太陽が、けたたましく笑った。
空は太古から現在、未来に至るまでの物語を淡々と語り、
風が、はしゃいで走り出す。
雨は穢れをそそいだり、罪を洗い流したりで、せわしなく、
雲は散々怒り散らしてから気紛れに天の梯子を下ろしてみたり
砂が足首を捕えて何処かへ引きずり込もうと会議を開くと、
鳥は虹の上でステップを踏んで歌い出す。
やがて虹は彼方の地平線に霞んで逝き、鳥の羽根が散った。
そして誰かの眠る息継ぎの音だけが残る。
地球を象る、あらゆる息吹を感じながら私は波打ち際に立っている。
足下に規則正しく寄せる波は徐々に青から赤へ変わっていき
私は懐かしさに波の中へ身を浸す。
両手でその血を掬って、そして不思議なことに
愛おしそうに私は
手中の血液を飲み干すのだ。

「……」

その時、私は必ず誰かの名前を生み落とす。
この星がくれた赤い体液を糧に私は誰かを生み落とすのに
間違いなく誰かの名を唇は零しているのに
それは音と成れずに、煙となって何処かへ掻き消えていく。
思い出すなと兄様が私を星の体液から抱き上げ、私を濡らす血を拭い、あるべき場所へと導いてくれる。けれど。
ああ、ああ…あの赤い海も暖かかったと、まるで星の脈動が掌から伝わって
それは私もこの世界の一部だと認められているようで幸せだったと未練がましく振り返る。
そこにはもう真っ白な世界しか残ってはいない。
いや、何も残ってはいない。

そして理解する。
私は誰かを待っている。
私は私の見知らぬ故郷を待っている。
見知らぬ何処かへ帰りたくて、みっともなく足掻き続けているのだ。
けど、なぜ知らぬのだろう?
懐かしい何処かが、何故、こんなにも酷く遠く、朧なのだろう。






†  
SOUND   OF   OUR   SCREAMING






「おや、お顔の色が優れませんね」

「これは藍染先生。おはようございます」

食卓に主治医の姿があるのは、この家では珍しいことではない。

「昨夜はお泊りに?」 

「ええ、白哉君から相談を受けまして…お兄様は随分、妹さんを心配しておられますよ。
貴女が最近、あまりよく眠れていないようだと」

「私のことですか」

使用人が運んできた大仰な食器の幾つかを、
硝子と銀で出来た豪奢なワゴンにカン、カツン、と、わざと音がするように返しながら、
ルキアの眉間は毎朝の儀式のごとく少し曇る。
いつもいつも、朝は軽くでいいと何度言ったら解るのだ、
ここの使用人達はアホウなのかとルキアは叱りつけたかったが、兄の言いつけだろう事も十分承知であるから、
結局、使用人達への叱責はルキアの体内に嚥下される、常に。

「ルキア様、もう少し召し上がって頂きませんと」

「わかっている。兄様には、お前達も料理人達も誰一人解雇しないように私から言っておくから、心配するな。
私が食事を残すのは、お前達のせいではないとな」

「では、やはり体調がお悪いのですか」

「いいえ、藍染先生。私の体をよく御存知でしょう。
この小さな器にこれだけの量の食事が、どうして朝から入りますか」

藍染は短く笑い声を漏らした。

「まあ確かに、豪勢な朝食ではありますね」

「これで兄様ご本人は朝は召し上がらないのだから、我が兄ながら…何と言いましょうか…」

「それだけ唯一の御家族が大切ということで」

「血が繋がっていないだけに、こうして愛情を示してくださるのは、ありがたいことです。
でも私は兄様と食事できた方がいくらも幸せだという事が、どうして解らないのでしょうね」

