†
miosaic,chimera,and icon,but we are earthworm
「ラプンツェル、お前の長い髪をたらしておくれ…あ、こりゃ違うな。
泉の底に指輪を落としてしま…いやいや、これも違う、そりゃメーテルリンクだ。
なんだっけ、トリスタンとイゾルデ? や、全然ちげーだろ、メーテルリンクはペレアスとメリザンドで…って、だから、そうじゃなくてよぉ。
ロ…ロミオ、貴方はどうして……これだ。
ジュリエット! 貴女はどうしてジュリエットなん…なん…なんっつう台詞だよ!
シェイクスピアってのは、どうしてこうも大仰なんだ、しらふで書いたとは思えねぇな。
いやいやいやいや、酔っ払っても、ぜっっったい言わねーよ、こんな気色わりぃ台詞」
ブツブツと、彼の知る物語が幾つか零れては、草木の間を風と共に掻き消えていく。
朽木家の庭木はよく手入れされて美しかったが、グリムジョーには何の感慨も覚えず
ただ、ひたすら警備の網を掻い潜る事に専念した。
夜の闇が彼を隠してくれているとは、言い難かった。
無数の赤外線センサーが網目のごとく張り巡らされて、蜘蛛の巣を潜るより困難な試練が次々と現れる。
「やだねぇ、ハイソサエティってのは。懐疑心の塊だ。守るもんが有りすぎんのも、考えもんだな」
グリムジョーが赤外線を感知するゴーグルを外し、ひとつの窓を見上げた。
その窓の向こうに、ルキアの姿が見える。
「ロミオでなくて悪いが」
コン、と小石を窓にぶつける。
ルキアは不思議そうに振り向き、グリムジョーの姿を認めると目を見開いて、
窓を開くと
「ウサギ…!」
ひっそりと叫ぶ。
囁きは風にのってグリムジョーの鼓膜に届き、彼を苦笑させた。
そりゃあロミオじゃあ無いが、ウサギとは。
まあ、それもいいとグリムジョーはスルスルと、ルキアの窓辺に寄り添う大木に容易に登って、
ルキアと同じ目線まで来ると
「ご機嫌麗しゅう、アリス」
と、小さな妹をあやすように笑ってやる。
「ウサギ…お前、凄いぞ! 厳重な警備システムを掻い潜って、よくもまあ。うん? 今日は懐中時計をぶらさげてないんだな」
「アリス。いつまでもアリスのままで、いいのか」
「………?」
「兄様の膝枕で、まどろみながら夢を見てるのは気が楽か」
「………」
「残念ながら、もう金時計は無ぇんだ」
時間が。
無いのだと。
ルキアは言われた気がした。
「アリス。その役は捨てて、ジュリエットの配役を、引き受けてくれ」
「お前がロミオか?」
「そうしたいところだけどな」
「…阿散井様が? 彼が?」
グリムジョーは少し間を置いた。
ルキアが、まだ“阿散井様”と恋次を呼ぶことが意外だったから。
まだ、始まったばかりなのだと、実感した。
グリムジョーの復讐劇は、まだ序幕。
しかし恋次の体内時計は独り終幕に向かって突き進んでいる。
彼が望もうが望むまいが、現実は、ずくずくと先立っていく。
この時間軸のズレを調整しなければ。
「ルキア」
グリムジョーがルキアの前に手を差し出した。
「俺の手をとれ。連れて行ってやる。もう一度だけ」
「何処へ」
「俺は知らない。お前が選べ。不思議の国か、戯曲の中へか」
グリムジョーの青い瞳の中にちらつく赫い闇。
ああ、それは恋次の存在だったのかとルキアは一人、妙に納得した。
「行くのですか」
ふいにルキアの背後から声がした。
扉の所で、藍染が二人を見ている。
いつのまに、とグリムジョーがルキアより先に驚いた。
グリムジョーは傭兵や特殊部隊を育成する機関に在籍していた経験が有る。
それも日本の脆弱なそれではなく、先進国の機関で、あらゆる戦術、諜報術、攻防の技能を学んでいた。
それゆえに素人の気配を読み取ることなど容易な事だった。
だが今、眼前の男の気配に気付かなかった。
グリムジョーは男の様子を注意深く探って、コイツは素人じゃねぇ、とザワリと総毛立つ。
