうーんと唸った。

「長老組と次世代組があってだねえ…その均衡が…実に面倒なんだよ、これが…」

「ということは…」

「そう! 俺ら次世代組は、君ら朽木家と、
自分らの親玉の狭間で実に実に、二つの敵を相手に、姫君をさらうという至難の業を」

「身代金の為にか」

「そんなケチな了見じゃございません」

ウサギが、ちち、と指を左右に振りながら舌を鳴らすと同時に、
彼の胸元から携帯音が響いた。

「あ、オレオレ。ちげーよ、オレオレ詐欺じゃねぇよ、お前からかけてきて有り得ねぇし。
ばっ、ちげーよ、サボってねーよ! え? 女? う、いや、女は女絡みだけどよ…、あ? あのな…俺は風俗に頼るほど不自由してございませんんん!!」

ルキアは、どうも緊張感にかける連中だ、と思った。
ウサギの水色の髪だけでも奇異なのに、運転手の頭はオレンジ色ときてるし、
珍妙な言葉遣いといい、間抜けな会話といい、檜佐木のラフさ加減の比ではない。
ルキアは、ふぅと気の抜けた溜息をついた。
今時の若い者にはついていけぬわ、と自分も若者に属することなど棚に上げて、半ば呆れ返ってウサギを眺める。

「だあぁ、いいから、そこにいろ! ああ、なに、忙しい?
んなの、いつもだろーがよ。いいから、今日だけは仕事なんざ忘れろ。…とびっきりの、土産があるからよ」

ウサギが仮面の下からコチラを見たのが解った。
ルキアはふんと鼻を鳴らす。

「あいにく粗品だ」

携帯を切って、ウサギが愉快そうに笑った。

「あんたが粗品なら、俺達はミミズ以下ってところか?」

「…別にそんな意味で言ったのでは…私だって、貴様らと変わらぬ同じ人間なのだし」

「そうか?」

「え?」

「俺のこの髪の色さあ、染めたと思う?」

「はあ?」

「あれだよ、試験管ベイビーの成れの果てってやつ」

「は…」

「昔々、そんな昔でもねぇか、とにかく20数年くらいの昔。
或る所に、子供の出来ない夫婦がおりました」

グリムジョーの口調はいつのまにか日本昔話のノリになっていて、
こやつは一体どんなキャラクターなのだと、ルキアは再び唖然とする。

「夫婦は、どうしても何がなんでも自分らの血を分けた子供が欲しくて、
当時まだ合法ではなかった手段を選んだそうな。
あ、今も合法じゃないんだっけ? ま、いいや。それはどうでも。
とにかく、今よりもっともっと技術が未熟だった、
その界隈では黎明期とも言っていいくらいの、そんな頃のお話。
まあねえ、いつの時代もマッドなサイエンティストってのは、いるんだねえ。
夫婦の依頼を好奇心一つで引き受けた奴がいたんだよ。
でも、ほら、興味だけで依頼受けちゃうような奴がさあ、まっとうに仕事をこなすかっていうと、案の定…
色々いじくってくれたらしいんだよねえ、遺伝子ってやつをね」

ルキアはウサギの水色の髪を、改めて見上げた。
この髪の色に染めたがっている変わり者が声楽科にいたが、その学生は
「美容師に“髪、溶けますよ”って言われてさ、諦めたよ」
と、いつか話していたのを思い出した。
不可能の水色。

「出来上がった子供を、夫婦はそれでも受け入れたよ、最初は。
なんせ、何がなんでも欲しかった、自分達の遺伝子を継いだ子供だもんな。
だけど子供が成長してくにつれて、夫婦は自分達の特徴を全然写さない子供を、気味悪く思い始めた。
自分らに似てないだけじゃない、人間らしくさえない、
薄気味悪い子供が家の中に居る事に、耐えられなくなった。
よく“化け物”って罵倒されたもんだ。
ははっ、化け物か。確かになあ。遺伝子ぐちゃぐちゃ弄ったら、化けもするよな」

「なぜ笑う」

「可笑しいから」

「何が可笑しい」

ウサギがルキアを見下ろす。
彼の表情は仮面の下に隠されて見えない。
ウサギの手が、ゆっくりと仮面を外した。
仮面の下から現れた青年の両眼は、その髪の色より濃い、コバルトブルーの青だった。
逆光の為かそこに影が差して、その光の歪曲の悪戯か、
水晶体の中に星のように小さな赤い影が、ちらついて見える。
彼の顔がどこか現実離れして見えるのは、たった今聞いた話のせい、その先入観のせいだろうかとルキアは見入った。

