「悪い」
 思いがけない恋次のその言葉に、ルキアは驚いたように目を見張った。
 今まで、ルキアの誘いを恋次が断ったことはなかった。予定が入っていたとしても、その予定をキャンセルしてまで大抵はルキアと一緒に居たがる恋次が、まさか自分の誘いを断るとはと呆然としていると、もういちど「悪い」と恋次の声がする。
「ちょっと……っていうかしばらく、付き合うの無理かもしんねぇ」
 悪いな、と三度繰り返した恋次に、
「そ……そうか。いや、突然誘った私が悪かった。気にするな、別にお前でなくても用は足りる」
 無理矢理作った笑顔が強張っていないことを祈りつつ、ルキアは恋次に背を向け足早にその場を立ち去った。
 自分を呼ぶ恋次の声を期待したけれど、最後まで恋次が名前を呼ぶ事はなかった。




 現世に滞在するのは初めての恋次に、この世界の珍しいものを教えてやろうと、現世へ出発前からあれこれと楽しく予定を立てていたルキアの思惑は一瞬で潰えてしまった。
 きらきら光る水面が綺麗な近所の河原、あんみつが美味しい甘味屋、雑誌で読んだ「じぇっとこーすたー」という乗り物がある「遊園地」。恋次と二人で行きたい場所は数多く、とてもとても楽しみにしていて、けれどその最初の一歩である今日の誘いは―――あっさりと断られてしまった。
 その上「しばらく付き合うのは無理」と今後の誘いまで封じられ、ルキアはかなり―――心底、がっかりしていた。
 ―――色々……行きたかったのに、な。
 二人で歩く現世はどれだけ楽しいだろう。
 恋次と二人、制服で並んで歩きながら一緒に食べる「そふとくりーむ」。
 目に付いた店に入って眺める商品。
 軽口、悪口の応酬。
 さり気なく繋ぐ手、気恥ずかしさから少なくなる会話。
 貴族も流魂街も副隊長も何もない現世、行き交う誰もが、自分と恋次を知らない世界。
 素直になれるかもしれない、と思っていたのに。
 ぼんやりと歩く肩に置かれた手に、ルキアは弾かれたように振り向いた。その顔がぱあっと輝いた。
「恋―――!」
「何してるの?」
 嬉しそうに勢いよく振り返ったルキアの目の前に居たのは。
「ま、松本殿」
「今帰り?」
 空座高校の制服をアダルトに着こなした十番隊副隊長の姿に、ルキアの表情はしょんぼりしたものに変わったが、それも一瞬で、ルキアは普段通りの表情を取り戻し「はい、松本殿も?」と笑顔を返した。
「いや、せっかく現世に来たんだから色々遊ぼうと思ったんだけどねー、隊長が許してくれなくて。まあ暫くは真面目に働こうかと思ってね」
 もう少ししたら日番谷が何を言おうと遊んでやる、と匂わせて、乱菊は笑った。
 その魅力的な笑顔―――ルキアがこっそりと憧れている大人の女性そのままの姿。
 豪奢な金髪と、肉感的な身体つきに目を奪われ、翻って自分の体型を省みてこっそりと溜息を吐いたルキアの様子に目敏く気づき、乱菊は「何?」とルキアの顔を覗きこむ。
「え?いえ、何でも」
「なに?なになに?なに深い溜息吐いちゃってんのよ?」
 誤魔化そうとしたルキアの首に、乱菊のヘッドロックが決まる。
「言いなさいよ、こら」
「わ、わかりました!言います、言います!だから放してくださ……っ」
 豊満な胸に顔を埋める形になったルキアは、冗談ではなく窒息寸前だった。酸素不足で朦朧となりながらも、そのやわらかな感触に心を奪われる。
「で?」
 嬉しそうにルキアを見つめる乱菊に、頬を染めながらルキアは「その……松本殿が羨ましい、と……」と小さな声で呟き俯いた。
「あたしが?どうして?」
「あの……色っぽくて……大人の女性で……体型だって完璧で……」
「んー、まあ、それなりの努力はしてるから」
 ルキアの言葉に事実は事実としてあっさりと賞賛を受け入れたその乱菊の態度にも、ルキアは憧れの溜息を吐いてしまう。
