胸を圧迫する息苦しさに私は目を開けた。
 目を開けても、目の前に広がるのは漆黒の闇で―――まだ真夜中ではないはずなのに、と思った疑問も、急激にせり上がった苦しみに霧散する。
 既に何度と数え切れなくなるほどの発作―――その、何度とわからなくなるほどの数を受けても、決して慣れることのない苦しみ。全身を引き裂かれるような痛み、まるで口を塞がれたように、肺へ酸素が供給されずに遠くなる意識、けれど苦しさで意識を失うことも出来ずに、私は込み上げたものを吐き出すために咳き込んだ。―――口元に当てた手に広がる鮮血。
 日が経つにつれ、時が経つにつれ―――発作の頻度は増し、血の量は増す。
 自分に残された時はもう幾許もないと、そう確信できる。
 ―――私は、死ぬの……ね。
 目を開いても漆黒の闇の中、私はぼんやりと考えた。死は怖くない。死ねばこの苦しみもなくなる。死ねば楽になる、だから私は、死ぬことは怖くない。
 けれど―――死ぬことは怖くない、けれど。


『そう、あんたは死ぬことは怖くない。―――けど』


 くすくすと笑う声に、私は朦朧とした視線を向けた。息苦しくて、視界が歪む。
「―――だ、れ?」
 布団の上に必死で身体を起こして、その声の主を探す。聞いたことのあるような、初めて聞くような、そんな声。
 私の声を受けて、闇の一部がぼんやりと光り出した。暗闇に慣れた目には、その微かな光でも眩しい。私は目を細めてその光を仰ぎ見た。
 思ったよりも近くに、私の直ぐ傍にその光は浮いていた。
 光の内部に―――嗤っているのは。
「―――私?」
『お久しぶりね、“私”』
 私と同じ顔のその女は、にぃと唇を釣り上げて笑った。
「久しぶり?」
『そう、久しぶり。何年振りかしら。ちょっと見ない内に―――こんな身体になっているとはね』
 もう直ぐ死ぬのね、と『私』は笑う。
『そう、でもあんたは死ぬことは怖くない。でも、ね―――怖いと思ってることがあるのよね?』
 くすくすと笑う声に、私は再び息苦しさを覚え始める。
 この『私』は危険だ。
 声を聞いてはいけない。
 言葉を返してはいけない。

『あんたが怖いのは―――あの人と離れること』

 歌うように謳うように、『私』は言った。

『死んであの人と離れること。いいえ、少し違うわね―――私が死んだあと、あの人が他の誰かを愛することが怖い。私以外の誰かを愛するのが怖い。あの人が私を忘れてしまうのが怖い―――そうよね?』

 この存在は危険だ。
 言葉を聞いてはいけない。
 声を返してはいけない。

『でもね、いい方法があるのよ―――』

 危険。
 聞いては。
 返しては。

『簡単なことよ。あの人にたった一言』

 『私』は。
 いけない。
 聞いては、いけな―――


『“ 独 り で 死 ぬ の は 淋 し い ”と、―――たった一言』


「独りで死ぬのは―――淋しい」
 私の口が、知らずに『私』の言葉を反芻する。


 独りで死ぬのは淋しい。
 貴方がいない世界は悲しい。
 貴方が私を忘れてしまうことがつらい。
 貴方が他の誰かを愛することが許せない。
 私だけ死ぬなんてことは―――


