BELL   RINGS   AGAIN




「檜佐木、顔が面白…いや、怖い」

「誰が面白いんです。…怖くもなりますよ、お嬢。奴が来るなんざ聞いてませんよ。招待者リストにも載ってませんし」

「兄様も御存知なかったようだし…仕方ないだろう、突発の招待者だってあるものだ」

「敵将は老齢ですから、代理が出るのは当然といえば当然ですけどね。けど、あの息子が出張ってくるのは珍しいですよ」

「もしかしたら、あの噂は本当なのかな」

「ああ、病身だっていう、あれですか。本当ですよ。ああ成程、近々、代替わりするんですかね」

「調べたのか?」

「あの家は没落してもらうまで調査し続ける対象です。
けど病床にあって尚、ベッドの上で仕事をこなしまくる老人の動画付き報告ファイルには、心底ガッカリしました」

「ふむ。お気持ちは、お元気なのだな。しかし病身では色々都合の悪い事も御有りだろう」

「そこで、いよいよ息子の出番というわけですか。
我らにとっては招かれざる者というか何というか、厄介なこった。お嬢は初めてでしょう、あの家の者を見るのは」

「…ああ。しかし目立つ男だな。遠目からでも他とは何かこう…どこか違って見える」

「そりゃ、あの見てくれですから」

「…お前も目立つがな」

「ははっ。女性の眼には特に目立つ質なんです」

「悪目立ちという意味だ」

主役の代議士令息を差し置いて、今この場で誰より目立っている青年の周囲には、
政財界を担う壮年者達が群がって異様な雰囲気を醸している。
滅多に公の場に出てこないと評判の存在が、今夜、怪人のごとく姿を現していた。
場も開幕を待たず騒然として落ち着かない。
青年は、会場中において最も長身な上に均整のとれた体躯で、
濃い赤銅色のスーツと蘇芳のネクタイが艶やかに、よく映えていた。
背中に流れるクセの無い長髪は、あろうことか真紅に近く、シャンデリアの光に透けると婀娜めいてサラリと微かに音をたてた。
夜会服と彼自身の生まれ持った色がグラデーションの色彩を操り、輪郭を柔らかく削り取って、
モナリザの技法を盗みとったかのような佇まいを浮かばせる。
それを眺めて息を嚥下する女性達の喉がひっそりと、しとやかに鳴る。
前髪の隙間にちらつく両眼は切れ長に三白眼という悪相にもかかわらず、
どこか超然とした空気を湛えているために、総体的には神話性を含んだ華美な美々しさを否めない。

「さて、今宵は珍しい夜会となりました。なにせ、戦場からアレスがお出ましですから」

「アレスといったら軍神のことですか…穏やかな喩えと言えませんな」

「何、この夜会に招かれている淑女達の中に、アフロディテが紛れているのかも知れません」

「ほう、アフロディテ目当てなら…、そうそう、私の娘も今夜、お招き頂いておりまして…是非この機会に」

ここぞとばかりに顔を売りにいく者、繋りを持とうとする者、手玉にとろうと企む輩の巣窟と渦。
エスプリもインテリジェンスも今は差し置いて、とにかく関心を引こうと必死な翁達の媚笑い。
怪人は三白眼を細めて一瞬、冷然と彼らを見つめ下ろしたが、兎にも角にも愛想笑いを繕った。
ルキアは、おや、と、その愛想笑いに吹き出しそうになった。遠目ながら、彼が内心、毒づいてるように思えたのだ。

はあーあ。くだらねぇ。

そんな彼の声が聞こえた気がした。
けれどルキアは怪人の声を聞いた事などないのだから、単なる想像に違いなく、溜息をついて視線を外した。
朽木家にとって敵方の家の息子など長々と眺めていても、良いことは無いだろうとルキアは思う。

