「お前、『ばれんたいん』って知ってるか?」
長椅子にだらりと横になりながら、恋次は目の前に座っているルキアの背中に声をかけた。さらさらと何かを書きつけていたルキアは、振り向きもせずに「ああ」と返す。
それきり何も言わずに筆を走らせ続けているルキアの、その冷淡と言ってもいい淡白な態度はいつもの事なので恋次も気にしない。ふーん、と頷き返した後、長椅子でぼんやりとルキアの背中を眺めた後「で、そりゃ何だよ」と聞き直した。
「何故そんな事を聞きたがる」
「あ? いやな、ここんとこ六番隊の奴らがな、集まってはこそこそこそこそ何か話してっからよ。俺を見ると逃げちまうから何の相談してるかわかんねえんだけど、『ばれんたいん』とかいうのだけ聞こえたからな」
避けられるような事何かしたっけなあ、とぼそりと呟く恋次にルキアは筆を置き振り向いた。
「それは現世の風習だ。如月の十四日に行う行事の事だ」
「へえ……そんな言葉を何で尸魂界で聞くんだろうな?」
「何処ぞの浮薄女がこちらに広めたのだろう。全く迷惑なことだ」
舌打ちしたルキアは、恋次の「で、どんな行事何だよ?」という言葉に口を噤んだ。暫く無言のまま何かを考えた後、口にした言葉は説明とは全く関係ないものだった。
「お前を見て逃げ出したのは女の隊員か?」
「ん? ああ、女ばっかでこそこそしてるぜ。野郎共がこれの話をしてるのは聞いた事ねえなあ」
「そうか。――そうか」
一瞬不快気な表情を浮かべ、ルキアはやはり暫く黙りこんだ後、恋次に向かって「『バレンタイン』というのは」と説明を始めた。
「『罵憐多陰』と書く」
「……なんだそりゃ」
「『罵り』『憐み』『多くの』『陰』の気を相手にぶつける日の事だ」
「何か……物騒だな」
「そうだ。この日は自分の憎い相手に呪いをかける日。憎み怨んでいる相手に『血汚冷騰』を送りつける」
「血汚冷騰?」
「そうだ。これを受け取ると、その者の血は汚れ冷たく凍り次いで沸騰し、地獄の苦しみを味わうという」
「…………怖え………っ!」
「だからその日はあまり女には近付かぬ方が良いぞ。女の姿を見かけたら逃げろ。決して喋るな。何も受け取るな」
壮絶なその内容に蒼褪める恋次に向い、ルキアは「だが」と言葉を続けた。
「相手の呪いの念が強ければ、向こうも必死でお前を探してくるだろう。何とかお前に『血汚冷騰』を渡そうと画策するだろう。万一捕まってしまった時――」
ふ、とルキアの声が低くなった。
「それを逃れる方法と言うのもあるのだ。これは秘中の秘なのだが」
重大な秘密を明かすように、ルキアの声は自然小さくなる。身を乗り出す恋次の耳に、ルキアは厳かに囁いた。
「もし誰かがお前に『血汚冷騰』を渡そうとしたならば、その時には『受け取る相手は一人だけと決めている』と言うのだ。そして『そいつからはもう貰った』と。すでに呪いを受け取っていると相手に伝えれば向こうも納得するだろう。向こうはお前が呪われればそれでいいのだからな」
「そ――れで納得するのか?」
「ふむ、そうだな。向こうも必死だ、誰の呪いを受け取ったか食いさがって来る者もあろう。――そうだな、その時は私の名前を言っていいぞ」
「そんなところでお前の名前を言っちまったら、お前、人を呪うような女だと他の奴らに思われるじゃねえか!」
言えるかそんなことと憤慨する恋次に、ルキアは「別に構わぬ」と無表情に答えた。
「それでお前が難を逃れるならば私は別に構わない」
そのルキアの言葉に、恋次は一瞬息を止めた。何かを堪え切れないようにその手を伸ばす。
「――ルキア……!」
ぎゅっと自分を抱きしめた恋次にルキアの表情が変わった。無表情なそのルキアの顔が驚きに変わる。次いで真赤になったその顔は、とても朽木家の令嬢と言われ気品を放つ少女と同じとは思えない、年相応の少女の顔だった。
けれど抱きしめた恋次にはそのルキアの表情は見えない。
「あ、……うん、まあ……お前とは、家族のようなものだし」
