紅茶の入ったカップをテーブルに置くと、僕はソファに座って部屋から持ってきた英語の教科書を開いた。 そのまま教科書を読んでいく。テスト範囲は20頁ほど、その部分を僕は暗記していく。本来ならば机に向かって勉強した方が効率はいいのだが、部屋に閉じこもるとネムが淋しがるのでとりあえず今はソファで暗記に精を出す。机に向かうのは夜になってからでも遅くない。遅くは無いけど……。 ……遅いな、ネム。 一緒に学校から帰ってきて、着替えるためにネムは自分の部屋に向かった。僕も部屋で着替えて、で、教科書を持って居間に来て、紅茶を二人分淹れて、こうして教科書を読んで……つまりもう時間は大分経っているのにネムは部屋から出てこない。 まあ、ネムにはネムの事情があるんだろう。あまり過保護すぎてもいけないし、干渉しすぎて嫌われたりしても……。 ……。 何を考えているんだ、僕は。 まあ、具合が悪い様子もなかったし、とりあえず心配する事もない。僕は再び教科書に目を落とした。 ……それから更に3頁ほど進んだ時、ドアの開く音がした。僕は何も気にしていない風を装って、「紅茶、ネムの分も淹れてあるよ」と教科書に目を落としたままそう告げる。 「ありがとうございます」 そう答えたネムは、ソファの前の硝子のテーブルをまわって、僕の方へとやってきた。横に座るのかな、と何とはなしに思った次の瞬間、 ネムは僕の膝の上に座っていた。 「…………」 「…………」 思わず見詰め合ってしまった。 ネムは制服から私服になっていた。薄いピンク色の、タートルネックのセーターに、白いミニのタイトスカート。そのまま僕の膝に座っているものだから、形のいい足が惜しげもなく……目のやり場に困ります。 慌てて視線を上に向けると、いつもは一つに結んでいる長い髪を今は解いてそのまま垂らしている。頭には赤い布を巻いて、同じ布は肩にも掛けてあって、それらはそれぞれきゅっとリボンのように縛ってあった。まるでネム自身をラッピングしているみたいだ。 「……ネム?」 「はい」 「……横が空いてるから横に座れば?」 「いえ、ここがいいんです」 断られてしまった。 「今日は『ばれんたいんでー』なんです。女性から男性に愛を告白する日なのです」 「はあ」 すっかり忘れていたが、そういえば今日は2月14日、日本中がお菓子メーカーに踊らされている日だった。 ん?という事は? 「……くれるの?」 「手作りなのです」 妙に生真面目にそう返すと、ネムは小さな箱を取り出した。蓋を開けると、ひとつひとつ形の違う、紛う事無きチョコレートの数々が現れる。 ネムの白い、綺麗な指がチョコレートを一つつまんだ。そのチョコレートは僕の口元へ……ではなく、ネムの口元に運ばれた。 え?と思っている僕の目の前で、ネムはチョコレートをくわえて僕に顔を近づけた。 まるで、キスをねだるように。 「…………」 も、もしや。 口移しですか? 焦る僕をネムは不思議そうに眺めたあと、急かす様に身体を押し付ける。反射的に僕は仰け反るようにソファへと背を沈め、けれどそれ以上は逃げられず、傍から見ればネムは僕に覆いかぶさって……僕は襲われているようにも見えるだろう。いや実際襲われてるんですけど。 「いやさすがにちょっと……」 照れます。 ネムは口にチョコレートをくわえているので喋る事が出来ず、視線で「どうぞ」とお勧めしてくる。目まで瞑った。まさにキスをねだるような。 ……落ち着け、僕。 端っこを咥えればいいんだ、別にキスをする訳じゃない。端っこを咥えれば何の問題も無い、No problem!お、さっき覚えた教科書の一文。 無理矢理落ち着いているかのように自分を納得させると、僕はぱく、とチョコレートをくわえた。チョコレートはネムの口から僕の口へと移動し、甘い味を僕の舌へと伝える。 「おいしいですか?」 お伺いをたてるように、僕の目の前15センチの位置で見詰めるネム。 「おいしいです」 そう答えると、ネムはにこっと微笑んだ。 「たくさんありますので、どうぞ食べて下さいね。けれどその前にもう一つ」 「はい」 「私をどうぞ」 「…………」 この数十分の間、頭に詰め込んだ英単語の数々が一瞬にしてデリートされた。 