†  MY DAD'S GONE  CRAZY





ルキアの経験上、これほど機嫌の悪い白哉を見たことがない。
怒鳴り散らしたりしない分、白哉の怒りが重く、軽々しく外に出ない事を物語っている。
激しさは沸点を超えて、最早、キンと静かな水面を造り出していた。

青白い顔に金属的な眼差しが光り、
それがルキアと檜佐木を射し貫いて、ルキアは呼吸の仕方を思い出そうとしたが上手くいかない。

「檜佐木は妙な仮面をつけた男に抱えられて帰還したそうだな。…眠ったまま」

「……」

「反論はないのか」

「ありません。…どんな処罰でも、」

「ルキア」

白哉は檜佐木に最後まで言わせなかったというより、もう興味も失せたと言わんばかりの表情をしている。

「はい、兄様」

「此度のお前の失踪の件。お前しか真相を知らないわけだ。
仮面の男と共に、お前ははっきり意識を保って…“起きて”、この家に帰ったのだな」

「はい。兄様が使用人達からお聞きになられたように、
男は仮面をつけておりましたから、何者かは解りません。
大学を出て、車に連れ込まれてから数時間、何処かで監禁されておりました。
車内から監禁中、そして家に帰されるまで、
ずっと目隠しをされてましたから、何処に監禁されていたのかも解りません。
男の声も聞き覚えのないものです。
ですが監禁されている間、私は少しも暴力をうけてませんし、
最初に抱えあげられたのを除けば、終始、丁重に扱われておりました」

「それなら、拉致の目的は?」

「身代金です」

白哉はピクリと片眉をあげた。

「身代金の要求は無かったと聞いたが」

「ええ、最初は身代金誘拐が目的だったようですが、私の説得で、男が改心したのです」

白哉が目を伏せて深く溜息をつく。

「ルキア。お前にとって都合の悪い事情があるのは解った」

ルキアの顔からサァと血の気が引いた。

「お前に真実を話す気はなくとも、こちらで調査する。
とにかく、朽木の者がこうも容易く浚われるなど、不手際もいいところだ。情けない」

「まことに申し訳ありません!!」

檜佐木が床に頭を押し付けて叫んだ。
ふいに、白哉の手元近くにあった花瓶が檜佐木めがけて投げつけられた。

「お前のことではない! …私のことだ!!」

硝子片や冷水を浴びて尚、檜佐木は白哉の心中を推し量って、額を床に擦り付けている。
ルキアは白哉の剣幕に一瞬怯んだが、
すぐに檜佐木の傍に寄って、硝子片を払い、水を拭ってやった。
そのルキアの手をそっと檜佐木が押し返して、ルキアを見つめて僅かに首を左右に振る。

「人ひとり守れない、私のことだ」

こちらを振り返りもせずに放った白哉の言葉が、檜佐木の体に電流のように走った。
白哉を浸す奈落が、一層闇を濃くしたのが解って、やりきれなかった。
長く白哉に仕える檜佐木には、共有する記憶があまりにも多く、心の痛みまで同調する事がある。
特に今回の件に関しては、塞がってもいない傷口に触れる事と同じで、
檜佐木は、いつまでも頭を上げる事が出来ない。











それでもルキアは覚悟を決めて、初心を貫いた。
何も言わないこと。
誰に浚われて、誰と共にいて、何を見たか。
真実を一つもルキアは言いたくなかった。
自分の中の宝物を奪われたくなかった。
それが、たとえ兄といえども。

檜佐木は謹慎処分をうけ、ルキアは大学を休学する羽目になり、
その上、自室に閉じ込められた。
檜佐木がいない分、見張り番が今までの何倍にも増えていた。
自室には生活に必要なものの全てが揃っているし、
欲しいものがあれば使用人が用意してくれるので、不自由な事は何もない。
不自由ではないが、唯一無いものといえば自由が無い。