「でもねぇ、別にいいんじゃないの?恋次はあんたがいいって言うんだし」
「は?」
「恋次はあたしみたいのじゃなくてあんたが良いって言ってるんだから別に羨ましがることないでしょ」
「べべべべべ別に恋次は私が良いとかそんなこと言った覚えはないですし、聞いた覚えもないですし」
「なんかねー、あいつあたしのお色気攻撃にびくともしないのよねえ」
「お……お色気攻撃?」
「雑用がめんどくさくてね、ちょっと胸の谷間ちらつかせて言うこと聞かせようと思ったんだけどね、全然色仕掛けが通じなくて」
 その時を思い出したのか、乱菊の表情が不機嫌そうに変わる。それでもその美貌は損なわれないのだから、美人はどんな表情でも美人ということなのだろう。
「だからあたしは思ったわけよ、あいつは幼児体型が好きに違いない……あ」
「幼児……体型……」
「あ、いや、別にあんたが幼児体型って言ってるわけじゃなくてね?」
「……いいんです、自分の事はよくわかってますから……」
「いや本当に、そんな事ないってば!確かにちょっとだけ胸は小さいけど、でも、ほら、恋次はそれが好きなんだし!!ね?落ち込むことないじゃない!!」
 珍しく必死でフォローを入れる乱菊の前でどんよりと落ち込んでいたルキアの足が不意に止まった。
「それに胸なんて恋次がこれから嫌って程大きくしてくれる……え?」
 ぐいっと引っ張られて、乱菊は驚きの声を上げた。誰が引っ張ったかと言えば、この場にはルキアしかいないので勿論ルキアなのだが、ルキアはこんなことをする筈はない。
「朽……」
 訝しそうにルキアを覗き込んだ乱菊の口元にルキアの手が伸びた。その手に言葉を封じられ、乱菊は「もが」と漫画のような声を上げる。
 そんな乱菊に意識を向けることなく、ルキアはただ真直ぐと前を見ていた。その真剣な表情の視線の先にある物、それを見て乱菊は「あれ?」と呟いた―――が、その言葉はルキアの手にふさがれてくぐもった声にしかならない。
 二人の視線の先に、恋次がいた。
 間違えようのない赤い髪に大きな身体。その大きな身体を屈めて、恋次は隣の少女に何かを話しかけている。
「……雨」
 小さく呟くルキアの手から自分の発言権を力尽くで奪い返すと、乱菊は「誰?あの子」と耳打ちする。
「なんだか随分と恋次に懐いてるみたいじゃないの?」
 二人の視線には全く気付かずに、恋次と雨は仲良さそうに歩いている。恋次の両手には買い物袋。雨の手にもそれより少なめな量の入った買い物袋。二人は何かを話しながら、ゆっくりと夕焼けの道を歩いている。
 ルキアが恋次としたかった光景。
 夕暮れ通りの二人。
 恋次の横顔がひどく優しい。
 対する雨も、笑顔を恋次に向けている。
 現世にいた数ヶ月、ルキアは何度も浦原商店に足を運んでいたが、雨のこんなに打ち解けた表情を見る事はなかった。
 雨は普段からあまり表情を見せない。感情を表すのは浦原とテッサイ、そしてジン太の前だけで、ルキアに対してはいつまでも何処か緊張した表情でいるのが常だったのだ。
 それが、何故。
 不安を煽るのは、先程の乱菊の言葉。


『 恋次は幼児体型が好きに違いない 』


「―――そ、そんな」
「え?」
「無理だ、さすがの私も勝てない―――いくら私が幼児体型だからと言って、本当の幼児に勝てるわけが……っ」
「ちょ、朽木何言ってんの?」
「しっ!気付かれる!」
 ぎろっと睨みつけるルキアの眼光の鋭さに、乱菊は「ひっ」と喉を鳴らした。
 大迫力。
「あんたキャラが変わってるんだけど……」
「静かにっ!」
 再び迫力で乱菊を黙らせると、ルキアは壁伝いに恋次と雨を追い始めた。あからさまに怪しい動きのルキアを、通り過ぎる人々は気味悪そうに眺めていく。そんな周りの眼も気にする余裕もなく、ルキアは恋次と雨の姿だけを追っていた。
 ―――暫く私と付き合えないというのは、この所為なのか……?