『そう、たった一言。あの人にそう告げればいいだけのこと』
「そう、たった一言、あの人にそう告げればいいだけなのね」
 何故今まで、そんな簡単なことがわからなかったのだろう。この一言、たった一言で私は孤独ではなくなる。
 あの人と永遠に共にいられる魔法の言葉。 
『あんたはあんたのためにあんたの思う儘にすればいいのよ―――昔と同じように、初めて“私”と会った時のように』
「―――初めて会った時?」
『そう、あの場所―――反吐が出るようなあの世界、あの場所―――あんたはあんたのためにあんたの思う儘に―――棄てたじゃないの、邪魔な荷物を』
「邪魔な―――」
 ああ、と私は思い出した。
 あの時、あの場所―――灰色の世界、戌吊。水も食料も何も口に出来ずに、死にかけていた私の前に現れた―――『私』。
『こんな荷物があるからいけないのよ』
 動くことも出来ない私の目で、『私』は笑っていた。
『棄てちゃいなさいよ、こんなもの。あんたが生きるためだもの、それが一番いいことよ』
 そして私はそうしたのだ―――今と同じように。
『そう、あの時と同じよ。誰も文句は言わないわ。私は私の為に―――』
 『私』は声を上げ、哂い続けた―――その嗤い声を私は魅せられたようにいつまでも聞いて―――





「―――緋真?」
 は、と目を開けた私の前に在るその顔に―――私の胸は、病が理由ではなく痛みだす。  
 その美しい顔に浮かんでいる自責の念、苦しみ、哀しみ……愛しいこの方にそんな表情をさせているのは―――私。
「うなされていた―――苦しいのか?」
「いえ―――」
 私の唇から零れた声は、酷く擦れたものだった。その声に、白哉さまの顔に一瞬苦悩の色が浮かぶ。
 私の存在が、白哉さまを苦しめる。
 私を愛してくれるが故に、白哉さまは苦しんでいる。
「薬を?それとも何か飲むか―――何か欲しいものはあるか?」
 欲しいもの。
 私が欲しいものはたった一つ。
 私も―――愛しております、白哉さま。
 私以外の誰かに心を移さないで。
 私が死んでも。
 私がいなくなっても。
 私を愛してください、だからどうか。
 私と一緒に―――




 死んでくださいませんか、白哉さま。





 独りで死ぬのは淋しいのです。
 貴方を失うのが怖いのです。
 だからどうか、私と共に。
 死んでくださいませんか―――白哉さま。




 それを実現させる、魔法の言葉。
 私はそれを知っている。
 たった一言。
 それを言えば白哉さまは―――必ず、私と共に。

「―――独りで、」
「ずっと共にいよう―――何処までも。決してお前を独りにはさせぬ」


 息を呑むしか―――出来なかった。
 私を見つめる白哉さま。
 当然のことのように、そう、まるで以前から―――決めていたように。
 その表情は―――優しくて。
 穏やかで。
 私を、愛していて、くれて……。





「―――何を仰います」
「緋真?」
「そんなことを考えてはいけません―――どうか、そんなことを考えないで」
「―――緋真」
「それだけはなさらないで。お願いします、白哉さま。私は―――大丈夫です」
 そう、私は―――大丈夫。
 一度、私は過ちを犯した。
 あの存在に唆され、私は妹を―――棄ててしまった。
 心の弱かった私。
 けれど、もう二度と―――間違いは犯さない。
「私は大丈夫です、白哉さま」
 微笑んで―――強く。白哉さまを心配させないように。白哉さまに、そんなことをさせないように。

「けれど―――お願いがございます。最後に、ひとつ」

 白哉さまの顔が良く見えない―――でも、決して忘れない。
 例えこの身が滅びても。
 私は貴方を忘れません。

「どうか―――私の妹をお護りください」

 この言葉は枷―――貴方が私と共に来ぬように。
 白哉さまが頷く姿を確認して、私は安堵の吐息をつく。
 あと僅か。あと少しだけ、時間をください。

「白哉さま―――お顔を」

 白哉さまの暖かい手が私の手を包む。
 愛してます。
 この世界の誰よりも。
 全ての世界の何よりも。
 そして貴方は、私を愛してくださった。―――この世界の誰よりも、全ての世界の何よりも。
 ああ、私は何て―――


「私は倖せでございました」


 私は最後の呼吸を吐き出し―――
 ……時が、止まった。