ルキアはマーブル模様の空を思い浮かべる。
体は恋次に捕えられているのに、自由の空に浮かぶ幻覚に恍惚となった。
恋次の高い体温がルキアの冷たい体に流れ込み、
細胞が崩れて粒子に化け、
ルキアの体は砂の雨に変換し空に逆流して帰っていく。
まどろむ空に自分の体も溶けて、このまま高く高く昇ってしまったら
もう戻れないし死んでしまうかもしれないと思いはしても、
なんの未練も感じなかった。

炎に自ら身をくべる羽虫達は、こんな気持ちなのだろうかと、
ルキアは窓の外を眺めた。
すると外灯の周りには、やはり羽虫達が群がっている。
ルキアは羽虫達を羨ましいと思う。
くるくると外灯の周りを飛んでは時折、熱に羽を焦がす。
いつか焼け焦げた体は地に落ちるけれど
きっと魂は反対に、空へ昇っていくのだろう。
上昇気流に乗って、螺旋を描きながら、遥かに高く。
そんな事を思いながら、ルキアは恋次が自分の光だろうかと考える。
それが自滅の道でも、かまわなかった。
体が消えても、
心が生きられるのならば、何も厭わない。













「お嬢」

久しぶりに顔を見せた檜佐木は、随分やつれて顔色が悪い。

「檜佐木…! 謹慎が解けたのか。悪かった、私のせいで」

檜佐木の眼が昏く、鈍く光った。

「お嬢のせいじゃありません。自分の力不足のせいです。それから、阿散井の、クソガキ共のね」

檜佐木にかけようとしていたルキアの手が止まった。
バレた。
そう思うと、ルキアの低い体温は益々低下していくように感じられた。

「白哉様も、既に御存知です。
お嬢、お話がありますから、とりあえず椅子にでも掛けさせてもらえませんかね。
情報収集に駆けずり回ってヘトヘトなんです」

「檜佐木…お前が動いたのか」

「ええ。謹慎は建て前です。
白哉様やお嬢の近くに何日も俺がいないとなると、周りに不審がられますから。
あの後すぐに白哉様の命令が下りましたよ。
お嬢がひた隠しにしていた事実を、“檜佐木、お前が探せ”、と」

檜佐木にとっては勝手知ったるルキアの部屋、
ズカズカと入り込むと、ガタンガタンと椅子を二つ向かい合わせに並べて、
背もたれの縁を指先でコツコツと叩いた。

「座って下さい」

動けずに立ちすくむルキアに、檜佐木は追い討ちをかける。

「俺は貴女の護衛の他に、教育係も兼ねてましたね。
貴女に教育係は大勢いますが、
俺の専門は朽木家が背負うものについて、貴女に理解しておいて頂くこと。
俺は二つ失態を犯したわけです。
一つは暴漢からお嬢を守れなかったこと、もう一つは、」

「…もういい」

ルキアは重い足を引き摺るように一歩一歩、歩を進め、椅子に腰掛けた。

「もう一つは、朽木家と阿散井家の溝の深さを伝えきれていなかったこと」

「もういいと、言ったろう」

ルキアは両手で顔を覆った。
檜佐木はそんなルキアをしばし見つめていたが、
自分も椅子に掛けると、足を組んで、まいったなぁと言わんばかりに長い溜息を吐いて首を反らした。

「…お嬢は、名家の令嬢ですけどね。
それでも、恋愛結婚出来ると、この檜佐木は思っていますよ。
白哉様が、お嬢を政略結婚の道具にするわけがない。
だから、目一杯幸せな、花嫁さんになれるはずなんです」