「狛村様もお気の毒な。これでは出て来にくいではないか」

「そっすねぇ、確かに…って、お嬢、何処に行くんです」

「狛村様のお部屋に。お迎えにあがろう」











「ルキアさん! 来てくださったんですね」

「貴方のお誕生会を兼ねた、次期御当主のお披露目ですから当然でしょう。お父上様はどちらに?」

子息は再び項垂れて、情けない声音を漏らした。

「今しがた阿散井のご令息の所へ飛んでいきましたよ。
彼が招待に応じたのは、これが初めてだとかで大層興奮して…みっともない。
貴女がこうして来てくださったのも…初めてですのに」

ルキアは苦笑して取り繕う言葉を探した。

「私達は何度もお会いしてますもの。我が家のパーティには、いつもいらして頂いて…兄も喜んでおります」

「こちらから出向かなければ、貴女には滅多にお会い出来ませんから。
世界に名を轟かす朽木家の令嬢である貴女は、国宝であるも同じ。
その上、一級の美術品のようにお美しいのだから…言わば貴女は白哉さんの掌中の珠。
どうしたら、毎日その宝玉を眺めて暮らせるのでしょう」

いつのまにか子息の両手はルキアの片手を捉えて包んでいる。
ゴテゴテと時代錯誤な装飾を付けた世辞と、熱を帯びた眼差しに、
ルキアは兄の「見合いの意味を含めて」という言葉を思い出した。

「お嬢様、あまり長居は出来ませんよ。門限がありますから」

檜佐木が助け舟を出したので、ルキアはありがたく思った。

「狛村様、申し訳ございませんが私には僅かしか時間を許されておりません。
それなのに、主役がいつまでもお部屋に引篭っていては私も招かれた甲斐がないというもの。さあ、参りましょう」

ルキアは握られた手をそっと外して、逆に子息の腕に自ら腕を絡めて寄り添い、

「エスコートして下さるのでしょう」

そう微笑むだけで事は足りた。
子息はいささか臆病なプロポースを交わされたことなど忘れ、
社交界きっての名花を携えた事で、背筋が伸び、階下の喧騒へ身を投じる勇気を奮い起こした。











二人がコトリ、コトリと階段を降りていくと、
赤い髪の男に群がっていた者達も徐々に目線を移し始め、
真白の絹に包まれた少女の姿を認めて、嗚呼ともう一人の主役の存在を思い出した。
それは狛村家の頼りなげな子息のことではなく、朽木家の令嬢の方だった。
狛村代議士が、息子の披露目の日にルキアを招いたのは、
朽木家との姻戚を目論んでの事だったが、それは皆、承知の事。
名士達の誰もが、狛村を差し置いて抜け駆けを企んでいることなど、解さぬ者はこの場に一人もいない。

特に今夜のルキアは白哉の見立てたドレスに身を包んでいたので、
いつもより幾らか大人びて、
少女が成熟していく際の特殊な色香を図らずも男達に見せつける結果になり、彼らの野心の焔に油を注いだ。
古代ギリシャのドリス式キトンに似た白いドレスは、
ゆらゆらと揺れる度にルキアの体の滑らかな線を露呈する。
華奢な両肩で健気にドレスを吊るブローチは白金に縁取られたライトグリーンのアレキサンドライトで、
それは光の加減で時折、薄紫に変化し、ルキアのスミレ色の瞳と相俟って見る者を酔わせた。
ルキアは好奇の眼に晒される事に慣れている。
ゆえに自分に集中する視線の数々も、心の平静をコントロールしながらスルリスルリと幾つも交わし、
この後いかに早々に退散しようかと考えを巡らす余裕さえあった。
一種異様な眼差しを受け止めるまでは。