「………はい?」 「ですから、私を食べて下さい」 これは。 この展開は。 完璧に完膚なきまでに絶対に完全に躊躇無く。 本匠ぉぉぉぉ!! 間違いない、こんな中年親父が好みそうなシチュエーション、絶対に本匠の入れ知恵に間違いない!! 「……ネム」 「どうぞ召し上がれ」 膝の上で上目遣いにそう言われて思わず頂きそうになってしまった。 「……じゃなくて。また本匠に妙な事言われたね?」 「妙……かどうかはわかりませんが、確かにこれは本匠さんが教えてくださった事ですが」 ネムの言葉に、僕は本匠に紛れもない殺意を抱いた。 「だから、何度も言っているように、本匠の言う事を信じちゃ駄目だって。君は純粋だからあいつにからかわれているんだ。学園祭の時も、クリスマスの時も、他にもいろいろあったけど、何度も言っただろう?本匠の言う事を鵜呑みにしちゃ駄目だって」 諭すようにネムに言う。ネムは相変わらず僕の膝の上で、僕に覆いかぶさったまま、「でも」と首をかしげた。 「本匠さんの仰るとおりにいたしますと、雨竜はとても嬉しそうな顔をするのですが」 な。 メガトン級。 「そそそそんな訳あるはず無いでしょう!!」 「いえ、とても嬉しそうですよ?」 真逆。 真逆真逆真逆。 「ですので、私は本匠さんの助言通りに行動すれば雨竜は喜んでいただけると……雨竜?」 僕は。 僕は――――。 「悲しいかな男の性」 「雨竜?」 「自覚は無かったんだ、真逆僕に限ってそんなと思っていたんだ、でも僕は心の奥では楽しんでいたんだ喜んでいたんだ悦んでいたんだ慶んでいたんだ歓んでいたんだ」 「雨竜?」 「師匠、僕は一体どうしたらいいのでしょうか、僕はこんな自分と向き合う事が出来ません、僕は自分を知るのが怖いです、僕は……」 ぎゅう、と胸に抱きしめられて僕は黙った。 「落ち着きましたか?」 落ち着いたというか真っ白になりました。 「どうしましたか、雨竜?」 「いえ、ちょっと自分を見失いました」 大丈夫。 僕は本匠とは違うぞ。 理性がある。大丈夫、理性理性理性。 今僕の顔が埋めているこの柔らかい胸の感触も、理性で意識の外に追い出すのだ。この胸の、柔らかい、 ……。 はっ。 理性理性理性。 「今日は珍しい雨竜を見ることが出来ました。とても嬉しいです」 僕を胸から解放して、覗き込むようにしてネムは言う。 「嬉しい?」 「私しか知らない雨竜を見るのはとても嬉しいです。私だけの雨竜のような気がします」 「……そうですか」 「もうひとつ」 ネムの両手が、僕の頬を包んだ。そのまま、柔らかい唇が僕の唇に触れる。 赤面。 「赤い顔の雨竜も、私しか知りませんね」 悪戯っぽく、ネムはそう言って微笑んだ。 負けました。 今回は完全に、僕の負け。 「……成長しましたね……」 「そうですか?」 「そうです」 そんな台詞を言えるなんて。 何も知らなかった君。 感情を知らなかった君。 笑うことも泣く事も、怒る事も悲しむ事も喜ぶ事も、僕の元で初めて知ったと言ってくれた君。 そうして、更に君は色んな感情を身につける。 これからは僕の方が戸惑う事が多そうだ。 けれど、まだ全敗という訳じゃない。ネムのまだ知らない世界、それがあれば僕はまだ理性が保てるのだから。 しかし。 「では、どうぞお召し上がりを」 「君、それは意味わかってないでしょう?」 完敗というこの事態に、負け惜しみで言った僕に。 「……如何でしょう?」 ふふ、とネムは笑って。 僕はすっかり混乱してしまった。 空宮純さまから頂きましたネムの絵を拝見して、突発的に作りました雨竜ネム(笑) バレンタインに雨竜ネムをアップしようと思っていたのですが、思いつかないままバレンタインが過ぎてしまったところ、素敵なイラストを頂きましてぐわあっ!と話が纏まりました(笑)ありがとう空宮さんっ!! 最後、ネムが意味深な事を言っておりますが、実はネムは何も知りません(笑) なので雨竜の精神修行は続きます(笑) 空宮さん、本当に素敵なイラストをありがとうございました!! 是非今後ともよろしくお願い致しますvうーふーふーふーv幸せでしたーv 空宮さんのネムを堪能する方はこちら 2005.2.18 司城さくら |