檜佐木の声がくぐもったのは、彼もまた俯いて、
片手でグシャグシャと前髪を掻き回し、そのまま顔の半分を覆ったからだ。

「バージンロード? ってやつですか、あれ、あれを、エスコートするのは白哉様の役目っすけど、
俺は俺で、もう一人の父親みたいにうろたえたり涙ぐんだりしながら、
ウェディングドレスのお嬢をからかったりもしながら、
でも思いっきり祝ってさしあげようと…馬鹿みたいに、結構、長年、思っていたり、してたんですよね。
お嬢、あんたが、この家に心細げにやって来た、あの日から。
俺はあんたの気持ちが、少しは解る気がしたんですよ。
俺の実家は金持ちったって、朽木家に比べりゃ石ころみたいな加減です。
元華族やら、お家柄のよろしい方達が“使用人”として犇くこの家で、
俺は実力だけで、やっとで、この家に奉公させてもらってましたから。
たいした家柄でもない俺には溶け込みにくかったし、
使用人達の風当たりも強くて、白哉様が目をかけてくださらなかったら、俺は寂しくて逃げ出してたかも知れない。
そんな時に小さな女の子が、
でっかい屋敷の中で途方に暮れてるのを俺は見ちまった。
沢山の使用人達に囲まれながら、一人ぼっちの顔をしてポツンと立ち尽くして、
なーんにも言わないアンタに、自分を重ね合わせただけかも知れないけど、だけど、守ってやろうと思った。
馬鹿な話、身の程知らずな話ですけどね。
白哉様の義妹ぎみを自分もまた、家族のように見てたってんですから。
けど、お嬢。
俺は本気で思ってるんです。
お嬢には世界一、幸せになって頂きたい。
檜佐木のこの両腕は、その為にあると言ってもいい。
だから相手が誰であろうと、貧乏人だろうが、馬鹿まる出しの学生だろうが、
もしかしたら白哉様であっても、
お嬢が好きになった男なら結婚しちまえばいいと思ってた。いや、今でも思ってる。
どんなに頼りない奴でも、俺と白哉様があんたを守り続けていくんだから、ってね。
本当に誰でも良いんですよ」

「もういい、わかった」

檜佐木はルキアの両手を掴んで剥がし、その顔を覗き込む。
ルキアは苦しそうに目に涙を溜めて、こらえていた。

「阿散井以外の男なら、誰でも」

檜佐木の最後通告に、ルキアの眼から大きな涙がボタボタと流れた。
ルキアの頬から顎を伝って、絨毯に幾つも落ちていく。

「なぜです」

「わからない」

「たった2回ですよ」

「でも」

「2回しか会ってないのに、何が泣くほど辛いんです」

「涙が、勝手に出るんだ」

「阿散井はお嬢を利用したいだけです、絶対に」

「でも」

「なんだっていうんです」

「それでもいい」

檜佐木はルキアの手をスルリと放した。
いつのまに。
何がどうして。
阿散井が虎視眈々と朽木の立場を狙っている事は、今までずっと話し聞かせてきた。
もう話す事など、これ以上、何も無い。
だからこそ、こうまで自分の心情を吐露したのだ。
こんなことでもなければ一生己の胸に秘めて、死ぬまで話すまいと思っていた身勝手な情を。
それをさらけ出す檜佐木の心が解らないルキアではない。
この始まりかけている恋の行く末の脆さを、解らないはずがない。
たった2回の逢瀬で、こうも誰かに夢中になるような女ではなかったはずだと、
檜佐木は自分が知りうる限りのルキアの人格を思い返す。
幼い頃から知っている。
仕事に追われる主人に代わって、この手で守り、教え、慈しんできた少女だ。
それこそ宝のように。
数え切れない彼女の言動、仕種、態度や癖まで、自分は全て知っていた、はず。











檜佐木は自分が見落としている事が有るのではないかと思い、
まず何から洗い直そうかと思考と手がかりの糸を辿る。
自分の知らないルキアの何かが有るはず。
それを探し当てる為、ルキアに関する全ての報告書に何度も目を通す。
檜佐木はルキアが朽木家に引き取られた日から彼女を知っているのだから、
必要ない作業とも言えたが、檜佐木自身、忙しい時はルキアの傍に居られないことも間々ある。
その間に何か有ったかも知れない。