そこで藍染は何事かを含む瞳をして、口元だけで微笑する。

「あまり、近しくなりたくないのかも知れません。
肉親と同じ感覚になってしまったら、貴女をお嫁さんに出来なくなります」

悪戯っぽい笑みを浮かべて藍染が試すように言うと、ルキアは高らかに笑った。

「先生、私の睡眠不足の相談を兄から受けたのでしょう。
ええ、確かに最近よく眠れません。ですから眠剤を少々、処方して頂ければ助かります」

試みをスルリとかわされた事に全く動じる風でもなく、
藍染は快く承諾し、少し問診をすると、その日は早々に邸宅を後にした。

「白哉君にあまり心配しすぎないように伝えてくれるかな、未来の朽木夫人」

「伝えておきます、兄様の大事な妹からね」













「兄様、お目覚めですか?」

部屋の向こうから返事はない。
ルキアはそっと扉を開けると、未だ眠りの中にいる白哉の寝顔を見に、ベッドの脇へ寄った。
白哉の陶器のような肌が、カーテンを閉め切った薄墨の中でも美しくルキアの眼に映える。
この兄と結婚するのも悪くないとルキアは思うが、
それは絶対に無いという確信が彼女の中に芽生えて久しい。
いつの頃からか、兄が自分を見つめる、その瞳の深奥に
自分が抱える感覚と似たものを感じ取っている。
彼もまた遠い故郷を渇望し、永く彷徨っている姿がルキアの眼に浮かぶ。
その故郷が何処であるのか、或いは誰であるのかを
彼がはっきりと自覚しているらしい事さえ、ルキアには何故か感じ取れてしまう。
似た感覚を持つために、ルキアには白哉の孤独が伝わりやすかったが、
孤独の要因を自覚しているか、していないかの違いが、兄妹の一筋の溝だった。
もしかしたら記憶のない自分よりも、
兄の方がよほど途方に暮れているのかも知れないとルキアは思う。
ルキアが失った記憶の海に惑わされているとすれば、白哉は黒々とした氷海になす術もなく永く晒されている。
その姿が、ルキアには見えていた。
闇と氷に支配された、その絶望の海は、どれだけ恐ろしい世界なのかと想像するとルキアは寂しくなった。

「私達は何を、いえ、誰を? 待っているのでしょうね。…兄様」

皮肉なことだとルキアが口癖を呟く。
血は繋がっていなくとも、心持ちのようなものが、私達は似ている、と。
そういった意味では、真実の兄妹と言っていい気さえする。

「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ。今宵は、月も出ぬそうな」

月も無い真っ暗な空と海の境界に独り、凍てつく波にゆらゆらと佇む人。
その兄を出来る限り守り、暖めたいと、子供の頃から思ってきた。
身寄りのないルキアを引き取り、今日まで惜しみなく愛してくれた、ただ一人の家族、白哉に
ルキアもまた情愛を育ててきた。
孤児院でうけていた虐待の記憶を、藍染という名医によって消してくれたのは、
白哉の采配によるものだとルキアは聞いている。
ただ、その無残であるだろう記憶の中に、何か、自分を惹きつける何かが一つ、有るのではないかと
ルキアは薄っすらと勘付いていた。
けれど、それを追求したとして、その結果が兄の絶望を深くするとしたら。
ルキアは自分が何故そう感じるのか解らなかったが、それ以上、考えまいと思考を遮断する。
兄の聖域を侵すような気がする。

深いことなど考えぬ。
浅いこともよく解らぬ。
ただ、可哀相な兄様。

心の奥底に流れる兄への憐憫を己で気付いてか否か、
ルキアは眼前の怪我人の傷口を塞ぎ、溢れ出る血を止めるという応急処置の為に、
他の事はあまり考えないようにしていた。それでも。
無意識に心は郷愁に浸り、
肌は繰り返す憧憬に疲れ果て冷えていく。
口先から零れる歌は
魂が記憶する情欲をルキアに伝えたがって、すすり泣く。

「その歌はどこで教わった?…いや、覚えていないか」

瞼を閉じたまま白哉が寝返りをうった。

「いつから起きてらしたんです」

「お前が歌うからだろう」

「良い目覚ましでしょう。声には自信があるんです。声楽科では首席ですから」

「兄の数ヶ月ぶりの休暇を、お前は何と思っているんだ」

休暇という言葉にルキアの頬が気色ばんだ。

「兄様!」

「…どこに乗っている」

「兄様、では、今日は何処にもお出かけにならないのですか? それなら昨夜のうちにおっしゃってください。
ああ、時間を損しました、もっと早く起こしに来ましたのに……私、兄様に教えて頂きたいことが山程あるんです」

「乗馬か? 私は馬ではない。降りろ」

「乗馬もですけど、私、剣術が上達しないのです。剣道もフェンシングも、からきしなのです」

「志波と浮竹を付けてやっただろう。彼らから真面目にレッスンを受けていればプロにも成れるはずだ。
単にお前がサボっているのが上達しない原因だ」

ルキアは一向に白哉の上から退かず、冷たい視線で白哉を見下ろした。

「兄様。この数ヶ月、私達が何回顔を合わせ、会話を交わし、食事を共にしたか覚えてます?」

「………」

「いくらお忙しい身とはいえ、寂しい妹をたまには構って下さい。唯一の家族なんですから」

「大学生にもなって兄にべったりとは。たしなみを知れ」

「兄離れしろと? では、一人暮らしでもすることに致します」

「わかった、何でも付き合おう。乗馬でも剣術でも。ところで今夜はお前が忙しいはずだな、ルキア」

「は?」

「狛村代議士の息子の誕生会は、確か今日だろう。
私ではなく、お前が招かれていると檜佐木から聞いている。
見合いの意味を含めているらしいな…先方の一方的な思惑だが」

