†  THE CALL OF CTHULHU




「バレた」

「何が、誰に」

「全部」

「抽象的な言い方すんな。俺ぁ、頭悪ぃんだよ。解るように喋れ。簡潔に」

グリムジョーは面倒だと言わんばかりに舌打ちし、来客用ソファに身を投げ捨てるように座った。

「あの檜佐木の坊っちゃん。
思ってたより叩き上げの男だったみてぇ。お前の出身まで辿り着いたぜ」

「…へー」

「へぇ、じゃねぇだろ、へぇ、じゃ。朽木家の鉄壁のガードが益々堅固になるって話だよ。それも阿散井に対してね?
独断でルキアを浚ってきた俺を罵るなりさぁ…なんか他の反応、あるだろうがよ」

「いや、別に。いずれは知られた事だし。
ルキアとの時間を作ってくれたお前に、感謝こそすれ罵倒する言葉は浮かばねぇなあ」

「お前…もう少し焦ったらどうよ」

「焦ったところで、なるようにしか、なんねぇ」

この男はその心根とは裏腹に、日常的(或いは表層的?)にはアンニュイなのが妙なもんだと
グリムジョーは気怠げな恋次の口調と表情を憮然と眺めながら思う。

「……阿散井の養子になったこと、後悔してねぇか」

「いや。あのまま孤児でいたよりはマシ」

「朽木の敵方とはいえ、何の力もない庶民よりはマシか」

「そうだろ。いざとなりゃ」

「まあな。朽木と戦争する力が阿散井には有るわけだもんな」

「最終手段だけどな」

「女一人のために」

「戦争したっていんじゃねぇ?」

恋次がニタリと笑う。いささか邪心が見てとれる。

「このストーカー野郎」

グリムジョーも、その笑いに便乗する。

「生半可なストーカーじゃねぇぜ。なんせガキの頃からだ」

悪びれない恋次の口調と禍々しい微笑が赫い瞳と同調して、彼を人間離れさせる。

「お前に寄り付く女は全部、かたっぱしから便所扱いだもんなぁ。
ルキア以外の女は、男の生理の排出便器ってところか?
女は女で、それでも構わないってんだから恐れ入る。お前のファックちゃん達は元気か?」

「いちいち顔も覚えてねぇのに元気かどうかなんて知るわけない」

「ああ、そうかい。気の毒なファックちゃんズ。最低限マナーは守っとけよ」

「避妊のことか? 言われずとも…俺が子供なんぞ作るか。子供が子供作るようなもんだ」

「ふぅん、自覚はしてんだな。はあ、まあ、でも、ルキアとだったら、どうよ」

「…ルキアの子供なら、たとえ俺の子じゃなくても」

「あぁあ、みなまで言うな。こっ恥ずかしい上に、お前の性奴達が哀れすぎる」

「てめ、ヒトのこと言えた義理か? お前が体以外で誰かと繋がってるとでも」

「俺は免罪符があるからぁ。ルキアを横から盗まれたからな、お前に」

「俺がお前から盗んだわけじゃねぇ。ルキアが選んだんだ、俺を」

「昔ね」

「昔も今もだ」

グリムジョーが発達しすぎた感のある犬歯を牙のごとく剥き出しにして笑う。
それを見て恋次は鏡を見るような感覚に陥った。

「遊園地では随分ロマンス振り撒いてくれたな、お前ら。俺ぁ、反吐が出そうでございましたよ。
ルキアも奇妙な女だよな。記憶が無ぇくせに、昔とたいして変わってねぇ。変わらない顔で、俺達を見てやがった」