資料の幾枚かがデスクから滑り、檜佐木の足下に重なった。
それを拾おうとして身を屈めた時、落ちた資料の中に、
幼少時のルキアの写真が紛れているのを見て、檜佐木は、あ、と声をあげた。
何故そこに考えが及ばなかったのだろうと、またしても自分を不甲斐なく思った。
ルキアはもともと孤児である。
そして阿散井家の養子の、あの青年も、そうだとしたら。
わざわざ家柄の良い家から貰い受けたとは思いにくい。
あの阿散井の老人がそんな事に心を砕くわけがない。
どこまでも実力主義で、血縁関係も家柄も重要視せず、精鋭だけを集めて組織を作り上げた男。
時には得体の知れない貧民街まで自ら出向き、人材をあさったという。
もしも、そこから、子供を拾ったとしたら。
檜佐木の脳裏に、ルキアが朽木家の養女になった日の記憶が蘇る。


『檜佐木、お前のその腕、その技量を、私の義妹の為に使ってくれるか』

白哉様に、義妹ぎみが?

『もう屋敷に到着している頃だ。
自由に動けない私の代わりに、義妹の傍に行ってやってくれ』

俺は白哉様にしか仕えたくない。

『ふふ。この私に、遠慮も何もない言葉遣いをするお前にこそ、私は託したい。私の当面の命を』

命?

『行ってくれ。私の体より、心を守ってくれ』

命? 心? 白哉様の命は、今、俺の目の前に

『いや、私の命は、心は、緋真の掌中にしかない』

…緋真様はもう…

『…そのはずなのだが。私にも、わからないのだ。
なぜ、あの子は私の前に現れたのだろう。まだ、生きろということだろうか?
誰かが、私に…いや、何でもない』

白哉の自嘲する笑みが痛々しかった。
引き取られてきた孤児は小さく痩せた子供。
この二人に、どれだけの差があるだろうかと檜佐木は思う。
強大な権力を背負って立つ白哉と
両親の記憶もない一人ぽっちのルキア。
今は孤児院での記憶も消され、己の立ち位置さえ掴めていない。
ルキアの記憶を消したのは白哉の差し金ではあるが、
檜佐木は白哉を責めることなど毛頭、思い及ばない。

きっと、大した記憶ではない、孤児院で生活した幾年など。
これから生きる年数に比べたら。
今は独りでも、これからは、ずっと白哉様が寄り添い、守っていく。
この少女を世界一幸福にする為に、白哉様は生きていく。
そして、そんな二人を守っていくのが、俺の役目。
緋真様の時には出来なかった事を今度こそ、果たさなければ。

成程、妹か、と檜佐木は小さなルキアの頭に手をおいて呟いた。
よく似た兄妹だな、と少女に話しかけた。

よかったな、もう、お前、いや、お嬢様か。
お嬢は、ひとりじゃないんだぜ。

『わ た し は ひ と り じ ゃ な い』

記憶を消された少女は、ロボットのように棒読みの音階で答えた。
魂に刻まれた情報を、無意識に語っているような様子に違和感を覚えた檜佐木は、
もしかしたら仲の良い友達の一人でも孤児院にいたのだろうかと思った。
忘れたくない思い出が、一つくらい有ったとしても不思議ではない。
だが、それも些細な事だと、檜佐木はあまり気にとめなかった。











本来なら、孤児院などという所に白哉は縁も用も無い。
緋真が育った場所だと、生前の彼女自身が話していた場所に
白哉はふらりと、あの日、足が赴くまま一人歩いていった。
車を使うとか、供を連れるとか、そういった類は一切、頭に浮かばなかった。
邸内は若い主の不在に騒動になっていたが、白哉の知ったことではない。
責任だとか義務だとか、しがらみの一切が白哉の脳裏から消えている。
ただ緋真の育った場所、緋真の気配が少しでも感じられる場所を求めて歩いた。
歩くにつれ、町並みが変わっていき、人々の様子も変わっていく。
何時間も歩き続けた。
足は確実に痛んでいるはずだったが、痛覚を白哉の心に伝えない。
体の痛みを感じる隙間が、白哉の心に無かった。
やがて立ち並ぶ家が小さくなっていき、
蜂の巣のような、灰色の四角い建物が幾つも現れ、
それも無くなって、平屋や、建っているのが不思議なくらいの古い家屋ばかりが並ぶ頃、
白哉は或る公共施設の前で立ち止まる。