最後の一行に鼻で笑う白哉の様子が可笑しくて、ルキアも微笑んだ。

「あの方のご子息は割と好きです、子犬のような眼をなさってるところが。
では夕方から仕度をしますから、それまで今日は兄様を独占させて頂きます」

嬉しそうにルキアはベッドから飛び降り、扉を勢いよく開けると一旦振り返って兄をせかした。

「お早く、おいでになってください。待つのは得意ではありません」

扉を閉めた後の部屋にルキアの残香が流れて白哉の鼻腔を甘く擽り、彼はハァと溜息を漏らした。
のろのろと半身を起こすと白哉は妹が出て行った扉を眺めて

「その歌の記憶だけ、どうして消えない」

と、気怠く呟く。もう何度、この台詞を吐いたか彼自身、覚えていない。
白哉は、有り得ない事を深く考えない性質をしている。
だから死んだ緋真が生まれ変わったなどとも考えない。
考えないが、信じたがっている己が消えないことに苛立ちを覚えて仕方がない。
緋真は此の世にたった一人。たった一人、であった。
他の誰も緋真ではなく、かけがえがなく、ルキアはルキアでしかなく。
白哉はルキアを見つけた日のことを思い出すと両手で顔を覆い、うなだれた。
朝の日差しが鬱陶しかった。
もう情人はいないというのに、それでも廻り続ける世界が疎ましく、憎しみさえ込み上がる。




『だれ?』

お前は、誰だ。

『…ルキア』

ルキア? 緋真だろう。

『ちがう、わたしのなまえは、ルキア。ル・キ・ア。ルーキーア…、』

緋真。こんな所にいたのか。こんな暗く寂しい所に、一人で。

『わたしは、ひとりじゃない』

寂しかったろう。怖かっただろう。心細かっただろう。
私も恐ろしかった。
お前が死んだと思って恐ろしかった。
一人に、なったと思っていた。
おいで。
もう、おまえは、ひとりじゃない。

『わたしは、ひとりじゃない』




白哉とルキアの声が重なった、あの日。
あの時から、深い罪を犯している気がしている。
この罪悪に罰が下る日が来るなら、早々に願いたいものだと白哉は思う。

「緋真…」

罪を贖うように情人の名を呼ぶ。

「ルキアをどうすればいい?」


 











「…お前にはチェスの才能もあまり無いと見える」

「兄様、お待ちになって下さい」

「いや、いくら考えてもお前のキングには命綱が皆無だ。ルキア、そろそろ仕度をしなさい」

ブロンズの時計が夕刻を告げる。
赤々と夕陽が差し込む部屋で兄と妹は小さな戦争をもう何度も繰り返していた。

「で…でも、このままでは」

「そう、お前の全敗だな。潔く負けを認めて、使用人にドレスを着せてもらう頃合だろう」

「ドレスくらい自分で着れます」

「今回作らせたのは少々着方が難解だと思うが」

「兄様が作らせたのですか? 直々に?」

「…檜佐木に泣きつかれた。お前がいつまでも子供っぽいドレスしか着ない、女である自覚が無いと」

…檜佐木のアホウめが…

「何か言ったか?」

「いいえ。兄様もご一緒に行かれませんか」

「今日一日で剣術に弓、その他諸々どれだけお前に付き合ったと思っている」

「お疲れになりました?」

「ああ、お前ほど体力の有り余っている娘も、そういない。早く行きなさい」

ルキアは少し兄を見つめて、それから浅く微笑んだ。

「兄様、今日はありがとう。我侭な妹の子守をしてくださって」

今日一日の会話の中で、
最も落ち着いた大人の女の声音でルキアは礼を言い、身支度を整える為に部屋を出た。
白哉はそれを見送るとソファに沈んで目を閉じ、
子守をされたのは、こちらなのだろうなと自嘲の笑みを口元に浮かべる。
白哉の体調を考慮して休日を用意されたところで、
白哉には時間など早く過ぎ去って欲しいだけのもの。
ルキアの相手は気が紛れて、それは救いの手を差し伸べられる事と同じ。
義妹が差し伸べる白い腕は、暗い雲の波間からスゥと許される天の梯子と似ている。
たった一人、刻々と廻り続ける時間の中に放り込まれたら、白哉は自分が発狂するだろうと思う。
だからルキアが立ち去った後は、部下には気付かれないように、仕事に手をつけ始めるのだ。
ルキアと、仕事。
白哉の鎮静剤はそれ二つ。

月の無い夜。
奈落の海は底が見えない。
見上げれば清かな星が一つだけ。
一等星のように華やかではないが、凛と醒めたスミレのように瞬く小さな星。
ルキア。その光の名。
緋真の面を写し、緋真の好んだ歌を紡ぐ少女。
星に手を伸ばし、この手で空から引き摺り落としたら、どうなるのだろう。
光は掌で瞬き続け、冷たい体を僅かでも暖めるだろうか? それとも。
白哉は、判断しかねて身動きが出来ず、ただただ夜空を見上げるしか出来ない。






















2007.4.15