心にギリリと歯車が軋む音が聞こえる。
それを合図に歯車は稼動することを拒みギシギシと嫌な音をたてる。
ルキアのこめかみから冷や汗が一粒流れて落ちた。

音が打ち寄せる。

赤い海の怪音。

冷めた風がルキアの肌に触れ、河と流れ、やむ気配はない。

優しい雨が降る。

虹色の花びらが生き急ぎ、散り急ぐ。

太陽に焼かれる砂の匂い。

禁色の羽鳥達の断末魔。

まわる、星の、胎動。

青い絹にくるまれて吐息を漏らしながら繰り返す星の輪廻が見えて、ルキアは一瞬、目が眩んだ。
世界がルキアの前に高波のように押し寄せる。
懐かしい世界。
恐ろしくも愛おしい世界。
誰かが指し示した、指先の向こう。
いつもルキアの前に世界を連れてきた誰かの、その指先。
その指の表面は酷く荒れていて、末端に張り付く爪は痛みを伝えるように皹が入っていた。













階段の踊り場で立ち止まったルキアを見上げる恋次もまた、
心の動揺を完璧には押し隠せず、微動だにせずルキアを見つめた。
少し哀しそうに、少し懐かしそうに。壮絶な渇きを秘めながら。
その瞳は、遠目で見ていた時には気付かなかったが、赤に近い褐色で、奇怪な色をしている。
ガーネットの髪と両眼は人間離れして、やはり怪人だ、とルキアは思った。

しかし怪人ならば醜いはず、軍神ならば血に塗れて穢らわしいはず。
どうして私の前に世界を連れて来る。
私が焦がれる世界を、その眼の奥に隠し持つ。
それは私のもの。私のだ、返してくれ。

我知らぬ、内なる激昂にガクガクと震え始めたルキアに気付いて、
檜佐木が背後から声をかけた。

「お嬢。気分が悪いなら…」

はたと我に返り、ルキアは慌てて平静を装った。

「…大丈夫だ」

「なんと喜ばしいことでしょう、ルキアさん!
息子とお出ましとは…私が心配せずとも、若い二人は自然に親しくなれるというわけですね。
これを機にもっと頻繁に拙宅へお出で下さると私としましても」

狛村代議士の声が俗世を開き、
代わりにルキアが垣間見た世界は儚く消えた。

「ええ、今宵はご子息のお祝いですから…他の、誰にも目は向きません。今宵だけならば」

相槌を打つと同時に、その凛とした声は会場中の紳士達を牽制し、
ついでに狛村親子も牽制してみせたルキアに、檜佐木は背後で笑いをこらえた。

「お嬢様、そろそろお暇を。
これ以上門限に遅れますと、狛村様の身にも危険が…ゴホン、いえ、ご迷惑が」

ニタリと笑みながら、低音ではあるが声を張り上げて放った援護射撃は効果覿面だった。
朽木家の黒い噂は、噂に留まらない。
名家は財力と権力が大きい程、そして歴史が深ければ深い程、闇を内包しているのが常であり、
現に白哉の一言で、一国の首相さえ顔色が変わる。
従者が多少無礼な口をきいたところで、それが朽木家に属する者ならば誰も反論できようはずもない。
皆が別れを惜しむ挨拶を次々とルキアにかけるなか、
ルキアは視線だけで、誰にも気付かれないように注意深く、赤い怪人を探した。
見つかったのは、その後姿。
振り返る気配はなく、未練を残す様子もなく、使用人から外套を受け取ると風のように速やかに扉の外へ出て行った。

帰ってしまった。
私を置き去りにしたまま。
ああ…
お前は私の世界を持ち去っていくのか。

ルキアの背筋が一瞬凍りついた。
自分は今、何を考えたのだろうと恐ろしさに身震いする。
朽木家唯一の敵と成り得る輩の、その世継ぎに何事かを求めた自分自身が恐ろしかった。
比較的には新興勢力と言っても、今の政財界を牛耳っているのは朽木家に次いで阿散井家であり、
その力の差はほんの僅かである事は確かだ。
隙あらば阿散井が、永らく財界の頂点に立ってきた朽木に取って代わろうとしている事も。
敵方の狙いは朽木家の乗っ取りか、或いは没落。
つまりルキアの最愛の兄にして唯一人の家族、白哉の失脚である。
さらに、水面下で密やかに囁かれている噂があった。
阿散井が事を起こすとすれば、次期当主に代替わりした後だろう、と。
阿散井家の現当主は、かなりの老齢に達し、今や病床から出ることさえ困難な為に、
決定的な行動を起こすなら次期当主、阿散井恋次が成すのだろうと推測されていた。
その為に引き取られ、養育されてきた男だと、政財界の誰もが知っている。