「それがルキアの本質ってことだろ」

「ふん。あぁあ、くそ甘いノロケ話だな。餌付きそうなほど極甘だ。あっと、もう一つ報告があったんだ」

グリムジョーが顔を歪めた。

「なんだ?」

「白哉がルキアを引き取る少し前に、白哉の婚約者が死んでる。ルキアに瓜二つの女が」

「…はあ?」

「ルキアとその女が血縁関係にあるのか、そこまでは解ってねぇけど」

「いやいやいや、ちょっと待てよ、グリムジョー。血縁関係の有無より…そんなもんより、何? ルキアと、同じ顔?」

「問題だな」

恋次はゴクリと生唾を飲んだ。

「白哉…あの野郎、まさか」

「ああ。十中八九、そうだろ。
正当な道を踏んでルキアとの婚姻を申し込んだ時に、一番厄介な障害は白哉の妄執ってやつ? 朽木と阿散井の財力戦争よりもな」

これは思わぬ事態。
白哉の死んだ婚約者と同じ顔を持って生まれたルキア。
それこそ、白哉がルキアを引き取り、ルキアの記憶を消した理由なら。
すべては、そこから始まったというなら。
恋次はルキアの身に不安を覚え始めた。
今までは、ルキアが朽木家の奥深くに守られている事が恋次にとって障害でもあり、
同時に“ルキアの安全”という意味では心強い場所でもあった。
けれど今はその意味合いが色褪せて見えてくる。











ブツ。
全能なる御手がスイッチを切った。
安全な思考回路。その為に脳内を走る電気信号。
滞りない平和な生活を送る為に白哉が施した安全装置が外れ
シナリオは意味を成さなくなり、物語が暴走する。

ルキアの頭の芯がグシャリと握りつぶされるような激痛を放った。
脳裏に閃く白哉の優しい微笑の隙間に、赤い髪の少年が幾度も垣間見える。
それは阿散井恋次の面影を写す子供。
髪が蝶々のように風に乗って揺れる。何千何万という赫い蝶々が少年に纏わって飛来しているのだ。
それらは決して恋次から離れない。
隙あらば恋次を喰らおうと離れない。

白い手を伸ばしルキアを慈しむ白哉。
思い出すなと兄が言う。

壊れかけた指先を伸ばす恋次。
すべては螺旋を描くと少年が言う。

自分とよく似た女の声。
歌が聴こえる。鈴の音のように優しい残酷な声色。
あの女は、だぁれ。

水色の髪、深く青い眼差し。
雪の床からルキアを抱き上げる手。
ルキアが生を授かった後、初めて愛をくれた、空と海の化身。

その透き通る眼差しから、赤ん坊のルキアは乳を飲むように、それを貪った。
これから生きていくための最初の糧として。
それは乳飲み子のルキアの中で消化され変換し、
やがて少女となった時、押し寄せる火の河に飲み込まれようとする少年に雨となってそそぐ。
少年を生かすためにそそぐ。
自分が生かされたように。

そう、こんなこんなこんな、穢れでいっぱいの、人の世に産み落とされたワタシ。アノ子ト、ワタシ。
置き去りにされた子供達。
置いていかないで、さむい、つめたい、死んじゃう、待って、死んじゃう…こ の ま ま じ ゃ 、死 ん じ ゃ う

錯乱し、倒れ掛かるルキアを抱きとめたのは白哉だった。
ルキアは白哉の腕の中で痙攣を繰り返し、口から白い泡を零しながら
何事かを獣のように呻いている。
眼球の動きはガクガクと一向に落ち着かない。
歯がギリギリと鳴り始めた。
心臓が痛む。体の芯が痛む。
いよいよ歯車が壊れようとしている。完璧に壊れようとしている。

「舌を噛むかも知れない、白哉様、何か布を」

檜佐木の咄嗟の叫びに
白哉は迷いもなくルキアの口内に己の指を突っ込んだので
彼の形の良い指から鮮血が散った。
それは華のように美しくルキアの口元に散らばった。
拡がる大輪の薔薇。血なまぐさい薔薇をルキアが食む。

「白哉様、俺が」

「いい。医者を呼べ。藍染でも構わん」

檜佐木が身を翻して、医者を迎えに部屋を出た。

「う」

ルキアの声がいくらか人らしくなったのを聞き逃さず、
白哉は指を引き抜いて、ルキアの唇に顔を寄せた。

「どうした、どこが苦しい。話せるか?」

ルキアが白哉の服を鷲掴んで、赤ん坊の産声のような声を発したかと思うと

「どうして」

「ルキア?」

「なぜ すてた」

「………」

「わたしは すてられるために うまれたのか」

「…ルキア」

「しぬために うまれたのか ころされるために」

そう訴えるルキアの、その指先は白哉の衣服を強く掴みすぎて血の気を失い真っ白になりながら、ぶるぶると震えている。
白哉はいたたまれずにルキアを抱きしめるしか出来なかった。
悪戯に蘇った記憶はルキアの生きた年月のなかで最も惨めな日なのだと白哉は察した。

