黒一色の空間の中で、ペーターは一人立っていた。
前後左右、上下も認識できない程の完璧な闇。自分が何かの上に立っているのか宙に浮いているのかもわからないその闇の中、常人であったならば不安と恐怖で精神に異常をきたすであろうその状況の中で、ペーターは動じる様子もなく立っていた。
此処は彼の住む現実世界ではない。こんな黒一色の世界は彼の世界に存在しない。ならば夢の世界かと問われれば、それは違うと彼は即答するだろう。夢魔の領域はもっと混沌とした色に覆われている。こんな黒一色の闇ではない。
ならば、と考えることをペーターはしない。
彼の興味は此処にはなく、彼は彼の唯一大切なもの以外は如何でも良いと思っている。
『その執着が、あの子の害となっているの』
不意に空間中に響いたその声をペーターは知っている。実際には耳にした事はない、けれど愛しい人の意識を通じて知った声。
『貴方の想いはあの子にとって害にしかならないわ』
鈴を振るような、やわらかに澄んだ声。慈愛に満ちた聖母の声。
その声に向かい、ペーターは氷のような声で「煩いですね」と吐き捨てた。
「貴女が何を知っているというのですか。全く不愉快だ」
『私はあの子の全てを知っているわ。――幼い頃から一緒に居たのですもの』
くすくすと軽やかな笑い声が響く。その声を耳にして、ペーターの赤い眼はすうと細くなった。
「全て? 本当に傲慢な人ですね、貴女は。図々しいにもほどがある」
『図々しいのはどちらかしら、白ウサギの宰相さん?』
黒一色の闇が歪んで、一瞬後にはそこに一人の女性が立っていた。すらりとした肢体、長い髪、整った顔――まるで人形のように、美しく……故に人間とはかけ離れたような、異質な女。
『アリスと一緒に居たのは私。幼い頃からずっと、あの子の傍でずっとずっと見護っていたのはこの私。貴方ではないわ、白ウサギさん』
「見護って? 貴女がいつあの人を見護ったというのです? 貴女のしたことはあの人を追い詰めた事だけだというのに」
唯一したこと、そのたった一つのそれが最大の罪。
その所為で彼女は自我を崩壊させかけた。
自分で嘯くほど彼女は強い訳ではない。胸の痛みに、自責の念に、後悔に耐えかねて――いずれ何らかの歪みが現れた筈だ。
その前に。
そんな事になる前に。
過去に蓋をして、記憶を改ざんしてこの世界へと閉じ込めた。
此処に居れば彼女は幸せになれる。この世界に留まること、それだけが彼女が幸福になる条件。
『真実に目を背ける事が幸福と言えるのかしら』
歌うように女が言う。
『貴方のしている事はあの子の幸福の為ではないわね。貴方は貴方自身の幸福の為にあの子の世界を歪ませた』
断じるように女が嗤う。
『歪みは歪みを生むわ。――見ていて御覧なさい、白ウサギの宰相さん。あの子は真実を選ぶ』
だってあの子は――私を愛して焦がれて、そして憎んで怨んでいるのだから。
誰よりも強く。
誰に向けるよりも強く。
嫌いという事は好きという事。
好きという事は嫌いという事。
『あの子が一番愛して嫌っているのは――この私』
「煩いですよ」
優しい笑みを浮かべた聖母をペーターは事も無げに撃つ。耳を劈くその轟音に表情を変えることなく、正確に躊躇なくペーターが女の眉間に打ち込んだ弾丸は、けれど女の額に届くことはなかった。
その瞬間――貫かれるその寸前に、女の姿は粒子になりかき消える。
『私を消そうなんて無駄な事――私の胸には心臓も時計もない』
声だけが暗闇に響く。楽しそうな、鈴を振るような軽やかな声。
それはペーターの唯一の……たったひとりの「大切な」あの人と何処か似た声質の。
『傲慢でエゴイスティックな白ウサギさん。貴方の事は嫌いではないわ――だって貴方は」
私と似ているもの。
軽やかに笑いながら声は消えていく。その声を完全に無視し、ペーターは目を閉じ自らの時計で額に触れた。祈るように願うように。
何処にもいかないで此の世界にずっといて誰も見ないで僕だけを見て誰にも触れないで僕だけに触れて声を聞かせて笑ってみせて僕にだけ微笑んで歌を聞かせて僕の為に歌って涙を見せて綺麗な涙を僕だけの為に流して胸の鼓動を聞かせて貴女を愛させて僕を愛して傍に居てずっと一緒に朝も昼も夜も春も夏も秋も冬も僕の傍にいて笑って。
祈る事は願う事は。
たったひとつ。
その他は祈らない。
その他は願わない。
僕の望みなんてたったひとつ。
他の願いは要らない。
他には何も祈らない。
貴女が誰を愛そうと誰に笑いかけようと構わない。
此の世界に居てさえくれれば。
此の世界の誰かを愛してくれれば。
それだけで僕は幸せになれる。
何故なら貴女の幸せが僕の幸せ。
誰よりも何よりも貴女を貴女だけを愛しているから。
だから願う、だから祈る。
たったひとつを、心から。
「――貴女が、幸せであるように」
うちのロリーナさんは黒設定です(笑)
これからもペーターさんを惑わしに出てきますよん
2010.1.14 司城さくら