「よーう、王子様。 どうだった、我らが姫さんは」

運転手が後部座席のドアを開けると、
水色の髪を逆立てた柄の悪い青年が、ニヤニヤと既に奥に陣取っている。
恋次は表情を変えず、ドカリと隣に座ってから、
運転席と後部座席をさえぎる防音硝子を稼動させ、それが隙間なく閉まるのを待った。

「今日はクソジジィが用意した車と運転手だってのに、よく乗れたな。グリムジョー」

「だって爺さん所属の運転手って弱ぇのばっかり…」

「だからイチイチ脅すとか、そういうのヤメロ。後がめんどくせーんだよ、フォローが!」

「れんじぃ、俺、早く再会のあれやこれやを聞きたいんだけど?
お前の愚痴じゃあ感動の涙にむせび泣けねぇ」

恋次は、あほらしい、と言って益々愚痴を零す。

「再会なんて言えんのかね、あれが。一瞬視界に入っただけだ。…お前と同じ色の服を着てた。胸糞悪ぃ」

「白か。透けてた?」

「透けるかよ。お前の安物スーツと一緒にすんな」

「なぁんだよ、王女様の視界に、やっと入れたんだろ? もちっと浮かれてるかと思ったのによ」

「白哉の趣味が気色悪くて吐きそうなんだよ。今のルキアに、あのドレスはねえだろ、まだ早ぇよ。無理させやがって」

「あー」

グリムジョーがニタニタと笑う。

「あっそ。そういうこと」

「…っだよ」

「ヤキモチでちゅかあ、ルキアちゃんの本当のお兄ちゃんは、恋次くんでちゅもんねえ?」

骨のぶつかる音と共に、グリムジョーの奥歯が一本、
血飛沫と共に虚空に飛んで転がった。

「・・がっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加減しろ、馬鹿力!!」

「…孤児院にいた頃はお前も可愛かったのにな、グリムジョー。ルキア、ルキア、ルキア、ってな」

「うるせえ! そのルキアは俺達も孤児院も何もかも忘却の果てじゃねぇか、忘れちまったら、ただの他人だぜ。赤の、た・に・ん!」

「………」

「お前らは特に仲が良かったから未練が残っても仕方ねえ、けど、それもお前だけの話だろーが。
あちらさんがお前を今も待ってると思うのか、どうやって? きれいさっぱり忘れてんのに、どうやって、お前を…」

グリムジョーは悪態を存分に吐けなくなった。
恋次が疲れたように首を少し傾げて、
長い髪が彼の横顔を隠し、その様は泣いているように見える。
実際涙など流してはいなかったが、グリムジョーは恋次が泣く術を持たない事を知っていた。

恋次には幼い頃から、欠落しているものが幾つもある。
涙を流して感情を解放すること、深い眠りに長々と浸かること等が、恋次は上手く出来なかった。
そのうえ呼吸困難の発作を起こしたり、慢性的な睡眠不足が祟って体調を崩す事も頻繁にあった。
手を洗う回数が異様に多く、恋次の手は水道水の塩素のせいで赤く爛れた。
爪を出血するまで噛む悪癖のせいで、唇の端には常に血がこびりついている。
瞳は、何処を見ているのか解らないという有様。
ぼんやりした眼は水晶体と言うより、擦り硝子の玉にしか見えなかった。
擦り硝子は、無数の傷で透過性を曇らせる細工をした硝子だから、恋次の眼が茫漠としているのも無理はなかった。
無数の傷が恋次の眼を塞いでいることに間違いはないのだ。
孤児院には精神的外傷から体に不調を来たす子供が沢山いる。
なかでも恋次は重症患者で、よく精神科医が院に呼ばれたのは子供達のケアの為もあったが、彼の経過を診るという理由が大きかった。