その動揺が言葉に現れ、やや不安定な発音でそういうと、恋次ははっとしたようにルキアを離した。気まずそうにルキアの身体を遠ざける。
「ああ……そうだな、家族か。家族だもんな」
慌てたように照れたように笑う恋次に、ルキアは「ああ。お前は大切な家族だ」と返し――その時にはルキアの表情も元のものへと戻っている。
「兎に角、如月の十四はあまり誰とも会わずにいろよ」
そう念押しをしてルキアは再び恋次に背中を向け、中断していた書を再び書き始めた。
そして如月の十四。
恋次は自分の部屋の長椅子で、先日と同じように横になっている。
目の前にはこれもまた同じようにルキアが恋次に背中を向けて筆を走らせている。
「――俺、こんなにいろんな奴に嫌われてたんだなあ……」
完全に凹みきった恋次の声に、ルキアは背中を向けながら「そんなにたくさんいたのか」と返事を返す。
「ああ。新人隊員から中堅所、果ては十席の桂にまで貰いそうになってよ……二、三十人はいたんじゃねえかな……」
ぴく、とルキアの形の良い眉が跳ね上がった。その顔は背中を向けている恋次の目には映らない。
「俺、そんなに怨まれたのか……結構面倒見たつもりだったんだけどな……新人連中にゃあ頼まれれば稽古付けてやったし、中堅なんてたかられちゃあ飲みに連れてってやったもんだけど、まさかあいつら全員俺を呪いたいほど嫌ってたなんてな……あー、凹む……」
恋次は抱え込んでいた座布団に顔を突っ伏して長椅子に沈んでいた。どん底に落ち込んでいる恋次に向い、ルキアは「誰からも貰ってないだろうな?」とやや冷たい声を出す。
「ああ、お前に教わった通り『ルキアから貰ったからもう誰からも受け取るつもりはない』って言った。そしたらみんな何かがっかりした顔してよ。そんながっかりするほどあいつら俺を呪いたかったのかって思うとな――」
暗く沈みきった声に、ルキアは「もうそ奴らとは会わぬ方が良いぞ」と一転優しく恋次に声をかけた。
「二度とその者らと二人きりになったりしてはならぬぞ。稽古も食事もしない方が良い。誰がお前を嫌っているかわかっただけでも良いではないか。今後その者らと付き合うのをやめればよい事だ」
「そうだな。――あー、でも凹む……俺の何処がそんなに嫌われるんだ……」
突然良い香りがして、座布団に埋めていた顔を恋次は上げた。目の前にルキアの顔がある。間近で見る幼馴染の――本当は只の幼馴染とは呼びたくないルキアの端正な顔がある。
ほら、と渡された鯛焼きに恋次は苦笑した。不器用なルキアなりの慰めなのだろう。
「……ありがとよ」
ぱくりと口にすると、餡だと思っていた中身は違うものだった。餡と同じように甘いが、小豆ではない。色は黒に見紛う濃い茶色だ。
「何だ、これ?」
「ん? 現世で売っていたのだ。珍しいだろう。カカオという樹の種子の胚乳部分を焼いてすり潰し、固形状に固め砂糖を加えたものだ」
「へー、甘くてうめえな。気に入った」
ぱくぱくと食べる恋次の顔が晴れやかになって行くのを見てルキアは微笑んだ。「まだまだあるぞ」と恋次に差し出す。
「他の女の事など気にするな。お前の良いところは私が知っている。私さえ知っていればよいではないか」
「そうだな。お前にさえ嫌われなけりゃ俺はそれでいいよ」
何気なく口にされた恋次の言葉に、ルキアの頬にさっと朱が散った。視線を恋次から反らし、暫く彷徨わせた後、「私が、……お前を嫌う事などないぞ」と小さく呟く。
「だって……お前は私を家族と思っているんだろう?」
「ああ。……お前がそう思っていてくれてる限りはな」
家族と口にする度ふたりの瞳に僅かの憂いが揺れている。
それにお互い気付ければ、二人の距離はなくなる筈なのに、自分に自信のない二人はそれになかなか気付けない。
「美味いな、これ」
「貴様、私の分まで食べる気ではないだろうな?」
「俺のだろ?」
「私のだ!」
家族ではなく愛しい人。
そう勇気を出して言えるのは――どちらが先か。
その勇気が出る前に、互いの恋敵をさり気なく排除し続ける二人だった。