人間というものを観察し分析し、その心理まで操る術さえ身につけた技能者なのだと察知し、警戒した。
「あい、ぜん…先生。帰られたのでは…」
「もう一仕事、白哉君に頼まれたのでね」
「何を」
「ルキアさん、君の、心の操作を」
ルキアはグリムジョーへと身を翻して、彼の手をとった。
「連れていけ、私をあの人の処に。今すぐ!」
グリムジョーは窓から落ちんばかりのルキアを抱きとめ、
ザアと大木を滑り降りる一瞬前、藍染の顔を見た。
彼は微かに笑っているように見えて、グリムジョーの背筋に寒気が走った。
血が凍る。
そんな使い古された表現が、あまりに、そぐわった。
わざわざルキアの背中を押すような言葉を吐いた男の微笑に、
グリムジョーは禍々しさしか覚えなかった。
*
薬の効果で不自然に眠る恋次の、不自然な息継ぎの頼りない音色。
ともすれば、ふとした拍子に息絶えてしまいそうな風情で。
冷たい大理石の床に転がって、
何もかけずに、あどけなく痛々しく寝顔を晒す恋次の姿にルキアは驚いた。
「あーあ。また、こんなとこで死人になりやがって」
恋次の周囲に散らばる睡眠剤や安定剤の類、その薬包や、注射針。
そして散在する書類の山。
それらを眺めて、グリムジョーは恋次がまた多量に薬剤を摂取した上に
薬が効いてくるギリギリまでベッドに入らず仕事をしていたのだと解った。
最近、恋次が頻繁に短い睡眠を取るようになったのは、
その分、長い眠りに浸かれなくなっているせいで、
グリムジョーは恋次が眠っているとはいえ、少しも安心出来なかった。
「仕事か、ドラッグか。お前の鎮痛剤は、それ二つか」
グリムジョーが注射針を踏みつけ、パキンと無機質な音がする。
ドラッグと言っても非合法ではなくて哀れな精神病患者の為のものだということくらい
包に記されている薬名を見ればルキアにも、そこそこは解る。
ルキアは恋次の傍らに膝をついて、彼を見下ろした。
錯乱の狭間に垣間見た少年は今、生命力(或いは生命欲)乏しく、その息の仕方さえ儚く脆い。
ああ、とルキアの瞳から涙が落ちた。
今まで、兄以上に傷ついた人を見たことがなかった。
いや、傷の深さなど誰にも計れはしないのだが、
眺めているだけでルキアを落涙させる人間は、今までいなかった。
「れんじ」
自然とルキアの口から名前が漏れた。
ルキアは恋次の頭を胸に抱いて、それから自分の膝の上へ当然のように彼を寝かせた。
「わたし、こもりうた、知ってるんだ」
宵待草は、ようやく再び
ルキアの情人の為に紡がれた。
情人を癒し、生かし、恋を紡ぐ為。
恋次の息継ぎは安楽の音色を得て安らかになった。
「ルキア、お前」
グリムジョーが、思い出したのかとルキアに問いかけた。
「そうじゃない。記憶は今も無い。ただ、過去らしき映像が稀に脳裏に閃いて消えるだけ…だけど」
ルキアはゆっくりとグリムジョーを見上げる。
「ウサギも、恋次も、私の過去に存在していることは解る」
「それだけか?」
「そうだ、それだけだ」
けれど恋は、息を吹き返す。
灰の中から、瓦礫の奥から、手をのばし、千切られた片翼の痛みを聴き、再生した。
グリムジョーは確信して、大きく安堵の息を吐いた。
「るきあ」
まだ薬が効いているはずの恋次が、うっとりと眼を開き、声を発した。
その声はいつもの低音と違っている。
少年期のそれに似て、少し幼く、邪気の一切が無く、無垢で真っ白だった。
恋次は両腕をルキアの首にまわして、そのまま抱きしめた。
その二人の姿は
必死で、儚くて、けれど強くて
グリムジョーの眼に聖母子像のように写った。
*
恋次のプライベートルームは、壁や天井にモザイクの細工が施されていて、ルキアはその壮麗さに眼を見張った。
この阿散井家の別邸に初めて連れて来られた時も、
目にしたのはエントランスと書斎のみだったが、そこはかとなくビザンチンの気配が漂っていることに気付いていた。
恋次の自室は、その特徴が甚だしく、現実感が希薄で、
細かな光の乱反射に意識が浮遊する。