「誰もお前を捨てない。だから息をしろ。ちゃんと、息をしろ。ゆっくり」

…うえええん。
ルキアの泣き声が部屋にかん高く響き渡る。
幼児の泣き方と寸分変わらない。
ルキアは朽木家に来てからというもの、声をあげて泣いた事が無かった。
泣く時は、声をあげずにひっそりと泣いた。子供の頃から。時には込み上げる嗚咽をこらえる為に、唇を噛んだ。
この家に貰われてきた時から。
白哉はルキアの泣きじゃくる声を初めて聞きながら、我が身の身勝手さを悔やんだ。
自分の心ばかりに捕われて、いつもルキアに救われておきながら
ルキアの仮面の下で息づく惨劇に気付いてやれなかった自分を愚かしく思った。

「ルキア」

嗚咽を繰り返すルキアの背中をさすりながら、
白哉はルキアの瞼に口づけて、涙を舐め取った。

「生まれなおせ、ルキア」

ルキアの額に張りつく前髪を、ルキアに噛み裂かれた指先でかきわけ、何度も瞼や額や頬に唇を寄せた。

「お前を捨てた者も、孤児院も、幼馴染もお前には要らぬものだ。
この先は私だけを見てればいい。私は、お前を決して捨てたりしない」

白哉は心を決めた。
ルキアの愛しむ男と、惨めな記憶は、ルキアの潜在意識の中で同居している。
一つを思い出せば、もう一つを思い出す。
危険な賭けかも知れなかったが、ルキアの記憶を操作し、心をコントロールし続け、
不穏の影無い世界で暮していけるように
この掌の中に、ルキアを留めて離さずにいると決めた。
進む道を定めて白哉は、罪人で居続ける覚悟をした。









ルキアはベッドの中で正気を取戻した。
錯乱した記憶は残っている。その残骸はルキアの思考に見苦しく散らばったまま。
何を口走ったかは覚えていないが、
とにかく一瞬、気が狂った。と自覚できた。
その中において兄は、必死に自分を呼び戻そうとしていた。
混沌の中から、こちらへ来い、と。
ルキアは心が裂かれるとは、こういうことかと思った。
兄の力強い腕は優しく、けれど自分は、
混沌の河から呼び覚まされることを望んでいなかった。
投げ捨てておいて欲しかった。
あの中に、自分が生まれた理由がある気がする。
あの闇の奥深くに、自分を待っている少年がいる。
今にも燃え崩れてしまいそうな子供がいる。
恋次。
阿散井恋次。
あの青年に似ている。
あの髪の色、瞳。面影。

「…お前か。お前が、私の失くした過去にいるのか。お前が、私を呼んでいたのか、ずっと」

あの遊園地の日、恋次は何も言わなかった。
互いの過去も、立ち入った話も一切せず、
ルキアの問いかけにも浅い微笑を返すだけで、はぐらかされた。
過去どうであろうと、今と、これからが問題だ、と一言だけ零して。

ルキアはシーツをキュウと掴む。
過去に何があろうと、確かに、今、そして、これから先、
共にいたいのは兄ではなく恋次であった。
あさましく恋情に焦がれる己が心が情けなく、
白哉の愛情を、鎖のように感じ始めている自分を醜く思う。
なんという恩知らずだろう、と。
それでもなお、
それに背いて、なんという強い恋情だろう、と。
恋次を選んでも白哉を選んでも成り立たない明日の我が身と心の鬱陶しさにルキアは、
いっそ本当に自分を二つに切り裂いてしまいたかった。
体はここに置いて、心は、望む場所へと。

ルキアの寝室の扉を、誰かがコツコツと叩く。
どうぞと言うと、藍染と、その他に医者が数人、入ってきた。

「落ち着きましたか」

「…ええ…あの、藍染先生以外の方は、もうお帰り頂いて結構です。
私、体の方はなんともありません」

心が病んでいるのだ。
ルキアは内心で呟いた。
自覚出来る心の病もあるのだな、と一つ発見した気持ちだった。

部屋に藍染とルキアだけになると、
ルキアは、じっと遠慮なく藍染を見つめた。
何か言うことがあるのではないかと、視線に疑問符を込めながら。
しかし藍染は、いつものように飄々として応える気配はない。