『待てど 暮せど 来ぬ人を』

小さな少女が赤いゴム鞠をついている。

『宵待草のやるせなさ』

声が緋真に似ている。

『今宵は』

肌の色、瞳、唇の形が似ている。

『月も』

黒髪の艶やかな質感も、襟元で少しはねる髪先の曲線も同じ。

『出ぬ、そうな…』

少女が人の気配を感じて、白哉の方へ振り返った。
少女の面影、纏う空気、あどけない眼差し、すべてが
緋真と同じ。
古い恋歌は、緋真が好んで、よく歌っていたものだった。
白哉の眼から涙が零れた。
緋真が死んでから、初めて零れた。
ようやく、感情が外に解放された。
緋真が死んでからというもの、白哉もまた死人のように表情を喪失していた。
痛みは、重すぎて外に出ること叶わず、
ただ白哉の胸の中に、傷から吹き出る血が溜まっていく一方だった。
それが今、涙に還元され、どこかへ帰っていく。
白哉の頬を滑り落ち、アスファルトを濡らし、乾いて、どこかへ帰っていく。
白哉の灰色の世界に、少しだけ色が射した。













「…そうか、あの施設に」

「はい。阿散井恋次もまた、ルキア様と同じ院の出身です」

「お前が調べたのなら、間違いないのだろう。では記憶が戻ったという事か」

「いえ、それが」

「忘れたままなのか? ルキアは記憶のないまま、奴に執着をみせていると?」

「…そのようです」

キィ、と白哉の座る椅子が微かな悲鳴をあげる。
檜佐木は一瞬、白哉の心の叫びかと思って、眉間に皺を寄せた。
大概、自分も感傷じみていると、嫌気がさした。
白哉は何も言わないが、視線が何処か遠い所を凝視して動かない。
ルキアに出会った日の事を、白哉はまざまざと思い起こした。

『わたしはひとりじゃない』

罪を贖うなら、ルキアに対してなのだろうと白哉は解ってしまい、
けれど、それを実行しようとする力が起きない自分を、白哉は冷然と俯瞰の位置から眺めた。
深く深く罪の奥底へ墜ちていく自分を感じている。

「藍染医師を呼びますか」

檜佐木が沈黙を破って、白哉の狂気を食い止めた。

「催眠が長い年月によって少しずつ解けていくのは、承知していた事だ。
だから定期的にルキアに会わせ、診療と称して処置し続けてきたのではないか。
それが、ほころびを見せたというなら、もう彼では頼りない」

「では別の医師の手配を」

「また催眠をかけるか? 今までより強力に、今までより頻繁に?
これから阿散井家が代替わりして、義息子が動き出した時、
どうしてもルキアの視界に奴が入ってくる。それは避けられない。
その都度、苛烈な処置を繰り返したとしたら、ルキアはどうなる」

「精神破壊が起きない、とは、言い切れませんね」

「檜佐木」

「…はい」

「ルキアをどうしたらいいと思う?」

再び沈黙が流れる。
白哉の途方に暮れたような質問に、檜佐木は、白哉の苦悩を垣間見る。
どれだけ、この人の背負った十字架は重いんだと、神を仰ぎたくなった。
いるのか、どうかも知らない存在を、檜佐木は苦々しい想いで初めて考えた。

檜佐木がこの屋敷に来た頃には、
既に白哉と緋真は婚約しており、緋真はこの屋敷に住んでいた。
緋真の身分が卑しいということで、白哉の両親には反対されていたが、
白哉が頑として譲らなかったのだ。
白哉がそこまで我を通したのは、それのみだと、幼少時から白哉を知る使用人が言っていた。
そうまでして結ばれたかった二人を、
檜佐木は陽だまりを見るような感覚で眺めていた。
此の世で一番尊く、貴重なものであるような気がして、眩しかった。