必要なもの以外にあまり物を置かない嗜好なのか、生活感もなく、
ただ観葉植物が少し多めに置かれて、日本より少しだけ熱い国を思わせる。
それが益々この部屋を浮世離れさせ、
創世の園とはこんな感じではないだろうかとルキアは思う。
よくよく見れば、モザイクの中に極端に淡いイコンが描かれている。
天使、聖母、聖人…吹き抜けの天井から床に至るまでフレスコ画は続く。
現代風のシンプルなシャンデリアと、天窓が穏やかに降ろす灯りがイコンに降り注ぎ
光となり闇となり、綾波のようにさざめいて、ルキアの眼に夢のように写った。
けれど、その、あまりの色彩の淡さ儚さに、
この部屋を見てもイコンが埋め込まれている事に気付かない者の方が、圧倒的に多かった。
恋次はイコンを見つめて動かないルキアこそを、眩しげに眺める。
人の世にこそ、こうして秘やかに聖も魔も、実は隣り合わせに、否、時には重なり合いながら存在しているかも知れないのに、
それを見つめることの出来る人間が、どれだけ居るだろうか。
不可視のものを、いとも容易く見てしまうルキアが、恋次にとって酷く稀有で仕方ない。
「見事なモザイクだな。テッセラの一つ一つが宝石みたいだし…まるで小さなラヴェンナだ。
いや…ラヴェンナを…とても淡い色彩で塗り替えたような…」
「行ったことが?」
「ある。昔、兄様が連れて行ってくれた。ラヴェンナの聖ヴィターレ教会、イスタンブールのアヤソフィア、
サン・ピエトロ寺院のラファエロ画を真似たモザイク…どれも美しかったけれど、この部屋も、とても…」
「ふぅん。俺は詳しい知識は無ぇし、ラヴェンナにもトルコにも行ったことはねぇけど。でも、この様式は嫌いじゃねぇな」
「詳しく知らないにしては、見事な技巧だ。よほど腕のいい専門家に依頼したのでは?」
「さあ…グリムジョーにこの家の設計や様式や何やかや、全部、決めさせたから」
「全部? 自分が住む家を全部、人に託して、不安もなく?」
「“なるべくオマエが心安らかでいられるようにしてやるよ” …って奴が言うから。
実際この部屋は比較的、心が落ち着く。で、テッセラって何?」
ルキアは飄々と問う恋次のあどけない表情が可笑しくて、愛しくて、
ふふ、と思わず笑いを漏らした。
「テッセラとはな…このモザイク壁画を作る一つ一つのカケラのことだ。
色大理石や陶磁器、ズマルトというモザイク用のガラス、貝殻なんかを砕いてるんだ。
薄い金箔をガラスに挟んで砕くテッセラもあって、埋めこむ角度を不揃いにすることで絶妙な光の反射を生む…が、
この部屋のテッセラは、あまり金箔を使ってないようだな。色合いが…とても涼やかで穏やかで、優しい光だ」
「あったりまえだ、聖ヴィターレみてぇなゴテゴテした壁画じゃ、落ち着くもんも落ち着かねぇ」
「安楽の配色で施されたモザイクか…。どうしてだろう、何故だか私も、この部屋は妙に落ち着く」
恋次がクス、と笑った。
「ルキア。お前にもモザイク遺伝子があるのかもな」
「…何? モザイク遺伝…?」
「モザイク遺伝子。
遺伝子の一部を他の遺伝子と結合した、自然界には存在しない遺伝子」
「……自然界には存在しない…」
「この俺の髪と眼の色みてぇなもんだ」
「この私の眼の色のようなものか」
恋次はルキアの手首をとって、ゆっくりと引き寄せた。
「モザイク遺伝子より、キメラの方がより相応しいかもな。異なる遺伝子型の細胞が共存している状態の、一固体…化け物の意味もある」
「ふむ。ギリシア神話の怪物に、キメラというのがいたな、そういえば。
ライオンの頭、蛇の尾、山羊の胴体、そして炎を吐くという…。
東洋でいうなら、鵺みたいなものだろうか?異種生物が一固体として生きている…」
恋次の指がルキアの唇に触れた。
「赫と紫じゃ、若干くどい化け物が出来上がるかもしんねぇ」
ルキアの口角が上がった。
「かまわん。血より濃いならば、いっそ潔い」