恋次が両親によって酷く虐待された末に、
殺されかけたという過去を持つことを知っている子供は、孤児院ではグリムジョー、一人。
グリムジョーは子供達の経歴を記した書類をこっそり盗み見したり、
職員達の交わす会話に、よく聞き耳を立てていた。
大人達はグリムジョーが傍にいても、その年齢からは殆ど理解出来ないだろうと油断していたが、
彼には歳にそぐわない高い知能が備わっていた。その高い知能を隠す術とメリットさえ解する程に。

自分とあまり歳の変わらない、赤髪の少年が孤児院へ入ってきた当初、
その少年は満身創痍で、笑うことも泣くこともせず、
ただ、じっと大人達の様子を観察し、危害を加えられないかという“構えた”意識が見てとれた。
被虐経験を持つ人間は、たとえば100人、人間がいたとして、その中から
やはり似た経験を持つ被虐者と通じ合うという。
だからグリムジョーは、すぐに勘付いた。
その少年の経験は、孤児達の中でも特別だと。
グリムジョーの眼に、少年の周りに灰の雨がザラザラと降っているように見えて、ひどく解りやすかった。
焼ける焦土の上に素足のまま佇む少年の眼は、自身に向かって押し寄せる溶岩の流れを、ただ眺めて赤い。
足掻くことも忘れマグマの河が身を滅ぼすのを呆然と待っている。
グリムジョーは早々と書庫に忍び込んだ。
案の定、いつものようにデータファイルを盗み見してみれば、恋次のそれは本当にろくでもなくて、
傷つけられた子供達を大勢見ていたグリムジョーでさえ、うめき声をあげた。
よく、ここまで生き延びてこられたものだと、グリムジョーさえも薄ら寒くなった。
自分の“それ”とどっちが無残だろうと考えると、まだしも、自分の方がマシなのではないかと思う。
恋次が来るまでは、自分ほど酷い生まれと育ちを経験した子供はいない、と自負していたものだったが。

少年が来て幾月、ルキアが或る日を境に、一つの歌を頻繁に歌うようになる。
ルキアは「こもりうた」だと思い込んでいたが、
それは幼い子供に似つかわしくない、古い恋歌だった。
歌詞からみて、グリムジョーは「恋愛の歌じゃねぇか」と一蹴したが、
ルキアはそれを「こもりうた」と言って、絶対に譲らない。
おそらくルキアに関わった大人の誰かが、それを歌って幼いルキアを寝かしつけたのだろう、
赤ん坊でも記憶はあるものだとグリムジョーは思い、自分の考えに納得した。

平均2~3才程度からの記憶を有する者が多いが、それは絶対ではない。
グリムジョーもまた、覚えている。此の世に生まれ出た日の光を。
それは陽光でも母親の温もりでもなく、単なる医療器具の光であったように思う。
赤ん坊は、はっきりと目は見えない。が、ぼんやりと世界の陰影を捉え、感知する。
自分がどんな故郷を得たのかを。

ルキアは未だ乳飲み子であったにも関わらず、寒い冬の朝、孤児院の門前に捨てられていた。
落ちてくる雪のかけらに、あ、あ、と産声を漏らしながら、ルキアは手をのばしている。
孤児院で初めてルキアを抱き上げたのはグリムジョーだった。
ルキアの上にそそいだ雪を払ってやったのも。
その後、ずっとルキアを見てきた彼が、孤児院で誰も歌った事のない歌を、
少女まで育ったルキアの口から突然出たことに疑問を感じた。
それこそ外界との繋がりが少ない院の中で、或る日突然、歌いだした事が奇異だったのだ。
ルキアは塗り絵を一心に塗りながら、無意識に歌っている。
誰かから教わったり、テレビで流れていたのかとグリムジョーが訊くと、ルキアは「夢の中で誰かがいつも歌ってる」と言った。
だから、ルキアを捨てた誰か、もしくは関わった何者かが好んだ歌なのだろうと推測出来た。