「ルキア様の記憶の改竄は、あと一度だけでよろしいのでは? 阿散井恋次に消えてもらった後に」

白哉を、あの暖かく眩い場所にもう一度導きたいと思う、
その檜佐木の想いが血塗れの言の葉を紡ぐ。

「それは…全面戦争になる可能性がある」

「今までも戦争は続いていました」

「冷戦と、実際に開戦するのとでは訳が違う」

「………」

白哉は、ふと弟を見るような顔で笑った。

「やはり、檜佐木は血の気が多いな。私にはそこが面白いのだが」

「…血の気の多い俺には、英断なんぞ無理な話です。
ましてやルキア様に関する事ですよ。
ちっとは感情も混じります。…部下にあるまじき事だって、解ってますけど」

「まるでルキアの父親のようだな、檜佐木」

「そうかも知れません。
で、そんな俺としては、白哉様、あなたが、ルキア様に一番ふさわしい伴侶だと思っている」

白哉の微笑が消えた。

「二度と言うな」

「白哉様」

「…頼む」

主人に願われては、檜佐木はもう、それ以上の無礼を言う事が出来なくなった。
けれど笑い飛ばせない分、白哉の心に深くルキアが差し込んでいる事が解る。
その昏い海に差し込む一条の光を失ったら、
今度こそ、この人は完全に心を失うのではないかと檜佐木は心細くなる。
だからこそ、阿散井ではいけないのだ。
白哉に仇なす者が、ルキアの相手であってはならない。
それは白哉とルキアの絶縁を意味する。

檜佐木が青年の入り口に差しかかった頃。
生まれて初めて、眼前で人が死ぬのを見た。
否、殺されるのを見た。
白哉の世界をあらゆる色で鮮やかに彩色した人を、
白哉の両親の意向で
白哉の眼前で、その人は死に至った。
銃声は、消音装置によって緋真の胸に埋まって消えた。
ただ緋真の体が芯から破壊され、どくどくと真っ赤な体液を零し、崩れて落ちた。

その少し後。
長い年月続いた朽木家の歴史の中でも
檜佐木は最も黒く、悲惨で、救いの無い日を見ることになる。
白哉の両手が、彼の両親の血によって染まった、あの日。

白哉に罪の意識はなかった。
ただ呆然と二つの遺体を眺めて、
緋真、と一言呼ぶと、無意識にこめかみに銃口をあてた。
檜佐木は死に物狂いで銃を奪い、白哉の浴びた返り血を必死で拭って、
白哉の名前を呼び続けた。

『白哉様、戻って、こっちへ戻ってきてください、眼を覚ましてください、俺の声を聞いて、
大丈夫です、俺が全部処理します、白哉様は何もしていない、
旦那様と奥様は暗殺された事にします、これは親子殺しなんかじゃない、
白哉様に罪は無い、
白哉様、聞こえてますか、白哉様』

白哉に表情は無い。
そしてルキアが現れる日まで、白哉は人形のように日々を過ごしていく。
朽木家当主としての役割を淡々とこなし、そつなく日々が過ぎていく。
ただ機械のように。

檜佐木は、もう白哉に心を失ってほしくなかった。
せめて泣けるくらいには。
せめて微笑むくらいには。
せめて誰か一人でいい、白哉の心を守ってくれたら。

「お嬢」

白哉への報告を終え、檜佐木はルキアの部屋を訪ねた。

「お嬢のいる世界は、あっちじゃあない。こちら側に居てください」

「檜佐木…?」

「俺の手が、何の為にあるか言いましたよね」

「白哉兄様と、私を守るため…」

「そうです。
…もう長いこと朽木家は栄光と罪にまみれてきました。
血で血を洗い、罪を罪で覆い隠し続けてきた。
けれど、あなたがた兄妹は、それをするには脆い。…とても。
犯した罪もろとも自滅しようとする。違いますか?」