「ルキアちゃん」

青年は口元だけで浅く微笑んでいる。
しかし表情は、やはり、よく見えない。
外の陽光が燦々と眩い分、彼につき纏う影が濃い。

「ルキアちゃんは、こう思わねぇ?
子供が出来ないんだったら、それでも子供が欲しいんだったら、
わんさと子供が溢れてる所に拾いに行きゃいいって」

「施設か」

「そう。この世界には親がいねぇガキ共が腐るほど溢れかえってる」

「…そうだな」

「このオレンジ頭だって、そうさ」

その呼び方やめろ、と運転手が振り返りもせずに言い捨てた。

「こいつはねえ、コーカソイド系のハーフなんだけど、そのコーカソイド親父、
こいつの年若〜い母親を、あ、母親は日本人ね、彼女を捨てて、自国に帰っちゃったんだ。
そんで、帰国後は同郷の白人金髪碧眼の女と結婚して、ハイ、めでたしめでたし!
オーウ、オリエンタール、ゲイシャ、イエローキャブ!ミステリアス!バイバ〜イ!」

ギャハハハハ。
水色の怪人が笑う。
つられてオレンジ色の運転手も、バイバイじゃねぇよ、と言って笑い出す。

「何が可笑しい」

可笑しいじゃん、とオレンジ色が言う。
可笑しいよなあ、と水色が言う。

「私だって、目の色はこんな紫色だが、可笑しいと思ったことなど無い。
笑えたことなど無い!…得体が知れない! 笑えない! 何が可笑しいのだ!」

車内にエンジン音だけが残った。
やがて運転手がポツリと言う。

「だけど同じだって、さっき言わなかった?」

「え?」

「俺達、同じ人間だって、アンタが言ったんじゃん。
得体が知れない? それだから何だっつうの? みんな同じなら得体が知れなくてもいいだろが」

「おー、そうだな」

再びウサギの仮面を被り直した青年が、運転手に相槌をうった。
仮面を気に入ってるらしく、それ以降は外そうとしない。

「馬鹿だよな。自分の遺伝子を継いだ子供も、そうじゃない子供も、同じなのにな」

ルキアの眼前に、
試験管で作った(しかも不良品だという)子供と、
自分の血を分けた子供が二人、並んで見えた気がした。
同じ?
…そうだった、自分で先程、言っていた。
私も貴様らと同じ、と。

「何度、試験管で作り直しても、何度、腹を痛めて生んだとしても。
きっと水色の髪と眼をした子供が、あの夫婦のもとに生まれるのさ」

「違いないな。たとえ黒い髪と眼の子供が出来ても、そりゃ、お前だ。そんで、俺でもある」

水色とオレンジ色の言に、ルキアが咄嗟に割り込んだ。

「私でもあるのか?」

二人は一瞬沈黙して、そりゃあ知らねぇ! と揃って笑った。
あんたは特別綺麗だから、俺達と同じって言っちゃあ可哀相な気もする、と。
矛盾した事を言うな、同じなんだろう、とルキアは繰り返した。
私を綺麗と言ったな、だったら、
ウサギのペールブルーは澄んだ空みたいに綺麗だし、眼は南欧の海の色だ、
運転手のオレンジ色は夕焼けの橙に似ていて、やっぱり綺麗だ、と声を張り上げた。
水色とオレンジ色は、うひょお、と変な奇声をあげて、また笑った。

そういえば、あの男の赤い髪と眼は、どういったわけなのだろう、とルキアは思いながら、
わあわあと誘拐犯達と口論を続けた。
それはルキアにとって、良家の子女達と交わす会話よりずっと楽しく、いきいきと力に満ちていた。











扉が開くと、あの夜会の日の、赤い怪人が
怪人らしからぬ驚愕をあからさまに表情に浮かべて眼を見開き、ルキアを凝視した。
それはルキアも同じで、呆然と二人、しばし時を刻んだ。
水色ウサギがゴホンと咳払いをして、再び金時計の蓋を開ける。

「お二人さん、時間が勿体のうございます」

ウサギの戯言に、我に返った恋次が読みかけの書類をバサリと投げ捨てた。

「グリムジョー…お前!」

グリムジョーというのか、このウサギは。随分可愛い名前だと場違いにもルキアは呆けた頭で思った。

「俺の許可もなくお前、何を」

「毎日毎日、激務のせいで身動き出来ないご主人様がお気の毒で〜」

へらっと笑って、ウサギは恋次が掴みかかりそうになるのを身軽く交わし、
金時計をぶんぶん振り回しながら

「檜佐木君にかけた魔法は数時間で解けちまうんで、彼が眼を覚ます少し前まで。それがタイムリミット」

そう言って楽しげに手をヒラヒラ振って、ウサギが退場する。
後に残された二人はしばらく呆然とウサギの去った後を見送っていたが、
徐々に二人の息遣いが目立ちはじめ、お互いの存在にギクリとした。
恐る恐る目線を合わせると、その気まずさに、また体が硬直する。
恋次は何から言っていいものか迷い、
ルキアは自分をさらってきた原因らしい彼を罵倒するべきなのに、それが出来なくて戸惑った。