ルキアは飽きずに何度も繰り返し“こもりうた”を歌う。
赤髪の少年が孤児院に入る前と後とでは比べものにならない頻度で。
夜毎、少年を眠らせる為に。
あどけない恋歌は、恋次の中の焦土に雨を降らせ、波をよせて、くすぶり続ける熱を鎮めた。
風を通し、焼けて爛れた体の痛みを冷やし続けた。
以降、恋次の睡眠障害は軽減され、体調も回復していく。
呼吸困難の発作も無くなったように見えた。
手を洗う回数も激減し、爪はキレイに揃い始めた。
無数の傷に曇った瞳には透いた光が見えるようになり、やがて水晶体と呼べるべきものとなった。
泣くことは相変わらず出来なかったが、その代わりというべきか、笑うことなら、人より多く出来るようになっていた。
グリムジョーが不思議だったのは、ルキアが恋次の心を休ませる力を持つ唯一の少女という事。
被虐者同士が通じ合いやすいというなら、
ルキアにも、それが当て嵌まるだろうかと考えると、どうもグリムジョーには解らない。
乳飲み子でも虐待されるケースは山程あるが、ルキアには、その気配が見出せないのだ。
ただ時折見せる、心細さを宿した表情だけが孤児の特徴と言えなくもなかったが、
恋次やグリムジョーほどの経験をしているはずがない。
まず生きた年数が違い、仮に虐待をうけていたとしても、その頃の自我の発達状態が違っている。
同じはずがない。
もしかしたら、自分達とは逆の世界に住んでいたのかも知れないとグリムジョーは思い至る。
するとルキアという少女は、孤児達と通じ合いながら、同時に、暖かい何かも知っているという事になる。

自分を守り、慈しむ眼差しと温もりから、或る日突然、置き去りにされる。
それは一体、どっちが残酷なのだろうか。
ぬくもりを知らずに捨てられるのと
ぬくもりの中から引きちぎられるのと。
もし同等といえる傷の痛みなのだとしたら、二人が引き合うのは道理に叶っているのかなあとグリムジョーは考えるが、
模範的答えは何処にも無いので、二人の行く末を見届けるしかない。
どちらにせよ傷を舐めあっている事に変わりはないのだ、とグリムジョーは内心、嘲笑う。
舐めあえる相手がいるなら舐めあえ。
それで傷が癒えるなら儲けもの、と思うから、決して否定もしない。

そして現在。
恋次の睡眠障害は薬に頼らざるを得ないレベルに達している。
涙は、まだ見たことがなかった。
笑うことも、昔に比べると明らかに減っていた。
彼の中の焦土はどうなっているのだろうとグリムジョーは、俯いて動かない恋次を眺めて思う。
今は彼の上に灰が降っているように見える。
水の音は聞こえない。
風もとうの昔にやんだ。
火は、じりじりとその魂を焦がすだけ焦がして、やがて灰と化す。
抜け殻がゆっくりと灰に埋もれていくのを
グリムジョーは止めることも出来ずに、ルキアが孤児院から消えて以来、ずっと眺め続けてきた。

どうにかしてやってもいい。出来るものならば。
この自分に似た男の救いが、あの少女ならば。
世界に投げ捨てられた子供達が、世を呪う灰の中から這い出し、救われる日が
たった二人にでもいい、与えられてもいいはずだとグリムジョーは思っていた。
生まれながらに幸福を約束され、安穏と暮らす者達の手は借りない。
それ以前に貸す者などいない。恵まれた者は、恵まないのだ。例外を除いて。
灰の中の兄妹の行く末を、明るい光に満たしてやることがグリムジョーにとって、この社会への復讐を果たすことと同義と思えた。
自分もまた灰に埋もれる者。
煤煙と灰の雨で太陽など見えない。
だが押し出してやる。
光を目指し飛び立っていく力がある者は、行ってしまえばいいと、グリムジョーは自分の両手を見下ろす。

この手にそんな力くらいは、あってもいいだろ?