「苦しいですか、ルキアさん」

「何がです」

「記憶に苦しめられているのでしょう。
私が消した、貴女の過去が波のように現れては消えて、煩わしいのでは?」

「さあ…煩わしいのか…求めているのか…私を苦しめるのは記憶なのか、本能なのか」

「本能?」

「先生。人間が恋をするのは、自分の遺伝子を残したいからでしょう」

「成程。遺伝子が貴女を苦しめていると」

「だとしたら、なんて、あさましい。そんなものに振り回されて。私は、自由になりたいのです」

「何から?」

「何でしょう…人間の…業?」

藍染の笑みが深くなったが、同時に影も深くなった。

「そこから解放されている人間など、誰もいませんよ。ただの一人も」

ルキアはハッとした。
そう、誰も真から自由じゃない。

「ただし選べますがね。選ぶ自由だけは、大抵あります」

ルキアは白哉と恋次を想った。

「いいえ。私には無い」

「そう思ってるのは、貴女だけです。
罪を犯そうが、正道を惑わず行こうが、貴女の自由ですよ。何が正道かは私も知りません」

「罪を犯せば贖いが必要となるでしょう」

「そう。だから罪を犯す時に必要なのは、覚悟ではないですか」

「覚悟…」

「いろいろ有ります。穢れる覚悟、罪を背負う覚悟、贖う覚悟…」

「贖えない場合は」

「さあ…いよいよ罰が下る…場合もあるでしょうが、安穏と生きていく罪人も大勢いますね、この世の中には。
果たして、天罰とは本当に下るものなのでしょうかねぇ…
うん? 話が少し宗教じみてきたようだ。
こうなると私の専門ではないので、神父様でも御呼びしなければ」

罪に贖い。或いは罰。
ルキアは物思いに沈んでしまって、返答が出来ない。
そんなルキアを少しの間、藍染は興味深げに見つめていたが、
やがて物音をたてないように、そっとルキアの部屋を出た。
ルキアは、それにも気付かなかった。









「ルキアは」

「大丈夫ですよ。少し不安定ではありますが。入院するほどではありません」

「記憶の改竄が原因だろうか。それとも、それを中止していた事の方が問題なのか」

「記憶操作の云々ではないかも知れません。消そうとしても消えないものもありますから」

「何のことだ」

「たとえば、本能、とか」

「……」

ここで白哉の脳裏に阿散井家の義息子が浮かび、
彼は酷く不快な気持ちになった。

「白哉君が望むなら、催眠を続行しますが」

「是非そうして欲しい。
正直、ルキアの精神状態に綻びが見えたことで、他の医者をとも思ったが」

「それは、つれない。で、私以上の医師は見つかりましたか」

藍染の余裕が滲む笑みに、白哉は白けた気持ちになりながら、
この男、確信犯なのだ、と解った。

「いや、ここ十余年、精神科に於いて兄を抜く者は未だ出現していない」

「わざわざ、調査までされて」

「気を悪くさせたなら申し訳ない。だが…」

「解っています。白哉君の心の内。大丈夫ですよ」

「……」

「何度でも消しましょう」

「古い記憶だけではなく」

「もちろん、新しい記憶も。この始まりかけたロミオとジュリエットの戯曲は、なかったことに」

「それで、これ以上ルキアが錯乱するようなことはないか。例えば、精神破壊…」

「あったとしても、かまわないのでしょう」

「可能性があると認めているのか」

「あなたの眼には覚悟が見てとれますが。何か問題でも?」

白哉と藍染は、しばらく沈黙のまま見つめあった。
白哉は無表情に、藍染は少し微笑んでいる。
それは、日常の二人の間で交わされるやり取りにとても近い。

「兄には、かなわない。ルキアだけでなく、私の心情までお見通しか」

「これでもプロフェッショナルですから」

藍染はおどけたように言い、白哉はプロフェッショナルか、と言って浅く笑った。

「兄の推測通りだ。私はルキアが壊れてもいいと思う」

「彼女が泣き出したなら、あなたが、その都度あやすのでしょうからね」

「そうだ。けれど極力、あれが笑っていられるよう努力は惜しまない。
いや、むしろ、笑っていられるように。危険から遠ざけてやるつもりでいる。
催眠を継続するのも、その一貫…思い出さない方がいい、自分が捨てられた記憶など」