「タイムリミットは数時間」

ふいに廊下の向こうからウサギの声がした。
二人はビクリと構えたが、あとはシンと静まって声が続く気配はない。

「覗いてんじゃねぇ」

と恋次が髪をかきあげて呆れたように溜息をついた。
その様子は今時の若者らしい軽い仕種で、あの夜の鎧のような頑なさが無く、
ルキアはなんだか少し、心に柔らかい風が吹いたような気がした。

「阿散井様」

ルキアが呼ぶと、恋次の瞳が少し強張る。

「なんでしょう、朽木様」

阿散井様、と呼んだのが勘に障ったらしいとすぐに解った。
が、かといって、他に呼び方など知らない。

「私は何故ここに連れてこられたのですか。このような遣り方で」

「俺の部下共の悪戯心です。忠心のつもりでしょうが…強引すぎたな」

「…忠心?」

恋次は少し哀しそうな瞳をして

「…理解、出来なくて、いいですよ。…今の貴女には」

と独り言のように呟いた。
その顔は、あの夜会の折に見つめ合った、あの時の表情にとても近い。
ルキアの胸がズキリと痛む。
そうは言っても、心の扉に幾つも鍵がかかっているような感覚が邪魔をして、
ルキアには自身の胸の痛みの理由が解らない。己の胸でありながら、己の心でありながら。

「ま…折角の、“愚弟共”からのプレゼントだ。無駄にすることもない」

そう言って恋次はクロゼットを開け上着を取り出し、車のキーを持つと、
ルキアの背中に触れるか触れないかの距離で手を添えて、廊下へ促した。

「遊びませんか? お嬢さん」

とウサギが最初にルキアに発した言葉と同じ台詞を、恋次も繰り返した。
ルキアは不思議な心持ちになった。
使用人を弟呼ばわりする者に会ったことが無い。
雰囲気や口調まで似ているのが、ことさら奇妙だった。
比較的、身分の差を感じさせず、
心の幾分かを許しあっているように見える白哉と檜佐木さえも、ここまでではない。
白哉は檜佐木を“弟”などとは決して言わないし、
檜佐木も奔放な性質をよく露呈するが、身の程を忘れる程ではない。

恋次に外へ促されながら、ふと気付くと、
廊下の端にしゃがみ込んだウサギが少しだけ顔を覗かせてコチラの様子を伺っている。
ルキアの視線に気がついて、ウサギは片手をグーとパーに何度か閃かせて「イッテラッシャイ」と言っているようだった。
ルキアはその仕種を昔どこかで見たような気がして、少し涙ぐんだ。
その涙の理由も解らないままに。











貸切の遊園地ならば、ルキアは子供の頃に何度も経験している。
けれど今日のように、大勢の人の群れに混じって、
自分もまたその群衆の中で遊ぶなどという事は一度も無かった。
人混みの中で時折、誰かがルキアにぶつかりそうになると、
恋次が素早く庇い、結局恋次以外の誰もルキアの体に触れる事はない。

『空飛ぶ絨毯』と名付けられた乗り物から一際かん高い悲鳴があがった。
人々の顔は恐怖にひきつり、悲鳴をあげながら同時に笑っていたり、半泣きだったり。
ジェットコースターからは、真っ青になった父親と、はしゃぐ娘が降りてきて、
母親が笑いながら二人を迎え、父親をからかう。
父と母の間で娘は、片方ずつ手を繋いでもらい、時々、数センチだけ身を持ち上げられる。
両足が浮くたびに、きゃっきゃと甘い声があがってルキアの耳をくすぐった。
モーツァルトよりショパンよりリストより他のどんな偉大な音楽家達の奏でた音より優しかった。

ピエロがピンクの風船をルキアに渡す。
ルキアがピエロの顔を眺めると、口元は赤い染料の下でも微笑んでいて、ルキアを安心させた。
風船の命は短かった。
小枝にかすり、パンという音をたてて割れ、その切れ端が恋次とルキアの上にはらはら落ち、
二人は一瞬呆けた後に笑った。