ふと、一体俺は誰に問いかけているのかと、グリムジョーは浅い笑いを漏らした。
それ以上は考えるな、と。
深く考えすぎると自分も恋次のように手に負えない重症患者になってしまう気がする。
さしのべられる救いの手も無い自分には、それは少しばかり、否、あまりにもシビアな情況だと解るから。
グリムジョーは、ふと、ずっと疑問に思って聞き損ねていた事を
今、訊いてみようかという気になった。

「…お前、なんでルキアだったの」

「あ?」

「だから、なんで、何がキッカケで…お前ら、あれほど仲良くなったわけ?」

「体温」

こともなげに、あっさりと恋次が答える。
グリムジョーは我ながら間抜けた顔をしてるだろうと思ったが、

「 たい、たいおん?」

声まで拍子抜けるとは思わなかった。

「俺、あの頃から睡眠障害発症してたろ」

「お、おお」

「夜中、一人で起きてるしかないわけだろ、眠れねぇんだもんよ。
でも夜って、くそ長ぇんだよな。なかなか終わらない。
毎晩、退屈と格闘してたんだ。
したら、或る晩、なんか人の起きてる気配がしたんだよ。
俺以外にも誰か起きてんのかなあと思って、こっちも起きてる合図をしてやったんだ」

「起きてる合図? 何だそりゃ」

「小声で、“今、寝てないやつ居る?”って」

「ああ、単純バカのお前らしくて、とても良い」

「うるっせえな。したら、自分のベッドの下から“いる”って声がする」

「お前ら、二段ベッドの上と下だったな、そういえば」

「ああ、笑えたよなあ。
男子と女子で一応、部屋割りされてたのに」

「女子のベッドが一つ足りないっつー理由で」

「一番ユニセックスな感じのするルキアが男子部屋に放り込まれたんだよな。
職員共も随分乱暴だとは思うけどよ…」

「強かったからな、ルキアも」

「…まあな」

恋次とグリムジョーは一瞬の沈黙の後に吹き出した。
共有する記憶が、何も言わずとも互いの感覚を伝えていた。

「で? 体温は?」

「あー、そうそう。それで、なんで寝てねぇんだと思ったら、
ルキア、あいつ、低体温症なのか知らねぇけど、体が冷たい、眠れないって言うんだ。
真夏だぜ? 冷暖房もろくに整ってない施設の、真夏の夜に。みんな、汗だくで寝てるってのに」

「あ、もう解った」

「そうか、じゃあ、もういいだろ」

「ああ。お前、体温高かったもんな。なるほどね、体温か…」

グリムジョーは自分の仮説が頭でっかちの精神分析論を思わせて少し憂鬱になった。
それだからといって自論が外れているとも思わなかったが、
子供達の至極単純な理を見せつけられて、そして、その単純な理がとても貴重にも思えて、
二人の出会いは奇跡に近い確率ではないかとグリムジョーは思いたがったが、自分でそれに気付かない。

恋次は昔話をしたことで、記憶の狭間からルキアの小さな手が自分に触れた気がして、少しラクになった。
ベッドの上段と下段から、互いに触れ合う為、体温を確かめる為に手を伸ばし、触れた指。
冷たくて心地よく、火傷の跡に氷水をそそいだ感じにとても近い。
逆にルキアは、恋次の熱い肌に眼を見張り、とてもいいものを見つけたという顔をした。
一緒に朝まで眠れたら良かったが、それには子供達や職員達が障害で、
仕方なく、二人は夜中に少しだけ体温を分け合うことにした。
それだけでも、ルキアの冷え切った体は随分暖まって、眠りに入るのが容易くなった。
恋次は恋次で、微熱持ちの体が冷やされるのが気持ちよくて、
ルキアが自分のベッドに帰る際には、未練を努力して断ち切らねばならなかった。
やがて、二人に少しづつ会話が増えていき、時には共に寝床を抜け出して、地球が物語るお伽話を聞きに行った。





















2007.4.15