恋次は、成程そりゃあいい、と言って、ルキアに口づけ、
聖画像達がひっそりと見つめるなか、ルキアの白い体に赤と紫のモザイクを刻む。
夜の闇と、人工灯と、硝子片や大理石の色が混じり合い、互いを摂食する二人を微かに照らし、
それは一つの獣が産まれようと蠢く様の如く。
恋を食む。
その行為は体が溶けて何か別の生き物になる様に似ている。
確かに二人居るのに、一固体として存在する。
片翼では何にも成れないが
翼が二つあれば天使は天使然と、悪魔は悪魔として
その生業を果たせるのだ。
*
ああ、なんと容易いことだ。
阿散井恋次。
朽木の名を冠するに相応しい、あの賢しい兄に比べ
なんと脆弱で頼りないことだろう、この阿散井の王子様は。
貴様は女の色に惑って、その命を易々と私の前に横たえて晒している。
そんなことでは、長くは生きられやしない。
私は聖母マリアではなく、マグダラのマリアでもなく、そう、デリラなのだよ、恋次。
男を裏切る女なのだ。
けれど眼を開けたなら。
その真っ赤な、化け物のような、突然変異種のような、人工遺伝子の成れの果てのような、
その両眼を開けたなら
私を敵と認めてくれるか?
恋次。
私のことは早々に忘れてしまえ。心が蝕まれることがないように。
せめて少しでも長く生きるがいい。愛した女に裏切られ、命の大切さを思い知って。
けれど、その背中や肩の傷、私がお前に残した爪痕は
お前の心ではなく肉体に刻んだ私の想いは
いつかお前が灰に還るまで、お前と共に有り続ける。
待てど暮せど来ぬ人の
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな
何故この歌には幸せな結末が無いのだろう。
*
撃鉄を起こす無味な音が響く。
ルキアは声を張り上げた。恋次が眼を覚ましてくれるように。
「容易く罠に落ちることだな、阿散井恋次」
一瞬の沈黙の後、恋次は驚く風でもなく、ハァと息を吐いて、
気怠げに瞼を上げた。
「せっかく、いい夢を見てたのにな。悪夢以外の夢なんか見たの、久しぶりだってのに」
「夢は終わったよ」
「悪夢もか?」
ルキアは、ぐっと息を呑んだ。
耐えろ、と心中で自分に言い聞かせ。
「現実こそが悪夢かも知れん」
恋次は、ホントにお前は上手いこと言うよ、と笑った。
「笑うな」
「早くしろよ」
「何だと?」
「早く引き金をひけ」
言い終わらないうちに恋次は、自分に向けられた銃口をグイと握って
自分の眼前に引き寄せた。
「咥えてやろうか? 確実に仕留められるぜ」
ルキアの手がビクリと震えた。
「どうした? 撃ち方がワカラナイ、とか言うなよ」
薄紫のマニキュアが塗られた爪から、恋次の体を切り裂いた際の血が一粒、零れ落ちた。
「人、殺したこと無さそうだな」
「黙れ」
「俺は、ある」
「知るものか」
「お前に辿りつくまで、脳天から足の爪先まで他人の血反吐を浴びて生きてた。散々、人を踏みにじってきた。
今更、命乞いはしねぇよ」
「嘘だ」
「その報いが、お前に殺されることなら、むしろ喜んでお前にくれてやる」
「戯言を」
「俺の命は、贖いになるかな?」
「贖い? それどころか、単なる罰だったら何とする。何の救いも無かったら何とする。犬死にだ。」
「そうかもな。それもいい」
「いい、だと?」
「それでも触れたかったんだ。だから、いい」
恋次の赫々とした両眼は一点の曇りなく
ルキアは耐え切れずに、ついに涙を決壊させた。
「なぜ、返り討ちにしない!」
「それが、お前の本音か」
「私は兄様を裏切れない。貴様を嫌いになれない。
もう、選べない。何も選べない。選ぶ力が、無い。…れんじ」
途方に暮れた少女の泣き顔と嗚咽は、恋次が幼い頃に孤児院で見たのと同じだった。
「…わたしこそ、恋次の手にかかって息絶えてしまいたかった。あの羽虫たちのように」
恋次は力を失ったルキアの手から銃を抜き取ってやり、
その掌に、銃声の代わりに口づけを落とした。