ぴとん。
ルキアの額に小さな雨粒が落ちたかと思うと、あっという間にスコールのような大雨が落ちてくる。
恋次とルキアは一番近くにあった大木の下に批難した。
ゲームセンターと屋内遊技場をかねた建物まで数メートル。
その数メートルで確実にずぶ濡れになると解る激しい雨が降っているのに、
遊園地は太陽の光を浴びて、あらゆるものの形が頼りなくなっていき、ルキアは神様が近くにいるのではないかと思った。
目を細めるほど眩い天気雨が段々と小降りになっていく。
ルキアの肩を恋次の指先がとんとんと叩いた。
なんだろうと見上げると、恋次がその指先を、スウと伸ばす。
その先に、金色に縁取られた雲が流れている。
雲の中央は濃い灰色で、重い厚みを思わせたが、
その上に太陽がある為に縁だけが黄金色に光っているのだった。
雲の上には陽光を遮るものの一切ない、輝くだけの世界がある。
気がつくと、薄雲をフィルターにして、かっきりと円を描く灼熱の星の形が見えた。
ルキアが、あっ、と小さく叫ぶ。
太陽を肉眼で見つめているにも関わらず、目を細める必要なく、
長々とそれを眺めていて平気だったから。
青空と雲の波間の境界線では、いや、線ともいえない金色の霧のベールを重ねることで、
太陽の姿を捕え得た。
その、あまりの美しさに、ルキアは神様と見つめ合っているような心持ちになって、
自分の命は必ず、いつか帰るべき処があると思えた。
恋次の大きな手がルキアの視界を遮る。

「あまり眺めすぎるのは良くない。あんなんでも、やっぱり目を焼いてしまうから」

「え? だけど…全然、平気ですが」

「じゃあ、こっちを見てみな?」

恋次を見上げると、視界に居座る残光が邪魔をして、所々傷んだ絵のように世界が歪む。

「…あ?」

ルキアは目を傷めたのかと両目を閉じて、指先を瞼にあてがった。
すると余計に残光は瞼の裏で、悪魔の唾液のように染みを拡げて嘲笑う。

「大丈夫、そのうち消える」

ルキアが目を開けると、確かに奇妙な残光は薄らいでいった。
世界は奇跡の確率の幸福と、日常の残酷で出来ているのだな、とルキアは思った。
雨がやんで、遊園地は呼吸を吹き返し、人々がまた遊びに興じ始める。
恋次もルキアを太陽の下に促した。











金髪の小さな女の子がルキアにハロゥと声をかけたので
ルキアは一瞬戸惑ったが、ああ、と笑ってハロゥと返し、
手に持っていたブーケを象ったキャンディの束を彼女の手に握らせてやった。
少女は嬉しそうに笑って、日本語で「アリガトウ」と片言の発音で言ってから、彼女の両親が待つ場所へ走って行った。
少女の瞳はとても自然な水色で、ウサギの原色の青とは遠かった。

「ごめんなさい、せっかく買って頂いたのに」

すまなそうに恋次の方へ振り向くと、恋次が微笑しながら頷いた。
その微笑みは限りなく優しく、暖かく、清らかに見える。
あの夜、戦いの神に喩えられた男とは思えなかった。
恋次の背後にはメリィゴーランドがキラキラと廻り、
宝石を散らばした箱庭の中で二人。
此の世の悲劇から遠い処に生まれたように、ルキアは感じた。

此の世の悲劇?

なんのことだろうとルキアの眼から一粒涙が落ちる。
あの水色ウサギの仕種。
少年たちの悪戯。
子供達の嬌声。
笑いの染料の下で冷たく罅割れるピエロ。
試験管の中で眠る小さな命。
夕陽の橙。
外灯。
空に向けられる小さな手。
ノスタルジアの河の底に遊園地は光と流れて
眼前の恋次を浚っていくように思える。

「ルキア」

恋次がルキアの腕を掴んで引き寄せ、胸の中に収めた。
この日、初めて恋次がルキアの名を呼んだ。
ルキアは恋次の肩越しに空を見る。
夕闇の少し前、青と薄紅と紫と雲の白がマーブルのように混ざり合って溶け合い
ルキアの涙は益々あふれだした。

今頃あのピエロは焼却炉の中で融解し、この空へ帰ってるだろうかとルキアは思った。
このまま、自分も跡形もなく消えて、この空の一部になれたとしても、かまわない。
そういう幸福も有るかも知れないと、恋次の腕の中に硬く抱かれながらルキアは泣いた。
割れた爪をのせた指先の、その向こう側の、元素の一つに自分もなりたかった。

























2007.4.20