 雨と一緒にいるから、私と一緒にいる時間がないというのか。
 私よりも正真正銘の幼児体型の雨の方が恋次は好きなのだろうか。
 こんなことなら、毎日牛乳なんて飲むんじゃなかった。
 牛乳飲んだら背が伸びると日番谷隊長に聞いてから、一生懸命飲んでたのに。
 こんなことなら、毎日腕立て伏せなんかしなければよかった。
 腕立て伏せをしたら胸が大きくなるって聞いたから、だから毎晩200回してたのに!
 こんな努力が全く無駄、というか逆効果だったなんて……っ!
「く、朽木、気付いてる?全部口に出してるんだけど?」
「酷い、あんまりだ、私は何のために毎日毎日牛乳を飲んで毎日毎日腕立て伏せを……」
「朽木、ねえ、聞いてる?」
「檜佐木殿が恋次は胸の大きい女性が好きだって言うから……蛇尾丸をそういう風に変えようとしてたって聞いたのに……」
「ねえ朽木ってば」
「恋次も恋次だ、あんな幼児に何かしたら犯罪だぞ、っていうか浦原が黙ってないぞ!……いや、あの男の事だから万一ということも……逆に面白がってくっつけようとしたりすることも在り得る……」
「ねえよ」
 突然背後からかけられた声に、ルキアは「うわあ!」と声を上げた。驚いて背後を振り返ると、呆れたようにルキアを見上げるジン太の姿がそこにある。
「あのなあ、あいつは今うちの居候な訳。で、雑用係してんの。雨と買い物行ってんのはそういうこと」
 呆れたような視線で、呆れたように腕を組み、呆れたような声でそう言ったジン太に、「でもっ!」とルキアは言い募る。
「で、でも、雨が、あの雨があんなに恋次に懐いて……っ」
「こないだ破面がうちに来た時、あいつが雨を助けたんだよ」
「―――え?」
「雨が死にそうなところを、あいつが助けた。それ以来、雨もあいつに懐いてる、そりゃ、命を助けてもらったんだからな、邪険にはしねーだろフツー」
 大体なあ、とジン太は深い溜息を吐く。
「あいつがうちの雑用係になった理由、あんたしってんの?」
「―――理由?」
「あんたの詳しいこと、色々店長に聞くためなんだぜ?あんたの過去とか、崩玉の件とか、あんたに関わること全部」
「わ、私の?」
「教えて欲しけりゃ雑用しろって言われて、ああして涙ぐましく買い物から掃除洗濯炊事店番家事全般をやってんだぜ、毎日毎日。天下の六番隊副隊長様が」
「……………」
「それなのにあんたがそんなことじゃ、あいつだって浮かばれないだろ」
「…………すまぬ」
「もう少しあいつを信じてやっちゃどうだよ、あいつはあんたしか見てないってのに、ってかあんた以外は全く興味ない男なのに」
 自分よりも小さな少年に諭され、項垂れて反省するルキアを、ルキアから5歩離れた場所で乱菊は眺めながら、一つ大きく溜息を吐いて呟いた。


「……どっちが子供なんだか」