「………」

兄のことは解らないが、自分は確かにそうかも知れないと、ルキアは言い当てられた気がした。
恋次が自分の光なら、自滅しても手を伸ばさずにいられない自分を確信している。
今この時も会いたくて、気がふれそうなほどに焦がれている。

「俺はもう見たくない」

「檜佐木?」

「あんな白哉様を見たくない」

「?」

そして、この目の前の少女もまた、
もしも阿散井家に嫁いだところで、その先に何が待っているか解らない。
緋真のようにならないとも限らない。あの蛮族的な阿散井の家で。
得体の知れない運命に身を委ねるより、どうか、この幸福の中で安穏と、生涯を過ごして欲しい。
それが檜佐木の望み。

「もしも」

檜佐木の威圧的な声音がルキアを緊張させる。

「もしも、お嬢が阿散井の子息と結婚したとして、
その後、白哉様が阿散井に討たれたら、お嬢はどうするんです」

「…え?」

「考えませんでしたか? 十二分に有り得ることです」

「け、っこん、など、わたしたちは…」

「じゃあ火遊びなんですね。言い切れますか」

「……」

「お嬢は選ばなければいけないんです。白哉様をとるか、阿散井をとるか」

「そんな…、わたしたちは、そんな大げさな関係では…ない。
ただ、一日中、遊び呆けていただけだ…遊園地で…ただ…」

「知ってます。俺が調べたんですから」

檜佐木は、少し眼を伏せた。
確かに、阿散井恋次がルキアに無礼を働いた形跡はなかった。
だが、この場合においては、それが尚悪いことを檜佐木は解っているから憂鬱なのだ。
年頃の男女が純粋に遊園地で遊んでいただけとは、今時どんな純愛ドラマだと思う。
いっそ、たぶらかすような男であった方が、ルキアは冷めていたのではないかと。

「では」

ルキアの心を解っていながら、檜佐木はとどめを刺す。

「それほど大げさな関係ではないなら、
二度と“それでもいい”などと言いながら泣いたりしませんね?」

「あ…、ああ」

「白哉様と、阿散井。
ルキア様にとって大切な人は誰です」

「…にいさま…」

「結構です」

檜佐木は、これが正しい道だと信じた。
今、ルキアは無意識にも懐かしさを幼馴染に感じて、神経が昂っているだけだから、
時が経ち冷静になれば、己を取り戻すだろうと思った。
ルキアはまだ大人の女に成りきらない中途半端な年頃なのだ。
それゆえ道をはずしかねない娘を、正しく導いてやるのが保護者の務め。
檻に入れてでも。
危険な外に出て死んでしまうより
安全な籠の中で生き延びていれば、いずれは、
籠の中の幸福を知るだろう。
白哉にとっても、ルキアにとっても、それが一番いい“生き延びる”道だと思えた。

ルキアは、
ここは何不自由なく暮せるところだが、唯一自由が無いと、改めて思う。
そして、檜佐木に指摘された事が痛かった。
檜佐木は、現実に有り得る事を諭してくれた。
阿散井が兄を討ったら。
その時、私はどうするだろうか。
ルキアは想像して愕然とする。
富も名誉も権力も思いのままの白哉が、突然、何もかも失くす想像。
最初から、それらが無かった者に比べて、それは遥かに過酷であるに違いない。
もし、そうなった時、自分は白哉に着いていくだろう、
最愛の兄を、絶対に一人には出来ないし、したくない。
ただ、願わくば、あの懐かしい青年が、阿散井が、朽木を滅ぼすような事をしないでくれたら。
それならば、何の問題も無いではないかと、ルキアは楽観的な希望にすがる。

それならば、結ばれてもいいではないか。

ただ遊園地で無邪気に遊ぶ自分達に比べ、
現実という周囲は、なんと絡みやすく面倒なことだろうと
ルキアは世俗に嫌気がさした。
檜佐木の言うことも正しいとは思うが、
感情が理性に追いつかず、
彼を逆恨みしそうになる自分を戒めることに努力しなければならなかった。





















2007.4.20