「懐かしい記憶と恐ろしい過去は表裏一体…」

白哉は一瞬、自分のことを言われたのかと思った。
緋真のことを思うのは
懐かしさと恐ろしさが同居した。
彼女のぬくもりと
彼女の亡骸と。

白哉が覚悟した事は、もう一つある。
むしろ、もう一つの方が真実かも知れなかった。
白哉は、ルキアを誰にも渡したくなかった。
その為の理由が欲しかった、ところに、ルキアが過去に陥って錯乱した。
それに託けて、
白哉は偽善を強行することに決めたのだ。
偽善の定義は白哉にも図れなかったが
どちらかというと
自分のしていること、その理由付けは偽善の香りたち、
その香の匂いに毒されることに白哉は身を委ねた。
清道を行くことなど
その心持ちを支える力など
とうに彼の内には無かったのだ。
とうの昔に死に絶えていたのだ。
今回のルキアの錯乱が、それを露呈してしまった。









恋次はドロリとした自分の影に銃口を向けている。
自分と同じ姿形をしているが瞳以外すべてが漆黒で
眼ばかりがテラテラと赫く光ってコチラを見ている。
引き金をひく。
粉々に跡形もなく消えてなくなれと。
人らしい自分をくれたのはルキアで、
それ以前は、“コレ”だったのだ。
真っ黒な影でしかなかった。
禍々しい赤い瞳と、コールタールのような、どろどろとした黒い影。
人ではない。

「人は愛された分しか、他者を愛せない」

誰かが言っていた。
職員だったか、国の監察だったか(最も監察は滅多には来なかったが)、
里親になろうと値踏みにくる大人達だったか覚えていない。
けれど確実に孤児の誰かではなかった。恋次の“兄弟達”ではなかった。
なぜなら、その言葉を吐いたのは、“あちら側”の人間であり、こちら側の兄弟達がその絶望的な言霊を吐くはずがなかった。
突き飛ばされたような感覚になったのを覚えている。
人があるべき世から、薄ら笑いでいとも容易く、その言葉は恋次を突き飛ばした。
お前はあちら側の人間なのだから、こちら側にふさわしくないと笑っていた。
愛されもしなければ、愛することさえ出来ないと烙印を押された。
だから自分は“人”ではない。

あの薄ら笑い。
大して力もないくせに易々と恋次を突き飛ばす事が出来る片腕。
あちら側の人間の、やさ腕。

そうだったのか、俺は、人でさえなかったのか。
自覚して注意深く世界を見やれば、それはリアリティを伴って益々恋次を失望させた。
そこらに捨てられた野良犬や猫などは、あまり感情らしきものが見当たらず
恋次が見たこともないような愛情の存在を示す飼い主のもとにいる生き物は
すべて、あの孤児院にいた子供達の誰よりも感情豊かで、時には有情の表情さえ見てとれて
よほど人間に近く思えた。
それらを眺めて恋次は、愛されるものというのは、なんて喜怒哀楽が激しいんだろうと思った。
それらの感情表現は大仰で、恋次を白けさせ、うんざりさせたが
かといって自分に優越を感じるわけでも、劣等を感じるわけでもない。
ただ、あんなに激しく泣いたり笑ったり自分は出来ないし、馬鹿馬鹿しいにも程があった。
それゆえ恋次の顔は無表情のまま。
けれど表情なくしては、生き難い世が、さらに生き難くなる仕組みになっている。
だから仮面を被る。
普通の人間を演じるのだ。
人が喜ぶべき場面では笑ってみせ
悲しむべき場面では表情を曇らせてみる。
すると人々は安心する。
仮面の内側で恋次は、
赫く影る瞳と黒い塊である自分を晒したら
もう、此の世にはいられないと悟った。
けれど未練がある。
此の世にはルキアがいる。
小さな冷たい手が凍えて、自分を待っている気がする。

「あぁああ!」

消えろ、なくなれ!
恋次は絶叫しながら影に向かって銃弾を打ち込み続ける。
お前が居ては、ルキアの手に触れる事も叶わないまま
俺達は永遠に一つになれず溶け合えず混ざり合えず、
お前は、俺を滅ぼしてしまう。
ルキアがくれた、“人らしい自分”さえも、やがては飲み込み、
俺は本当に人でなくなる。
ルキアに出会い、黒い炎の代わりに貰った自分。愛情。
与えて、与えられた体温。
与えて、与えられた愛情。
その人間の証。

影は闇を散らしながら、眼を瞬かせながら、完全に消え去っては逝かない。









「起きたのか。まだ2時間しか寝てねぇぞ」

目覚めるとグリムジョーが恋次の顔を見下ろしている。
恋次は自分の息が不規則になっていることに気付いた。

「恋次?」

恋次の喉がヒュウと鳴る。

「過呼吸か。薬はどこだ? いつものところか」

グリムジョーが薬を持ってこようとした時、
恋次がベッドからズルリと、ブランケットと共に落ちた。

「おい」

グリムジョーの声に応えず、恋次は床に脱ぎ捨てていたジャケットの内ポケットに震える手を突っ込んだ。
そこからガサガサと薬が散乱し、グリムジョーは少し驚いた。
薬の種類が増えていることに。
そして、以前より効き目の強い薬種に代わっていることに。
どれだけ副作用があることだろうと考えると、グリムジョーの心がざわついた。
恋次の指が震えて、上手く錠剤を取り出せない。
そうしている間にも恋次の呼吸は乱れていき、顔から血の気が引いていく。
グリムジョーが恋次の手からソレを奪って、錠剤を取り出し、
苦しげに床に這いつくばる恋次を抱きかかえると、口内に薬を押し入れた。
グリムジョーの指先が恋次の犬歯にあたって傷付き、少しだけ出血する。
恋次の口内に、錠剤の苦味と血の味が流れる。
グリムジョーの血は、まるで元から自分の体液のように馴染んでスウと溶けていく。
恋次は少しずつ息がラクになっていくのを感じながら、
いつまで人間でいられるだろうと思った。

『れんじ』

ルキアが自分を呼んだような気がする。

「るきあ」

恋次は少し微笑んで応え、また眠りに帰った。
グリムジョーはそれを眺めて、やはり、あまり時間は無いのだと悟った。
恋次が人間らしくあるうちに
恋次が人間らしくあるために
ルキアというエレメンツが早急に必要なのだ。
でなければ恋次は心を失くし
不感の領域へ逝くだろう。
それではダメなのだ。
それではグリムジョーの復讐が果たせない。
人らしく、人であるまま
恋次やルキアに幸福を手にしてもらわないと、
グリムジョーの復讐は果たせない。













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(あとがき)

気付いてる方もいらっしゃると思いますが
今回のタイトル「
THE CALL OF CTHULHU」は、「クトゥルフの呼び声」から、まんま拝借してます。
散々、小説や漫画やゲームになってるクトゥルフ神話ですので、使い古された感もありますが
「人」と「人でなし」の狭間を行き交い揺ら揺らする人達が今回のテーマですから
異形の誘う声に足掻く様を表す題としては、これ以外に考えつきませんでした。
特にもう一人の恋次(の影?)を描写するにあたって。
ウチの恋次は、7割は(あのコールタールな)影で、3割は(ルキアに愛されたゆえの)人。と思いながら、描いてます。
ほぼ人でなしです。(ただのヘタレな描写しかしてませんが^^;)
悪魔の名称や神話は溢れるほどありますが(イブリースとかサタナエルとか)
もう少し密やかで、いつのまにか心の隙間や日常に確実に入り込んでいて、
けれど何より強力で計り知れない感じがするのは、クトゥルフな感じがしたので。
だってコズミック・ホラーってスケールでかい。そしてマクロでありながら同時にミクロな感じがする。
しかも、なんかアメーバっぽい。異端どころの話でない。
恋次達が墜ちようとしているのは単に悪魔や罪人になろうってんじゃなくて
もっと、こう…失敗作品みたいな…ぐちゃぐちゃした感じ

人に成りきれなかった、それこそアメーバみたいな。
自分を人たらしめる元素一つ無いと、アメーバになっちゃう感じ

って私は何を言ってんでしょうかね。
意味不明ついでに、もう一つ。
ルキアが「遺伝子」の話を持ち出したのが
なんか登場人物達が主張してるみたいで書いてて面白かったです。
一番最初に恋次が「生き物は螺旋を描く」と言ってんですが
遺伝子ってグリグリしてますよね。螺旋みたいに。
こやつら私の知らないとこで示し合わせてるみたいです。
そして、ひっそりと主張するようです。会話の中なんかで。
「お前、テーマ忘れんなよ。この物語の主題はコレだ」みたいな。
ともすれば暴走しがちな私の創作が、登場人物達に軌道修正される不思議さよ。






2007.6.4  流風